第3話 心を開けば
前方にいれば、視界が悪くなり、後方にいれば振り返ったときに怖い。
そんな侍さんには、ぼくの右側に位置してもらうことにした。ここなら視界には入るが邪魔にはなりすぎない。網膜剥離の影響で、右目の視力が芳しくなかったのも好都合だった。
中村城を後にして、置き去りにした学生カバンを拾い、侍さんと一緒に家路を進んだ。ぼくは歩きながら、侍さんにいろいろなことを話した。
父がいなくなったこと、母はそれ以来寂しそうなこと、僕自身もそれ以降抜け殻のようになってしまったこと。そして、自分でも一番驚いたのは、侍さんに対しては流暢に話ができるということだった。侍さんはぼくの話を、「ふむ」「ほう」と、相槌を打ちながら真剣に聞いてくれたし、そんな彼に話をするのはとても楽しかった。
同級生に対しては、上手く自分の気持ちを表現できなかったのに、侍さんに対しては堰を切ったように言葉があふれ出すのだ。父がいなくなり、母が苦労している姿を見て育っていたぼくは、知らず知らずのうちに、自分は楽しんではいけない、おとなしくしておかないといけない、と感情を抑えていたのかもしれない。
カウンセラーと勘違いするほど、聞き上手な侍さんは、嬉しそうに話すぼくにこう問いかけた。
「そういえば、まだお主の名前を聞いておらんかったのう。名はなんと申す?」
「ぼくは、勇っていうんだ。」
「そうか、イサミ。か。ではこれからは勇と呼ぶことにしよう。」
「うん。」
「先ほど、勇の境遇の話を聞いたが、お主はつらいことや寂しいことが多かったようじゃな。だが、今はどうじゃ?今、儂と話をしている時間は楽しいか?」
侍さんの意外な質問に驚いたが、ぼくは今の心境を赤裸々に話した。
「楽しいよ。侍さんと話をするのは本当に楽しい。
もちろん、ついさっきは変な男に襲われて怖かったし、今も謎ばかりで不安だけれど、侍さんと話していたら、恐怖や不安が和らいでくるんだ。」
「それは良いことじゃ。
いいか、勇?世の中はの、厳しいことも多いのじゃ。
儂が生きていた頃は、日々合戦が繰り返されておった。農民は戦に駆り出され、親族が戦死することも少なくはなかった。」
「つらい時代だったんだね。戦が繰り返される時代は、怖くて、怯えてしまいそうだよ。」
「じゃがのう。あの頃は、誰も俯いておらんかったぞ?悲しいこともつらいこともあったが、そういうときこそ、みんなで会話をするのじゃ。そしてたわいもないことで笑いあうのじゃ。儂らは一人じゃない。
会話をして、周りのものと気持ちを通じ合うことは、つらさや恐怖を和らげてくれるのじゃ?」
侍さんがなぜこんなことを言っているのかが少しわかってきた。侍さんは、内気なぼくの性格を少しでも明るくさせようとしているようだったのだ。
「侍さんの言っていることはわかるけれど、侍さんにだけだよ。ぼくがこんなに陽気に話すことができるのは。父さんがいなくなって以降は、母さんも忙しくなって、笑顔で話しかけてくれることも少なくなったし。」
「なぜ儂には、陽気に話しかけることができるのじゃ?まだ出会ったばかりじゃろう?」
「なんでかなあ。侍さんがそばにいてくれると、なぜか安心するんだ。うっすら浮かぶ姿は不気味で、少し怖いけれど、ぼくの命を救ってくれたし、とてもいい人に思えるんだ。」
侍さんは首から上しか浮かんでいなかったし、腕はなかったのだけど、この時、ぼくの頭は優しくなでられたような感覚になった。そして、侍さんは、優しく語りかけてくれる。
「勇は儂のことをよく思ってくれとるようじゃの。次は、そのような感情を、お主の周りの人々に向けてみるのじゃ。母や学校の子供たち、勇の周りの人たちにな。」
「でも、母さんは冷たいし、クラスメイトはぼくを邪険に扱うんだ…」
「まず勇が変わるのじゃよ。勇の心の持ち方と心持ちが変われば、それは態度に現れる。その勇の変化は、周囲の人々の勇への接し方にもかかわってくるはずじゃ。」
「そうかなあ?」
「そうじゃよ。周りの人々に変化を求めてはいかん。まずは自分が心を開いて、自分が変わるのじゃ。それでもだめなら、そのようなやつらは気にすることはない。勇のことを理解してくれる人を探せばよいのじゃ。それはいずれきっと現れる。」
侍さんの話を聞いていると、自分の表情が崩れていくのに気が付いた。無意識のうちに、幼馴染の雪のことを想像していたのだ。それを察した侍さんは、どうやら冷やかそうとしているらしい。
「なんじゃその腑抜けた顔は!もうお主を理解してくれる人がおるのか?」
「うん。幼馴染の女の子なんだけどね。けどぼくは、彼女の優しさに応えられていないんだ。彼女はいつもぼくを守ってくれて、優しく声をかけてくれるのに、お礼も碌に言えなくて。」
「それはいかんのお。そんなことじゃ、愛想を尽かされるぞ?ゆっくりでいいのじゃ。勇が一番信頼しているその娘に、お主の感謝の気持ちを伝えてみい。」
「うん。わかった。次に雪に会ったら、今までの感謝を言葉にしてみるよ。」
「それがええ。それがええ。」侍さんは、満足したように同じ言葉を繰り返した。
ほどなく、ぼくは家に帰ってきた。しかし、玄関のドアはまだ開けない。侍さんを隠すために、鞄を虫取り網のようにして、侍さんの頭を捕まえようとしてみた。けれど、ものの見事にすり抜けた。侍さんは、「だから儂は、お主以外には見えんと申しておるじゃろうが!」と、少し怒っていた。
侍さんを隠すことを諦めたぼくは、鍵を使って家のドアをあけた。時刻は20時を回っていたが、母さんはまだ帰ってきていなかったので、少しがっかりした。
「どうしたの勇!?遅かったじゃないの?あら、服がどろどろじゃない!」なんて、言葉をかけてもらいたかったのだが、母はいつも帰りが遅かった。昼も夜も、いくつもの仕事を掛け持ちしていたからだ。
「無理しなくていいよ。」と母さんに伝えても、「勇の大学資金も貯めないといけないから、私はもっと働かなくてはいけないの」と返ってくるだけだった。
父がいなくなって以降、母さんは自分を追い込むように働いていた。そうすることで、父との別れのつらさを忘れようとしていたのかもしれない。
ただぼくは、母さんにもう少し家にいてほしかった。仕事が忙しいのはわかっていたし、母さんのおかげで生活できているのだけれど、もう少しぼくと話す時間をとってほしかったんだ。
台所に置かれたカレーを電子レンジで温めて、それを一人で食べる。それがいつもの夕飯だ。電子レンジは食事の温度を温めてくれるし、胃袋には温かい食物が入ってくる。けれど、ぼくの心は、決して温まらないんだ。
夕飯を食べ終えると、食器を洗い、簡単な家事を済ませて、シャワーを浴びる。学校の宿題を済ませてから、進研ゼミの問題集を解き、ベッドに入って就寝する。
それがいつもの日課だ。
ただ、今日はいつもと違う。ベッドに入って天井を見つめると、目の前に侍さんが浮かんでいるのだ。薄気味悪いとか、怖いとか、もうそんなことは思わなかった。侍さんは、目をつむっていた。さっきから静かだな、と思っていたらどうやら寝ているようだ。
彷徨う魂も睡眠はするのか、と思い、ぼくも瞼を閉じた。
つい3時間ほど前の、信じられない出来事が脳裏に浮かんでくる。トラックに乗っていた父の姿、自分を襲ってきた怪しい男、そして、侍さんが憑依したとはいえ、ぼくがそいつを撃退したということ。もしかしたらぼくは強いのではないか、という過信。
5歳の時に、剣道からは足を洗ったが、男の本能というものだろうか、もう一度剣を握りたい、父に教わったように、強くなりたいという衝動が芽生えてきた。
―――――――――――――――――――
次の日、ぼくはいつも通り、学校へ向かった。
いつもは憂鬱な登校だが、今日は侍さんと話しながら歩いていたので、楽しかった。
ただ気のせいだろうか、いや、気のせいではない。周囲はぼくを、奇怪な目でみていた。
「あいつ、何か独りでぶつぶつ話してるぞ」「なんだよあいつ」
しかしそんな罵声があがるということは、侍さんはぼくにしか見えない、ということなのだ。ぼくは侍さんを独占できたようで少し嬉しかった。侍さんがついていてくれるのだから、心強い。
学校に着いたとき、侍さんはぼくと話してくれなくなった。
「儂とではなく、周りの子たちと話すのじゃ」と言って、相手にしてくれなかったのだ。そして、侍さんは、ほどなくして瞼を閉じた。また寝たのだ。寝るのが好きな侍さんだ。
授業の合間の休み時間や昼休みに、周りの同級生に話しかけようとしてみたけれど、やっぱり勇気が出なかった。唯一ぼくに話しかけてくれる雪は、別のクラスだったので、ぼくはクラスでは孤独だった。
全ての授業が終わると、帰宅部のぼくは、学校から逃げるように下校し、足早に一条神社に向かった。侍さんは、「儂と話していたように、学校でも会話せんか!」と説教をしていたが、無視した。ガミガミ叱る侍さんは、まるで真横で鳴いている虫だった。
一条神社に着くと、境内に端っこにある木の椅子に腰かけた。境内の『咲かず藤』は、この春も開花しそうな予感はしない。
椅子に腰かけて一息ついていたぼくに、侍さんは話しかける。
「ここは、昨日勇が話してくれた一条神社じゃな?」
「そうだよ。ここは、父さんとの思い出が詰まってるんだ。父さんとの剣道の練習は厳しかったけど、ここにいるとなぜか落ち着くんだ。」
そのとき、南の階段から、足音がした。いつも人が来ないこの神社に、誰かがやってきているようだ。
階段を上がってきたのは、幼馴染の雪だった。
走ってきたのだろうか、彼女の鮮やかな黒髪が少し乱れている。
「あれ、話し声は勇くんだったんだ?さっき声がしたんだけど、誰と話してたの?」
「え、えっと…」
またもぼくの悪い癖がでてしまった。雪の目の前では、緊張からだろうか、上手く話すことができないのだ。
そんなとき、ぼくの真横で侍さんが小さく呟いた。
(勇!こやつは誰じゃ!?)
ぼくは、雪に聞こえないように、俯きながら囁いた。
(雪、だよ)
(何!?雪じゃと?)
そして侍さんはその大きな目で、雪を嘗め回すように見つめた。
(この容姿…黒い瞳…そっくりじゃ…)
その瞬間、何か大きな`ナニカ`が、口の中に入ってきた。その`ナニカ`は、食道を通って、体の奥底に入ってくる。
二回目だからわかるんだ。これは、昨晩の真の憑依の時と同じ感覚だった。
なぜ?なぜ、今なんだ?ぼくは混乱した。
侍さんは、雪のことを敵と認識しているのか?彼女と戦うつもりなのか?
いや、雪は敵じゃない。彼女はぼくの一番の理解者だ。
侍さんに支配され、薄まっていく意識の中で、ぼくは叫んだ。
「雪!逃げ…」
言葉を最後まで発するまで、意識を保つことはできなかった。
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