あなたには殺すことができるのですか?

西秋 進穂

第1話

 「冬将軍が攻めてくるって言っていましたよ」

 横のリンがそのきゅっと結ばれた口を尖らせた。

 「雪が降るかもしれないって。大き目の折り畳み傘、持ってきましたもん」


 ナオは肩をすくめ、大げさに両方の手のひらを空に向けてみせる。

 「物騒な表現だな。殺す気満々じゃないか」

 それに運には自信があるから降られないよ、と付け加えた。


 買い物を終え、店から出た二人は並んで肩を震わせながら歩いていた。

 三月下旬に差し掛かったころ。十九時前。満月の夜だった。

 春への支度はまだこれかららしい。


 「ほんと寒いですね」

 リンの装備は大きめな濃紺のダッフルコートに膝上十五センチのスカート。紺のハイソックスと黒のローファー。そして首元に真っ赤なマフラーを巻いて、華奢な肩にはブラウンのスクールバッグをかけている。


 じゃあその短いスカートをやめたら? とは言えなかった。


 ナオは薄手の真っ黒なスプリングコートを整えると、吐いた息で手を温めた。

 両手に抱えた買い物袋のせいで動きづらい。


 「つぎに寒いって言ったら荷物持ちな」

 

 すると野党から反対意見があがる。

 「ナオくんが悪いんです」

 ぶすっとした表情で見上げた。


 「買い物に付き合ってくれって言われたからついてきたのに」


 「悪かったよ」謝罪は政治家への道その一だ。


 「目的とは別のものばっかりに目を向けて。明日も部活があるのに、二人して風邪をひいたらどうするんですか」

 リンは小石を蹴った。


 おかげで懐事情もだいぶ寒くなってしまっていた。高校生のナオにとってこの散財は痛い。


 しかし言いながらもリンの足取りは、たんぽぽの綿毛のように軽く弾むよう。

 街灯に照らされたショートボブの黒色が柔らかく跳ねた。

 どうやらじゃれているだけのようだ。

 それにもう一つ。

 リンは本気で怒ったら黙り込むタイプなのだ。


 「どうしたら許してくれる?」


 リンはわざとらしく口元に手をあて、考え込むようにすると、冬将軍もびっくりの百万ルクスの笑顔でこう言った。

 「駅前に新しい喫茶店、出来たんですよね」











 路地と路地に挟まれたその店内は、駅前にしては広いとナオは思った。


 入店して二名であることを告げる。

 三〇歳くらいのウェイトレスに喫煙の有無を聞かれたところで、

 「あ、申し訳ありませんでした。学生さんでしたね」

 と、通りに面した大きな窓がある四人掛けの席に案内された。店内に客は多くない。


 リンはダッフルコートとマフラーを脱ぐと、通路側の椅子の背もたれにかける。

 「可愛らしいお店ですね」窓側の席に座った。


 「男ひとりでは入店しづらいな」

 コートを脱ぐとリンを同じように通路側の背もたれにかけ、その椅子に荷物を置き、ナオも窓側に座った。


 見渡せば店内はハート型の小物で統一されているようだ。それがコンセプトなのだろう。


 ウェイトレスが水とおしぼりを持ってやってくる。氷までハート型だった。

 「お決まりのころにお呼びください」


 ナオがメニューに手をかけようとすると、

 「あ、すみません、このケーキセットください。シナモンのケーキと紅茶で。ナオくんはどうします?」

 相変わらず迷わないやつだ。

 「ぼくはホットコーヒーで」

 










 ケーキセットとドリンクは五分とかからずに運ばれてきた。


 コーヒーの匂いだけでなんだか落ち着いた気分になった。

 この真っ黒な液体には魔法がかかっているとナオは信じている。もちろんホットでブラックが大好きだ。


 リンは紅茶には目をくれず、ケーキにフォークを入れていた。

 窓の外を見る。

 外は思いのほか闇に包まれていて、月明かりがはっきりしているくらいだった。


 外から店内は良く見えるだろうが、逆は良く見えないだろう。

 ふと誰かに見られているのではないか、という自意識過剰な気持ちがよぎったところで、おもむろにリンが口を開いた。


 「こうしてみると……」

 伏目になったせいで長いまつ毛が目立った。涼しげな目と物憂げな眉、そしてそのまつ毛が絶妙なバランスだなとナオは思った。


 「こうしてみると?」


 「なんというか、デートみたいですよね」


 「……デートではないだろ」

 ナオは足を組み替える。


 「まあそうなんですけど。でも状況だけみると『みたいだな』って」

 リンはケーキを口の中にいれると、おいしい、と一言漏らした。











 今日の買い物では、進路調査票の内容よりもたっぷり悩んだ挙句、猫をモチーフにしたネックレスを購入した。


 リン曰く、

 「ショウコ先輩は無類の猫好きで可愛らしい路線が良いと思う。たぶん、ぜったい」

 らしいのだ。


 「たしか、初めての誕生日ですよね。ナオくんとショウコ先輩が付き合ってから」


 ナオはコーヒーをすすった。まだかなり熱い。

 「そうだな、初めての記念日らしい日だな」


 「ですよね。本当にあれで良かったですかね?」リンは最後の一口を放り込むと、名残惜しそうに咀嚼した。

 言葉とは反対に、不安そうな表情ではない。自分の選択に自信がなかったのではなく、彼氏としてはそれでよかったのかという意味だろう。


 「こういうのは女の子に聞いたほうが確実だろ」

 部活がない日にバイトして貯めた金がすべてなくなったが、うん、まあ確かに喜んでくれると思う。それに猫はナオも嫌いじゃなかった。


 「なら良いんですけど」

 リンが紅茶を口に含んだ。

 あつっ、と言って口からカップを離し、いたずらっ子のように舌を出した。


 ナオはそれをまるで猫みたいだ、と思った。











 お会計は当然のようにナオの払いだった。


 アドバイス料としては少々高かったが仕方あるまい。

 「ごちそうさまでした」と律儀にお礼を言われると悪い気もしなかった。


 店を出るとき、サービスですと言ってシナモンを貰った。開店記念品らしい。

 「シナモンは家にたくさんストックがあるので、ナオくんにあげます」


 今度は猫とは反対だな、と思い破顔した。


 店を出る。

 目的も達成したし、リンへのお礼も済んだ。


 「さて帰るか」


 方向転換し荷物を持つ手を握り直して、駅の方面に向かう。


 リンは後ろからついていこうとしたが、前方にシルエットを捉えた。

 すぐさまナオの腕を引っ張り、近くの小さな路地に入る。


 ナオは何が起きたか全く理解できず、されるがままついていった。この小さな体のどこにこんな力があるのだろうと疑問に思う。


 ショートボブと短いスカートが跳ねていた。

 「ちょ、ちょっとリン! なになになに。どうしたんだよ?」


 リンが振り返ると口元に人差し指をたてた。「声を小さくしてください」

 路地は大通りから一五メートルほどで行き止まり。

 「身を低くして」


 周りには後輪のない自転車、小学校中学年くらいの背丈のポリバケツが二つに無数の空き缶。

 ツンと不快な臭いがする。

 野良猫の住処になりそうな場所だった。

 二人の距離は息遣いが聞こえるほど近い。


 リンはナオにアイコンタクトする。どうやら大通りのほうを見ろということらしい。

 ナオはポリバケツの陰からそっと大通りのほうを覗き見た。

 「なるほど……。確かにこれは」

 まずいな、と思った。


 どうしてショウコがここに?

 もちろん彼女にはプレゼントを買いに来ていることは言っていない。リンと一緒にいるということも。


 「ここでばれてしまったら嬉しさ半減ですもんね」


 とリンは言ってくれているが、きっと本題はそこじゃない。リンも気が付いているはずだ。

 なんでほかの女とデートしているのか、と。

 本人たちでもデートに見えるくらいなのだから他人から見てもまた同じだろう。

 説明してわかってくれない相手ではないが、ここはやり過ごしたほうが無難だろう。


 ナオはリンに頷き返した。


 「しょうがないですね、ナオくんとショウコ先輩のために気配を殺しますか」

 リンは一層身を低くした。


 ナオはリンに向き直って言う。

 「大通りからわざわざこんな路地に入ってくるやつなんていないだろう」

 もうちょっと我慢すれば通りすぎるはずだ。

 そもそもなぜショウコがあんなところで一人立ち止まっているのかという疑問はあるのだが。


 それにしてもリンが気づき、決断が早かったおかげで助かった。


 ナオはちらりと視線は変えずに眼球だけ動かしてリンを見る。

 

 口を結んで真剣な表情。その黒髪と白くきめ細やかな整った顔立ちのコントラストが、月明かりにふんわりと照らされていた。

 気が付けばこの薄汚い路地には似合わない柑橘系のさわやかな香りがする。

 一瞬遅れてそれはシャンプーの香りだと気が付いた。

 どうして女性のシャンプーの香りにはこんな気持ちになるのだろう、とナオは思った。きっと自分が同じシャンプーを使用してもこうはならないだろうとも。


 ――三分は経過しただろうか。


 リンが、十円玉の大きさくらい静かに位置を変えた。どうやら足が痺れてしまったらしい。

 動いたときに短いスカートからほっそりと引き締まった白い太ももがのぞいた。

 ナオはとっさに目を瞑った。

 そうすると今度はシャンプーの香りが強調され、衣擦れの音まで聞こえてきた。


 自分でも顔が熱くなり、胸の弾みが大きくなっていることがわかる。

 ――これは、よくない。

 なんだかよくわからないけれど、これはよくない。

 違う。

 いやなにが違うのかもわからないけれど――。

 そう、見つかったらまずいというこの状況が鼓動を早くさせているのだ。


 「ナオくん、どうしたんですか? 目を瞑っちゃって」

 パステル色の繊細な声。


 「落ち着こうと思って」


 「まじめにやってください。見つかったら台無しですから」


 リンは心なしかナオに身を寄せるようにした。

 「ちょっと、リン近い」

 「そんな女子みたいなこと、言わないでください」


 後輩の女の子に怒られる様子はひいき目に見てもちょっとカッコ悪かった。


 大通りを確認すると、ショウコはまだ一人で突っ立っていた。こんな寒いなか、本当に何をしているのだろう?


 待つほかないか、と諦観していると、

 「ナオくん、まずいです」

 リンが肩を震わせている。


 「どうした?」冷えたのだろうか。


 「くしゃみが出そう……はあ、はあくしょ――」

 「ちょ、ちょっと待て――」

 反射的にリンの口元を抑えた。

 リンは一瞬抵抗したものの、そのまま虫の足音のような小さなくしゃみをした。


 「気づかれてないよな……?」

 二人して大通りの方をみる。

 ショウコの視線はこちらには向いていなかった。

 胸をなでおろす。

 「ごめんなさい。でも、だって寒いんですもん。雪、降りそうですし」

 これまでの冷静さはどこにいったのか、目を泳がせている。

 「ですがこれ以上は――」


 その時だった。

 「んにゃあ!」

 二人の背後から、猫の大きな鳴き声がした。

 絶望を奏でる音が猫の鳴き声だとは、想像もしていなかった。

 

 リンの眉と口元には力が入り、目は細まって黒目だけが大きくなっていた。要するに泣きそうな顔だった。

 

 もう怖くて前方の確認はできない。

 それでも足音と気配が迫ってくるのを感じた。

 

 どうする。

 どうしたらいい?

 

 前方から迫ってくるショウコ。

 猫だけではなく人間がいることは認識しているのか? それさえわからない。

 

 どうする。

 

 ナオの顔面になにかが触れた。

 白くて冷たくて小さくて、それはすぐに溶けた。

 

 ――閃き。

 

 もう、これしかない、か。

 

 悪いな、リンと心の中で伝えると、リンのスクールバッグを漁った。

 呆けた顔で見てくるがお構いなしだ。

 

 折り畳み傘を取り出して静かに開く。

 リンが理解し、頷いた。二人の手を重ねるようにして、その持ち手を支える。

 そのなかに二人で隠れた。

 

 それともう一つ。

 ナオは自分の鞄から小瓶を取り出しふたを開けた。

 

 「さすがにこれは見つかるような……」リンが囁いた。

 

 幸い折り畳み傘の色は黒だった。辺りと溶け込むかもしれない。

 ダメでもともと。

 さあ、どんとこい。

 

 ざっ、ざっ、と前方から足音が迫ってくる。歩幅は小さく、音は軽い。

 それなのに、二人にとってはどんな音よりも恐ろしかった。

 

 もう一つ問題点がある。

 ショウコが向かってくるときはよいが、背後から帰ってくるときはどうする?

 俺たちの体を守るものは折り畳み傘しかない。つまり後ろからは丸見え。

 それはもう運に身を任すしかなかった。

 

 と、その時。

 猫が二人より前方に飛び出していった。

 

 リンが小さく漏らす。「え? なんで?」

 

 暗闇から浮かび上がるショウコの真っ白な足と、猫に触ろうとする細い腕をナオの目が捉えた。

 ショウコの手が猫を拾い上げようとする。

 

 「にゃお!」

 持ち上げられた猫は身をよじり、手からすり抜けると、ムーンサルトで着地した。

 どうやら逃げたらしい。

 

 ナオが捉えている真っ白なその足は、五秒程度留まったあと、今度は大通りのほうへと歩き出した。

 

 ざっ、ざっ、と。

 ――ばれなかったのか? 本当に?

 大丈夫だったのか?

 あたりは森閑として、しかし降り続く少量の雪だけが生きているかのように舞っていた。

 ――本当に大丈夫だった。見つからなかった。

 

 「ばれなかったみたい……だな」

 

 「そうですね……」

 リンは長く息を吐いた。

 

 ナオはリンの顔を見るのが少しだけ怖かった。

 

 「でもなんで猫ちゃんはあのとき、逃げて行ったのでしょうか」

 

 「これだよ」

 ナオは蓋を開けたシナモンの小瓶を取り出した。

 猫はシナモンの香りが嫌いだと聞いたことがある。それに賭けた。

 

 「シナモンですか……猫ちゃんは嫌いなんですね」

 

 「ただ、あのタイミングで猫が出て行ってくれたのはただの――」

 

 「ただの?」

 

 「運、だけどな」











 「――そろそろ行きましょうか。本当に風邪をひいてしまいます」


 「そうだな」


 二人は同時に、でも異なる歩幅で歩きだす。リンが半歩分、前を行く。


 手にはまだリンの残滓があった。

 目の前には舞い散る雪。

 白くほっそりした太もも。

 華奢な肩。

 軽やかで柔らかいショートボブ。

 柑橘系のシャンプーと、シナモンの香り。











 この感情に名前をつけてはいけない。

 生まれそうになったこの気持ちは、殺すしかないのだ。

 しかしその前にもう一度だけ、リンの後ろ姿をじっと見つめた。


 歩を緩めてしまったナオにリンが気付く。

 「どうしたの、ナオくん。あ、ちょっと動かないでくださいね」

 リンがナオの肩につもっている少しの雪を払う。そして笑った。

 

 「なんだよ」

 「なんだか――傘を持っているのに雪が積もっていて面白かったんです。そしてその理由がほかの人にはわからないところも」


 「そういうものか?」

 「そういうものなんです」


 その淡い声色と温かな笑みに、ナオは頷いた。


 二人は暗い路地から灯りの照らされる方へと、歩き出した。


 

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あなたには殺すことができるのですか? 西秋 進穂 @nishiaki_simho

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