第10話 偽りの世界の終わり


ノアが倒れているのを見た瞬間、頭が真っ白になった。

自分でも驚くスピードで駆け寄ると、彼の身体を起こそうと考えて、すぐにその行動をやめる。もし彼に何か異変があるのならば、無闇に動かすのはまずい。瞬時に冷静になれた自分に驚く間もなく、アリシアはそっとノアの首に触れた。…微弱ではあるが、確かに彼の鼓動を感じる。


「生きてる…」


ほっ、と全身から体の力が抜け落ちる。思わずその場に座り込んでしまった。


「…………ふふ、そりゃあ、生きてるよ」


やがて、ゆっくりと、力無くノアが笑った。


「ノア!」


「…心配かけて、すまない」


両手の手の平で床を押し、ゆっくりとノアが体を起こす。慌ててアリシアもノアの体を支えたが、ほとんどノアの力で起き上がった。


「ふぅ…」


アリシアの顔は青ざめ、安心しても尚、アリシアの体は小刻みに震えていた。

ノアはそれを、どこか愛おしげに見つめ、まるでその気持ちを拭い去るようにゆっくりと視線を逸らす。


「ごめんね、家に帰りついたと思ったら気が抜けたみたいで、立ち眩みがして倒れてしまったんだ」


「ホントに…本当にっ心配したんだから!」


アリシアは震える手を押さえ、目じりに溜めた涙を小さく零した。


「…ごめん、アリシア」


アリシアの涙を拭おうとした手を、ぎゅ、と拳に変え、ノアは静かに謝った。


「今日はいつも以上に忙しくてね。疲れているみたいだ。もう、部屋に行って休むよ」


「本当に疲れだけ?お医者様にちゃんと診てもらった方が…」


「いいや、必要ないよ」


ノアはぐっと力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。

その足元は少しふらついていたが、口元にはアリシアを心配させないように笑顔を浮かべていた。


「アリシアも、早く寝た方が良い。待っていてくれてありがとう。おやすみ」


ぽん、とアリシアの頭を撫でて、ノアがゆっくりと歩きだす。

その後姿は、弱々しく、とても疲れだけでそうなっているとは思えない姿だった。


(…やっぱりお医者様を連れて来た方がいいわよね)


ノアの部屋の扉が閉まる音を聞きながら、そう思う。素人判断は危険だ。やはり、一度医者に診てもらうべきだろう。

確か、昼間に買ったパン屋の真向いに医者が居ると、パン屋の主人が言っていた。


「よしっ」


アリシアは意気込むと、手身近な上着を羽織り、そっと扉を開けた。

…開けた瞬間、妙な違和感がアリシアを襲う。

外が、異様に暗いのだ。空には月や星すらも無く、街の街灯は全て消えていた。中でもアリシアが一番違和感を感じたのは、人気の無さである。夜だから外を出歩いている人が居ないのは、まだ説明が付く。だが、家々に灯りすら灯っていないこの状況は、明らかに不自然だ。まるで、街全体が眠っているような光景に、アリシアは息を呑む。


(…でも、行かなきゃ)


街の様子がおかしい事は分かっていた。だがそれでも、アリシアはグッと覚悟を決め、一歩足を踏み出す。

少し歩き振り返ると、唯一灯る家の明かりは遠く、僅かに不安な気持ちを呼び起こした。その不安な気持ちを振り払い、前に視線を向けて歩き出す。―…闇だ。僅かな光も見えない闇の中、アリシアはただ歩を進める。自分の足元すら見えない空間で、地面の感触を頼りに歩き続けた。普通なら、不安で、恐ろしくて足が竦む事だろう。だが、何故だろう。この闇の中を進めば進む程、妙に心は落ち着いた。


(何だか、目も慣れてきた気がするわ)


ぼんやりと、視界が開けていく。より一層力強く地面を踏みしめ、歩くスピードを上げた。


「パン屋の前…」


月明りも無い闇の中、アリシアは何故だかハッキリとパン屋の看板を視界に捉える事が出来た。その真向いの家を見つめる。この家にも灯りは無い。診療所であれば勤務を終えた医者たちが家路についていてもおかしくは無い。だがそれでも、アリシアは意を決して戸を叩いた。


「すみません」


ノックを二回する共に声をあげるが、周りには静寂が満ちるばかりだ。


「すみません!誰かいませんか!」


今度は周りの家々にも聞こえる程大きな声で、ノックを何度か鳴らした。

それでも誰かが出てくる訳でもなく、これだけ大きな声をあげているというのに、他の家々から反応も無かった。

真向いの店のあの気の良いパン屋の店主ですら、反応が無い。ずっと抱いて歩き続けて来た違和感が、胸の中でさらに大きく育つのを感じた。


「…何か、変だわ…」


得体のしれない違和感に、ゆっくり一歩後ずさる。その瞬間。


「きゃっ」


目の前に、”光”が現れた。それらは飛び跳ねるように一瞬だけ姿を現し、次にはまた消えた。小さな光が集まったソレを、アリシアはよく知っている。


「…また、貴方達なの?」


しばらく姿を見て居なかった光の砂塵達は、肯定するようにピョン、と跳ねた。その非現実的な姿にアリシアは何度目か分から無い程頭を押さえ、小さく溜息と苦笑を零した。


「私の頭がおかしいのか、この状況がおかしいのか、どっちなのかしらね」


或はその両方という可能性も出てくるが、そう考えだしたらキリが無い。どちらにせよ、この状況がおかしいのは明白だ。そこに再び現れた、光の砂塵達。彼らが何かしらに関与をしているのは間違いないだろう。冷静に思考が働いてくれる事に感謝をしつつ、アリシアは一度小さく息を吐き、意を決して”非現実”に目を向けた。


「ねぇ、教えて。貴方達がこの変な状況を作っているの?」


アリシアの問いに、彼らが勢いよく左右に動いて消えた。初めて見せる反応だ。


「違うってこと?」


今度はいつもと同じ、ぴょん、と跳ねる肯定の仕草を見せる。


「それじゃあ、このおかしな状況を作っている元凶を貴方達は知っているの?」


ぴょん、と光の砂塵が跳ねる。駄目元で質問をしていたアリシアはぎょっと目を丸めた。


(つまりそれが、ノアの体調不良の原因ってことかしら…)


この街の様子は明らかにおかしい。そしてその同日にノアが体調を崩しているのだ。もしかしたら街の人達も、ノアのように体調を崩して寝込んでいるのかもしれない。アリシアは一瞬悩むような仕草を見せた後、ぐっと決意を心に刻み、彼らに向き直った。


「私を、その元凶の所まで連れて行ってくれない?」


元凶の元に行った所で、何ができるとは思えない。自分はノアと違い何の力も持たない凡人だ。だがそれでも、情報の1つでも得られれば突破口が開けるかもしれないと思うのだ。無謀かもしれないし、危険だとは思う。

だがそれでも、共に暮らすノアが苦しんでいるのに、何もしないままでいるのは耐えられない。

数秒、悩むように光の砂塵達は姿を現さなかった。だがやがて、光の砂塵がピョン、と跳ねた。


「ッありがとう!」


アリシアがお礼を言うと同時に、いつかの外出の日のように、点いては消え、消えては点きながら、彼らが先を行き、道案内を始める。暗闇の中ぽつぽつと灯る光を、アリシアは慌てて追いかけた。

暗闇の中、彼らの導くまま角を曲がり、道を歩く。気が付けば、一度見た事のある場所へ導かれていた。


「…ここ、って…」


薄暗い路地裏は、今となっては闇を押し込めたような、異様な場所のように見える。

この場所は一度訪れた事がある。アリシアが記憶を思い起こし始めた、次の瞬間。


「え、」


足元から、眩い程の光が生まれた。あぁそうだ、あの時もこんな風に光に包まれたんだった。アリシアがそう思い返す間もなく、眩い光はアリシアの身を包んでいった。




「…うぅ、目がいた…」


強い光を見た余韻で、アリシアは目を閉じたり開けたりして、何とか視界を取り戻した。目の前には、先ほどと変わらない”闇”が広がっている。―…いや、街とは少し違う。街には暗闇の中に建物があるが、目の前に広がる数歩先の光景は底の見えない崖だ。いくら目が暗闇に慣れてきたとは言え、目印となる建物が無い光景は、完全なる”闇”だ。足元すら定かでは無く、何歩歩けば崖に行きつくかもわからない状態では、動くに動けなかった。

アリシアが躊躇をしていると、ふわりと下から光が舞い上がる。

光の砂塵達が、再び点いたり消えたりを繰り返しながら、崖に向かって飛び立った。再び導こうとしているのだろうか。だが空を飛べる彼らとは違って崖の先になど行ける筈もない。アリシアは苦笑交じりに慌てて止めた。


「ちょ、ちょっと、私は崖の先になんて行けな、」


その瞬間。こん、と軽い音がして、光の砂塵達が何かにぶつかり、その衝撃で揺れた後、ふっと消えた。


「…え?」


崖に落ちるでもなく、崖の先に行くわけでもなく、彼らはそこで止まったのだ。まるで、壁があるかのように。

そうしてそれを証明するように、何度もその”障害物”の前で点いたり消えたりを繰り返している。


「そこに、壁が、あるの…?」


思い返すのは、ノアがそこに立っていたあの日だ。ここを、工事をしていると言っていた。

その工事が完成したのだろうか。アリシアは恐る恐る足を踏み出し、まるで地面の感触を確かめるように一歩、また一歩とゆっくり歩きだす。ほんの数歩で、光の砂塵達が居る場所まで辿り着いた。そっと、目の前に手の平を差し出す。すると、こん、と小さな音を響かせて指先が何かに触れた。


「…壁…?」


ゆっくりと手の平で触り、平たい壁の感触を感じる。。実体が見えない透明の壁。これがノアが完成させた物なのだろうか。手の平で壁を撫で、この先を示す光の砂塵達に首を傾げた。


「この先に一体何があるの?」


アリシアがそう問うと、消えていた光は再び灯り、すっとアリシアの目の前に現れた。だが今度は道を指し示すのではない。明かりを灯すようにアリシアの頭上から照らした。今まで点いたり消えたりをしていた彼らが、今度は随分と長時間頭上から照らしてくれた。…何かを見ろ、とでも言っているのだろうか。アリシアはもう一度首を傾げながら頭上から視線を外し、目の前の壁を見つめる。


「一体何、」


アリシアが怪訝そうに眉根を寄せた瞬間。

―…ドンッ!と鈍い音を立てて壁の向こう側から、壁を叩かれた。


「ッ!」


慌ててアリシアが壁から手を離す。


「な、何…?」


恐怖で冷えた手を握りしめ、震える声を絞り出した。頭上で灯していた光は一度力尽きるように消え、もう一度、頭上から光を注ぐ。僅かな光ではあるが、目の前の光景を見るには充分だった。目の前には底の見えない崖…の筈だ。だが何故か、その光景が目に入る事は無かった。まるで靄がかかったように壁の向こう側の光景は不鮮明である。アリシアがじっと目を凝らしていると、もう一度、ドンッ!と鈍い音をあげて壁が向こう側から叩かれる。

逃げ出したい気持ちを押し殺しながら、音の出所に目を向ける。だがやはり、よくは見えない。この壁の影響だろうか。アリシアは僅かに震える指先を、そっと壁に向けて伸ばした。目に見えないモノというのは、怖い。だが怯えている場合では無いと、自分を叱咤する。壁に指先が降れ、もう一度手の平で壁の感触を確かめる。見えないと言う事を除けば何の変哲もない壁だ。アリシアは壁に手を触れ、音がしたであろう場所にじっと、目を凝らす。

その瞬間だった。―…アリシアと同じく壁に触れた、手の平が見えた。


「ッッ!!!」


バッ!と手の平を離した。瞬間、頭上を照らす光も力尽き消え、闇が訪れる。早鐘のように脈打つ心臓を落ち着かせるように、浅く呼吸を繰り返す。何だか空気が薄い。上手く呼吸が出来ない。


(落ち着いて、落ち着くのよ)


自分に何度も何度も言い聞かせる。…見間違いだろうか。そう考えて、思い直す。光の砂塵はここまで導いて来た。恐らく見間違いなどでは無いだろう。現実から目を逸らしそうになった自分を奮い立たせ、アリシアはもう一度、震える手で見えない壁に触れた。もう一度手元を照らすように頭上から光が降り注ぐ。すると靄が晴れ、壁の向こう側から触れる手の平だけが見える。大きな手だ。恐らくは男性の手だろう。やはり見間違いでは無いのだ。恐怖に心が縮み上がる前に、アリシアは口を開いた。


「あ、貴方、だっ、誰なの?この街に、…っノアに、一体何をしたの!」


震える声で尋ねる。だが、彼は何も答えない。壁に触れ続ける手は、ピクリとも反応しなかった。


「…ッ答えて!」


焦れたようにアリシアが叫ぶ。だが尚も彼は何も答えてはくれなかった。意思の疎通は難しいのだろうか。アリシアが半ば諦めかけていたその時、何の反応もなかった彼の手が、動く。その動きが何を意味しているのかすら分からないアリシアは、ただただその行く末を見守るしかなかった。


「…え…?」


その手が、ゆっくりと壁越しにアリシアの手の平に重なる。…大きな、手だ。何故だろう。先ほどまで恐ろしかった感情は消え失せ、その手の平に視線を奪われてしまう。何故だか分からない。だがその手の平を見ていると、無性に泣きたくなった。胸の内から湧き上がるこの懐かしさは一体何か。アリシアの目から自然と、ぽろぽろと涙が零れて落ちた。


(私、この手を知っているわ)


―…ズキン、と頭が痛む。だがそれでもこの手の平から目が離せない。

潰れた肉刺が硬く皮膚を覆った、ゴツゴツとした手。努力を重ねた手だ。その手の温かさを、よく知っている。―…ズキンッとより一層頭痛の威力が増した。アリシアは思わず頭を押さえる。


『アリシア様』


そう、呼んでくれたのは誰だったか。脳裏にシルエットは浮かぶものの、顔も名前も思い出せない。だが、覚えている。誰よりも努力をしているその手は、いつも守ってくれた。理不尽な現実に立ち尽くすと、いつも手を引いて一緒に歩いてくれた。全部、全部、記憶になくとも心に刻んでいる。


「…ッ、は、っ」


頭が、割れそうだ。見えない壁に体重を預け、アリシアは痛みをぐっと堪えた。意識が飛びそうだ。だがここで意識を手放せば、また彼の事を忘れてしまうという確信があった。頭痛に、視界が霞む。その霞んだ視界の先で、壁の向こうの手がグッと握り拳を作っていた。まるでこちらを心配しているかのように。

思わず、アリシアは笑った。笑った反動で、瞳から一筋の涙が零れ落ちる。


「相変わらず、心配性、だわ…」


自然と、そんな言葉が零れ落ちる。―…そうだ、以前も彼はこうしてよく心配をしてくれていた。

心配性で、口煩くて、時折母親より過保護で、その事で何度言い争ったか分からない。だけどその言い争いすら、本当は楽しんでいたと言ったら彼は驚くだろうか。…彼は随分と、色々な表情を見せてくれるようになったから。

不愛想で、ぴくりとも動かなかった表情が、驚いたり、むっとしたり、心配したり、変化を見せるのが楽しかった。

―…いつも真っ直ぐに見つめてくれる彼の、時折見せる笑った顔が、好きだと思った。


「ッ」


頭痛が、引っ張り出した記憶を押し戻そうとする。だが、アリシアはそれを振り払った。見えない壁に、手を当てる。

壁越しの彼の手に、今度はアリシアが手を重ねた。壁一枚隔てているのに、何だかそれだけで心が温かかった。

自然と、頬が緩む。ようやく、見つけた。胸の内にぽっかりと空いた穴を埋める”何か”を。


「―…レオン」


自然と口から零れ落ちる名前に、何だか唇が震えた。アリシアの黒曜の瞳から、綺麗な雫がポロポロと落ちる。


「レオン…ッ」


今度は確かな想いを込めて、口にする。

―…その、瞬間。

目の前の壁は、アリシアが触れている所を中心にひび割れた。驚く間もなくひび割れは壁全体に広がっていき、やがて、音もなく割れる。アリシアは一瞬肩を震わせ、目を瞑ったが、破片は辺りに飛び散る事は無く、まるで溶けるように空気中に霧散していった。恐る恐るアリシアが目を開けた先に崖は無く、ただただ無限に広がる”闇”がそこにはあった。そんな些末な事は、どうだって良い。アリシアはただ、目の前に立つ彼に目を奪われた。ダークブラウンの髪に、海と空を混ぜたような青い瞳。その瞳が僅かに見開かれながら、それでも、真っ直ぐにアリシアの目を見つめてくれた。その淡い驚きの反応にアリシアは彼らしいと、小さく苦笑を零す。


「鉄仮面…」


憎まれ口を叩くと同時に、アリシアは全身から力が抜けるのを感じた。ぐらりと体が傾き、視界が揺れる。


「アリシア様!」


だが地面に打ち付けられる前に、レオンの腕がアリシアを抱き留める。どこかで支えてくれると信じていたアリシアは、小さく息を吐いて、笑った。


「ナイスキャッチ、ね」


「軽口を叩いている場合ですか!」


アリシアの体を抱き留めながら、レオンが怒鳴る。彼のこのお小言も、随分と久しぶりだ。だが、軽口を叩いてでもいないと、本当に意識が吹き飛びそうだった。レオンを思い出した事で今まで押し込められていた記憶が一斉に飛び出してきている。走馬灯のように今までの出来事が頭の中で同時再生をされているようなものだ。壮絶な情報量に頭がついていけずグラグラとする。力が上手く入らず、ただこの身をレオンに預けるしか出来なかった。


「…ごめん、レオン」


どうして忘れてしまっていたのだろう。こんなにも、心配してくれる人の事を。こんなにも綺麗な瞳で、真っ直ぐに見つめてくれる人を、どうして忘れていたのだろう。改めて、じっとレオンの顔を見る。ぼやけていた全ての記憶に、彼の顔が鮮明に思い出される。ようやく、記憶のピースが嵌まった気がした。

彼が見つめてくれるだけで、名前を、呼んでくれるだけで、ぽっかり空いていた心の穴が、温かい何かで満たされていくのを感じた。


(あぁ…、そっか。私、レオンの事好きなんだ)


息をするように、ストン、と自分の気持ちが胸の奥に落ちていく。あんなに悩んでいたのが馬鹿みたいだ。

元々、考えるようなモノでは無いだろう。言葉を交わして、見つめてくれて、…触れられて。それが、涙が出るほど愛しく感じられれば、きっとそれが恋だ。


「たくさん、待たせてごめんね」


心配を掛けまいと、笑顔を浮かべて見せる。するとレオンの瞳から心配そうな色が少しだけ薄れた。『全くです』とでも言われるだろうか。アリシアが想像して、ふ、と口を緩ませた瞬間。


「え、」


抱き止めていたレオンの手が、ぐっとアリシアの体を引き寄せる。アリシアが目を瞬かせる間に、そのたくましい腕がギュっとアリシアの体を包み込んでいた。…だが息苦しくはない。まるで宝物のように、そっと抱きしめている。


「…貴女を待つのには、慣れています」


小さく笑う声と共に、耳元でレオンの声が響いた。いつもと違う距離感に、カッとアリシアの体温が上がる。慌てて離れようと身じろぎをしたが、そこで、気が付いた。レオンの体が、小刻みに震えている事に。


「ですが今回は少し、不安でした。もし、貴女が思い出さなければ、…もし、貴女を失ったら、と」


レオンの声が僅かに震える。この闇の中、ただ待ち続ける事しか出来ない気持ちは、想像も出来ない。アリシアの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。気が付けば、レオンの背中に手を回し、抱きしめ返していた。せめて、”ココ”に居る事を伝えたくて。震える彼を、ただ、抱きしめたくて。


「…うん、―…うん、ごめん。待っていてくれて、ありがとう」


どれだけ言葉を紡いでも、感謝の気持ちを伝えきれない。触れ合った体から、トクン、と彼の鼓動が僅かに伝わって来る。自分の鼓動が合わさり、まるで一つに混ざっていくような、不思議な感覚だった。

アリシアが、より一層しっかりと抱きしめた、その瞬間。


「……あの、2人とも、そろそろいいかな」


申し訳なさそうに、声が割って入った。自然と目を閉じていたアリシアが、ぱちっと目を開ける。

すると、レオンの肩越しに、暗闇の中気まずそうな表情を見せるユリウスと、妙に笑顔のルーカス、そして真っ赤な顔のサラが居た。慌ててレオンから離れる。体を預けて少し休んだからか、何とかその場に立つ事が出来た。


「みっ皆もここにいたの!」


声がうわずってしまった。確実に今顔が赤い。耳まで熱い気がしたが、アリシアは努めていつも通りに振るまった。


「アリシアちゃん!」


すると今度はサラが飛びついてくる。


「良かった。…よかったぁ」


ポロポロと涙を零すサラに苦笑して、アリシアはサラの頭を撫でた。


「彼女、君を助け出す為に色々頑張ったんだ。沢山誉めてあげて」


と、ユリウスが言って笑う。アリシアが首を傾げた瞬間、下から上に何かが飛んできた。


「あ、ようやく目があった」


「私達の姿がようやく見えるみたい」


口々にそう言うのは、小さな小さな、光をその身にまとった妖精数人だった。彼らの周りを覆っている光は、見覚えがあった。ここに導いてくれた、光の砂塵達。


「貴方達が、ここまで導いてくれたのね」


「うん、光の子に頼まれたからね」


「でも、”あっち”は、別の世界。僕達はあんまり動けない」


大変だったよねー、と顔を合わせながら言う妖精達は、何となく可愛らしい。だが合点がいった。道理で、消えたり点いたり、形でさえも妖精ではなく、光の集まりになった訳だ。


「サラ、ありがとう。貴女が頼んでくれたのね」


「私は何もしてないよ!でも、…っアリシアちゃんが、無事で良かった」


ポロポロと涙を零しながら、もう一度ぎゅーっとアリシアに抱き付く。妹がいればこんな感じなのだろうか。アリシアは小さく苦笑して、サラの背中をトントン、と撫でてあげた。そのまま、今いる場所を改めて見渡す。


「…それにしても、ここは一体…」


「僕達を捕らえておく為の檻のようなものだよ」


ルーカスがそう言って苦笑する。


「何故だか彼の能力に、僕達は影響をされなかった。彼曰く、僕達が彼に身を委ねれば”作り変える”事が出来るらしいけど僕たちは、断固として拒んだんだ。

だから他の人間には見えない壁の向こう側で僕達を捕らえ、毎日のようにやって来ては何度も説得してきたよ」


つまりはここは”作り変える”前の世界。以前の世界でも、ノアが作り上げた世界でもない、どちらでもない世界。いや、空間なのだろう。混乱していた頭でかいつまんで理解する。


「まぁ、毎日即答で断ったけどね、ははっ」


「…私、ルーカスだけは交渉するの嫌だわ」


「おや、失礼だね」


頑として拒否するルーカスは、断られた後の人の苦虫を踏みつぶしたような反応も楽しんでいる節がある。

こんな男と交渉をするノアに、少しばかり同情をした。


「それにしてもここ数日、ご飯とかはどうしてたの?」


「あぁ、何故かお腹が空かないんだ。な、ルーカス」


ユリウスが首を傾げながらルーカスに同意を求める。ルーカスは小さく頷いた。


「恐らくだけど、この空間自体、時が止まっている状態じゃないかな?空腹にならないのは有難いよ」


アリシアは、ホッとしたように息を吐いた。もし彼らがこの数日間飲まず食わずの状態で苦しんでいたのだとしたら、より一層胸が痛い。不思議な空間ではあるが、今の状態ですら非現実的なのだ。納得せざるを得ない。


「ともかく、元の世界に戻す方法を考えないとね」


落ち着いたサラが離れ、アリシアが考え込むように眉根を寄せる。アリシアと反し、ルーカスは小さく溜息を零す。


「…どちらにせよ、時間の問題だとは思うよ」


「え?」


アリシアが首を傾げた瞬間、ガララッ!とまるで崖が崩落するような音と、地鳴りのような低い音が同時に鳴り響く。


「なっ何…!?」


アリシアが驚いて振り返れば、背後にあったはずの街が、分解し、地面はひび割れ、さきほどの見えない壁と同じく空中に溶けて消え始めていた。世界の崩落、というのはこういう状態の事を言うのだろうか。

その異様な光景の中で、一際異様なのは、崩落する街を背に背負いながら、動じた様子も見せず真っ直ぐにこちらを見てくるノアの姿だった。


「…アリシア」


そうして穏やかに、アリシアの名前を呼ぶ。まるで何事も無いかのように振舞う彼の行動は、いささか狂気じみていた。…だが、顔色が悪い。まだ体調が優れないのだろうか。


「帰ろう、アリシア」


いつの日かの夕暮れのように手が差し伸べられる。だが、―…今度はその手を、取らない。

ぎゅっと自分の手を握りしめ、ノアを見る。何かを言いたいのに、言いたい事があり過ぎて言葉にならない。

その間に、レオンがアリシアの前に庇うように立った。


「…レオン」


「二度も、貴女をあの男の元には行かせません」


一度、ノアの手を取って、帰った事がある。その時、この見えない壁の向こうでレオンは見つめていたのだろう。見ている事しか出来ない事に、どれほど腹が立っただろう。そう思うと、胸がギュっと締め付けられた。


「…大丈夫よ、レオン。私はもう、どこにも行かないわ」


そう口にして、ようやく決意が固まる気がした。口元に、自然と笑顔が広がる。


「帰るわよ、皆で」


「―…はい」


決意を宿した漆黒の瞳は、暗闇の中でも分かる程、美しい。

アリシアはスッと、レオンの前に立った。この一瞬で、ノアの背後で崩れていた街の姿は完全に消滅し、周りは全て暗闇に包まれていた。暗闇の中でも不思議とハッキリと、不安そうなノアの表情が見える。思えば今までずっと不安そうだった。この状況を危惧していたからなのか、もしくは別の理由なのか、今のアリシアには分からない。

彼の手を取らない自分では、もうその理由を知る機会すら無いだろう。アリシアは意を決して、息を吸い、口を開いた。


「ノア、私は貴方と、貴方が作った世界に帰る気は無いわ」


「…アリシア」


裏切られたような悲し気な声で、アリシアの名を呼んだ。その視線に、表情に、胸が痛む。だがそれでも、目を逸らしてはいけないと思った。間違った方法だけど、歪んだ方法だけど、アリシアの為に動いてくれた彼から、目を背けてはいけないと思ったのだ。


「…貴方が作ってくれた世界は、確かに温かかった。

皆、私に怯えないで普通に話し掛けてくれて、街だって普通に歩けて、後ろ指を指される事も、無くて…」


まるでそれは、夢の中の世界のようで。街の人達に話しかけられる度、どうしてあんなに嬉しかったのか今なら分かる。元の世界ではそんな事ですら、難しいからだ。


「でもやっぱりそれは、作られたモノでしか無いのよ。

あの人達の意志を捻じ曲げて、あの人達が築き上げていた幸せを壊して、私だけに優しい世界が作られたとしても、私は嬉しくないわ」


「―…」


「私はやっぱり、前の世界が好きよ。あの世界は私を嫌っているかもしれないけど、でもあの世界には大切な人が沢山いるもの。レオンやサラ、ルーカスにユリウスくん、両親に、それにノア。

皆が居てくれるもの。私は、人が思っているより不幸じゃないわ」


ノアが、驚いたように目を丸めた。大切な人達の名前を口にするだけで、アリシアの頬は自然と緩んだ。


「―…だから、決めつけないでほしいの。

今私を嫌っている人が、明日には私と挨拶をしてくれるかもしれない。そんなちっぽけな可能性ですら、世界を作り変えてしまったら、潰してしまうから。決めつけて閉じてしまうだけなんて、勿体ないじゃない。この先、どうなるかなんて誰にも分からないんだから」


ノアの作る世界は優しい。きっとあの世界で過ごしていれば泣く事も傷つく事も無いのだろう。それは素晴らしい事だとも思う。傷なんて、悲しい思いなんて出来るだけしない方が良いのだから。だが―…。


「私は、傷ついても、悲しんでも、自分で選んだ道を歩きたい。

例えその先が暗闇でも、きっと、歩いて来た道には綺麗な花が咲くって信じているから」


ノアは、何も言わなかった。ただ、アリシアの言葉を静かに聞き、彼女の瞳をじっと見つめている。遠くでよく見えないが、彼の紫色の瞳は、穏やかな色をしているように見えた。


「…やっぱり、君は、強いなアリシア」


やがて、沈黙を破ったノアの口元が緩む。ほっとしたような、肩の荷が下りたような、そんな表情だった。

その瞬間。ガクンッと彼の身体が揺れ、その場に膝をつく。


「ノア!」


慌ててアリシアが駆け寄ろうとするのを、ノアは手の平を出し、制した。


「大丈夫、覚悟していた事だ」


「…え?」


アリシアが目を丸める。すると、ルーカスが静かに、事実を口にする。


「僕らの”力”は無限じゃない。

いくら彼の力が強くても、世界を丸ごと作り変えて、その世界を維持するには相当の力が必要だ」


「それ、って…」


「アリシア、君だって分かっている筈だよ」


―…そうだ、分かっている。気が付かないフリをしているだけだ。

ここ最近の彼の身体の不調、この世界を維持するための力。それは、彼の寿命と体力を削っているに等しい。


「ノア…」


アリシアの目から、涙が零れ落ちる。

暗闇の中光るソレは、ノアにとって宝石のようにも見えたし、輝く星のようにも見えた。


(…・綺麗だ)


心優しい彼女を裏切り、自分のエゴでこの世界を用意した。彼女が望んでいない事は分かっていたのに。

だがそれでも、彼女が傷つかないように。彼女が、少しでも幸せに生きていけるように。願いにも似た感情で、世界を作り、結果的に彼女を泣かせてしまった。だが…満ち足りた、気分だ。たった一人、心から愛した女性が、自分の為に泣いてくれる。こんなに嬉しい事は無いだろう。ノアの口元が緩やかに弧を描く。


「…世界を作り変えてこんな事になったのも、結局は自業自得だ。

その罪も、今俺の為に流してくれている君の涙も、全部、全部、俺の物だ。…誰にも、やらないよ」


後悔など、無い。せめて心優しい彼女が気に病まないように、全部、全部持って行こう。


「ノア…」


アリシアが震える声で、ノアの名前を呼んだ。その声を、彼女の顔を、目に、耳に焼き付ける。

―…その、刹那。


「わぁっ!」


ユリウスの叫び声が響いた。驚いて後ろを見れば、ユリウスの足元が崩れ、闇が彼を包み込む。


「ユリウス!」


ルーカスが叫ぶ。だが次の瞬間、今度はルーカスの足元が崩れ、同じく闇に包みこまれていった。


「ルーカス!ユリウスくん!」


「…怖がる必要は無いさ。元の世界に戻るだけだ」


ノアが、苦し気に息を吐きながら、ぽつりと言った。


「俺が捻じ曲げてしまった世界を、元に戻す力が働いているんだ」


「元に、戻す力…?」


アリシアが言葉を繰り返すと、サラの「きゃぁっ」という叫び声が聞こえ振り向けば既に闇に呑まれて消えていた。


「……どこの時間軸に戻るかまでは分からないけどね」


「…ノアは…?」


ノアが、跳ねるように顔を上げ、心底驚いたように目を丸める。そうして、小さく苦笑を零した。


「こんな時まで人の心配か。本当に君は、お人好しだな」


恨みごとの1つでも吐いても良い筈なのに。それでも、そんなアリシアだから、好きになったのかもしれない。

ノアは妙に清々しい気持ちで、レオンを見た。ピクリとも表情を動かさずこちらを見るレオンに、苦笑を零す。


(…こいつを、羨んだ事もあったな)


アリシアの傍に居る彼を羨み、妬んだ事もあった。だがそれでも、真っ直ぐに彼女を想う彼が、アリシアの傍に居て良かったと思う。アリシアの為に必死になるレオンになら、アリシアを託せる。


「…アリシアを、頼んだよ。ヴェンクハイム」


「―…お前に、言われるまでも無い」


レオンはそう言うと、アリシアの手を握りしめた。離れないように寄り添う2人に、ノアは優しい笑顔を浮かべた。

瞬間、2人の足元が崩れ、闇が覆う。


「さよならだ」


「ノア!」


視界が闇に覆われ、声すらも闇に阻まれノアに届く事は無い。光を失った闇の中、ただただレオンと繋いだ手の温かさだけを感じた。―…そこで、意識がプツリと途切れた。

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