第9話 遠く聞こえる崩壊の音

―…後少しだ。


自身が”作り直した”街を足早に駆け抜けながらノアは自身に言い聞かせる。

周りを歩く人間達は、まさかこの世界が作り替えられたものなのだと気が付く事すらないだろう。だが、アリシアは違うのだ。これだけ頑丈に厳重に精密に作り直しても尚、彼女の記憶を完全に作り直す事は出来ない。

運命に抗い続けた彼女だからだろうか。少しでも気を緩めれば、記憶の糸口を掴んで紐解かれてしまいかねない。…それは、駄目だ。まだ、それには少し早いのだ。


「…きっとアリシアは俺を許さないだろうな」


ふ、と苦い笑みと共にノアは自嘲じみた言葉を零した。

ざわざわとしたメインストリートから逸れ、路地裏へと続く道に曲がる。ノアが一歩その場所に踏み入れた瞬間、足元の石畳が淡く光った。転送装置だ。とは言え、この転送装置は強い魔力の持ち主のみに反応する。

つまり、民間人が溢れるこの街では、ノア専用の転送装置なのである。


視界が揺れ、僅かな浮遊感を感じた次の瞬間には、別の場所へと転送されていた。


着いた場所は、街の端。

石畳の上に並ぶ綺麗な街並みは境界線のように横一線に途切れ、ノアの目の前には真っ暗な闇だけが広がっていた。

たった一歩しか変わらない”ソコ”には、空もましてや大地も無い。

全ての空間を”闇”が浸食し、ノアが作り上げた世界と切り離された様に、”ソレ”は存在していた。一歩間違えればその空間に足を踏み外しそうなほどのギリギリにノアは立ち、その空間を見据えた。普通の人間であれば底の見えない暗闇に恐怖を感じるだろう。だがノアの表情はどこまでも冷たかった。


「…やあ、元気かい」


そうして無感情に言葉を吐き捨てる。

ノアがそう声を掛けると不思議と少し霧が晴れるように暗闇が薄くなり、数人の人影を浮かび上がらせる。不思議とその人影は、ぼんやりとした光を纏っていた。その瞬間、その人影の1つが勢いよく飛び出してきた。


思いきり拳を振り上げ、ノアに向かって振り下ろす。その標的のノアは驚くでもなく、恐れるでもなく、ただただ呆れたような視線で彼の一挙手一投足を見つめていた。―…刹那、ゴンッ!と鈍い音が響き渡る。


「…何度も言っているだろう。無駄だ、君にコレは壊せないよ」


目の前で止まった彼の拳を見つめ、ノアは溜息と共にそう言った。

暗闇の空間と街を分けるかのように、その間には見えない壁がある。見ただけでは分からない透明の壁は、触ってみれば分厚く、用意に壊せない物だと実感出来た。

その壁に拳を押し付けたまま、彼は―…レオンハルト・ド・ヴェンクハイムは歯を食いしばり、ぶつけそこねた怒りと殺意を視線に変えてノアを睨みつけた。


「…アリシア様は、どこだ」


低く唸るような声でレオンが言う。何度も繰り返した問答にノアは小さく溜息を零して肩を竦めて見せた。


「これも何度も言ったが、アリシアなら俺の家だよ。毎日幸せに暮らしているさ」


「…ふざけるな」


壁に押し付けたままの拳が、ぐっ、とより力を込められ、レオンの視線がより鋭くなる。すると、ノアは少し疲れたように溜息を零し、頭を押さえた。


「なあ、いい加減諦めてくれないか。ここ数日、ずっと同じやり取りばかりだ。お陰で、本来はアリシアが目を覚ます前に全てを整えて終わらせられる予定が、大幅に遅れているんだよ」


レオンは答えない。ただ、刺すような視線をノアに送り続けている。

元からレオンの反応に期待はしていないのか、ノアの独白のような言葉は続く。


「ヴェンクハイムだけじゃない。

王子も、騎士団団長の息子も、そしてサラ・ブラウン、君もだ」


レオンの奥に居る彼らは皆、一様に警戒と怒りを織り交ぜたような雰囲気を纏っている。その反応にノアはまた疲れたように溜息を零す。


「…別に君達を殺そうって言うんじゃない。少し”作り直す”だけさ。痛みも無いし一瞬で終わる。次の瞬間には、その記憶すら無くなる。別段、君達が困る事は何一つ無いだろう」


「いいや、大いにあるね」


そう言って薄く笑ったのはルーカスだ。


「それはつまり、僕達が今まで共にアリシアと過ごしてきた記憶が無くなるって事だろう?それは駄目だ、どてもじゃないけど許可は出来ない」


こんな状況だと言うのに、暗闇の中に居ても尚彼の王者たる風格は失われていなかった。


「あっ、あの…ッ、アリシアちゃんを、解放してください…!」


勇気を振り絞り声を張り上げたのはサラだった。瞳の奥に恐怖を宿しながらも、それでも懸命に一歩足を進め、真っ直ぐにノアを見つめる。


(…サラ・ブラウン。この世界の”キーパーソン”)


ノアの瞳が、少し鋭くなる。彼女がこの世界に与える影響は絶大だ。彼らを守るように包んでいる淡い光。あれは恐らく彼女の力によるものだ。だからこそ暗闇の中で数日間も己の存在を見失わず自我を保っていられるのだろう。本来ノアの”作り直す”作業は、空間全てを分解し一度全てを”無”と”闇”に戻す。そうしてそこから掬い上げ、ノアの想像と理想で人々の記憶を作り直す。土地や建物、環境すらも意のままに作り上げていくのだ。

だが、彼らに関してはそれが出来ない。

全てが無になり闇と同化する中、彼らだけが淡い光を放ち、そこに存在し続けた。


(厄介な力だ)


苦虫を踏みつぶしたような視線でサラを見る。

彼女が意識的なのかどうなのかは分からないが、何にしてもこの世界を作り直すにあたって彼女以上の天敵はいないだろう。そうしてもう一つ彼らがあの闇の中でも自我を失わず、抗い続ける大きな共通の理由がある。

”アリシア”だ。本来敵になる予定の彼らが、まるで暗闇で唯一光る星に縋るようにアリシアを想い、ノアの力に抗い続けている。…それが、非常に煩わしい。


「―…君達は、そんなにアリシアを苦しめたいのかい?」


「え…?」


サラの表情が強張った。


「前の世界で、アリシアがどんな思いをしてきたと思う?

望んでもいない力のせいで周りからは恐れられ、外を歩くだけで後ろ指を指されて心無い悪口を言われ、普段は他国への抑止力として利用しておきながら何か異常な事が起こればすぐに彼女のせいにして不吉だ何だと騒ぎ立てる。

…そんな環境に置かれていた彼女の気持ちが、君達に分かるのか?

そんな残酷な世界に戻すことが、彼女の幸せだとでも言うつもりか」


反論の言葉が、出ない。サラは言葉を失い、俯いた。

サラだけではない。ユリウスやルーカスも、初めて戸惑ったように黙した。


―…ただ1人だけを除いては。


ガンッ!と鈍い音を立てて、見えない壁が再び叩かれる。

睨みつけるレオンの怒りの焔に揺らぎは無い。強く叩いた衝撃でレオンの拳は擦り切れ、血が滲んでいた。

今のレオンにとって些末な痛みなど感じない。この拳で目の前の人間を殴れないと言う事が、耐えがたい程に悔しい。


「…ふざけるな。アリシア様の幸せを、お前が語るな」


「…、驚いたな。誰よりもアリシアの近くに居た君なら、俺の言う事に賛同してくれると思っていたんだが」


「違う。誰よりも近くで見てきたからこそ、お前の考えには賛同出来ない」


空と海を混ぜたような青い瞳が真っ直ぐにノアを見つめ、一刀両断に切り捨てる。


「アリシア様が置かれている境遇はお前の言う通りだ。

あの世界も人も、アリシア様に冷たい」


「あぁ、だから俺が、」


「だがアリシア様はそれでも、あの世界を、あの世界に生きる人達を愛している」


「―…」


ノアが、初めて言葉を失った。

―…彼女が歩くだけで後ろ指を指す下劣な人達。彼女に過酷な運命を背負わせ、突き放す残酷な世界。恨んだって良い筈だ。嫌って呪って憎んだって、良い筈なのだ。もしノアではなく、アリシアがこの世界を壊すと言えば、レオンは喜んで手助けをした事だろう。だが、きっと彼女はそんな事を望まない。


『…この街の人達は、幸せなのね』


昔、変装して街へ出かけた時の彼女の幸せそうな笑顔が、ふと脳裏を過る。本当の姿で歩き回る事すら許されないあの街を、まるで宝物を見つめるかのような眼差しで見つめていた。彼女の漆黒の瞳を通して見る世界は、どんなに美しく色づいて見えるのだろう。そんな事を思ったのを覚えている。


「放っておけば良いのに困っている人がいると、見て見ぬふりが出来ない人だ。

いつも誰かの為に行動して、誰かの為に心を動かす、…優しい人なんだ」


どうして、周りの人間は彼女のそういう所を見てくれないのだろう。

こんなにも優しく、美しい人間をレオンは他に知らない。彼女が名前を呼んでくれる度に、心を温かい何かが満たしてくれた。…彼女が笑うと、何だか嬉しくて。その笑顔を守りたいと、心から思っていた。

だからこそ、目の前にいる彼に腹が立って仕方が無い。思わずレオンの眉間に皺が寄り、ノアを睨みつける。


「そんなアリシア様が、あの世界の人達の幸せを壊して、お前に作り直されたこの世界で本当に幸せになれると胸を張って言えるのか」


ノアは言葉を返す事が出来なかった。

その表情はピクリとも動かず、ただ真っ直ぐにレオンを見返している。レオンの言葉と想いが届いているのか、その表情からは判断がつかなかった。


「…、」


ノアが、ゆっくりと口を開いた。瞬間、ノアがバッ!と後ろを振り返る。

同時に、転移装置がカッと発光した。誰かが転移装置を使ってこちらに来ているのだ。ノアは素早く手を翳し。スッとレオン達の方に向けた手を左から右へと撫でるように動かす。すると、まるでページが捲られるように見えない壁の映像が切り替わり、そこには街と変わらない青空と、その下には断崖絶壁が突如として現れた。触れれば、壁に映し出されただけの映像なのだと分かるが、向こう側の音も遮断し、カモフラージュとしては充分だ。

その数秒にも満たない間に転移装置の発光はゆっくりと緩やかになっていった。

その姿を見なくても、ノアには誰がやって来たのかは分かっていた。あの街でノアと同じぐらいの力を持つ人間は1人しかいない。ノアは、小さく溜息を吐いた。


「何しに来たんだい、アリシア」


転送されたアリシアは、ぽかんとした表情で辺りを見渡した。


「…えっ、ノ、ノア?!えっ、何で、」


「何で、はこちらのセリフだけどね」


「いや、だって私、ただ街中を散策してただけ、あっ」


失言に気が付いたのか、アリシアはパシッと自分の口元を押さえた。

散策、というよりは、光の砂塵の導きに従って歩いていただけなのだが。

気が付けば転送装置に乗せられ、一番知られたくない相手がいる場所に辿り着いてしまった。

じと、と見つめるノアと、知らんふりを決め込むアリシア。両者の攻防は数秒に渡り、やがてノアが呆れたように小さく苦笑を零した。


「もういいよ、怒っていないから。

アリシアは一度言い出すと聞かないからね。こうなる事は何となく想像ついていたよ」


「う…」


そこまで分かりやすいのだろうか。アリシアは自分の短絡的な行動を少しだけ悔いた。しかも行動の原因が、『光の砂塵』だなんて、とてもじゃないけれどノアに言える筈もない。


「俺も、”仕事”は今日はこれ以上進みそうにないんだ。

アリシアも心配だし、一緒に帰ろう」


「え、いいの?っていうかノアは、こんな崖まで来て一体何を…」


壁に映し出された断崖絶壁を見て、アリシアは固まった。

…何故だかは分からないが、視線が外せない。

そこには崖しかない。崖の向こう側は見当たらず、ここから見るだけでも、底が深く一度落ちてしまえば上がって来れないだろう奈落だという事が分かる。誰もが忌避すべき場所だろう。

だが、何故か心が騒ぐ。何故だか、そこから視線を外せなかった。

そうして、まるで抗えない大きな力に導かれるように、アリシアの足が無意識に一歩、踏み出した。


「アリシア!」


「ッ」


ぐいっと手を引かれ、アリシアはハッと目が覚めたような気分になった。

崖から視線を外し、ノアを見れば、真剣な表情の彼が視界に入る。


「あ、ご、ごめん、ちょっとぼーっとしていたみたいで」


自分自身でも戸惑ったように、もう一度崖を見た。自殺願望など無いはずなのに、何故あの崖に行きたくて堪らなかったのだろう。もしあそこに足を踏み入れていれば、恐らくは奈落の底に落ちていた筈だ。そう思うと、今更ながらぞっと背中に冷たいモノを感じた。


「…帰ろう、アリシア」


そっと、ノアの手が差し出される。手を差し出しているのはノアなのに、その表情はまるでアリシアに縋るような必死な様子さえ見えた。いや、必死というよりは、彼は何かを恐れている。


(…何をそんなに怖がっているのかしら)


分からない。聞いた所で、彼が教えてくれる気はしなかった。

アリシアはただ、目の前に差し出された手を、そっと取る。ひんやりと冷たい手は、アリシアに触れられて一瞬、ぴくっと小刻みに震えたが、瞬時にノアの頬がホッとしたように緩んだ。


「じゃあ、行こうか」


嬉しそうな表情には、もう恐怖の色は無い。

もしや、自分がノアの手を取らない事を恐れていたのだろうか。

ノアは自分の事を割れ物のように大切に扱ってくれるが、時折それが度を過ぎてアリシアに理解が出来ない事も多い。今朝がその例である。だが、せっかくいつもと同じ調子に戻れたのだ。そこを指摘して、また気まずい空気にはなりたくない。どこか上機嫌で微笑むノアに、アリシアはつられるようにして笑った。




鈍く、壁を叩く音が響き渡る。


「もうやめろ」


壁を叩き続けるレオンに、ユリウスが何度目か分からない静止の声を掛けた。

レオンの拳は赤く腫れ、擦り切れた傷口からは血が流れる。それでも尚、壁を叩いた。

―…目の前に、手が触れられそうな距離に、アリシアが居る。

この忌々しい壁さえ割れれば、今すぐに助けに行けるのだ。だが、この壁はびくともせず、また、アリシアがこちらに気が付く事はなかった。…一度だけ、アリシアと視線が交わった気もしたが、それすらもノアに止められてしまった。


「やめるんだ、ヴェンクハイム」


命を下す王者の声に、レオンは反射的にピタリと動作を止めた。静寂と共に、レオンの手にジンジンとした痛みが襲う。そんな痛みなど気にはならなかった。

振り向き、レオンを止めたルーカスに、責めるような視線をぶつける。


「…何故止めるんですか。アリシア様が目の前にいるというのに!」


「冷静になれヴェンクハイム。こちらの声は届かないし、君がその手を血だらけにしようと壁を壊す事は出来ない」


「しかし…!」


ここ数日で、アリシアが目の前に現れた事は無い。これは千載一遇のチャンスだ。


「冷静になれと言っている」


その声は、怒鳴らずともビリビリとした緊張感を辺りに与えた。

思わずレオンの反論が、ぐっと喉の奥で押し留まる。レオン自身も、何度もあの壁を攻撃して、無謀な行為だと言うのは分かっていた。だがそれでも、目の前にアリシアが居て、何もしない事など出来なかった。


「でも、どうするんだ、ルーカス。文字通り俺達、ここじゃあ手も足も出せないぞ」


ユリウスがそう言って、困ったように眉根を寄せた。


「大丈夫さ、既に手なら打ってもらっている」


「え?」


ユリウスが首を傾げ、レオンが怪訝そうに眉根を寄せる。

対してルーカスは、サラと視線を合わせて笑った。


「ブラウンさんの力に頼るしかないのは、不甲斐ない所だけどね」


「いいえ、そんな…!それに、私の力という訳でもありませんから」


2人のやり取りを見て、ユリウスとレオンは更に怪訝そうに首を傾げる。

どういう事だ、と視線で問う彼らに、サラは戸惑ったようにルーカスを見た。ルーカスが小さく頷くと、サラが恐る恐ると口を開く。


「全ては、ヴァステナ神のご加護です」


そうして、唯一神であるヴァステナの名を、恭しく言葉にしたのだった。


*****


あの崖が危険だから、人々が近づかないように工事をする事が最近のノアの仕事なのだと、帰り道教えてくれた。

ノアの能力はこの国で希少な、物を作る能力だ。あまり仕事内容を話さない彼が教えてくれたことにアリシアは僅かに驚いた。街のすぐ近くにあんな崖があるとは思わなかった。確かに、あれは何かしらの対策を立てないと、夜出歩いた人間が誤って足を踏み外しかねないだろう。

―…だが、何故だろう。

ノアが珍しく仕事の事を話してくれたのに、何故だか腑に落ちない。あの崖を見た後から、妙に胸騒ぎがしてならないのだ。心無しか、鼓動がいつもより早い気がする。

…何かに焦っているのだろうか。だが、何に?答えの見つからない自問自答が、脳内に浮かんでは消えた。


「アリシア?」


はっ、と気が付くと、既に家の前に辿り着き、空は夕方から夜に移り変わろうとしていた。


「どうしたの?ぼーっとして」


そう問われ、アリシアはようやく意識が戻ってくるのを感じた。

慌てて首を横に振る。


「う、ううん」


「そう?体調悪いなら無理しないで、部屋で寝ていていいよ」


「ううん、体調は平気。…あの、ノア」


「うん?」


「―…」


ノアに問おうとして、アリシアは開いた口をゆっくりと閉じた。

自分でもどう聞いて良いのか分からない不透明な疑問をノアにぶつけたところで、ノアを困らせるだけだ。そもそも、唐突にノアの言葉を疑うなんて失礼な話である。ノアは一緒に暮らしている家族なのだ。そんな彼を根拠もなく疑うなど、自分の方がどうかしていると思う。そう思うと言葉に出来ず、妙な間が生まれてしまった。


「う、ううん、何でもない。ごめん」


「…、そう?それじゃ、家に帰ろうか」


ノアはその空気を指摘するでもなく、まるでエスコートをするように手を引いて家の鍵を開けた。


「うん、…」


一度だけ、アリシアは後ろを振り返った。だが当然、そこにはいつもの街並みが広がっているだけだった。


****


それから数日。アリシアの体調は安定して、無闇に倒れるという事も無くなった。

あれ以降、ノアがアリシアの外出に対しても何も言わなくなり、アリシアは毎日その日の夕飯の買い出しを近所の店にまで買いに行っている。勿論危ないので、『あの崖には近づかないように』というのが大前提の約束の元、だが。だがそれでも、あの過保護なノアが大進歩である。

アリシアの生活と体調が安定する中、反してノアの表情には疲れが見え始めていた。仕事が忙しくなったと言い、早朝から出掛け、夜遅くに帰って来る事もよくある。勿論アリシアはそんなノアを早朝から送り出し、夜も起きて待ってはいる。だがアリシアの手料理を口にするのもそこそこに、ノアは疲れた様子で部屋に引きこもってしまうのだ。ノアの仕事がどれだけ忙しく過酷なものなのかアリシアには想像する事しか出来ない。だがそれでも、愚痴を聞く事ぐらい出来るのだ。だがその役割すらも、ノアはアリシアに与えてくれない。


(でも、無理に聞きだす事じゃないわ。今は、私に出来る事を一つずつしなきゃ)


そう思い直し、アリシアはまずは今日の清掃から取り掛かろうと足を一歩進めた。

その瞬間、ふと、あの夜に見た”光の砂塵”を思い出す。


「…そういえば、あれって一体何だったのかしら」


誰も居ない部屋に問いかけるが、勿論答えは返って来ない。

あれがまるで幻想だったかのように、あの夜以降”光の砂塵”は姿を現すことなく、数日経ってようやくアリシアはその存在を思い出していた。やはり、体調の悪い自分が見せていた幻覚だったのだろうか。


(そりゃあそうよね、あんな自分の意志で動くキラキラした謎の生き物が存在する訳ないし)


ノアに話さなくて良かったと思う。恐らく信じてはもらえないだろう。自分だって信じられない光景だったのだ。

街中をキラキラと飛ぶ彼ら(?)は、不思議とアリシアにしか見えていないようで、アリシアを誘導するように先頭を飛び続けた。ついたり、消えたりする彼らを見失わないように懸命に追ううちに、いつの間にかあの崖に辿り着いていたのだ。


「ホントに頭がおかしいと思われそうだわ…」


自分自身に引きつった笑顔を浮かべ、アリシアはフルフルと首を振った。

どちらにしろ、もう現れない”幻覚”に頭を悩ませている時間は無い。アリシアは気合を入れ直し、一歩足を踏み出した。

「…今日も遅いわねぇ」


柱時計が、ゴォン、ゴォン、と鈍く0時の鐘を告げる。

アリシアは眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、時計を軽く見て溜息を吐いた。ノアの帰りが遅いのはいつものことだ。最近のノアはあまり食欲がないようだが、せめて温かいスープとパンだけでも、と既に準備は完了している。きっと待っているアリシアを見て、「寝ていていいんだよ」と気を遣ってくれる事だろうが、これはアリシアが好きで行っている事なのだ。アリシアがもう一度溜息を吐いた、次の瞬間。


「きゃっ」


玄関先で、ガダンッ!!と何かが倒れる音が響き渡った。続けてガシャンッ!と恐らくコート掛けが倒れたであろう音が響き渡る。


(な、なに…?)


強盗、だろうか。どくん、どくん、と心臓が緊張に脈を打つ。

アリシアはすぐさま、近くに置いてあったスプーンを手に取った。ノアのスープ用の物だ。冷静に考えればそんな物で一体何をする気だと思うが、だが残念な事に今のアリシアは冷静ではない。

震える両手でしっかりとスプーンを握りしめ、ゆっくりと玄関へ繋がる扉を開ける。剣のように構えてはいるが、その腰は悲しい程にへっぴり腰で、こっそりと頭だけを出して様子を窺う姿はとても勇敢な姿とは言えなかった。

だがその刹那、漆黒の瞳が零れ落ちそうなほど大きく見開かれた。


「ノア!」


カランっと乾いた音を立ててスプーンを投げ捨て、駆け寄る。

玄関先で、ノアが突っ伏すような形で倒れ込んでいた。

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