第8話 穏やかな日常 始まりの朝

…鳥のさえずりが、響く。

意識がゆっくりと浮上するのを感じ、アリシアは目を開けた。

ぼやけた視界で、辺りを見渡す。

天蓋付きのベッド。窓から差し込む朝日は美しく、白を基調とした部屋は綺麗に整えられていた。見慣れた自室だと言うのに、寝起きだからだろうか。

何だか新鮮な気持ちで部屋を見つめた。


「…私…」


頬を撫でると、しっとりと濡れていた。

泣いていたのだと気が付き、アリシアは小さく首を傾げる。


「…あっ、朝食作らなきゃ!」


何か悪い夢でも見たのだろう。そう考え、別段疑問にも思わなかった。

ベッドから降り、クローゼットから取り出した衣服に着替える。

鏡を見て軽く髪の毛を整え、アリシアは扉を開けた。…その瞬間、パンが焼けた良い匂いが鼻をくすぐる。思わず頬が緩んだ。

軽い足取りで階段を下り、リビングへ続く扉を開ける。


―…見慣れたリビングだ。


柱時計に、綺麗なオルゴールが棚に並んでいる。

キッチンの食器棚には、銀食器やアンティーク調のコーヒーカップが並んでいた。

黒い革張りのソファと、ソファの前には低い木製のテーブルがあり、キッチンの近くには木造の椅子と机がある。

窓からは温かい日差しが入り込み、その近くにはハンモックまであった。


「おはよう、ノア」


アリシアがそう声を掛けると、キッチンに居たノアは驚いたように目を見開いた。


「…?どうしたの、そんな驚いた顔して」


首を傾げると、慌てたようにノアが笑顔を浮かべた。


「…いや、何でもないよ。おはよう、アリシア。もうすぐ朝食出来るよ」


「ありがとう、何か手伝うわ」


「あぁ、ありがとう。それじゃあこの皿を持って行ってくれるかな」


皿にはベーコンエッグが乗せられていた。

木製のテーブルにそれを並べ、アリシアは自分の席に着いた。

程なくして焼きたてのパンを乗せた皿が置かれ、二人分のコーヒーが注がれる。


「いただきます」


アリシアが嬉しそうにパンに手を伸ばすのを、ノアがじっと見つめていた。

アリシアは一度口を開け、苦笑と共に食べるのをやめた。


「ちょっとノア、そんなに見つめられると食べにくいんだけど」


「っ、あ、あぁ、ごめんごめん」


ノアが慌てて笑うが、アリシアは不思議そうに首を傾げる。


「何か今日変よ、どうしたの?」


「いや…何でもないよ。アリシアこそ、その、何か変な事は無いかい?」


ノアがそう言って、視線を逸らしたままパンに手を伸ばす。

アリシアは怪訝そうに眉根を寄せ、何度目か分から無い程首を傾げた。


「…強いて言うなら、目の前の人が変かしら」


「あはは、それもそうか」


ようやくノアがホッとしたように笑った。

アリシアは不思議そうにしながらも、ぱりっと音を立ててパンを食べた。


「美味しい」


「そう?良かった」


―…穏やかな食卓だ。

朝日が優しく差し込み、柱時計が時を刻む音が規則的に響く。

いつもの光景だ。心地の良い我が家。…その筈なのに、何故だろう。


何か、大切なモノを忘れているような気がするのは、何故だろう。


心の奥底から何かが自分を急かしている。

漠然とした不安にも似た感情が湧き上がり、焦りすら感じて居た。


「アリシア」


声を掛けられ、ハッとする。


「聞いてた?」


今度はノアが、不思議そうに首を傾げていた。

朝陽を反射して優しく揺れる紫色の瞳を見た瞬間、先ほどまで抱いていた疑問は霧散した。


「あ、ごめん、ちょっとぼーっとしていて…」


「ふふ、まだ寝ぼけているの?」


「うーん、そうなのかしら。朝起きた時も、何か泣いてたみたいで…怖い夢でも見たのかも」


ノアが、言葉に詰まる。

その表情が、悲し気に歪んだ。だが一瞬の変化に、アリシアは気が付けない。

瞬きの間に、ノアは微笑んで、そっとアリシアの頭を撫でた。


「…大丈夫さ。もうすぐ、だから」


「え?」


「いや、何でもない」


ノアが、何だか寂しい笑顔を見せ、アリシアから手を離した。

そうして、急いだように朝食を食べ終える。

ノアが片づけようとし始めたので慌ててアリシアが言った。


「あっ、私が片づけるわ」


「あぁ、ありがとう」


皿から手を離し、ノアはソファに置いていたコートを手に取ると少し急いだ様子で玄関へと向かった。アリシアも玄関まで見送る。


「今日の帰りは?」


「うーん、そんなに遅くならないと思うよ」


「うん、分かった。じゃあ、気を付けて行ってきてね」


アリシアがノアの鞄を手渡す。それを、ノアは複雑な表情で受け取った。

まるで躊躇うような表情に、アリシアは首を傾げる。


「…じゃあ、行って来るよ」


「え、えぇ…気を付けてね」


玄関を開け、ノアが一歩外に出る。

朝陽に、アリシアは目を細めた。扉の先は家々が並び、石畳が広がっていた。


「いってらっしゃい」


いつも通り、玄関の外まで見送り手を振る。

ノアは驚いたように目を丸め、嬉しそうに笑った。手を振り返され、アリシアは首を傾げる。


「変なノア」


いつもの事なのに、まるで初めての事のような反応だ。いつもこうやって、ノアを見送っているのに。


(あれ?いつもって…いつから?)


―…刹那、ズキンッと頭が痛む。


「ッ…な、に…」


視界が歪む程の頭痛に、アリシアはふらつきながら家の中へと戻って行った。

ぱたん、と力無くドアを閉じると、少しだけ頭痛が和らいだ。

息を吐き、ズルズルと扉に背を預けて座り込む。一時的なものだろうか。少しずつ頭痛は落ち着いてきたが、何だか体が重く、だるい。


「…とりあえず、少し横になろうかしら…」


アリシアはフルフルと首を横に振り、ゆっくりとした足取りで自室へと向かった。


****


「…ん、」


冷たい感触を額に感じ、アリシアはゆっくりと目を開けた。

ぼやけた視界で、その冷たい感触が人の手だと分かった。

ようやく自分が寝ていたのだと気が付いて、体を起こす。少し頭が痛んだ。


「ごめんなさいレオン、私少し眠っ、て…、」


自分の言葉に、一番自分が驚いた。

見れば、ノアがアリシアの額に触れた手を行き場なく彷徨わせ、大きく目を見開いている。


「…あれ、私…レオンって、誰かしら」


自然と零れた名前を、もう一度口にする。

―…瞬間、視界に火花が散る。

突如襲ってきた頭痛に耐え切れず、アリシアは呻くような声を出した。


「アリシア!」


アリシアが頭を押さえてうずくまる。


「ご、めんなさい、私、なんだか、体調が優れなくて…」


冷汗を流すほどの頭痛を耐え、その言葉だけを絞り出した。

頭を手で押さえていないと、痛みで頭が割れそうだった。


「………すまない、アリシア」


罪悪感を滲ませた苦い表情で、ぽつりと小さく呟いた。

頭痛も相まってノアの言葉が上手く聞き取れない。

視線を落とし、眉根を寄せた姿はあまりにも弱々しかった。いつも大人の彼が珍しく見せる弱った姿。

その原因が自分の頭痛なのであれば、取るべき行動は一つだと思った。

―…視界が歪むほどの痛みを耐え、頭を押さえていた手を離した。

そうして、口元にゆっくりと笑顔を貼りつける。

…冷汗は隠せていない、無理をした笑顔だ。


「ふふ、ノアって、時々私より子どもみたいなんだから」


アリシアがノアの頭を優しく撫でると、ノアは大きく丸めた目を、ゆっくりと笑顔に変えた。その表情は照れたような、嬉しそうな、或はその両方だ。


「…これでも俺は、君より随分長く生きているんだけどね」


「じゃあ精神年齢は私の方が上ね」


指先でノアの髪の毛をいじって、アリシアは悪戯っぽく笑って見せた。


「…ずるいなぁ、アリシアは」


「あら、そうかしら」


アリシアは勝ち誇った顔で、ふふん、と笑う。

珍しくノアが照れている。ノアの反応に、アリシアは満足げだ。


「それじゃ、夕飯を作って来るよ」


小さく笑ながら、ノアが仕返しとばかりにアリシアの頭をポンポンと撫でる。

そうして、部屋から出て行った。先ほどの穏やかな時間が嘘のように、一気に静寂が訪れる。


「心配性ね、ノアは」


先ほどまで彼の髪の毛を弄っていた右手を見つめる。

ずきん、と頭が痛んだ。視界が歪み、―…一瞬、その薬指に指輪が見えた。


「えっ」


アリシアが驚き、もう一度見た時には、当然そこには何もなかった。

当然だ。指輪など、している筈が無いのだから。

アリシアは自分の手の表と裏を交互に見ながら首を傾げる。

脈打つように頭痛の余韻が襲ってきた。

アリシアは手から視線を逸らし、頭痛を耐えるように目を伏せた。


***


「…それじゃあ行って来るけど、アリシア、本当に体調は大丈夫?」


次の日。いつも通り仕事に出かけるノアを玄関先で見送っていたアリシアだが、この玄関に辿り着くまでにその質問を10回は投げかけられた。いい加減嫌気が差したアリシアが苦笑交じりにぐいっとノアの背を押す。


「あーもう、大丈夫だから、行ってらっしゃい」


「…心配だなぁ」


「大丈夫だって。今日は本当に頭痛は無いし」


ノアが、じとっと疑うように見つめてくるので、アリシアはこれでもか、と言わんばかりの笑顔を見せた。

アリシアの全身の元気アピールが効いたのか、ノアは渋々と頷いた。


「…分かった。じゃあ行って来るけど、くれぐれも無茶はしないようにね」


「はいはい、分かったわよ。ノアも気を付けてね」


アリシアが手を振ると、ノアがゆっくりと歩きだす。

何度も振り返りながら、小さくなっていくノアの背中を見送り、アリシアは息をついた。


(さて、今日は昨日出来なかった家事もしてしまわないとね)


無理はするなと言われているが意気込んで、アリシアは家の中に入って行った。

今日は天気が良い。洗濯ものを干すのには最適だ。


****


洗濯を終えたアリシアは、続けて掃除へと移った。

てきぱきと無駄のない動きである。窓を一つ一つ開けていくと、温かい風が入りこんで来た。その風と共に、甘い花の香りが鼻をくすぐる。

良い香りだ。花の香りというのは、どうしてこうも気分を高揚させるのだろう。

アリシアは上機嫌で鼻歌交じりに階段を登っていた。

―…その瞬間、だった。


「…え?」


目の前を、キラリとした光が通って行った。

それは一瞬の事で、瞬きの間にアリシアの目の前で輝きは消えた。

目の錯覚だろうか。もしくは窓から差し込む日の光だろうか。

アリシアは首を傾げながら一歩、歩を進めた。


「えっ…」


瞬間、またキラキラとした光が目の前を通る。まるで砂塵のようなそれらはキラキラと光っていて、アリシアを導くように動き、アリシアの目の前で再び消えた。


「な、何なの…?」


幽霊か、何かだろうか。そう思うと、背筋に冷たいモノを感じた。

アリシアがじりじりと後ずさりを始めると、光の一粒が跳ねるように上下した。

まるで、怖くないとアピールするかのように。


「…私を、どこかに連れて行きたいの?」


もう一度、光が上下する。何者かは分からないが肯定しているのは分かった。


(…どうしてかしら、怖い感じがしないわ)


小さな光の砂塵は温かい雰囲気を纏っていて、敵意は感じない。どころか、好意すら感じる。惜しむべくは光の砂塵が形を保てる時間は少ないようで、瞬きの間に消えてしまう事だろうか。


(何だか不思議な事ばかり起こるわね)


先ほどの空もそうだが、目の前でまさに人生で一度体験するかしないかの出来事が起きている。

アリシアは、腹を括った。


「分かったわ、誰だか分からないけど案内してちょうだい」


アリシアの言葉に、光の砂塵がより一層跳ねた。喜んでいるのだろうか。アリシアは思わず笑った。

すると、光の砂塵がザッと音を立てて空中を漂う。一瞬で消えてしまうので、アリシアは慌てて後を追った。

アリシアが付いて来ているのを確認してか、もう一度光の砂塵が姿を現し、空中を漂う。そうして、一つの部屋に光の砂塵がぶつかった。


「…ノアの部屋?」


ノアの部屋だ。木製の扉に似つかわしくない、重厚なドアノブが取りつけられている。アリシアは不思議に思いながらもドアノブを回した。

…が、音を立てるだけでドアが開く気配は無い。


「…駄目。鍵を掛けられてるみたい」


諦めたように溜息を吐くと、光の砂塵がザアッと音を立てて鍵穴に侵入していく。


「えっ、ちょっ」


ドアノブから光が零れる。瞬間、かちゃん、と随分あっさりと鍵が開く音がした。

ご丁寧に、扉まで開けてくれている。

ざぁっと音を立ててアリシアの周りを漂う彼ら(?)に、アリシアはひきつった笑顔を浮かべた。


「…どうも」


礼を言うのは何だか納得がいかないが、アリシアはそう言って少しだけ開いた扉をゆっくりと開いた。


「…初めて、入ったわ」


入ってすぐに、大きな机と椅子が目に入る。背を向けるような形で大きなガラス窓が貼られていて、小さなバルコニーもあった。右側には難しそうな書物が並んだ本棚がある。左側には簡素なベッドだ。

アリシアが物珍しそうにきょろきょろと辺りを見渡すと、アリシアの目の前を光の砂塵が通る。


「あぁ、はいはい、どこに連れて行きたいの?」


何も無い所に話しかけている、こんな姿をノアが見れば卒倒するかもしれない。

想像したアリシアは小さく笑いながら、光の砂塵の後を追った。

光の砂塵が示したのは、入り口の傍にある小さな棚だ。

アリシアが首を傾げると、一番上の棚に光の砂塵がぶつかった。ここを開けろということだ。


「…これも鍵がかかっているみたいだわ」


引っ張るがびくともしない。アリシアがそう言うとすぐさま光の砂塵は鍵穴から入って行った。


(…鮮やかなお手並みね…)


もしこの謎の物体達が泥棒になったのだとしたら、伝説の大泥棒の誕生である。

アリシアが明後日な感動をしている間に、その鍵は開かれた。

光の砂塵がもう一度アリシアの周りを漂う。まるで早く開けろと言わんばかりだ。


「…これ、開けて大丈夫なのかしら。ノアがそこまで隠したいものなら…」


今更ながら、そんな不安が頭を過る。

人は誰もが秘密を持って生きている。何でも話し合える関係、というのは素敵だとは思うが、それでも守られるべきプライバシーと秘密はあると思っている。それを無理に暴きたくはない。

アリシアのそんな考えに抗議するように、光の砂塵が目の前を飛んだり跳ねたりした。


「わ、分かったわよ…とにかく、私に見て欲しいものなのね?」


もしこれがノアの大事な”秘密”であれば、潔く謝ろう。

アリシアはそう決意し、ゆっくりと棚を開けた。


「…何、これ?」


棚の中には、一つの台座が置いてあった。柔らかな布を貼りつけられた台座の上には一つの小さな指輪が鎮座していた。海と空を混ぜたような青の宝石が真ん中に付けられた指輪である。


「…指輪…?」


ケースに入っていない指輪という事は、中古品、もしくはノアが身に着けているものだろうか。だが、どう見ても女性ものだ。アリシアは、一瞬躊躇ったものの、その指輪を―…手に、取った。

上にかざすと、太陽の光を反射してキラキラと青の色が輝く。


「私、どこかでこれを、見た事がある…?」


この既視感は、一体何なのだろう。初めて見る筈なのに、この小さな指輪がどうしようもなく大切な物に思える。


「…ッ」


刹那。頭を鈍器で殴られたような頭痛が襲い、アリシアの体がフラリと揺れた。


(私、どこで、この指輪を…)


歯を食いしばり、頭を押さえ、何とかその場に踏みとどまった。だが非情にも痛みが思考を妨げ、思い返そうとする記憶を封じ込める。


「ぁ、…ッ」


―…痛みの嵐の向こう側に、誰かが立っている。

男の子だ。脳裏に過る彼の姿は掻き消され、顔も、外見すらも分からない、シルエットだけの存在。

だがそれでも彼が脳裏に蘇ると、無性に懐かしいような、恋しさにも似た感情が湧き上がる。何だか無性に胸が締め付けられ、アリシアの目から涙が零れ落ちた。


(…誰…?)


シルエットの彼が、ゆっくりと何かを差し出す。


「ッ!!」


その刹那、ズキンッとより一層頭痛が強まり、耐え切れずその場に崩れ落ちた。

…そうだ。昔、そうやってこの指輪を誰かに貰った気がする。

不器用で、不愛想で、それでも一生懸命気持ちを込めて贈ってくれたプレゼント。


(貴方は、)


思い返そうとするのに、痛みがそれを邪魔をする。

忘れたくない。きちんと、思い出したい。そう思うアリシアとは裏腹に頭痛はより一層酷くなり、

―…あまりの痛みから逃れるように、脳がシャットダウンをした。


***


…頭を、撫でられる感触がする。


「…………すまない」


小さく震える声。額に、冷たい手が触れた。その感触でアリシアはようやく意識が浮上するのを感じた。

目を開ける。すると、額に手を振れたまま心配そうな視線を向けるノアが居た。


「…アリシア」


「……ノア、ごめんなさい、私また、倒れたのね」


寝起きのぼんやりとした思考のままポツリと言葉を零した。

するとノアは額に触れていた手で、アリシアの頭をゆっくりと撫でた。


「いいんだよ。俺の部屋で倒れて居るのを見た時は、肝を冷やしたけどね」


「…あぁ、そうだったわね、私、貴方の部屋で…、」


そこまで言って、アリシアはぼんやりとした様子でベッドの天蓋を見つめた。


「…あれ?私、貴方の部屋で何をしていたのかしら」


記憶がすっぽりと抜け落ちたように、思い出せない。確か、そうだ。ノアを見送った所までは覚えている。その後にリビングの部屋の窓を開けて、それから、どうしたのだろうか。


「掃除をしてくれていたんじゃないかな。掃除道具が出してあったから」


「あぁ、そうね」


ようやく合点がいった。アリシアは納得したように頷き、ゆっくりと体を起こす。その背中をノアの大きな手の平が支えてくれたので、随分楽に体を起こせた。


「大丈夫かい?少し、記憶が混濁しているようだけど」


「えぇ、平気よ。心配かけてごめんなさい」


「調子の悪い時ぐらい、誰にでもあるよ。

今日は軽めの夕食にして、早めに寝た方がいいだろうね」


ノアが優しく笑って、その手の平がアリシアの頭を撫でる。

彼の手の平は温かく、心地よい。思わずアリシアの頬が緩んだ。


「ノアの手って不思議だわ。さっき、私が寝ている時に撫でてくれたでしょう?

そのお陰か、何だか凄く体の調子が良くなった気がするの」


「……そう。それは、良かった」


ノアの笑顔が、ぎこちなく歪んだ。

その事にアリシアが首を傾げる間もなく、彼が立ち上がる。


「それじゃ、夕飯を作って来るから。君はココで待っていて」


「えっ、私本当にもう平気、」


「平気な人は倒れたりしないよ。今日は本当に安静にしていて」


「う…」


ノアの言う事はもっともだ。誰であっても心配するには充分すぎるほどの状況だ。


「分かった。ごめんね、ノア」


「…いいや、君が謝る必要はないよ」


ノアはそう言って、また複雑そうな笑顔を浮かべた。口元は笑っているが、どことなく悲しげに見える。

何が彼をそんな表情にさせているのか、アリシアは分からなかった。


「それじゃ、作って来るから大人しく待っているんだよ」


そう言って、ノアは少し足早に部屋を後にした。


「…どうしたのかしらノア」


アリシアが小さく首を傾げる。ノアの様子がおかしい事は分かるが、その原因までは分からない。だが、冷静に鑑みれば同居人が倒れたのだ。彼が心配し、元気を無くすのも当然だろう。

―…ぐっと背伸びをする。体は軽かった。やはりノアに頭を撫でてもらったからだろうか。


「それにしても何でノアの部屋に居たのかしら」


いくら同居をしているとはいえプライバシーは守られるべきだとアリシアは思っている。ノアが頼んだのならともかく、自分の意志で人の部屋に勝手に侵入することなど有り得るのだろうか。どうにも自分らしくない行動にアリシアは首を傾げた。


「私、何だか、大切な事を忘れているような…」


忘れてはいけない、忘れたくないモノ。その大事なモノを忘れ、何だか胸にぽっかりと穴が空いたような気さえする。…ぽすん、と枕に頭をつけ見上げた。


(…駄目だわ。倒れる前の記憶がまるで思い出せない)


しっかりと蓋をされてしまった記憶は、アリシアの力ではとてもこじ開けられそうになかった。きっとその蓋の内側にアリシアの大切なモノはある筈なのだ。

あるのかないのか分からない不確かな記憶。それを探してみよう。そうすればこのぽっかりと空いた心の穴を埋め、きっと体調も元に戻るだろう。

アリシアはそう心に決め、より一層強く拳を握りしめた。


****


「今日は私、少し外出してみようと思うの」


翌朝。朝食を食べながらアリシアが言うと、ノアはピタリとスープを飲む手を止め、驚いたようにアリシアを見た。


「…何で?」


「えっ、」


ノアの表情に変化は無いが、声のトーンが少し低い。

空気も少しピリついたように感じる。怒っているのだと、すぐに分かった。


「その、ここ数日私の体調おかしいでしょう?

だから、気分転換で少し外を散歩して気分を入れ替えようかなって」


焦ったせいか妙に早口になってしまった。さすがに、有るか無いかも分からないような『記憶探しの旅に行ってきます!』などとは口が裂けても言えない。とうとう頭までおかしくなったと思われかねないだろう。


「駄目だ」


だが、アリシアのそんな努力も空しくノアが強めの口調でその申し出を却下した。


「君は昨日倒れたばかりだ。そんな人が外を歩くなんて正気じゃないよ」


「きょ、今日は全然元気だし。

それに、食材も無くなってきたからついでに買い出しもしときたいし」


「それなら俺が買って来るよ」


「そうじゃなくて、私、外に出たいのよ」


「外に出るだけなら庭先でも出来るだろう」


ノアの言葉が、アリシアの言葉を全て握り潰す。

その表情はいつもと違いつもとまるで様子が違うノアに戸惑いながらも、アリシアは一生懸命嘆願した。


「ちょっと外に出るだけよ。別に旅行に行くって訳じゃないんだから、いいでしょう?」


「駄目だ!!」


怒りと共に叩いた机の振動で、食器がカチャン、と大きく跳ねた。

怒気を含んだ声が大きく反響し、アリシアの鼓膜をびりびりと揺さぶる。


「…ノ、ノア…?」


ノアの怒ったところを、初めて見た。アリシアは恐怖と緊張、どちらともつかない感情を胸に宿しながら、恐る恐る言葉を口にする。すると、ノアがハッとした様子でアリシアを見た。


「…ッ」


ようやく自分が怒鳴ったという事実に気が付いたノアは、戸惑ったように視線を彷徨わせ、静かに俯く。


「…」


「…」


2人の間に気まずい沈黙が流れた。

どんな言葉を掛けて良いのか分からず、アリシアは口を開いたものの、すぐに閉じて同じく俯いた。


「…すまないアリシア」


やがてポツリと、ノアが小さな声を零す。


「う、ううん」


いつものノアに戻ってくれたことにホッとしながら、アリシアはようやく自分の手が恐怖でひんやりと冷えていたことに気が付いた。だがその事を悟られないように、アリシアはぎこちなく笑みを浮かべた。


「私の方こそごめんなさい。ノアに心配をかけているのは分かっているのに」


「いいや、今のは俺が全面的に悪いんだ」


そう言って、アリシアの冷えた手を取った。

…彼の手も、同じぐらいひんやりと冷たかった。


「許してくれ、とは言わない。ただ、分かってほしいんだ。

俺は本当に君の事が大切なんだって事を」


その贖罪が何に向けられたものなのか。彼の瞳はアリシアを見ているようで、その実、アリシアの奥にある何かに語り掛けているかのようだった。ノアは時々、こういう表情をする。まるで途方に暮れた迷子の子供のような瞳だ。

アリシアはゆっくりと、口元に笑顔を広げた。


「…ふふ、少し口論になったぐらいで大げさよノア」


「アリシア…」


ノアは驚いたように目を見開き、そうしてギュっとアリシアの手を握りしめた。やがて、名残惜しさを断ち切るようにスッと手を離す。


「…そろそろ行かなきゃ」


「あっ、もうそんな時間なのね」


アリシアは柱時計を見て、慌てて立ち上がった。

玄関へ向かうノアの後ろをついて歩く。ノアがゆっくりと振り返った。


「…それじゃあ、行って来るよ」


そう言ってぎこちない、寂し気な笑顔を浮かべる。

だがアリシアは努めていつも通りに、笑顔を浮かべた。


「うん、行ってらっしゃい」


満面の笑みにノアは一瞬驚いたものの、すぐにまた悲し気な微笑を口元に浮かべながらゆっくりと玄関のドアを開けていく。…今日は珍しく振り返りもせず、数分の内にノアの背中は小さくなっていった。

それを見送り、アリシアは玄関の扉を閉めて小さく溜息をついた。


(まさか、あんなに反対されるなんて…)


だがノアの言い分は道理が通っている。昨日倒れた人間が外に出るというのだ。怒って当然と言うべき愚行である。


(でもきっと、私は大切な何かを忘れているわ)


それが何なのか、誰の事か、或はどんな物なのかは分からない。だが昨日倒れてからずっと虚無感に襲われている。きっとそれを見つけ出すまではモヤモヤとした気持ちを抱えたままだろう。


(…でも、ノアに止められているしなぁ)


玄関のドアを見つめる。たった扉一枚を隔てた向こう側には外の世界がある。だが先ほどのノアの反応を見ると、どうしてもドアを開ける勇気は持てなかった。

小さく溜息を零す。数日体調の様子を見て、そうしてまたノアに言ってみよう。アリシアはそう思い直し、リビングに向かった。―…その刹那。


「きゃっ」


目の前に、キラキラと光る砂塵のようなモノが飛び跳ねた。

だがそれは一瞬ですぐに消え去る。


「え、何、今の…」


とうとう幻覚まで見え出したのか、とアリシアは、げんなりとした表情を見せた。もう一度小さく溜息を零し、リビングへ向かおうと足を進める。だがそれをまるで阻むように光の砂塵が飛び跳ねた。


「な、何なの…」


アリシアが不審げな声を出し、じりじりと後ずさる。

すると、光の砂塵はすいっとアリシアの目の前を流れた。思わずアリシアはその後を目で追う。

光の砂塵は消えたり現れたりを繰り返しながら、玄関の扉にぶつかって消えた。


「………外に、出ろって言っているの…?」


アリシアが恐る恐る言葉にすると、光の砂塵がピョンッと跳ねて消えた。

何だか悪い夢でも見ているような気分である。とうとう、精神的に参ってしまったのか。何だかまた眩暈を感じてアリシアは頭を押さえた。


「駄目よ、ノアから止められているんだから」


恐らく光の砂塵が居るだろう場所に向かって小さく首を振る。

アリシアは小さく溜息をついてもういちどリビングへ足を向ける…が、やはり光の砂塵が目の前を飛び、阻んだ。


「ちょっと…」


今度は困ったような溜息が零れる。


(でも、不思議と怖い感じはしないのよね…)


本来であればポルターガイストだと騒がれても仕方が無い現象だ。だが何故だかアリシアは落ち着いていた。

それどころか、この光景に既視感を覚えていた。


「…これってデジャヴってやつなのかしら」


そうポツリと呟いてみたが、光の砂塵からの反応は無かった。

アリシアはもう一度小さく溜息を吐き、観念したように頷いた。


「分かったわ。外に出かける。その代わり、着替えてくるから待ってて」


そう言うと光の砂塵はピョンっと小さく跳ね、了承の意を示した。

何とも不思議な光景だ。やはり自分の頭がおかしくなったのでは、と疑わない訳では無いが、アリシアはとりあえず自室へ戻る為に歩を進めたのだった。


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