第7話 月夜の舞踏会

あの事件から1か月近くが経った。

マリアとエリザベスにはあれから会っていない。

ユリウスからたまに様子を聞くが、驚くぐらい大人しくなったと言っていた。

恐らく、偶然が続かない限り、学年が違う彼女達に会う事はもう無いだろう。

今度こそ、彼女達の人生を謳歌し、幸せになってほしいと、アリシアは思った。

―…そうして季節が過ぎ、初夏を迎えようとしていた時だった。


「そういえばもうすぐ舞踏祭だけど、アリシアは相手決まったの?」


「えっ」


いつも通り食堂で食事を済ませたアリシアに、ユリウスが首を傾げて尋ねた。

その驚いた顔に、ユリウスが苦笑を零す。


「…まさかだけど、忘れていたとか言わないよね?もう来週だよ?」


「う、うふふ…」


アリシアが笑って誤魔化す。

舞踏祭とは、いわゆるダンスパーティーである。

とは言え、紳士淑女としての振る舞いが試される場で、社交ダンスや立食パーティーを優雅に楽しむものだ。

毎年この初夏の時期と、冬の時期、二回に分けられて舞踏祭がある。

この舞踏祭もテストのようなものなので、紳士淑女の振る舞いが出来なければ減点され、後々の成績に響くという恐ろしいパーティーだ。

既にそのマナーをたたき込まれている貴族の方々にとっては、普段は話せない意中の人と話せるチャンスである。

中でも、入場時に女性はエスコート役の男性を必ず必要とされている。

入場時の相手の家柄やルックスは、女性の価値と同義だ。

故に、この時期は女性たちがギラギラとした目で相手を探している。


「…え、本当に決まってなかったの?」


ユリウスが驚いたように言うと、アリシアは「うっ」と言葉に詰まった。

すると、ユリウスが嬉しそうに微笑む。その頬が、ほんのりと赤い気がする。アリシアは小さく首を傾げた。ユリウスはいつもと違い少し緊張しているようだった。


「…も、もし、良ければ、なんだけど…俺と、」


「おーっと、肘が滑った」


「ごふっ」


隣に座っていたルーカスの肘が、ユリウスの腹に命中する。

悶絶するユリウスを尻目に、ルーカスはコーヒーを優雅に口に運んでいる。


「ごほっ、な、何するんだよルーカス…!」


「いやぁ肘が滑ってね」


「肘が滑るなんて有り得ないだろ!」


子どものような言い合いを繰り広げるのを、アリシアは呆れたような目で見た。

彼らの言い争いを聞くのは最早日常茶飯事である。

そこでふと、サラが沈んだ表情をしているのに気が付いた。


「どうしたの、サラ」


「………私、アリシアちゃんがいいなぁエスコート役」


「えっ」


ポツリとつぶやかれた言葉に、アリシアがぎょっとする。


「い、いやぁ、それは、どうだろう…」


女性同士で入場した例は無い。というか、恐らくは大減点だ。確かにサラと入場して踊れば絶対に楽しいという確信はあるが。


「アリシア」


「ん?」


ようやく言い合いが終わったのか、ルーカスがアリシアに声を掛けて来た。

だがアリシアは見て、ぎょっとした。

また『肘が滑った』のか、ユリウスが悶絶している。


(あ、言い合いが終わったんじゃなくて、”終わらせた”のね…)


そうとは思えない綺麗な笑顔に、アリシアの顔が引きつる。


「僕にエスコートさせてもらえない?」


「…は?」


アリシアがぽかんと口を開ける。ルーカスの顔は至って真剣である。


「え、いや…」


アリシアはサラとルーカスを交互に見て、


「いやいやいや申し込む相手間違っているでしょ…!」


びしぃっと大阪人ばりのツッコミを披露した。


****


その後も、尚も食い下がってきたルーカスだが、アリシアは相手にせず食堂を後にした。教室に向かうアリシアの後ろを、レオンが黙って歩く。


「ルーカスは本当に時々面白くない冗談を言うわよね」


同意を求めるが、レオンからの返答は無い。

振り向けば、レオンはいつの間にか足を止めていた。


「えっレオン、どうしたの?どこか具合でも悪い?」


レオンの表情が暗い。足を止めるなどよっぽどの事なのだろう。

アリシアが駆け寄り、彼の顔を覗き込む。呆然としていたレオンの目が、アリシアに向けられる。綺麗なブルーの瞳が、アリシアの瞳を捕らえた。


―…アリシアの胸が、トクン、と脈打つ。


(…あ、あれ?)


その感覚は、この”エル”のゲームをしていた時に、何度か感じたものに似ている。

いや、そういう疑似的なものとは少し違う。そう思えば思うほど、トクン、トクンと、脈が早まっていった。レオンの目も、心なしかいつもと違う気がする。

熱のこもった眼差しから目線を外す事も出来ず、ただ、その綺麗な瞳に魅入った。


「…」


レオンの口が、ゆっくりと開く。

アリシアの心臓が、より一層高鳴った。



―…瞬間。


「あっあのっ、ヴェンクハイム様ッ」


可愛らしい女性の声が二人の間に割って入った。

アリシアが勢いよくレオンから離れる。何だか悪い事をしていた訳でもないのに、気まずい。顔が熱くなるのを感じた。2人を見た女性が、ぽかんと口を開ける。


「…何か」


鉄仮面は表情を崩すことなく言う。


「あ、あのっ…少しお話が…」


「…」


「こ、ここでは話しづらいので、付いて来て頂けませんか…?」


真っ赤な顔をした彼女を見て、アリシアはピンと来た。

迷惑そうな顔をしているレオンを肘で突く。


「行って来なさいよ、レオン」


「…」


「そんな顔しません」


いつもは鉄仮面のくせに、眉根を寄せて、嫌そうな顔を見せる。

アリシアがレオンを窘めると、レオンは渋々彼女に従って歩いて行った。


(多分告白か、エスコート役の申し込みよね)


ふふ、と口元を緩ませる。幼馴染の恋路を応援するのは楽しい。


「…楽しい、筈…」


アリシアの表情に、陰が落ちる。

応援してあげたいと思うのに、何だか心の中がモヤモヤとした。

ふぅ、と小さく溜息を零す。


(なんかさっきから、おかしいわ)


ふるふると首を振り、ふと、窓から外を見下ろした。

丁度外は校門が見える。


「…ん…?」


そこに、見知った後姿があった。

校門の外をじっと見つめているその男は、蜂蜜色の髪の毛を綺麗にセットし、初夏だと言うのに羽織った黒いコートは彼の体格によく合った。


(…ノア…?)


そんな訳が無いと思いつつも、アリシアは思わず食い入るように見つめてしまった。

ノアであれば、森からは出られない筈だ。

だが、彼以外には見えないほど、その背格好はよく似ている。


「…アリシア様?」


時間を忘れてその姿を見ていると、レオンから声を掛けられた。


「…まだここにいらっしゃったんですか?」


「えっレオン、彼女は?」


「彼女の用事はもう終わりました」


あまりに短時間だったので、アリシアは思わずポカンとしてしまった。

そして、はっとしてもう一度窓の外を見るが、そこに彼の姿は無かった。


(…気のせい…?)


入学早々色々あったせいで、疲れているのだろうか。

アリシアは小さく首を傾げながら、教室へ向かって再度歩き出した。


****


(…来ちゃった…)


その日の放課後。

『用事があるから』とレオンに先に帰ってもらい、アリシアは森の中のノアの家に来ていた。今日もこの森は、アリシアを歓迎してくれている。


(…別にノアを疑っている訳じゃないわよ。今日来たのは、そう、色々報告したいこともあるし…)


玄関の扉の前で、心の中でブツブツと言い訳を繰り返す。

ドアノブを握ろうと出された手は行き場を無くし、右往左往していた。

その瞬間。


「ははっ、今度はどんな遊びだい、アリシア」


笑い声が、後ろから響いた。


「ノア!」


シャツを腕まくりしたノアが、楽しそうに笑っていた。

彼のシャツには少し泥がついている。

こういう時、彼が何をしていたかはすぐに分かった。


「また畑作ってたの?」


「あぁ、今回は良い調子だ。豊作だよ」


ノアはこの家の裏に、小さな家庭菜園を作っている。

程よく日が当たるその場所は、毎回驚くほどに野菜が取れる。


「とりあえずよく来たね。ココアでも入れようか」


「う、うん」


玄関のドアを開け、いつものようにアリシアを受け入れる。

アリシアもそれに従って歩いた。


「…はい、どうぞ」


手を洗い、すっかりいつものノアに戻った彼は、ココアを入れて、アリシアの前に置いた。自分はコーヒーカップを片手に、いつも通り席につく。


「今日はどうしたんだい、アリシア」


「あー、うん、色々…あっ、サラの件はありがとう。無事解決したわ」


「そう、良かったね」


(相変わらずサラに興味ないなぁ)


冷めた反応に、アリシアは苦笑した。


「それより、もうすぐ舞踏祭だろう?」


「あっそうだった…!」


「えっ、もしかして忘れてたの?来週だよ?」


「うわ、そのセリフ、デジャヴだわ…」


ユリウスに言われたばかりだと言うのに、すっかり忘れていた。


「忘れてた…。ドレス取り寄せないといけないわ」


いつもなら、屋敷から何着か送ってもらっているのだが、

今回は何しろ来週に控えている。急いで手紙を送り、それを両親が確認して急いで手配したとしても、数日は掛かる。間に合うかは微妙な所である。

アリシアが焦っていると、ノアはクスクスと楽しそうに笑った。


「良かったら、俺からプレゼントさせてくれないか?」


「えっ」


「これでも俺、物を作る能力を持っているし」


確かに、材料と彼の力があれば、一瞬で出来上がるだろう。

アリシアは一瞬助かったような表情を見せた後、まるで自分を戒めるようにフルフルと首を横に振る。


「…いやいや、駄目よ。ノアはただでさえ忙しいんだから、迷惑かけられないわ」


「気にしないでいいよ。俺が、アリシアにプレゼントしたいんだ」


まるで少女漫画のようなセリフに、アリシアは思わずむず痒い気持ちを抱く。

あぁそうだ、これは乙女ゲームの世界だった、と再認識した瞬間だった。


「…本当に、その言葉に甘えていいのかしら」


確かめるようにそう言って、じっとノアを見つめる。

するとノアは喉を鳴らして笑った。


「アリシアは真面目だな。俺にかかれば、ドレス作りなんて朝飯前だよ」


(確かに…)


聞く人間が聞けば、何とも嫌味な発言である。通常のモノを作る能力の持ち主より、ノアの力は別格だ。”無”から”有”を生み出すのは容易い事ではない。本来であれば図面に描き起こし厳密に計算した後に作り上げるのが普通だ。だがノアはそれをしない。彼の想像力さえあれば、製作の可能性は無限大なのだ。

だからこそ、この国の上層部から重宝されているのだろう。そんな国の秘蔵っ子のようなノアに甘えるのは心苦しいが、背に腹は代えられない。


「…じゃあ、お願いしてもいい?」


「うん、腕によりをかけて作るから待っていて。明後日には仕上げるよ」


今はノアがキラキラと輝いて見える。

何だか拝みたい心境になったが、それはやめておいた。


「それよりアリシア、そろそろ帰った方がいいんじゃないかな」


ノアが懐中時計を取り出し、コーヒーを飲みながら言う。


「えっ、もうそんな時間?」


「そうだね、今急げば寮の門限には間に合うかな?」


「やばっ…!」


アリシアが慌ててココアを飲み干す。

申し訳ないと思いながらも、カップをその場に置き、急いで立ち上がる。


「じゃあノアっ」


そこまで言って、ハッとした。

ノアが笑顔で首を傾げる。


『ノア、さっき校門前に居た?』


これを聞くべきか、アリシアは悩んだ。

だが聞いてしまえば、ノアがこの森から出られないという事実をもう一度突きつけることになるかもしれない。


「どうしたの?」


「…っううん、何でもない。じゃあまた今週末に来るね」


「あぁ、気を付けてお帰り」


ひらひらと手を振るノアに背を向け、アリシアは歩きだす。


(…ノアの事だから、もし呪いが解けたなら、教えてくれるはずだわ)


ノアの事を、信じている。だからこそ、アリシアは言葉にしなかった。

少し軽くなった心で、より薄暗くなった森を駆け抜けた。


****


―…舞踏祭当日。


(何とか間に合って良かったわ…)


アリシアは自分の部屋のドレッサー前で、小さく溜息を零した。

ノアに依頼したドレスは大人っぽく青を基調とした色はアリシアの黒髪とよくマッチした。まるで夜空の瞬きのように、時折色が混ざり合い変化する不思議なドレスだ。惜しむべくは両肩を出したノースリーブ仕様な所だろうか。少し恥ずかしい。


(後でノアに見せに行こう)


この衣装を受け取りに行った時、『着て見せて』と言われたが、恥ずかしくて断ってしまった。だが今は舞踏祭本番なので、恥ずかしさは半減されている気がする。


(…うん、自分で久々に化粧したけど、大丈夫でしょう)


鏡で自分の顔を確認する。

本来であれば、ソフィアに来てもらうのだが、今回は何しろ本当に時間が無かった。だが勘は鈍っていなかったようで自分で化粧をしてもそう悪い出来ではない。

やはりどんな時でも女性は、メイクをして綺麗な服を着るとテンションが上がるものである。


(よし、行きますか)


そう意気込んで、はっとした。そう言えば、エスコート役をすっかり忘れていた。

ルーカスとユリウスは連日誘ってはくれたが、サラがいるのに攻略対象キャラと一緒に行くなど出来ないと思い、丁重に断った。

そのサラからも、何度も一緒に入場しようと誘われたのだが。

攻略対象キャラには見向きもせず、アリシアを誘うサラが不思議だった。


(…友情エンディングとかあったかしら?)


首を傾げる。乙女ゲームでは時折、恋愛ルートには背を向け、ライバルキャラや、親友と友情を育むエンディングが存在する。


(まぁいいわ。それよりも、問題は私のエスコートをしてくれる相手よね)


当日に探した所で見つから無い事は分かっていた。


(レオンは、あの子の所だろうし…)


レオンに声を掛けてきた彼女を思い出す。とても可愛らしい少女だった。華奢で、仕草一つ一つが繊細な、まさしく貴族の令嬢だった。

あぁいう女性を、きっと男の人は”守りたい”と思うのだろう。


(……レオンもきっと、あぁいう女の子の方がいいわよね)


―…何だか、モヤモヤとしてきた。

何故だか分からないが、気分が落ち込んできている気がする。

アリシアは首を振ってそのモヤモヤを振り切ると、勢いよく立ち上がった。


「よしっ、」


この際、一人であっても、問題は無いだろう。いや、問題は大ありだが。

だが恐らくはアリシアが一人で堂々と入場したところで、暗黙の了解で誰もが見知らぬふりをする事だろう。アリシアは一度ぎゅっと目を伏せ気持ちを入れ替える。

そうして覚悟を決めた。

会場で、レオンがあの女の子をエスコートをしていても笑顔で祝福出来るように。

チリ、とまた胸が焼けるような想いを振り払いアリシアはゆっくりと扉を開いた。


「―…随分遅かったですね」


「わぁっ!」


ドアを開けた瞬間、丁度考えていた人物の顔が視界に入り、アリシアは思い切り仰け反った。すると、ヒールがバランスを崩し、かくん、と足が揺れる。

思わず後ろに転びそうになるのを、レオンの腕が支えた。


「…何やっているんですか」


レオンが呆れたように溜息を零し、アリシアの体勢を元に戻す。


「ご、ごめん…、…ってそうじゃない!何でここに居るのよ、レオン!」


「はい?」


レオンが訳が分からないと言いたげに眉根を寄せた。

だが眉根を寄せたいのはこちらの方だ。


「ここ、女子寮でしょ!」


「許可は頂きました」


と言って、レオンは羊皮紙に記入された許可証をさっと取り出した。

どう手続きを取ったのかは分からないが、確かに学園長のものであろうサインがされている。アリシアは一瞬唖然としたものの、すぐにハッとして顔をあげた。


「えっ、あの女の子は?エスコートをお願いされてたんじゃないの?」


「何で知っているんですか?」


「いや赤ん坊でも気が付くわよ…!」


アリシアがそう言うと、レオンは更に不思議そうに首を傾げる。

そうして、鉄仮面はいつも通りの無表情で淡々と告げた。


「丁重にお断りしました」


「えっ何でっ?」


「…」


レオンが、眉根を寄せる。

少し拗ねたような表情が珍しくて、思わずまじまじと見つめてしまった。


「……貴女と、一緒に行きたかったからです」


やがて、小さな沈黙の後、レオンが観念したように、ぽつりと呟いた。


「…え…?」


アリシアが、ぽかんと口を開ける。するとレオンは恥ずかしそうに視線を逸らし、顔もふいっと背けた。珍しく、彼の頬がほんのりと赤い。


(私、最近おかしいわ…)


早鐘を打つ鼓動と同時に、頬が一気に熱くなる。

レオンの顔が見れずに、アリシアも俯いてしまった。


「……それより、約束されているんでしょう?」


2人の間に流れる妙な空気を断ち切るように、レオンがそう切り出す。


「約束?」


アリシアが首を傾げる。

するとレオンはいつもの鉄仮面に戻り、今度はレオンが首を傾げた。


「…? ルーカス殿下がエスコート役になると、約束されているんでしょう?」


「はっ?」


「え?」


アリシアとレオンが互いに首を傾げる。

今度は先ほどとは違う沈黙が二人を包んだ。


「……えーと、私、ルーカスからの誘いは丁重にお断りしました」


「…え…?」


アリシアが言いづらそうにそう言うと、レオンが心底驚いたように目を丸めた。


(そんなに驚かなくても…)


婚約者になっていれば話は別だろうが、今回は婚約を果たしてはいない。

ルーカスは王子だ。そんな彼に、公爵家とはいえ、一介の貴族であるアリシアのエスコート役など、本来は有り得ないのである。ゲームであればアリシアのエスコート役をルーカスが担い、それを見たサラが現実を突きつけられて凹むという在り来たりなイベントなのだが。

だが今回はそんな嫌がらせをするつもりも、その必要性もないのだ。


「……てっきり、ルーカス殿下と、約束をされているのかと思いました…」


「してないわよ。ちなみに今までエスコート役の事をすっかり忘れていました」


ふん、と鼻を鳴らして堂々と言ってのけるアリシアを見て小さく口元を緩ませる。


「…アリシア様らしいです」


「それ、どういう意味よ」


アリシアがむっとした表情を見せる。

レオンは反して珍しく穏やかな表情を見せ、緩く首を振った。


「…いえ。ですが、困りました。

殿下の元にアリシア様をお送りしようと思っていたのですが…」


「…えっ、それだけの為にここで待っていたの?」


「はい」


一緒に舞踏祭に参加するのではなく、エスコート役のルーカスの元に送る為に、ここで待っていたのかと思うと、アリシアは目を丸めるしかなかった。

レオンは何がおかしいのか、まるで分っていないような表情である。だが普通は、入寮許可をわざわざ取ってまで、その一瞬の時間の為だけに待たないだろう。

彼の騎士としての忠誠心が成せる事なのかは分からないが、きっと言葉にしたところで彼には伝わらない事だけは分かっていた。


「…レオンって、ホンット、時々やることが過激だわ…」


「そうですか?」


アリシアは頭を押さえる。鉄仮面は尚の事、分っていない顔で首を傾げていた。

―…だがまぁ、嬉しくない、と言えば嘘になる。


(…というか、凄く、嬉しいんだけどね)


アリシアの頬が、もう一度ほんのりと赤く染まる。

あの可愛らしい女の子では無く、自分を選んでくれたことが、素直に嬉しい。

レオンの行動は時々明後日な方向に向かってはいるが、それもこれも全部アリシアの為だ。アリシアの頬が、思わず緩んだ。


「レオン」


アリシアが右手を差し出す。

その人差し指には、レオンから貰った指輪が光っている。

海を閉じ込めたようなこの指輪は、数年経っても尚、美しく輝いていた。


「…?なんですか?」


レオンが不思議そうにアリシアの手を見る。

思わずイラっときた。


「もう、察しが悪いわね。エスコートよ、エスコート」


「…………俺で、いいんですか?」


僅かな沈黙の後、レオンが大きく、目を丸める。

青の目が、より多く光を浴び、きらめいていた。


(…やっぱり、この指輪と同じ色だわ)


レオンの瞳も、数年前と変わらず美しく、アリシアを真っ直ぐに見つめてくれる。

恐れずに真っ直ぐに見てくれるだけで、嬉しかった。


「少し違うわね。レオンが、いいのよ」


アリシアはレオンの発言をやんわりと否定しながら、照れくさそうに笑った。

そして、右手をプラプラと振る。


「もう、いつまでレディを待たせるの?」


「…レディは、驚いたぐらいで仰け反りませんが」


「し、失礼ね…!少し驚いただけじゃない」


レオンの憎まれ口に、アリシアが少し恥ずかしそうに反論する。

すると、レオンは、ふ、と口元を緩ませた。


「いいですよ、どれぐらい驚いたって。

例え転びそうになっても、俺が何度だって助けますから」


そう言って、アリシアの手を取る。

その動作は優雅で、一つ一つが優しい。

触れられた箇所から、ほんわりとした温かさを感じた。


「…うん、ありがとう、レオン」


アリシアが頬を緩めると、レオンもつられるように、少しだけ笑った。


「行きましょうか」


「うん」


エスコートするレオンと腕を組むと、アリシアはゆっくりと歩きだした。


***


「わぁ、凄い人数ね」


入場したアリシアは、ホール全体を見渡した。

驚くほどの人の波に、一度はぐれてしまえば二度と出会えない気さえした。

普段は転移装置などを活用しているので、そんなに人と出会う機会は少ないが、

やはりこの学院の規模は大きいのだと再認識させられる。


「これは、ルーカス達とも会えそうにないわね。何か食べる?

デザートが個人的に気になっているんだけど…」


「…栄養バランス考えて食べてください」


「貴方は私のお母さんか」


「騎士です」


何度繰り返したか分からない問答を繰り返すと、アリシア達は立食が並べられている場所へ向かった。


「わぁ、美味しそう…!」


目の前に規則正しく並べられたケーキは色とりどりで、ケーキというよりは、ショーケースに並べられた宝石である。


「レオン、少し食べてもいい?」


アリシアにキラキラとした視線を向けられ、レオンが一瞬言葉に詰まる。

普段であれば、先ほどのように栄養面云々を語るのだが、レオンは、アリシアに真正面から頼まれると弱いのだ。


「………程々に、ですよ」


「やった!」


子どものようにはしゃぐアリシアに、レオンが小さく苦笑を零した。


「…アリシア様には、何年経っても勝てない気がしますね」


「え?何の話?」


モグモグとケーキを頬張りながら、アリシアが首を傾げる。

無意識だから尚の事たちが悪い。レオンがもう一度、小さく溜息を零した。

―…その瞬間。


「あっ、あのっ、ウォールデン様…!」


数人の女性が、アリシアに声を掛ける。

彼女達とは”前”も今も面識のない人ばかりだった。

だが、アリシアに声を掛けてくる人間はこの学院では少ない。

アリシアはフキンで口元を拭き、彼女達を警戒するように見た。

瞬時にアリシアを守る為に動こうとしたレオンを、視線で制す。


「…何かご用かしら」


そのあからさまに警戒した声音に、彼女達がハッとして小さく頭を下げた。


「あっ、と、突然声を掛けて申し訳ありません」


謝る、ということはこちらに敵意が無いということだろうか。


「あっあのっ…貴女が、サラ・ブラウンを守ったって、本当ですか…?」


予想をしていなかった言葉に、アリシアが怪訝そうに眉根を寄せる。

それが彼女達に何の関係があるのか分からず首を傾げた。


「…それが?」


「そっ、その、…彼女達の行動と言動に傷ついていた子達はたくさん居たんです」


そう言って、彼女達も少し沈んだ表情を見せる。恐らくは彼女達もその当事者なのだろう。サラが受けた嫌がらせほどではないとは言え、エリザベスとマリアの性格を考えれば、周りの人間がどんな扱いを受けていたのか想像は容易い。


「…っでも、ウォールデン様のお陰で、彼女達、心を入れ替えたみたいで…!

それで、その、あのっ、お、お礼を、言いたくて…ッ」


彼女達の手が、震えている。

それはアリシアへの恐怖から来る震えとは、違うように見えた。


「…っありがとうございました、ウォールデン様」


彼女達が、心底嬉しそうに微笑む。その眼に溜まった涙が、光を浴びて煌めいた。


「…」


アリシアが、ぽかんと口を開ける。

レオン達を除いて、この世界で他の人にお礼を言われたのは、初めての経験だ。

一瞬、自分に言われた事なのかすら、認識が出来なかった程である。

完全に思考停止をしたアリシアが、呆然と彼女達を見つめる。


―…すると、パチパチ、と、どこからか拍手が響いた。


アリシアがそれに気づいて音の方向に視線を向ける。

すると拍手は広がり気が付けば周りに居た人間がこちらを見て拍手を送っていた。


(…これ、って…)


誰一人として、アリシアを恐れていない。

それどころか、尊敬の眼差しを向けてくる人すら居た。

優しい眼差しと、温かい空気が、アリシアを包み込む。


―…『見ろよ、あれが…』

―…『あれが”黒姫”か』

―…『近づいたら闇の力で命を吸い取られるらしいぞ』


かつて、そう言って恐れられた記憶が、脳裏を掠める。

だがそれを、拍手が掻き消した。温かい音が、気持ちが、アリシアを満たしていく。この世界に来て初めて、人から、存在する事を許されたような気がした。


「…っ」


無意識にアリシアの涙腺が緩む。

ぽろ、と涙が一粒零れるのと同時に、レオンがすぐさまカバーに入った。

背中でアリシアを庇い、この場に居る誰もがアリシアの涙を目にする隙を与えなかった。


「…申し訳ありません、アリシア様が感極まってしまったようですので、一度この場を離れさせて頂きます」


「レ、レオン…!」


アリシアが恥ずかしそうにレオンの背中をポカッと叩くが、彼には何のダメージも無い。あははっ、と周りから明るい笑い声が響き渡る。


「行きましょう」


「…っ」


言いたい事はいろいろあったが、アリシアはどれも言葉に出来ないほどに混乱していた。レオンがいつもの鉄仮面で、アリシアの手を引く。

恥ずかしさが胸の内で色々な感情とごちゃ混ぜになり、レオンの手に引かれて、その場を後にした。


***


月光が差し込むバルコニーに、人気は無かった。

薔薇が囲むバルコニーには一つの椅子とテーブルが置かれ、舞踏祭に疲れた人間の休憩所となっている。

月明りと、舞踏祭の会場内から漏れてくる光だけではあったが、今日は満月だからかさほど暗さは感じなかった。時折、ダンスパーティーの演奏が聞こえてくる。


「もう、本当に恥ずかしかったんだから…!」


その椅子に座りながら、アリシアがプリプリと怒っている。

レオンは不思議そうに首を傾げながら、向かいの席に座った。


「はぁ、そうですか」


「……レオンに言った私が間違いだったわ…」


アリシアは小さく溜息を零した。この鉄仮面に言った所で、きっと伝わりはしないとアリシアは観念した。その瞬間、小さな夜風が二人の間に舞い込んで来る。

初夏の香りを含んだ風は僅かに舞い上がり、満月へと吸い込まれて行った。

僅かな沈黙。アリシアはまた涙が零れないように、そっと月を見上げながら、ぽつりと口を開いた。


「……人から認められるって、凄く嬉しい事なのね」


その横顔を、レオンがジッと見つめる。


(…そうか、この方は…)


アリシアは幼い頃から、人から恐れられ、嫌われる事を”普通”として生きて来たのである。レオンが物心ついた時には、もう彼女には”黒姫”という不名誉なあだ名が陰で囁かれ、様々な噂が飛び交っていた。その当時、傷ついた彼女の心は、当事者である彼女にしか理解は出来ないだろう。


(…昔は、酷く冷たい目をしていた)


物心ついた時には、アリシアが自分の主になる人だと父親に言われていた。

顔合わせの時には、こちらに見向きもせず表情を変えない彼女を見て、人形のようだと思った事を覚えている。


―…俺は人形を守らなくてはいけないのか。


そんな事を子どもながらに考え、愕然としたものだ。


(…だが、今考えれば当然だ。

アリシア様は、小さい頃から重たい責務を背負わされ、人に絶望していた)


今だからこそ、当時の彼女の心境を想像する事が出来る。

何故、あの時に気が付いてやれなかったのか、と悔やんでならない。あの時は、レオンも騎士としての責務を全うする事だけに意識を向け、人形のような主を守るという無意味な責務から現実逃避をしていたのだ。


(…もし、もっと早くあの小さな手を握っていれば。

もっと早くに、この方をちゃんと守れたのに)


そうすれば、彼女に優しくないこの世界で、彼女を1人ぼっちにする事は、きっと無かっただろう。

―…何度頭を過ったか分からない後悔を、苦い気持ちと共に呑み込む。


ふと、彼女の涙を初めて見た”あの日”を、思い返す。


その日初めて、レオンは”驚愕”と”焦り”という感情を知った。

…もしかして、アリシアは昔から人知れず、独りで泣いていたのだろうか。

弱音を吐かず、一つの愚痴も零さず、ただ耐えて耐えて耐えて。

そんなギリギリの状態の彼女に、他国への抑止力という重い責務を背負わされ、人々はアリシアに何も与えなかった。

それどころか彼女に与えられたのは、恐怖と畏怖、…憎悪と嫌悪だけだった。

―…その孤独が、どれほどのものか。

国全体から疎まれるということが、どれほどの辛さか。

想像をする事しか、レオンには出来ない。


「レオン?」


気が付けば長い時間、見つめていたようで、アリシアが首を傾げてきた。


(…まるで、暗闇の中に輝く、星みたいだ)


思わず、頬が緩む。世間では不吉とされる、彼女の漆黒の瞳。

以前は人形のように空虚に周りを見ていた瞳だ。

―…だが今は違う。”あの時”を境に、彼女の瞳には光が灯った。

彼女の力強い意志を宿した瞳は、常に好奇心と希望に満ち溢れ、前だけを見据えている。その凛とした瞳に、心を奪われない人間など居ないだろう。


「…レオン、ホントどうしたの?ぼーっとするなんて珍しいわね」


くす、とアリシアが笑顔を浮かべると、レオンはようやく夢から覚めたようにハッとした。焦りを気づかれないように鉄仮面のまま、レオンが慌てて口を開く。


「…いえ、ただ考えていたんです」


「え?何を?」


「元々どうして、アリシア様が恐れられているのか」


「…それは…」


アリシアが少し困ったように眉根を寄せる暇も与えず、レオンが声を被せる。


「俺からすれば、アリシア様が恐れられている方が不思議です」


「………え?」


「何しろアリシア様は、しっかりしているかと思いきや、妙な所で抜けているし」


レオンの言葉に、呆けていたアリシアの表情がひくりと引きつる。

その変化に気が付いてはいたが、レオンは言葉を続けた。


「時々驚くぐらい頑固で無鉄砲で、公爵家の令嬢とは思えないほど、お転婆で」


「…ちょっと、レオン」


今にも怒りだしそうなアリシアに、レオンは一瞬、口元を緩ませて、続けた。


「―…優しくて、お人好しで、誰よりも人の気持ちに敏感で。

誰かが困っていたら、すぐに飛び出して行ってしまう。

…そんな人が、怖い訳が無いのに」


レオンの声が、穏やかに響く。

空と海が混ざったような綺麗な瞳は優しく、アリシアを見つめていた。


「…レオン…」


アリシアが、ぽかんと口を開けた。

レオンの顔は、さも当然と言わんばかりの顔である。

レオンの言葉は、時間をかけて、ゆっくりとアリシアの心にじんわりと広がった。

初夏の風が吹くテラスだと言うのにアリシアの心と体は、ぽかぽかと温かかった。


「…ありがとう、レオン」


「俺は思った事を言ったまでです」


鉄仮面はそう言うが、アリシアには、彼からの思いやりの言葉だと分かっていた。


(変なとこ、素直じゃないなぁ)


思わず頬が緩む。

それを言葉にすればレオンがムキになって反論するのは分かっていたので、あえて言葉にはしなかった。


「そういえばレオンは、昔から私を怖がったりしなかったわよね」


「はい、怖がる理由がありませんから」


「いやいや、あるでしょ。私、これでも闇の力を持っているんですけど」


苦笑して、ひらひらと手を振って見せる。

レオンは表情を崩すことなく小さく頷いた。


「はい、でもそれは貴女の能力であって、貴女自身を怖がる理由にはなりません」


「…」


アリシアが、ぽかんと、口を開ける。

レオンの言葉はいつも嘘偽りなく、真っ直ぐだ。

だからこそ、アリシアの心に真っ直ぐに落ちてくる。


「…ふ、あははっ、そんな事言ったの、貴方が初めてよ」


まるで月下美人が花開くように、アリシアの頬が、綻んだ。

月光を浴びて、彼女の黒髪がキラキラと反射している。


「…」


その姿に、レオンは視線を奪われた。

彼女の表情一つ一つが美しくて、視線を外せなかった。


「あー、面白かった」


一しきり笑ったアリシアが、レオンの視線に再度気が付いて首を傾げる。

先ほどの笑いの反動か、その頬は未だ緩んでいた。


「ふふ、何?今日はやけに熱い視線を送って来るわね」


「いえ。―…綺麗だな、と思って」


「へ、…………えっ?!」


「…え?あ、」


アリシアがボッ!と一気に顔が赤くなるのと同時に、レオンが無意識に零した本音に気が付いた。レオンが呆然とした様子で、固まる。


「………」


「………」


真っ赤な顔のアリシアと、努めて表情を変えないようにしているが、どこからどう見てもパニックを起こしているレオン。両者はお互いの顔をじっと見つめ合った。


(ば、馬鹿ね私、そういう意味じゃないわよ。だってあのレオンよ?

私がちゃんとしないと、変な空気になっちゃうじゃない)


慌てて、動揺していた心を落ち着ける。沈黙の中、アリシアはゆっくりと笑顔を、へらっと浮かべた。

その笑顔は準備が整っていなかったのか、まだほんの少し頬が赤い。

ここは、レオンを茶化していつもの雰囲気に繋げたい。アリシアが思い切って口を開く。


「や、やだ、レオンったら。

他の女の子だったら、私の事好きなのかもって思っちゃうわよ」


「…!」


「えっ」


レオンが、ガタッ!と盛大に音を立てながら、思い切り立ち上がった。

アリシアがポカン、とレオンを見上げる。レオンは、いつもの鉄仮面ではあるが、その眼は、右往左往に動いていた。明らかに、動揺している。

長く感じる沈黙は、その実数秒程ではあるが、今度こそアリシアも言葉が出ずに、レオンを見つめる他無かった。


「の、」


「…の?」


長い沈黙を破ったレオンの言葉に、首を傾げる。


「のっみ、もの、のっ、取って来ます」


(噛んだ…)


飛んだり跳ねたりするレオンの声に、アリシアは心の中でコッソリそう思った。

レオンはアリシアの言葉を待たず、そそくさと飲み物を取りに会場内に入って行く。彼が横を向いた瞬間、その耳が少し赤い事に気が付いたが、一瞬の出来事だったので、見間違いかもしれない。彼は椅子にぶつかって、よろめいていた。


「……………え?」


彼が席を離れると、ようやくアリシアは言葉がポロリと口から出た。

瞬間、顔中がカッと熱くなるのを感じる。思わず自分の手で頬を触ったが、やはり熱い。自分の顔を見なくとも、今は人様に見せられない程、真っ赤な顔になっている事は、彼女自身理解していた。


(えっ、な、何、さっきの反応…!)


鼻で笑われるのが関の山だと思っていた。

それで、いつもの雰囲気に戻れると思っていたのだ。


(えっ、さ、さっきの反応って、えっ、つまり、その…)


その先を考えようとして、脳内が考える事をストップする。

これ以上その事を考えると、頭が沸騰しそうだ。


(お、落ち着いて私、落ち着くのよ)


アリシアは深呼吸を1、2度繰り返し、少しだけ心を落ち着かせる。


(…レオンは、私の事が好き、なのかしら)


落ち着いた後、そうポツリと考える。瞬間、再び沸騰するようにボンッと顔が熱くなるのを感じた。両手で頬を押さえ、冷やそうと試みるも、その手も熱いので、最早どうしようもない。


(……………待って、私、悪役令嬢だわ)


そう考えると、一気に頭が冷静になるのを感じた。

夢から現実に一気に引き戻されたような気分である。


(………攻略対象キャラと、悪役令嬢が恋に落ちる、だなんて、そんな事、許される筈ないわよね)


ただでさえ、運命を変えて歪んだ現実を何度も目の当たりにしている。

…だが、そこまで考えてアリシアは苦笑した。


(…馬鹿ね、悪い癖だわ。私は、”私”として生きるって決めたじゃない)


一度揺らいだ漆黒の瞳に、再び意志の焔が灯る。


(大事なのは、”私”がレオンをどう思っているか、って事だけよ)


ゲームの流れだの、運命だの、システムだの、そんなものは、もうまっぴらごめんだ。そう思っていた筈なのに、一度怯んでしまった自分の心が恨めしい。


(…レオンがもし、私の事好きだとして、”私”は、どう思っているのかしら…)


目を伏せ、自分の心に問いかける。

長年、”アリシア”として生きて来たからか、無意識ならまだしも、改めて自分の心を探るのは至難の業だった。


「…う~ん……」


眉根を寄せ、くぐもった声を出す。

―…レオンの事は、好きだ。

だが、それが親愛なのか、恋愛感情なのか、あまりにも長い時間が経ちすぎて、判断が出来ない。

レオンは初めて出来た友人であり、何でも言い合える家族のような存在だ。

特別で、大切で、失いたくない存在だと思っている。だが、それが恋愛感情なのかと問われると二つ返事で答える事が出来ない。アリシアは、思わず唸った。


「…随分と、悩んでいるね」


刹那。

小さな笑い声と共に、思わずゾクリとするような、甘いテノールボイスが響く。

―…聞き間違いだと、思った。

その声を、アリシアはよく知っている。だが、聞き間違いであるはずだ。

ここは、学院内。声の主が彼であれば、”ここ”に来れる筈がないのだから。


「……………ノ、ア…?」


伏せていた目を開け、目の前の光景に愕然とする。

ノアはアリシアの目の前に立ち、月光を浴びて、仮面に覆われていない反対側の顔が、悠然と笑った。闇に溶け込んでいきそうな、それでいて、獰猛な狼が牙を剥く前のような表情に、アリシアは言葉を失った。


「やあ、アリシア。今日は素敵な夜だね。

そのドレスも、君によく似あっているよ」


何事も無いかのようにそう言って、目の前の席に優雅に着席する。

いつものノアの表情に、呆然としていたアリシアの思考が、ようやく働いた。


「ノアッ、何で!森から出たら、貴方、死んじゃうのよ!」


アリシアが血相を変えて立ち上がると、ノアは驚いたように目を丸めた。

そうして、無機質な仮面とは相反し、彼の頬が嬉しそうに緩む。


「真っ先に、俺の心配をしてくれるのかい?本当にアリシアは、良い子だね」


「そんな悠長な事言っている場合じゃ…!」


「大丈夫だよ、アリシア。心配してくれてありがとう。

とりあえず、座って」


「~…っ」


アリシアは何か言いたげに眉根を寄せたが、渋々着席する。

ノアは手袋をはめた手を広げ、緩やかに笑った。


「大丈夫さ、俺は消えたりしない。ほら」


アリシアの手を取る。手袋越しに、彼の温かい体温が伝わって来た。

それならば尚の事、疑問が残る。アリシアが、悲し気に睫毛を震わせた。


「……森から出られないって、私に嘘を言っていたの…?」


ノアが、大きく目を見開いた。

彼の笑顔が消え、真剣な表情だけが残る。

アリシアの手を握る力が、少しだけ強まった。


「俺は君に、嘘を言った事はないよ」


その言葉に、嘘は無いように思えた。

何しろ、ノアはこの世界を繰り返している仲間だ。彼の言葉を信じたかった。

だが、混乱と動揺から、言葉が出て来ない。

その反応を、信じて貰えていないと感じたのか、ノアが少し悲し気に笑った。


「…俺は君と違って、運命を変える事は出来なかった」


ポツリと、ノアが言葉を零す。

見るとノアの悲し気な笑顔には、自嘲が含んでいた。


「何度この世界を繰り返しても、俺はこの仮面をつけられて、あの森に閉じ込められる。ありとあらゆる手段を尽くしたけど、その運命は変わらなかったんだ」


ノアの手を離し、彼の長い指先が、仮面をするりと撫でる。

穏やかに笑ってはいるものの、その目の奥はいつもと同じ、悲しい色をしていた。


「…ッ」


こういう時、アリシアはどんな言葉を掛けて良いのか分からない。

彼が抱える絶望は、きっとアリシアの想像を超えている。

そう思うと、どんな言葉も薄っぺらく聞こえるような気がして、何も言えなかった。―…言葉は無力だ。


「ノア…」


そっと、彼の手を取る。

頼りにならない言葉の代わりに、触れた手の平から、少しでも気持ちが伝わってほしい。もう1人では無いと。

この繰り返される、終わりのない世界でも、共有できる仲間が1人いれば、救われる。…少しでも救いになれば嬉しいと、アリシアの手に思わず力がこもった。

ノアが驚いたように目を見開く。どこか戸惑った様子でアリシアを見た。

ゆっくりと、アリシアの手を握り返す。寄せては返す波のように、少しずつ、彼の瞳から悲しみの色が薄らいでいった。そうして花開くように、笑顔が浮かぶ。悲しみも辛さの面影など消え失せた、心からの笑顔だった。


「ありがとう、アリシア。でも、俺はもう平気だよ。

…君のお陰なんだ」


「…え?」


今度はアリシアが驚いたように目を丸める。

ノアがその反応を楽しむようにクスリと頬を緩めた。

慈しむような…或は崇拝する信者のように、彼はアリシアの手を、大切に握りしめた。


「君のお陰で、初めてこの終わりのない世界が、色付いて見えた。

…この世界を繰り返してから、初めて、心から笑えたんだ」


握られた手が、温かい。

アリシアが、照れたように小さく頬を緩ませた。

ノアの存在がアリシアの大きな心の支えになったように、少しでも彼の支えになっているのであれば、嬉しい。


「…それを言うなら、私のセリフよ。

もし貴方が居なかったら、きっと心が折れていたと思うわ」


ノアが、驚きに目を見開いた。

その瞳が、まるで何かに迷うように、揺らぐ。

笑顔を浮かべようとするが、上手く笑顔を作れず、静かに彼が俯いた。

彼の様子が、おかしい。何かを考えこむような、葛藤するような表情は、この数年でアリシアが初めて見る表情だった。


「…ノア、何かあったの?」


アリシアが、そっと言葉を掛ける。


その瞬間。


「アリシア様から離れろ」


鋭く、声だけで一刀両断するような声が、響いた。

アリシアが跳ねるようにして声のする方向を見れば、血相を変えたレオンが、ノアを睨みつけている。もしその腰元に剣があれば、迷わず抜いていただろう。

殺気すら感じたアリシアが、慌ててノアから手を離し、首を横に振る。


「レオン、違うのよ、彼は私の友達、」


「―…やっぱり、お礼を言うのは俺の方だよアリシア」


まるでレオンの声が聞こえていないように、ノアが先ほどの会話に言葉を繋げた。

アリシアがぽかんとした様子でノアを見ると、彼の口元には薄い笑みが張り付けられていた。先ほどの笑顔とはまるで別人のような、冷たい笑顔だった。


「君があらゆる手を使って、運命を捻じ曲げてくれただろう?」


淡々と言葉を紡ぎながら、ノアが立ち上がる。

その顔を見て、アリシアは思わず背筋に冷たいモノが流れるのを感じた。

先ほどの温かい笑顔など欠片も面影が無く、その表情は仮面と同じく無機質で、冷たいモノだった。初めて見るノアの冷酷な表情に、言葉が出て来ない。


「その捻じ曲がった運命のお陰で、俺はこの仮面を外す事が出来た」


彼の指先が、仮面に伸びる。

スルリと撫でるようにして、彼の顔から、仮面が引き剥がされていった。

…カラン、と乾いた音を立てて、仮面がその場に捨てられる。

月光に照らされた彼の素顔はぞっとするほどに美しく、決意を秘めた瞳が、こちらを見つめていた。

―…目の前に居るこの人は、一体誰なのか。

そんな事すら分からなくなるほど彼の表情は、人らしさを失っていた。


「アリシア様、俺の後ろに」


「レオン、待って…!」


アリシアを背後に庇い、レオンがノアを睨みつける。

だがノアはレオンの視線など意にも介さず、レオンとアリシアを交互に見た後、驚いたように小さく目を瞬かせた。


「…本当に凄いな、アリシアは。

いつの間に彼と、こんなにも絆を深めたんだい?」


問いかけながらもアリシアの答えを望んでいる様子も無く、緩く首を振った。


「…いや、彼だけじゃないな。

この国の王子も、竜騎士団団長の息子も、更にはサラ・ブラウンとまで、君は絆を深めた。それどころか、今や君はこの学院の大多数に認められている」


ノアの言葉に、レオンが訝しみ眉根を寄せる。

だが、レオンの反応などノアは意にも介さない。

まるで彼の独白のように、淡々と言葉が紡がれていく。


「凄い事だ、誇っていい。

君は運命を捻じ曲げ、ごく僅かな可能性を切り開き、ここまで辿り着いたんだ」


その言葉には皮肉も嫌味も込められていない心からの賛辞の声のように聞こえた。


「だが、アリシアと違って俺は、この”世界”に、…”運命”に縛られている。

この先の未来を言葉にしようとすると、何故か蓋をされたみたいに声が出なくなるんだ。

未来を変える為に行動しようと思っても、まるで自分の体じゃ無いみたいに、コントロールが出来なくなるんだよ」


アリシアは、ハッとしたように目を見開いた。

思い返すのは、サラをイジメていた犯人をノアに聞きだした時である。

彼は、教えてくれなかった。…いや、今思えば、言葉を濁したように思う。

そうして、彼に出来る最大限で、ヒントを出してくれたのだ。


「…だからあの時、教えてくれなかったのね…」


アリシアがぽつりと呟くと、ノアはもう一度、自嘲気味に苦笑を零す。


「…正確に言うと、”教える事が出来なかった”、かな。

これだけ君を大切に想っても、君が困っている時に助ける事が出来ないなんて、情けない男だ」


「そんな事…!」


「俺はあの時、君がこれだけ運命を捻じ曲げても、この世界の根本は変わらないんだって分かった」


彼の紫色の瞳が月光を浴びて光る。だがその瞳は、いつも見る彼の瞳とは違う気がした。絶望と悲愴を混ぜた彼の瞳は、美しくもあり、…同時に、胸が締め付けられるほど、物悲しかった。


「この世界には、大きな道筋がある」


ノアの長い人差し指が、ぴっと線を描くように上から下に下される。


「その道筋がどれだけ折れ曲がろうと、この世界の重要なターニングポイントを必ず通っていく。折れ曲がっているように見えて、よく見れば綺麗な一本道だ。

…アリシアも実感しただろう。

”悪役”というキーパーソンを失ったこの世界が、”代替品”をその枠に入れたのを目の当たりにしたんだから」


(エリザベスと、マリア…)


真っ先に浮かぶのは彼女達だ。

確かにアリシアが”悪役”を貫けば、彼女達が首謀者になる事は無かっただろう。

アリシアが居なければサラが窮地に立たされることは無い。そう思っていたアリシアの考えは彼女達の登場によってあっさりと覆されたのだ。

ノアの主張が正しければ、サラ・ブラウンが窮地に立たされるということは、この世界にとってのターニング・ポイントで、避ける事が出来ない運命だったのだろう。辻褄が合えば合う程、アリシアの表情が青ざめていく。


「…それじゃあ、私は…」


愕然と、した。震える体を、何とか抑える。

どれだけ運命を変えても、これから訪れる未来に変わりはないのだろうか。

この世界最大のターニングポイント、つまりはこのゲームのエンディングだ。

エンディングの種類は多岐に渡るが、一番多く、そしてトゥルーエンドだと言われているエンディングは一つある。アリシアが2度目の人生で迎えたエンディングだ。


―…卒業目前のこの世界を、闇が覆い尽くす。


光は奪われ、この国を孤立させるように立ちはだかる闇の壁は、触れた者の命を吸い取る。まるで鳥かごにこの国を閉じ込めるように、闇が覆うのだ。


その犯人が、アリシアである。


ゲームの多くのエンディングではアリシアが闇に心を呑まれ、自分の力を制御できずに”闇の力”を暴発させてしまう。そのアリシアを止める為に、サラと、その時好感度が一番高いキャラクターが立ち上がるのだ。

この学園の奥に閉じこもり、”闇”を放出し続けるアリシアの元に向かう2人。

その途中には、アリシアの力の波動を受け、操られたクラスメイト達や、アリシアの闇が形を成して襲い掛かって来る事もあったが、その事如くを跳ね返して、2人はアリシアの元に辿り着く。


そうしてサラは光の力を解放し、この国を救うのだ。自分の命を犠牲にして。


だが、彼女は愛する人から愛情という”光”を受け、最後には息を吹き返す。

そうしてサラはこの世界を救った英雄として、堂々と想い人と結婚を果たすのだ。

―…だが、”アリシア”は違う。

制御出来ず、暴発させるほどの力は、彼女の寿命を搾り取ってしまう。

力を使い果たした”アリシア”は、サラが息を吹き返し喜びに満ち溢れている2人を横目に、静かに息を引き取るのだ。


「…ッ」


アリシアは自分の手を見て、震えた。

今はコントロール出来ているこの力が、ゲームと同じように暴発するのだろうか。

―…そうして終わりを迎え、繰り返す。

ようやく手に入れた友人、居場所、全てを失ってまた、【悪役令嬢】として、また目覚めるのだ。

今回、レオン達と友人になれたからと言って、また次も同じだとは限らない。

………いや、今回がイレギュラーなのである。また繰り返せば、今度は本来の敵同士に戻る可能性だって十分に有り得る。


(また、…また、繰り返すの?

私がどれだけ足掻いても、…どれだけ、自分らしく生きようとしても、無駄だって言うの?私は、自分で、自分の意志で動いて来たつもりよ。

でも結局は、この世界が強いたレールの上ってこと…?)


震えが、更に大きくなる。全身から血の気が引き目の前がグラリと歪むのを感じた。まるで、目の前に高い高い壁が立ち塞がったような気分だ。

壁は分厚く今まで寄り道が出来た道は消され、今や一本道しか用意されていない。

どうやって、この分厚く高い壁を壊せばいいのか、………もう分からない。

ただただ、その壁を見上げ、途方に暮れる事しか出来なかった。

―…叩いても、びくともしない巨大な壁。その”壁”は、謂わばこの世界そのものだ。


(…そんなの、………どうやって壊せばいいのよ…)


壊せる筈が、無い。乗り越えられる筈が無い。

この世界と戦うには、自分はあまりにも無力だ。


「―…アリシア様」


ふと、手が温かい事に気が付く。歪んでいた視界が、少しずつ、定まっていった。

手を見れば、アリシアより幾分も大きな手が、アリシアの手を包み込んでいた。

その温かい手は、変わらずゴツゴツとした努力をしている手だ。

レオンが、心配と必死を混ぜたような表情で、アリシアを見つめている。

まるでアリシアが絶望の底に落ちないように必死に繋ぎ止めるかのように。

おおよそ、この会話の内容など理解は出来ていないだろうけど、それでも尚、アリシアを想い、心配してくれている。海と空が混ざり合ったような青の瞳は、いつも真っ直ぐに見つめてくれるのだ。


(…随分、表情が豊かになったわよね)


少しだけ、アリシアの口の端が動く。

そうすると、冷え切っていた胸の奥に温かい熱が灯った。固まっていた血液が循環するかのように、その温かさが全身を巡って行く。混乱していた思考が、乱れていた心が、少しずつ落ち着いていった。

―…アリシアが、見上げる事しか出来なかった壁。

まるでそんな壁など最初から無いようにレオンはアッサリと乗り越え、引き上げてくれた。…その手に、その真っ直ぐな瞳に、何度救われて来た事だろう。

その壁の上から見る景色は暗く、まだ見通す事は出来ない。

だが、隣で手を引いてくれる人がいれば。

一緒に、暗闇を歩いてくれる人が居れば、大丈夫だと思える。

―…よく考えれば、ずっと前からそうやって来た。

手探りで道を探し、先が見えないまま歩き続け、そうやってここまで辿り着いた。

振り返れば、暗闇だけだった世界は明るく色づき、今では美しい景色に囲まれている。そうやって、生きて来た。

それって、きっと、”普通”の事なんじゃないかと、思う。

ただその道の先に、大きな壁があっただけだ。その壁が壊せないのなら、乗り越えれば良い。1人では無理でも、こうやってレオンが引き上げてくれる。

そうしてまた、歩き続けていく。地道に、手探りで、ただひたすらに。

…人生を語れるほど立派な人間でもないけれど、きっと”生きる”というのはそういう事の積み重ねだと思う。


「…ありがとう、レオン。私は、平気よ」


ぎゅ、と握り返し、笑顔を浮かべる。

レオンは心配そうな視線を残しながらも、ゆっくりと、その手を離した。


(まったく、心配性なんだから…)


だがそれも、悪い気はしない。

軽くなった心で、一度息を吐いて、気持ちを切り替えた。

そうしてゆっくりと、ノアに視線を向ける。


「…アリシア…」


アリシアの表情が、変わった。

それを感じたノアが、大きく目を丸めた。

アリシアの表情に、もう迷いなど無かった。一度激しく傾いた心を立て直し、真っ直ぐにノアを見据えている。


「君は、強いな」


その声は、何だか淋しそうにも聞こえた。


「だけど、この”世界”は容赦しない。

君がどれだけ逆らおうと、どれだけ抗おうとしても、結局はこの世界が決めた道の上を歩くしかないんだ。だからきっと、最後には君の力が…、」


アリシアはもう一度、自分の手の平を見つめる。

先ほどまで冷たかったアリシアの手は、今は温かい。きっと、レオンがこの手を握ってくれたから。

こんな状況なのに、何だか心がぽかぽかと温かかった。


「…えぇ、そうね。最後にはきっと私の”力”が暴走するのかも」


「あぁ、そうだ。

君の力が暴走しなければ、その代わりが用意される」


「違うわ、ノア。用意される”かもしれない”よ」


「…え…?」


「”その時”が来ないと、どうなるか分からないわ。

前がそうだったからと言って、今回もそうなるとは限らないでしょ」


ケロッとした様子でアリシアが言う。

しばらくノアは呆然としていたが、すぐにハッとした様子で口を開いた。


「い、いや、だから、君がいくら運命を捻じ曲げていても、」


「ノアの言う通りこの”力”が暴走するとしても、それはその時考えればいいのよ」


ノアの言葉をあっさりと切り捨てるアリシアに、ノアは今度こそ言葉を失った。ノアが戸惑う姿を初めて見た気がする。そんな事を考えられる程には、冷静になってきたとアリシアは実感していた。

思わず、口元に苦笑が浮かぶのを感じた。


「……私だって、楽観的すぎると思っているわ。

現実はいつも残酷で、この世界は、私に冷たい。そんな事、嫌と言うほど味わってきたし、…きっと、ノアは私と比べ物にならないぐらい、辛い思いをしてきたんだと思う」


何度も何度もこの世界を繰り返し、運命を”変えられない”と何度も胸に刻まれた彼の気持ちを、きっと半分も理解は出来ないだろう。たった数回、この世界を繰り返しているアリシアでさえ、心が折れかけた。

3度目の人生、ベッドの上で目を覚ました時の絶望感は…今思い出してもゾッとする。


「でも私は…信じたい」


手の平を、ぎゅ、ともう片方の手で握る。

…この温かさは、運命を変えなければ得られなかったモノだ。


「運命は、変えられるわ」


真っ直ぐに、淀みなく、アリシアの言葉は響いた。

漆黒の瞳はまるで夜空に浮かびあがる一等星のように輝き、ノアを見据えていた。

力強いその言葉には人を惹きつける力がある。

ノアは、一瞬、迷いを見せるように視線を泳がせた。だがそれは刹那とも言える瞬きの間の出来事だ。


「それに、ノアの言った通り、今回私には心強い味方が沢山いるのよ」


「…あぁ、よく知っているよ」


薄い笑みと共に、ノアがレオンに視線を向けた。

レオンが鋭く睨みつけるが、ノアはどこか空虚に彼を見つめるだけだった。


「他人事みたいに言っているけど、貴方もその一人よ」


アリシアが不思議そうに首を傾げて言うと、ノアはレオンからすぐに視線を外し、驚いたようにアリシアを見た。


「…俺?」


「えぇ。だって、ようやくノアはこの世界から解放されて、”ノア”として生きられるんでしょう?

真っ先に私に助言をしに来てくれるなんて、充分頼りになる味方じゃない」


当然と言いたげなアリシアの顔に、ノアが何度目か分から無い程に呆ける。

暴君、というか何と言うか。アリシアは、その広い懐にアッサリと人を受け入れてしまうのだ。それがあまりにも自然で、当たり前に受け入れてくれるからこそ…居心地が良くなって、足を止めてしまいそうになる。


「………そうだね、俺は君の味方だ」


「ノア」


嬉しそうに、アリシアの頬が緩んだ。

この笑顔を、ずっと見つめていられたら、どんなに幸せだろう。

そう、脳裏に過った考えを消し去り、ノアは一度伏せた目を開いた。


「だから俺が、君をこの下らない世界から救い出す」


意志を込めた宣言は、妙に重く、辺りに響き渡る。

鋭い瞳にはもう、迷いなど浮かんでいなかった。どこまでも冷淡に、冷酷に、無機質な表情で言った。


「―…物には”核”が存在する。

例えばそのドレス。その”核”は布、もっと言えば”繊維”だ。

俺の”力”は、まずは核を生み出し、それをベースに作り上げる。

…何度目かの人生で、俺は気が付いたんだよ。

”核”から作れば、世界を作り上げる事も出来るんじゃないかってね」


「ノア…、」


声が、震える。アリシアの声など最早届いていなかった。


「今まで実行出来なかった。だが、ようやく実行できる」


「ノア!何をする気なの!」


アリシアが震える声で叫ぶと、ノアは小さく笑った。


「この世界を作り直すんだ。世界を作る”核”は、空、太陽、大地、海、空気、森、動物、―…そして、人だ。早い話が、この世界に全て揃っているだろう?」


アリシアは、答えられない。体が震えるのを感じた。

ノアが、何を考えているのかは分からない。

だが恐ろしい事を言っている事だけは分かった。


「だから俺は思い直したんだ。

1から作るんじゃなく、この世界にある全てを”再利用”しようってね」


「再、利用…?」


「この世界が作り上げた運命を上書きして、作り直す。

君が二度とこの世界を繰り返す事のないように…―君が、”悪役”として生きる事が無いように。根本から丁寧に、綿密に、この世界を作り直そう」


それは、…良い話のようにも、聞こえる。

ノアの言う通り、この世界を根本から作り直されるなら、きっとアリシアは普通の女の子として生きることが出来る。

誰からも恐れられず、爪弾きにされる事も無く、自然と周りに溶け込めるのかもしれない。何度もこの世界を繰り返すことなく、周りと同じ、一度きりの生を思い切り生き抜く事が出来るのだろう。

…普通の女の子のように、当たり前に”恋”だって、出来るのかもしれない。

だが、…だが、心の奥底の自分が言うのだ。

用意された”生”は、運命に縛られる事と同じだと。

何よりこの世界に生きる人々の人生を壊した上で成り立つ自分の人生など無意味だ。


「………ノア。私はそんな事、望んでいないわ」


一度息を吸い込み、アリシアは意を決して、言葉を紡いだ。

ノアが、ゆっくりと、目を見開く。まるで裏切られたような、置いて行かれた子どものような表情が、アリシアの心に刺さった。一度揺らぎそうになった心を、アリシアはしっかりと立て直す。


「例えこの世界で、悪役として果てる事になったとしても、それは”私の”人生よ。

ノアがこの世界を作り直してくれて、安全に生きられるとしても、用意された人生を生きるって事でしょう。…それはもう、”私”ではないわ」


「アリ、シア…」


ノアが、静かに俯く。

アリシアの説得に、この言葉に、少しでも心が動いてくれたのだろうか。

アリシアは一歩、ノアに近づいた。


「確かにこの世界は残酷よ。私の力が暴走する可能性が高いんだって分かっている。でも私は、私としてこの人生を生きるって決めたから」


チラリと、レオンを見る。

レオンは尚も、心配そうな視線を向けていた。思わず、アリシアの口元が緩む。

話の内容はレオンにはきっと分からない。だがそれでも、アリシアを信じて口を挟まず、見守ってくれている。この”信頼”は、アリシアが掴み取ったものだ。


「私の道は、私が切り拓く。最期まで私は足掻いてみせるから。

だからノア、せっかく、貴方自身として生きられるようになったんだから、そんな事に力を使わないで」


「…」


ノアは、答えない。まるで閉じた貝殻のように黙し、俯いている。

ここからでは表情が見えない。

だが、アリシアは知っている。ノアは…優しい人間だ。この世界に生きている他の人の事を思い出してくれれば、きっと思い留まってくれる。そう、思っていた。

だが、アリシアは知らないのだ。

―…決意を固めた人間は、時として冷酷非情に振るまう事を。


「…もう遅い」


ノアが、顔を上げた。機械のような無機質な表情に、アリシアがゾッとした。

瞬間。ノアが地面を蹴って走り寄る。気が付いた時には、アリシアの手が掴まれていた。


「アリシア様!」


レオンが血相を変えて走り寄る。それを制するように、ノアが手の平を翳した。

薄く、口の端だけを吊り上げ、冷淡に笑う。


「残念だな、ヴェンクハイム。…君とはここで、さよならだ」


その手の平が、横一線に思い切り振られる。

刹那。まるでページが捲られるように、目の前の光景が勢いよく過ぎ去っていく。

頭上の星々は消え去り、月も闇に呑まれて消えた。


「レオン!」


目の前に居たレオンが、闇に掻き消されてしまった。

いや、レオンだけではない。気が付けばテラスも、学院も、華やかに奏でていた音楽も消え去り、そこにはアリシアとノア、そうして静寂と闇だけが存在していた。闇が、一瞬で世界を奪い去ってしまった。

足元の地面も見えず、とてもではないが地に足がついている感じはしなかった。


「…ノア、貴方、何を…」


アリシアの声が、震える。

その震えが全身に伝わり、がくがくと体が震えるのを感じた。

アリシアの震えを、彼女の手を掴んでいるノアが一番分かっているだろう。

顔面を蒼白とさせ、怯えた彼女の表情に、ノアは小さく苦い笑みを零した。


「…心配しなくても、彼は消えていないよ」


「っじゃあ、レオンはどこに…!」


「言っただろう、アリシア。”再利用”するんだよ。それは彼も例外じゃない」


「再、利用………?」


ノアの言っている言葉の意味が、理解出来ない。

ドク、ドク、と不気味に脈打つ自分の心臓を抑え、どうにか心を落ち着かせる。

だが小刻みに震える体は動けず、ただ呆然とノアを見つめるしか出来なかった。


「…大丈夫さ。君が眠っている間に、終わらせてみせるから」


「ノア、ちゃんと説明して…!」


「ゆっくり、おやすみ」


ノアの手の平が、優しくアリシアの目元を覆う。


「ッノ、ア…っ」


視界が、暗闇に覆われる。急激な睡魔が襲い、グラリと体が揺れるのを感じた。


(…駄目…ッ私が、ノアを、止めない、と…)


そう思うのに、体は鉛のように重く、動かす事は出来なかった。

体が倒れていく感覚と共に、アリシアの意識は途切れた。

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