第55話 あけぼの湯
「わあ、貫禄ですね」
繭が、あけぼの湯のその古風で重厚な作りの建物を見上げる。あけぼの湯は、金城町で大正時代から続く歴史ある銭湯だった。作りは全て木造で、柱一つとってしてみても、その風格と色合いにただならぬ年季が籠っている。
「サッシも木なんだ」
窓枠から入り口まで、枠もすべて木製だった。そこに入っているガラスも、今では見ることのない昔の薄いすりガラスだった。
「に、二百円・・」
女湯の方の暖簾をくぐり、番台の隣りにかかる木製のこれまた年季の入った値札を見ると、値段も昔のまんまだった。
「やっていけるんですかね・・💧」
繭は番台の前で立ち止まり茫然とする。
「現にやってるんだからやっていけんだろ」
宮間はにべもない。宮間は番台の端に百円玉二枚を置くと、さっさと入って行く。他の選手たちも百円玉を次々番台に置いて、入っていく。繭も慌てて、小学生の時、おじいちゃんに買ってもらって、いまだに使っているガマ口から百円玉を二枚取り出すと番台の端に置いた。
「いらっしゃい」
番台の、これまた相当年季の入っていそうなおばあさんが、にこやかに言った。
「あ、ど、どうも」
まだちょっと人見知りな繭は遠慮がちに頭を下げ、脱衣所の方へみんなを追いかけ足早に入って行った。
「うううっ、おあああぁ」
湯船に浸かり、繭はおっさんみたいなうめき声を出す。
「繭ちゃん・・💧」
かおりが隣りの繭を困惑気味に見つめる。
「銭湯っていいなぁ」
広い湯船に浸かりながら、繭は心の底からうっとりと呟く。まるで体全部が溶けていくように気持ち良い。
「だぁおああぁぁ」
繭は、両腕を伸ばし、また低くくぐもった呻きを漏らす。
「お前はおっさんか」
今度は宮間が突っ込む。
「ほんとにいいなぁ」
繭は体全体を湯船につけ、高い天井を見上げた。繭は銭湯がかなり気に入ったらしい。
「だろ」
自分は風呂になど入らなくてもいいと言ったことなどつゆ忘れ、宮間は自分の思い付きを誇るように言う。
「ほんと、風情もあっていいですね」
かおりが浴場を見渡しながら言う。天井は高く浴槽は広い、奥の壁一面には伝統的な巨大な富士山のペンキ絵が描かれていて、雰囲気がある。
「平和だ」
繭は、全身をお湯の中にもぐりこませ、顔だけ出すと目を閉じて、夢見心地に身をゆだねた。
「ほんとだね」
かおりもその長身をそのゆったりとした広い湯船に沈め、目を閉じる。嫌なことが全部どこかへ流れて行ってしまったみたいに、穏やかな気分が二人の心を満たした。
しかし・・、その平和は長くは続かなかった・・。
「あたし、また新しい技覚えたんだよね」
大人しく、じっと湯船に浸かってなどいられない宮間は、後ろでのんびりと湯船に浸かっている麗子をにやりと見た。
「何の技よ」
麗子が警戒の色を浮かべ宮間を見返す。
「プロレスに決まってるだろ」
宮間の目がギラリと光る。
「もう、やめてよね」
麗子が背中を向ける。しかし、そこで正直にやめる宮間ではない。
「ひっ、ひっ、ひっ」
その背中に、宮間が不敵な笑いを浮かべ、ゆっくりと近づいて行った。
「ぎゃ~」
麗子が悲鳴を上げた時にはすでに、宮間が麗子の背中に飛びついて、がっしりと両腕を回し、組み付いていた。
「もう、子どもなんだから」
洗い場で体を洗っていた野田が呆れる。野田は先に体を洗ってから湯船に入る派だった。
「ほんと・・」
仲田もそれに続く。仲田も野田同様洗ってから入らないと気持ち悪い派だった。
「宮間さんやめてください。他のお客さんの迷惑ですよ」
繭とかおりが慌てて止めに入る。いつの間にか、喧嘩をとめる役は野田と仲田から、新人のかおりと繭に移っていた。
「宮間さん」
そこに志穂とめぐみちゃんも加わり、四人で暴走する宮間を止めに入る。しかし、そんなことで止まる宮間ではない。
「おりゃぁあ」
宮間は背中から抱えた麗子を持ち上げた。
「宮間さ~ん」
繭たちの悲痛な叫びがこだます中、麗子のその白い二本の足は、お尻丸出しで宙に舞った。
「どあらゃぁぁあ」
そして、宮間の猛獣のような叫び声と共に、その裸体は真っ逆さまに湯船に落ちていった。
「きゃあああ」
麗子と、そして、
「うわぁあああ」
無謀にも、下で麗子を受け止めようとした、志穂とめぐみの叫び声が浴場いっぱいに木霊する。
ドォザバァ~ン
巨大な水しぶきが広い浴場全体に舞い上がり、そして、降り注いだ。志穂とめぐみもろ共、麗子は湯船に沈んでいった。
「決まったぜ。完璧に」
巨大に波打つ湯船から宮間が立ち上がると、両手を腰に当て、胸を張った。
「どうだ、参ったか。私が昨日編み出した宮間スペシャルブレーンバスターだ」
宮間は得意げに言った。
「れ、麗子さん・・💧」
繭とかおりが、慌てて麗子の沈んだ湯船の底を上からのぞく。しかし、麗子は、沈んだまま上がってこない。
「麗子さ~ん」
繭とかおりが湯船の底に向かって叫ぶ。
「・・・」
だが、底からの返事はない。
「・・・」
二人は顔を見合わせた。そして、麗子を助けようと湯船の底に手を突っ込もうと腕を伸ばした。
ザバ~ッ
「わっ」
その時、湯の中から麗子が突き上がるように、突然立ち上がった。
「・・・」
幽霊のように長い髪が麗子の顔全体を覆い、そこをお湯が滴っていく。
「れ、麗子さん・・?」
繭が声をかけるが応答はない。
「麗子さん・・💧」
繭とかおりが麗子を見つめる。しかし、麗子は全く反応なく、お湯を滴らせその場に立つ尽くしている。
その時、顔を覆いつくしていた長い髪の間から眼光鋭く、麗子の左目が覗いた。その左目がぬら~っと、宙を彷徨い、そして、宮間を捉えた。
「うっ」
さすがの宮間も怯んだ。
「ま、まて、まて」
麗子はゆっくりと、そんな宮間に近づいていく。
「わ、悪かった。悪かった麗子、なっ、待て、待て」
しかし、麗子は止まらない。ゾンビのようにゆっくりと宮間に近づいていき、その両手を伸ばした。
「ぎゃ~」
宮間の両足が宙に舞った。
「えっ?」
そこに湯船に沈んでいた志穂とめぐみが、やっと、湯船から顔を出し、起き上がった。
「わっ、あああぁあ~」
宮間が叫ぶ。
「あ、あああぁ」
志穂とめぐみが叫ぶ。
ドォザバァ~ン
宮間諸共、何も悪くない志穂とめぐみは再び湯船に沈んだ。そして、また、大きな水しぶきが浴場全体に舞い上がり、そして、降り注いだ。
「・・・」
しばらくして、宮間が水死体のように湯船に浮かんだ。
「自業自得だよね。これは・・💧」
「う、うん・・💧」
繭が言うと、かおりがうなずいた。
「プロレス、プロレス」
母子連れできていた小さな子どもが、洗い場から浴槽の方を指さす。
「しっ、見ちゃいけません」
母親は厳しい顔ですばやく幼い子どもを叱ると、素早く体を洗い、入浴もそこそこに、そそくさと子どもを連れて、浴場から出て行った。
「止めないんですか」
静江が本を閉じて、柴に訊く。静江は風呂でもメガネをかけ、本を読んでいた。特殊な曇り止めレンズを使っているのでレンズはまったく曇ってはいない。
柴は、静江の隣りで、一人落ち着いて湯船に浸かっていた。
「ほっとけばいいのよ」
柴はもう、達観しているらしい。
「もう子供じゃないんだから、湯船で遊ばないでくださいよ。怒られますよ」
頭を洗っていて叫び声しか聞いていない野田が、湯船の宮間に向かって言う。
「そうですよ。追い出されますよ。そんなことしていると」
同じく、目をしっかりつぶって頭を洗う仲田も言う。
「・・・」
しかし、ほぼこの銭湯と共に育った番台に座る齢九十の女主人は、耳が遠く、そんな浴場の喧騒などまったく気付くことなく、静かに目の前の虚空を見つめていた。
「・・・」
そこだけが平和であった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。