ヴォイドハート

 私たちが交わした永遠の約束は、ふたつの世界を隔てる断絶によって失われてしまった。もう彼女は、私と同じ時を共有していない。彼女が選んだのは、時の凍りついた世界――太陽を厭い、夜を飛ぶ、不死者の世界だった。

 

 どうして彼女が禁じの血を口にしたのか、私には想像することしかできない。喪服の女王に誘惑されたのか、大好きだったお祖父ちゃんとの死別がそうさせたのか、それとも単純な好奇心からだったのか。彼女の人生は成人を前にして終わり、血を啜る化け物として生まれ変わった。青ざめた肌、獣の如き牙、触れたものを凍てつかせる体温。


 私は泣いていた。彼女は笑っていた。


 彼女が夜空に去っていく時、なぜ私は手を伸ばさなかったのだろう。約束を破ったのは私だった。ずっと一緒にいよう、たとえお互いが、どう変わってしまったとしても――そう約束したのに。恐怖が、堕落が、人を捨てる事への躊躇いが、私に愚かな選択をさせた。もう一度あの時へ戻れたら、今度は決して違わないのに。


 §


 風が木々を揺らす音が、私を微睡みから呼び覚ました。太陽はとうに地平線の彼方に沈み、月の光と闇の香りが、わずかな窓の隙間から入り込んでくる。眠る前には、確かに閉まっていた窓から。


 おかえり。

 

 私は不思議な確信を抱いて、部屋の角で澱むように固まった影の中へ、言葉を投げた。すると、影の輪郭がじわりと空気に滲み、震えた。そんな風に、隅っこで猫みたいに縮こまって、私が来るのを待っている。変わらないな、と思った。熾が火種に触れたように、胸が熱くなるのを感じた。私は寝椅子を立って、影へ向かった。ゆっくり、ゆっくりと、かつてそうしていたように。手を伸ばす。影が震える。触れる。影が霧散する。


 彼女がいた。冷え切った月の光に晒されて、私だけのあなたが。


 時の断層を越えて、見えぬ深淵のヴェールを透かして、私の指先は彼女の髪を撫ぜている。氷のように冷たくて、でも変わらぬ柔らかさを保つそれを。彼女の瞳に私が映っている。紫水晶アメジストのように無機質で、けれど懐かしい幼さを湛えたそれに。


 彼女はどうして戻ってきたのだろう。

 永すぎる夜に飽いたのか、残忍な時の奔流に流されていく私を嘲笑いに来たのか、それとも――


 流れる血の冷たさを語る青ざめた顔からは、なにも読み取れない。けれど私は、そうであってほしいと祈った。

 

 お願い、私を変えて。


 あの時、口にすることが出来なかった呪われた願いを、私は告げた。夜の美しさを理解する目を、冬の寒さを楽しむ身体を――そして、あなたと同じ永遠を与えてほしい、と。

 同じ時を生きたい、繋がりを取り戻したい。あなたを裏切ったのにこんなことを思うのは、傲慢なのだろうか。錯乱する魂、罪悪と欲望の合間で引き裂かれそうになる心の絶叫を押さえつけ、私は応えを待った。

 やがて、彼女が頷くのを、見た。微かに、けれど確かに。かつて愛を伝えた時と、同じように。


 私は泣いた。彼女は笑った。


 そして、凍てつく小さな身体が私の腕に飛び込んだ。

 

 刹那。

 

 死の棘が、私を貫いていた。

 命の秒針が、闇の生糸に絡めとられ、止まっていくのを感じる。知りつつある。夜よりも暗いものを。冬よりも寒いものを。

 彼女の手に握られた瀉血の魔具は、狂いなく私の心臓と魂を砕いていた。


 消えゆく熱、抗い難い眠り――この肉から、零れ、失われていくもの。彼女はそれを啜った。それから笑った。人ならざる、残忍な牙を覗かせて。この世界にあるはずない、妖美な光を瞳に灯して。


 理解した。たとえその姿に人の名残があるとしても、彼女の心はどうしようもなく変わってしまった。暖かなものは消え去り、虚無と血への欲求だけが、そこにある。

 彼女は私を忘れるためにやってきた。この世界に残った、きっと最後の、人間性のよすがを。私の命を糧として、彼女はこれからも終わらない夜を生きていくのだろう。同じ呪いを背負った同胞たちと、あるいはたったひとりで。


 もう、彼女の姿も見えない。終わらない夜の風が、私を連れ去っていく。

 それでも私は、これで良かったのだと思った。限りある生のあっけない幕切れでも、永遠は手に入らなかったとしても、死がふたりを永久に分かつものだとしても――


 変わらなくてよかった。彼女を想う心を失わぬまま、逝けるのだから。

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