潮騒
1
暁夕の訪れに吹く風は、肌にへばりつくような不快な湿り気を含んでいて、息をするたび塩の味と、ひりつく喉の痛みを感じる。それは海風に似ているが、余程に濃くて、澱んでいる。
夜に至ればその風は、歌の響きを運んでくる。泡が弾ける微かな音、星の瞬くリズム、誰も知らない密かな言葉。
夢に見て、現に見える――あの場所が。蒼古の刻よりそこに在り、冥い眠りを守っている。地に穿たれた巨大な穴と、潮を閉じ込めた結晶。渇いた塩の湖が、この風の生まれる場所なのだ。
§
つかの間の悪夢から目を醒ますと、部屋の東側にある細長い窓から、黄色い朝日が差し込んでいた。小さなベッドから脚を降ろして首を振るい、眠りの残滓を吹き飛ばそうと試みる。手のひらにじわりと浮かんだ汗は、きっと暑さのせいではないだろう。
俺はこわばった両脚に強いて身体を立ちあがらせると、チェスト上の銀盆に乗せられた水差しの中身をグラスに注いだ。ここでは、水は貴重だ。けれど、喉の渇きは酷く、すべてを飲み干しても潤いを得ない。
部屋にノックの音が響く。急いでコートを羽織り、錠を外して扉を開ける。そこに立っていた若い家政婦は、無機質な目で俺を見上げると、朝食の用意が出来たことだけを告げ、去っていった。
俺は郷愁に囚われつつあった。まだこの村で、一夜を明かしたばかりだというのに。
部屋を出て、階段を下り、一階に至る。敷かれた絨毯を踏みしめると、積もった埃が舞いあがる。ここは、かつての壮麗さの名残を感じさせる立派な屋敷だが、殆ど手入れがされていない。片隅に除けられた数々の家具は薄汚れたリネンに覆われて、まるで幽霊の舞踏会場のようだ。首都の一等地に建っていれば、気取った貴族の邸宅としても申し分ないのに。
正面に閉ざされた玄関を見据えた右手側――そこが食堂となっている。開いた扉を過ぎると、壮麗な装飾が施された大きなテーブルと椅子が置かれている。一番奥の家長の席に老人が座していて、几帳面な所作でナイフとフォークを動かしている。俺はテーブルの反対側に座り、ひとまず水差しを手に取った。
「神父様に於かれましては、昨夜はよくお休みになられましたかな」
老人がそう言った。俺はグラスを口元から離すと、その問いかけに肯定で返した。自分でも、歯切れの悪い返事だ、と思った。それで察せられたのか、老人が興味深そうに俺を見つめた。老い衰え、白濁した瞳で。
「そのご様子では、安眠というわけではなかったようじゃ。……思うに、悪夢を見られたのではございませぬか」
俺は動揺を悟られないよう努めて冷静にバスケットから黒パンを取り、酷い臭いのバターを塗りながら、何故そう思うのか、と訊ねた。
緑っぽい脂の浮いたベーコンを頬ばりながら、老人は笑って言う。
「なぜならば、この村では皆がそうだからです。地上に潮の香を嗅いだなら、必ず夜に悪夢を見る。きっと神様が我らの不信心を、咎められておいでなのじゃろう」
蒙昧な田舎者め、という言葉とともに、俺は食べ物を呑みこんだ。聖職者として、神の恩寵を説いてやるべきだろうか。やめておこう。それは、今回、俺に宛がわれた役目ではない。くだらない中世風の迷信など、信じるままにさせておけばいい。
だが、老人の言葉をすべて切り捨てることは出来なかった。少なくとも、俺が悪夢を見たことは事実だ。内容は記憶に残っていないが。
「そうそう、思いだしました。神父様がお探しになられているあの学者殿も、ずっと悪夢に悩まされておられましたな」
老人の話に、俺は今度こそ真剣に耳を傾けた。あの学者の行方を追う手がかりとなるならば、どんな情報も零すわけにはいかない。真偽の検証は、後回しだ。
「それはもう、夜ごと酷い悪夢にうなされておられました。お貸ししていた二階の部屋――もちろん、神父様にお泊まり頂いている部屋ではありませんが――から、時折、凄まじい物音と悲鳴が響きますと、学者殿が顔面蒼白の体で炊事場に駆け込んでは、樽を空にする勢いで水を飲まれていたものでございます。外からお出でになられた方が、あれほど濃い潮の香に晒されたならば、無理もないことですがな」
潮の香――それとなく意味は理解出来るが、俺は詳しい説明を求めた。
「神父様もご覧になられたでしょう。この村の奥に広がる、干上がった大きな塩の湖。我々、村の者は、あそこから岩塩を採掘して生計を立てておるわけですが――夜の来たる時と、その去り際になりますと、濃い塩気を帯びた風が生じるのでございます。それこそが潮の香。悪夢のみなもとだと、古く言い伝わっておるのです」
それが故に酷く喉が渇くのか。話のすべてを鵜呑みには出来ないが、安眠を妨げられる理由には得心がいく。だが肝心の、学者の失踪した理由についての因果は見出せない。あるいは、この老人が学者の行方について、なにか隠していることがあるのかも知れないが、確証も、確信もない。
俺が二階にあるという学者の部屋を調査する許可を求めると、老人は快諾した。すると視界の右側に、細い腕が飛び込んできた。いつからそこに居たのか――あの若い家政婦が、無感情に俺を見下ろしている。その細指は、小さな鍵をつまんでいる。それをテーブルに置くと、家政婦は片腕に持っていたポットを傾け、芳しい香りのコーヒーを注いでくれた。
2
俺が故郷の教区を離れこの村を訪れたのは、幾月か前に姿を消し、そして戻らないとある学者の捜索を、司教座より命じられたからだった。教会が学者を探す理由は、その研究成果にあるらしいが、詳しいことはなにも知れない。解っているのは、彼の研究対象が、あの塩湖だったということだ。
俺は家政婦から受け取った鍵を使って錠を解き、学者の部屋に踏み込んだ。山積みされた書物、壁に画鋲で留められた走り書き、脱ぎ捨てられた衣類。どうやら学者が姿を消した時のまま、放置されていたようだ。散らかっているが、争ったような形跡はない。この乱雑な部屋を隈無く調べ上げるのは、骨が折れるだろう。ともかく今は、小さな探究に浸る時間だ。
§
『塩湖というものが成立する為には、以下に挙げるふたつの要因のうち、どちらかが満たされる必要がある。ひとつは、地殻変動や大陸の運動によって、海の一部が陸地に切り離されること。もうひとつは、元は淡水の湖である場所に、河川などの作用によって塩分を含んだ水が流入し、それが長い年月を経て蓄積されること。
だが、この地に存在する干上がった塩湖は、そのどちらにも該当しない。この周辺は遥かな太古から内陸であり、海に近しかった形跡はない。また、塩湖の周囲の土壌は、塩害を起こすほどの塩分を含んでいる――この村の作物の実りが著しく悪いのは、これが原因だろう――が、少しでも塩湖を離れると、希薄にしか検出できなくなる。近隣の河川の成分と、またその上流の地層を調べても、やはり塩湖を成立させるほどの塩分は含まれていない。
とすれば、如何にしてこの塩湖は誕生したのだろうか』
『私の地質学的な研究は行き詰まっていたが、考古学的には様々な成果を得ることが出来た。つまり、塩湖と村の住民たちの関係性と歴史についてだ。
この村のはじまりは非常に古く、先史学の時代にまで遡る。数千年の太古から、村民たちの生業は岩塩の採掘と取引であり、それは今も変わっていない。あの塩湖こそが、生活の中心であり、実り薄い土壌に人が定住する理由なのだろう。
私がもっとも興味を惹かれたのは、我らが神の恩寵がこの地に至る以前に存在した土着の信仰についてだ。かの信仰は失われて久しく、詳細を知ることについては不可能だったが、村長の屋敷に保存されていた祭祀書の断片から、その一部を解き明かす事が出来た。それによれば、あの塩湖こそ住民の信仰の対象であり、神であったという。さもありなん。きらめく塩の結晶が巨大な構造物を成すあの場所は、まるで神話に語られる大伽藍のようではないか』
『私を苛む悪夢は、夜ごとに凄惨さを増している。目を醒ました時、夢の世界での体験は、もはや記憶に残っていない。だが、身を凍てつかせる圧倒的な恐怖と、むせかえるような潮の匂いが、脳裏に焼きついて離れない。ああ、そして、あの歌――どこか水底から湧きあがる、この世ならざる響きが、今も私を呼んでいる。果たして、私を何処に誘おうというのであろう。この歌のみなもとは、何処にあるのだろう』
§
いつしか太陽は頂点から落ち、山稜の連なりの彼方に沈み始めている。
俺は大きく息を吐き、目を閉じた。理解出来ない専門用語の散りばめられた書籍や論文の類は避け、日誌と簡単な走り書きに目を通したが、今までのところ、学者の行方を示す手がかりは見つからない。だが、気になるのは悪夢に関する記述だ。学者は明らかに正気を失いつつあり、狂気の片鱗を覗かせていた。これが、失踪と無関係とは思えない。
張りつめた神経をほぐすため、屋敷の外に出る。小高い丘のここからは、夕日に焼ける村を一望できる。惨めにひび割れた石畳、年古りた石の家屋、痩せこけた麦の穂が揺れる農園。まるで中世のモニュメント。暗黒時代に取り残され、時の流れが途絶えた地。
風が、吹いた。海のない場所に在りながら、潮を感じた。そのみなもとに目を向ける。伸びゆく村の影の向こう、蒼古の神秘がそこに在る。地に穿たれた巨大な穴、結晶が形を成す伽藍――渇いた塩の湖が。その形はほぼ完全な円形で、半球状に凹んでいる。
村人たちの影が岩塩坑を離れ、家々へと帰っていく。きっと数世紀のあいだ、変わらず繰りかえされてきた光景なのだろう。
夜闇が近づくにつれて、風の辛さは増していく。俺は喉に渇きを覚え、逃れるように屋敷へ戻った。
3
『やはり机上の考察には限界がある、と私は思った。あの塩湖の秘密を探るには、もっと実践的な手段に訴える必要がある。これは仮説に過ぎないが、あの場所はかつて地下で海と繋がっていたのではないか。すなわち、大陸の運動によって地中に間隙が生じ、長大なトンネルとして内陸の地下と海が接続した。やがて再びの大陸の運動が地中に凄まじい圧力を生じさせ、それが為に海水が地上へと噴き出たのだ。自分でも得心しきれぬ説ではあるが、正誤を確かめる方法はある。岩塩坑の底を掘削し、海の痕跡を探すのだ』
ぬるく、ねっとりとした闇のなかを、いつしか俺は歩いていた。空気そのものが夜に染まり、陰が身体にまとわりつく。見えぬ道は迷宮のように入り組んで、微かな明かりの助けさえ、得ることは叶わない。それでも、行く先に迷うことはなく、道を違えることもない。
あの歌が、俺のしるべとなる。泡が弾ける微かな音、星の瞬くリズム、誰も知らない密かな言葉――水底から湧きあがる、この世ならざる響きを追って。足を進めるたび、歌ははっきりとした輪郭を帯び、潮の香が強くなっていく。
やがて闇を抜け出でると、仄暗い燐光に照らされた、果てない湖が広がっていた。知らずの間に、理解する。時間の流れも数学も、ここではまるで意味をなさない。世界の定理に、ずれがある。
水音が、聞こえる。潮はもはや、海よりも濃い。それは、ゆっくりやってくる。透きとおる水面の向こう、地球よりもずっと深い、遙かな深海の彼方から。
『だが何故、神の御名において焚書が厳命された異端の祭祀書の断片を、あの老人は所有しているのであろう』
これは、いつか存在した光景なのだろうか。
見下ろすと、地を覆い尽くす影の只中に、輝く炎の輪があった。それは翡翠色に燃えあがる無数の篝火であり、塩の湖の円周を、ぐるりと取り囲んでいる。病んだ炎の光彩は岩塩の大伽藍を侵食し、おぞましい偉容へと染め上げていく。透明な結晶の内部で乱反射した光が周囲を照らし、蒼古の秘密を暴きだす。
跪拝する群衆、祈りと呪いの唱和、失われた時代の祭祀。忘却の彼方に去ったはずの物語を、俺は今、目にしている。
彼らは讃え、そして謳う。潮の母、かつて来たりし者――彼らの、神の名前を。
湖は、まだ渇ききっていない。
§
「また、悪夢を見られたのですね」
すぐ隣りから声がした。目を向けると、いつの間にかあの家政婦がそこに居る。東洋風の模様が施された陶器のポットを手に持ち、相変わらずの無感情で。
テーブルの上には、手つかずのまま冷め切った朝食が残っている。料理に使われた塩の味を思うだけで、あまりにおぞましい悪夢の残滓が湧きあがり、吐き気と狂おしい恐怖が俺を苛む。それは、脳に烙印を押されたかのように焼きついて、消えることがない。
家政婦が、コーヒーを注ぎ入れてくれた。この村で口にしたもののなかで、唯一、美味いと思えた。芳しい香りが、わずか一時でも、潮の香の呪いから解き放ってくれた。
俺は礼を言ってから、今日はまだ姿を見せない老人の居所を訪ねた。
「村長は体調がすぐれず、部屋でお休みになっております。なにぶん、ご高齢ですので」
そのほうがいい。あの気味の悪い老人と顔を合わせなくて済むのは、幸いだ。俺はうわべで、老人の快調を神に祈願してみせた。神のご慈悲が、彼に健やかな活力を与えられますように。
家政婦は俺の隣りに立ったまま、じっと動かず、俺を見つめている。朝食を食べないことを咎めているのか――そうではないようだ。無感情な表情の奥の瞳に、なにかを懇願する色が宿っているのを、俺は見てとった。
何かあるのか。そう訊くと、家政婦はやっと口を開いた。
「あの学者様は、姿を消されたその日、村人を雇うことについて村長に相談しておられました」
細指の先が、微かに震えている。
「岩塩坑の地下深くを掘るため、人足を雇いたいと。ですが、村長は断りました。理由は、解りません。……その晩の事です。学者様が屋敷を立ち去られ、そのまま戻らなかったのは」
ここまで話を聴いた時点で、俺は自分がすべき行動を定めていた。村人を雇うことが叶わなかった学者は、ひとりで岩塩坑に向かったに違いない。日誌や走り書きの内容を鑑みて、あの塩湖の謎を解明することに、異常に執着していたことが知れる。独力で、湖底の調査を進めようとしたのだろう。そして、不幸にも事故が起こったのか――この先は、この目で確かめることだ。
俺は、何故今頃になってそれを話すのか、と家政婦に質した。答える。あの老人に、口止めをされていた為だと。だが、良心に従い、事実を述べることを決めた、と。
「私は神父様と同じく、ただひとりまします神を信じる者なのです」
家政婦は去っていった。俺はその背を見送りながら、呟いた。彼女に神の祝福あれ。神の実在など、信じたことも無いというのに。だが彼女の蒙昧さを、笑うことは出来なかった。
そして――潮の香が地上に満ち、暗幕のように絶対的な夜が訪れた時、俺は屋敷を後にした。
4
幾層にも重なった足場、腐食した梯子、ちぎれかけた滑車のロープ。長い年月のあいだに使い古されたそれらを伝い、渡り、踏みしめ、全き闇の支配のなかを、角燈の頼りない明りだけを頼りに、下へ、下へと降りていく。塩湖の半球状の内側を半分も過ぎたあたりから、すでに潮の香は耐え難いほどであり、俺は吐き気と凄絶な渇きを、小瓶に詰めたアブサンで誤魔化した。
真白い湖底にたどり着いた時、俺は呼吸を忘れてその偉容に圧倒された。角灯の明かりに浮かび上がる岩塩坑は、巨大な水晶から掘り出されたような煌めく構造物であり、空に向けて突きだした箇所は尖塔で、純度の高い透明な岩塩に刻まれた幾何学的なパターンは自然が生んだステンドグラスだ。神話の大伽藍と記した学者の感想は、正しい。古代の人々がこの場所に神を見出したのは、必然だろう。
周辺に学者の痕跡を探したが、放置されたつるはしや荷車、それに絶えない岩塩があるのみで、最近になって掘削された場所は見つからない。この広い湖底をどうやって探索すべきか――そう考えたとき、音が聞こえた気がした。まるで、歌うような。
その方向に足を進めると、異質な構造物があった。それは、自然に形勢されたものではなく、明確に人の手によって作られたもの。
岩塩の壁を正確無比な長方形に切り開いた門が在り、その周囲をレリーフと塩の彫像が飾る、精緻な
名状しがたい恐怖が、俺を捕らえはじめていた。レリーフに画かれたものと、彫像が象るもの。ありふれた神話のモチーフではなく、雄大な歴史の一場面でもなく、古の英雄の物語でもない。それは、狂った境界線を繋ぐ星座群であり、異形の頭を地に垂れる者たちであり、全貌の知れぬ――この世界の生命体ではありえない、巨大なものの姿。
俺は目を背けた。こんなものは、異端者たちの空想の産物に違いないというのに。だが、生々しいまでの存在感と、湧きあがる悪夢の断片が、この魂に揺さぶりをかける。これより先に踏み込むには、信仰の助力と、アブサンのもたらす勇気が必要だった。
首を振るい怖気を払う、信じぬ神に祈りを叫ぶ、熱い緑の液体を喉が灼けるほどに呷る。一歩、二歩と進み、俺は門をくぐった。地獄を巡ったあの詩人も、これほどの恐怖に耐えたのだろうか。
正面構造の内部は、どこか既視感を感じさせた。外に在ったものに似た、おぞましい細工が並び、奥にはひときわ大きな異形の像と台座――祭壇だろうか――が置かれている。ここは、そう、礼拝堂に似ている。
痕跡は、まだ見つからない。しかし、学者は間違いなくここに来たはずだ。それが解る――何故。
奇妙な確信を持って台座の裏側を確かめた時、学者が湖底に穴を開ける必要が無かったことを知った。そこには、隧道が口を開き、地中の闇へと向かう階段が伸びていた。スコップもダイナマイトも用いず、湖底の更に底を目指すことができる。
いつ誰が掘ったとも知れぬ道を辿り、深く、深く――奈落の裂け目へと下りていく。役に立たない目、麻痺しきった嗅覚、アルコールとニガヨモギの毒でぼうっとする頭。恐怖はあっても、足は自ずと進む。なにかが、俺を導いている。やがて階段は終わったが、道はまだ終わらない。
狭い岩塩の洞穴が角燈の明かりを乱反射し、幻想の色彩を空間に満たす。全方位に広がる道は迷宮を成し、もし方向を失えば、二度と抜け出すことは出来ないだろう。だが耳を澄ませば、聞こえる。しるべとなるなにかが――水の音が、遥か地中の潮騒が。
ぬるく、ねっとりとした闇。角燈の明かりを頼りとせずとも、俺は進むべき道を知っていた。それをどこで知ったのか、いつ知ったのか。思いだすことは叶わない。人の理解の及ばない、力の作用。行く先に迷うことはなく、道を違えることもない。
やがて――俺は闇を抜け出でた。そこに存在するものを、俺は確かに見たことがあった。現だろうと、夢にだろうと。
5
潮の満ちる音と、仄暗い燐光と、鏡のようにフラットな水面。湖が、広がっている――蒼古の頃に満ちていた、月のような塩の湖の、そのみなもとが。
湖には、果てがない。水平線が闇に閉ざされる彼方よりも先に、ずっと続いている。そんな事がありえるのだろうか。地の底に、これほど広大な空間が存在するなどということが。物理の法則――神の設計原理から、この場所は逸脱している。
不可思議な光が照らす湖岸に、うずくまるものの姿があった。それは汚らしく、濡れそぼってはいるが、現代のコートを着ているように見える。近くには、壊れた角燈が転がり、ガラスの破片を散らしている。俺は急いで駆け寄り、その者に触れた。冷たく、ぬめりがあった。死んでいるのだろうか。
だが奇しくも――その者は動き出した。ぐにゃり、と軟体じみて立ち上がり。俺の腕を掴む。違和感を覚える。
人とは、指ではなく吸い付く触手を持つものだろうか。氷のように冷たくて、糸を引く粘液を纏うものだろうか。打ち上げられた魚群の腐敗じみた、異常な悪臭を放つものだろうか。そして――巻き貝のような頭部と、白濁した無数の目と、十字に割れたクチバシを持つものだろうか。
俺は恐怖に竦み、後ろ向きに倒れた。混乱する現実、顕現する悪夢、奔出する狂気。なんという、冒涜的存在。それには、確かに人の形の名残がある。頭と身体、一対の腕と脚。だがそのすべてが、異形。獣と軟体動物の異常な混合。服を着ていようと、これは人ではありえない。悪魔よりも、遥かに穢れ、狂っている。
恐るべき存在は、柔らかくも強靭な両腕を俺に巻き付けると、ウインチのような馬力で締め上げる。落とした角燈が、砕ける音がした。俺は空気を求めて喘いだ。脳裏に火花が奔り、骨が軋む音がする。無数の瞳が俺を睨めつけ、残された正気を奪っていく。理解する。これは我が神の創り賜うたものではない。
やがて、その十字のクチバシが飢えた狼のアギトよりも残虐に展開し、俺の首筋を目がけて襲い――
閃光、轟音。
怪物は血をまき散らしながら苦悶の絶叫をあげた――辰砂を塗った弾丸を口に放りこまれて。拘束を脱し、残響の止まぬ間に撃鉄を引き上げる。火薬の咆哮。いくつもの目が爆ぜる。俺は錯乱に任せ、リボルバーの全弾丸を神の敵に浴びせた。
……やがて、静寂が戻る。一時だけ、硝煙の臭いが潮の香をかき消す。恐るべき存在は異形の四肢を痙攣させながら、湖へ落ちた。そして、二度と浮かび上がる事は無かった。
思考を取りもどした時、最初に自分の正気を疑った。今見たものは、果たして現実なのだろうか。とうに悪夢に囚われているのでは。だとすれば、どこからが現で、どこからが夢なのか。もう、なにも解らない。その答えをくれるものは――
虚ろな視界の隅にそれが映った。恐るべき存在が残した血だまりのなか、なにかが転がっている。ふらつく足を強いて歩み、それを拾い上げる。革の外装、束ねられた紙――日記帳、だろうか。赤く穢れたそれを開いた時、見知った文字をそこに見つけた。
湖面が、飛沫を上げた。
時間が静止した。雫が上に落下した。理性の支配が終焉を迎えた。
みなもとより現れたそれは、巨大な腕だった。人のそれに、似ている――六本の指と、水掻きと、鰭を除けば。
高々と突き上がる異形の腕を見上げた時、ようやく知れた。この場所を満たす仄暗い光。これは地中の空に浮かぶ、星々の輝きだったのだ。
狂気が満ちて、恐怖は消えた。弾丸の切れた銃と、日記帳は捨てた。逃れようとは、思わなかった。
巨大な腕は俺を掴み、捕らえ、そして、水の中へと還っていった。
§
どこまでも絶えない湖、終わりのない深淵、揺蕩うような温もりと心地。
気が付けば、俺は水中を漂っている。塩の味はするというのに、身体は浮かず、目にも沁みない。空気も、必要ない。理解している。時間の流れも数学も、ここではまるで意味をなさない。世界の定理に、ずれがある。
何故ならここは、俺が知る神の世界ではないからだ。蒼古に在りし、忘れられた外つ神。その支配する宇宙こそ、この湖なのだろう。
ああ、あの歌が聴こえる。遥かな湖底から、どこか誰かの夢へと向けて。祝福を与えようと。
泡が弾ける微かな音、星の瞬くリズム、誰も知らない密かな言葉。
俺はついに神を知った。聖典に書かれた言葉ではなく、確かな形として、確かな声として。この歌が、人類の蒙きを啓き、次なる姿へと導く、真の福音なのだ。
やがて来る、最も暗き時代。それを越え、人が人たることに絶望した時にこそ、世界に潮騒が響き渡るだろう。
やってくる。水底から。
俺を、変えるために。
潮の宇宙にあるべき、正しい姿へと。
俺の、人間が、溶けていく。
大きな影が、浮上してくる。
§
『今この時になって、やっと解った。この塩湖を生み出したもの、それが何かを。それは海でもなく、河の流れでもない。鍵は、形にあった。高台から望めばこの湖は、ほぼ完全な円形をしている。もっと早く気付くべきだった。そのような巨大な円を生み出す要因など、ひとつしか存在しないというのに。つまり、蒼古の時代、宇宙より地上に墜落した星こそが――』
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