短編第一集
二都
青の灯火
君が旅立ったのは、いつの事だったろう。
一年か、半年か――それともつい昨日のことだったのか。その日から、確かなものはすべて彼方に去ってしまった。
追憶に、なんの意味があるのだろう。それは氷の刃となって、空虚な魂を抉るだけ。褪せていく、朽ちていく――小さな手、眠たげな瞳、瞬きのような微笑みの記憶。想いも叫びも、もう届かない。君が戻ることは、もう、ない。
音を失った世界、モノクロームに沈んだ世界。雨の凋落と星の運航が、僕を明日へと連れていく。鼓動が早まることはなく、砂糖の甘さを求めることもなく、ただ今日に倦み、疲れていく。君の声の残響すら、朧になっていく。
いっそ、全てを忘れることが出来たなら――駄目だ、忘れたくなんて、ない。円環するパラドクス――心が、引き裂かれていく。
そして、白昼の陽炎に君の姿を求めた時、知らぬ者に僕は出会った。
§
「青の灯火だよ」
老紳士はそう言うと、僕にそれを手渡した。眩むほどに白銀の、太陽の真下で。
「その柔らかい光は、求めるものを君に見せてくれるだろう。たとえ、忘却の橋を渡ってしまった者の姿であっても」
それは、古ぼけた
「つらい夜に疲れ果てたならば、そら、そのスイッチを入れるといい。追憶が、形をくれるだろう」
老紳士はステッキの石突でリズムを刻みながら、昼に向かって歩き出した。その姿は、地平線に滲む染みとなり、やがて光の中へ消えていく。最後に、言葉を残して。
「だけれど、忘れるなかれ。追憶の輝きは過去のもの。歩くことをやめたならば、今日の影は容易に君を捉えるだろう。忘れるなかれ。光とは、闇の中を進むためにある」
§
冷たい霧雨の夜――月もなく、星も瞬かないその夜、僕は角燈を灯した。
瞬いたフィラメント、閃いた光――まるで、漣の合間から零れる光のきらめく水底のように、部屋が青く染め上げられていく。なんて、儚くて綺麗なんだろう。ずっと灰色だった僕の視界が、啓けていく。世界は青を取り戻していく。
そして――君が、そこにいた。青い光の中を、揺蕩うように不確かで、でも確かな君が。
停滞する時間と記憶の奔流のなかで、僕はその姿を見つめた。あの小さな手も、眠たげな瞳も、すべては記憶そのままに――いっそうと色づいて。
ああ、君なのかい。そこにいたのかい。
問いに答える声はない。君はただ、ゆっくり辺りを眺めるだけ。君が、初めてここに来た、その時と同じに。
渇いた泉のようだったこの胸に、熱い潤いが流れ込んだ。涙が、あふれた。その柔らかな髪を、あどけない表情を見ていたいのに、視界は霞むばかりで。このまま泣き続けていれば、あの日のように僕の袖を引き、困った顔を見せてくれるだろうか。
触れたい――と思った。もう失われたしまったその体温を、取り戻したい、と。
夜の寒さに震える手を伸ばす。君の――多くの物語を綴った小さな手へ。
けれど、願いは裏切られる。互いの指先は交わることなく、すり抜ける。何度も、何度も手をかざす。まるで星を掴もうとするかのよう。確かにそこにいるのに、君は遠く、届かない。そこに熱は宿らない。僕を見てはくれない。
わかっている――追憶が戻るはずなんてない。それなら、君のいない未来を生きればいいのか。延々と続く、極夜の冬を。どうすれば灯りを失った世界を歩んでいけるのだろう。
僕は呪う。寒すぎる今日、苛みの今日、眩い今日の光を。
やがて、部屋を朝の陽ざしが満たし、角燈の明かりを飲みこんだ時、君の姿は消えていた。
次の夜も、その次の夜も――僕は角燈の淡い光を頼りに、君を見つけた。
僕を見つめ返してはくれなくとも、それでも空虚な魂は一時の寄る辺を得る。流れる涙と、悪寒は止められなくても。
夜を経るたび、僕の渇望は強くなる。君に触れたい、見つめられたい、美しいものを分かち合いたい。こんなに近くにいるのに、世界の隔たりは余りにも大きくて。絶望が膨らむ、心が腐食する――砕けた追憶の残滓が心の深淵に澱んでいく。
角燈よ、青の灯火よ。どうか、僕たちの世界を繋いでください。ひとりで旅をするには、この世界は寒すぎる。僕には熱が必要なのに。君は僕のすべてなのに。
声のない叫び。意味をなさない詩。狂いゆく時間。
いつからか、角燈は知らない色を放っている。光注ぐ水底の青から、ずっと深い、深海の闇を溶かしこんだ青へと。
そして、気付いた。目にする君の、小さな吐息の音と、微かな体温に。存在する重さに。
僕は、もう幾千回も繰り返したように、手を伸ばした。壊してしまわないように静かに、ゆっくりと、そのか細い指先へ向けて。
触れた。
熱を感じた。
瞳が揺れた。
僕が映った。
君が――君が、そこにいた。
言葉の忘却、錯綜する摂理、消えゆく明日。
君を抱きしめる。甘い温もりと、暖かな匂い。同期する昨日と今日。
見つけたよ。
泣きながら、僕はそう言った。君は僕の腕のなか、クスリと笑った。
ずっと、ずっと探していた、ただひとつの真実。僕は追想の彼方を手繰り、取り戻した――とうに去ってしまった君を。
もう、決して離れない。言葉なき誓いが、魂の裂傷を癒していく。どこまでも、いつまでも、きっと君を守るから。
君が、ポツリと呟いた。僕は君の瞳を覗いた。その言葉の意味を、理解した。
ああ、そうだったのか。君が見ていたのは――
最初に、重力が失われた。僕は沈み始める。己の影から伸びた黒い触手が身体を捉え、足元に広がる闇のなかへ引きずりこんでいく。
君は、影のなかへ落ちていく僕を見下ろしている。僕と、その背後を。あの角燈を灯すたび、僕の影のなかに育まれていたものを。
闇が、僕を連れていく。暗くて、寒い場所へと。地上から宇宙へと。今日の訪れない昨日へと。
けれど、僕は笑った。
これで、ようやく君の場所へ行ける。ほんとうの君の在処へと。もっと早く、こうすれば良かったのに。
亡霊が僕を見下ろしている。震えながら、瞳に哀しみを湛えて。
終に角燈のフィラメントが焼き切れる。すべては闇と溶けあい、世界のもっとも深い場所へと墜落していくのだろう。
追憶は、終わった。
冷たい微睡み、拡散する意識、終わらない昨日。再会を果たした時、その瞬きのような微笑みを見せてくれるだろうか。
やがて夜が明けた時、あの老紳士が角燈を拾いにやってくるだろう。誰もいなくなった、この部屋へと。
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