伽藍の部屋と太陽と海


 今日の玲は、どこか集中力を欠いていた。

 この日のメインの仕事はドラマの撮影だったが、朝からどことなくぼんやりした様子に見えた。短い休憩中に近付き、声をかける。


「体調、よくないんじゃないの」

「……わかるんだ」


 自分ではうまく隠しおおせていたつもりだったのか、少し不愉快そうに彼女は言った。


「どれくらいよくない?」

「ん……微熱っぽい感じ」


 メイクを担当していた頃だったなら、ヘアメイクの過程で肌に触れるので熱があればすぐに察せられただろう。歯がゆく感じるものの、それをどうこう言っても仕方ない。


「まだやれそう?」

「大丈夫」


 ペットボトルから水を飲みながら彼女は答えた。



 しかし、やはりその後も調子が上向くことはなく、彼女によるミステイクが続くようになった。次第に現場の空気は張り詰めていく。

 そして、物語の山場となるシーンで玲はまたしてもつっかえてしまった。

 間髪入れずカットを言い渡した女性監督が言う。


「――玲さん。やる気がないのなら、今日はもう帰りますか。このまま続けても皆さんの時間を無駄にするだけですし」


 息詰まる空気のなか、咄嗟に玲の目が泳いで撮影セットの外側を漂った。すがるような色を帯びたそれは、私の姿を見つけると止まった。


 ――それはだめだ、それはだめだよ玲。

 心の中でつぶやいた私と目が合って、玲がはっとした顔になった。

 彼女は急いで監督へと目を戻し、頭を下げた。


「すみません。少し、休憩させてください。次は必ず結果を出します」



 10分間の休憩が言い渡されて、スタジオの隅のアウトドアチェアへ腰を下ろしていた玲へ、声をかける。


「はい、これ」


 自販機で購入したはちみつレモンティーを手渡す。


「――ありがと」


 彼女の表情はやはり優れない。


「正直に答えてね、今どれぐらい体しんどい?」


 空いていた椅子を引き寄せて座り、彼女の目を見ながら尋ねる。彼女はホットの小さなペットボトルを両手で挟みつつ、ちょっとの間考えてから答えた。


「……そんな、ひどい風邪とかではない。風邪の入り口って感じ」

「もっと具体的に言うと……たとえば、3万円渡すから50m全速力で走って、って言ったらやれる?」

「やれる」

「2万円なら?」

「やる」

「1万円だと?」

「――がんばります」

「5000円では?」

「……迷う」


 気弱な声で答えた彼女を見て微笑む。


「よし、ほんとは早く家に帰してあげたいけど。そして、稼ぐようになっても基本守銭奴な君だから、実際の辛さと今の答えが正しく比例してるかは疑問が残るけど、この撮影が引けたら、お粥屋さん行こ。美味しいとこ知ってるから。ほっとするよ」

「3万円級のお粥? 走る?」


 腰掛けながらもランニングポーズを取って訊いてくる彼女に、


「はは、3万もしないし、車で行くけど。お粥のあとは、一本XX誌の撮影があるだけだよ、楽勝です。――ん、お粥のこと考えたらよだれ出てきた。あともうちょいだからね、気張って行こう」


 肩を叩いて立ち上がると、こちらを見上げて彼女も頬を緩めた。




 休憩ののち、彼女はなんとか調子を取り戻して無事撮影を終えることができた。けれど、大事を取ってその後の雑誌撮影の仕事は別日に変更しておいた。

 食事へ向かう車のなかで、なるべく深刻でないトーンで口を開く。


「病人にきついこと言うのも迷うんだけど、早いうちに伝えておきたいから、さっと言うね、よく聞いて」


 こくりと頷いた玲を横目で見ながら続ける。


「わかってるだろうけど、あれはよくなかった」

「――うん」


 監督に詰められて、思わずマネージャーを頼るような振る舞いは、プロフェッショナルのそれではなかった。仕事がひとたび始まれば、私の存在など気にかけず、目の前のことに集中する彼女にあっては、見たことのない仕草だった。


「現場に立ったら君の価値は全部君で決まる、それを引き受けるのは君しかできない。私は……いつだって君の味方でいるけど、ちょっとでもそれを頼るそぶりを現場で見せるのは、君の実力を買って活躍の機会をくれている人たちに失礼だから。――今日のは、体調が悪くて思わずふらっとした結果だとわかってるつもり。どう、思う?」


 玲は、「うん……」とひと呼吸を置いてから、ゆっくりと答えた。


「もちろん頼る気持ちもあったんだけど……私のこんなみじめな姿を見て、あなたはどう思ってるんだろう、って気になっちゃったんだよね」

「……それは、なんていうか、……なんて言っていいかわからない」


 思いがけない返答に声を詰まらせてしまった。気位の高い彼女らしいとも、玲らしくもない、とも思った。

 顔を両手で覆って、彼女は大きく深呼吸した。


「ごめん、違うの。いつもはちゃんと仕事の間は仕事のことだけ考えてるつもり」


 それから手を下ろすと、ぽつりぽつりと言葉を続けた。


「でも今日は熱っぽくて、ぼうっとしてて、……集中しきれてなかった。だから、あなたの……がっかりしてる目を見て、やっちゃったなーと思ったし、こんなのってかっこわるいなーと思った。現場の人たちに失礼っていうのは、改めてわかった。ありがとう」

「――そう。疲れてる? 明日の仕事も、都合つけられないこともないよ。キャンセルしようか?」

「ううん、今夜絶対治す」


 言葉に力を込めて断言する彼女へ、「わかった」と頷き返し、それから少し躊躇ったものの言い足す。


「あの、ね。表舞台に出てるときの君のそばには、私は立ってやれない。もちろん気持ちのうえでは一緒に立ってるつもりだけど。それでもやっぱり玲が、玲でしか出来ないことをやってきたから、こんなに評価されてきたんだよ。――突き放すように聞こえたら、ごめん。ただ、そこに自信を持ってほしいし、自覚もしてほしい。……君なら出来ると、わかってる」


 言い募りながら、自身への嫌悪感が這い上ってくる。心の底から純粋に彼女を元気付けたいのに、空虚な言葉を連ねてただ彼女を働かせたいだけみたいだ。


「大丈夫。ありがとう」


 穏やかに言う彼女に救われるような心地さえして、それにもまた罪悪感を覚えた。




==============


 体の内側から温まるような薬膳粥を時間をかけて食べ、玲を自宅まで送り届ける。

 いつもはマンションの車寄せの前で別れるのだが、途中で買った風邪対策の物資や食材はそれなりの重量になっていたし、心配でもあるので、部屋の玄関先まで送っていくことにした。


 ロビーの天井は高く、座り心地のよさそうな大きなソファがゆったりと配置され、ガラス張りの壁からは常緑樹の緑が見え、開放感があった。エレベーターへ向かう途中、コンシェルジュの男性が控えめに会釈をしてくれた。

 数ヶ月前に、よりセキュリティの信頼できるマンションへ引っ越しさせたが、これなら安心だ、と改めて息をついた。玲にとってはすでに日常の一部であるようで当然何の感慨を抱いた風もなく、ぼんやりとエレベーターの到着を待っていた。


「たっぷり水分摂ってね。お腹が空いたらしっかり食べるんだよ、今日はカロリーとか気にしなくていいからね。君の好きなスープも飴ちゃんも入ってるからね」


 彼女の部屋の扉の前で、風邪薬、ポカリスエット、ゼリー、桃の缶詰、インスタントスープ、飴、冷えピタなどが入ったビニル袋を手渡す。


「うん……ありがとう」

「明日早めに来て君の様子見て仕事できそうか確認するから、今夜はしっかり寝るんだよ。仕事のことは一切忘れて、休むことに専念ね。いい?」

「……うん」


 答える彼女の目は虚ろで、熱に頬が少し染まっている。オートロックの扉を開ける手元は心許なく、「おやすみ」と言う声と表情には覇気がなかった。


 すんでのところで思い直す。

 扉の向こうへ消えようとする白いビニル袋をがっしと掴んで引き止めた。何事かうまく飲み込めていない彼女がぼんやりと振り向いた。閉まりかけたドアを押し広げて宣言する。


「はいっ。はーいはいはい、今夜は看病だ。この天使に弱った天使のお世話をさせてくれよ」

「え……?」


 惚けた表情の玲を見上げ、確認を行う。


「君がよければ、だけど。突然あがってだいじょぶ? いやなら引き下がります」

「――来て、くれると嬉しいです」


 驚きに目を丸くした彼女へ頷いて、


「あいわかった。邪魔するぜい」


その部屋へ足を踏み入れた。




 部屋へ入ってすぐに熱を計らせる。


「37.5度かあ。この体温なら、シャワーよりお風呂に浸かったほうがいいみたいよ。私お風呂洗ってくるね。バスルーム入ってもいい?」

「うん」


 未だに呆然としたままの彼女から了承を得て、


「はい、おとなしく毛布にくるまっておく」

「……はい」


 ソファにあったブランケットで頭からすっぽり彼女を包み込むと、彼女も素直に返事をする。


「これ、風邪薬。飲んでおいてください。それからマヌカハニー入りミルク、これも飲んでおいてください」

「うん」


 そして手早く風呂の浴槽を洗い、ボタンを操作して湯を沸かす。リビングのドアを開け、顔だけ出して声をかける。


「車をちゃんと駐車場に駐めてきて、パソコン取ってくるわ。……そんな不安そうな顔しなくてもちゃんと戻ってきますから」

「……ほんとに?」


 なぜこのタイミングで嘘をつく必要があるというのか。


「セトサンウソツカナイ」


 嘘をつくときの私の癖だ、と看破された――額に両手をべったりと当てながら言うと、玲は、


「信用ならないなあ」


と淡く笑った。


「お風呂沸いたらさっさと入っておいてね」

「うん」


 車寄せ付近へ一時的に停車していた車を駐車場へきちんと駐め、仕事を行うためにノートPCを持って玲の部屋へ帰る。鍵は事前に借りてあった。

 すでに彼女は入浴中のようだった。ソファで雑務を片付けていれば、入浴を終えた玲が戻ってきた。私の家へ寝泊まりしていた頃と同じ寝巻きを着ていたので、感傷が目に浮かばないよう慌てて視線を外した。


「――あの」


 戸惑いがちに声をかけてきた彼女を再び見ると、その手にはドライヤーが握られていた。


「お願いしていい……?」

「もちろん」


 なるべく何でもないように応えた。

 付き合っていた頃、私の家で彼女がお風呂に入ったあとは必ず彼女の髪を乾かしてあげていた。

 ソファに座らせて背後に立ち、ドライヤーを当てる。ヘアメイクを担当しなくなり、そして彼女が私の家に泊まることもなくなったので、彼女にヘアドライを施すのは久しぶりだった。出来うる限り、丁寧にドライヤーをかけた。


 乾かし終えてほんの一瞬、無言になりかけて、玲が肩越しに振り返って小さく訊いてくる。


「――毛布あるけど、泊まってく?」

「――んーん。君が寝たのを見届けてしばらくしたら、帰るよ」

「わかった。ありがとね」



 冷えピタを彼女のおでこに貼り、「おやすみ」とリビングで就寝の挨拶をして別れた。




==============


 しばらく仕事を片付けてから、彼女が穏やかに寝室で眠っているのを確認して、居間に戻ってきた。


 静まり返った部屋に、壁掛け時計の針がひとつ進んだ音が「ジッ」と大きく響く。

 だだっ広い部屋を見渡す。

 この部屋にある数少ない家具らしい家具のひとつに、本棚があった。写真集や雑誌が大量に収まっている。その中には、過去私が貸したことのある写真集も玲自ら買いなおしたのであろう、見つけることができた。

 ただそれ以外は、引っ越ししたあとも未開封のままのダンボール箱がいくつも片隅に積まれ、物は驚くほど少なく、生活するのに最低限の家具があるだけの、とてもストイックで殺風景な部屋だった。玲は、仕事を終えてくたくたになってはこの無機質な部屋に一人帰ってきていたのかと、胸がつぶれる心地がした。



 ……ずっと、ここに来るのが怖かった。


 付き合う前は、タレントの家にまで上がるのは違うかな、とただ単純に一線を引いていただけだったし、付き合いだしてからも最初は、なんとなく気が向かない、ぐらいだった。けれど、彼女のことをかけがえなく感じれば感じるほどに、そして彼女もまた私のことを大切に想ってくれているのを実感すればするほど、いつか訪れるかもしれない関係の終焉が頭の片隅に浮かび、次第に彼女の家を訪れることは難しくなった。


 彼女の家に思い出を作ってしまったら、もし二度と私が来なくなった場合に、彼女にもいらぬ痛みを強いるだろうから。それは自分の知る痛みだったからこそ、余計に味合わせたくなかった。

 人一人が去るだけで、部屋ががらんどうになったみたいだった。家具の一つ一つ、何気ない雑貨にも、部屋のあらゆる場所にも過去の思い出が宿っていて、染み付いていて、何を見ても聴いても食べても寝ても、その部屋で呼吸するたびにいなくなった人のことを思い出した。


 やがて玲と私の関係は冷え始め、そうなるといっそう部屋に行くことの意味は大きくなって、ここに思い出を作るのは憚られて。




 およそ生活感のないこの部屋の窓際に、ぽつんと置かれた二つの写真立てがあった。

 ひとつは家族写真で、彼女とそのご両親、弟さんが、実家の庭を背景にして並んで写っている。

 ――もうひとつは。

 部屋に入ってすぐその写真の存在に気付いたが、見ないようにしていた。


 近付いて手に取る。それは、スペインへ行ったときに写真家のアンドレが撮ってくれた私たち二人の写真だった。

 降り注ぐ黄金の太陽に煌めく海の前で、屈託なく笑い合う私たち。

 この瞬間、何も恐れるものはなくて、ただ、風に吹かれて、腕を取り合い、私たちは笑っていた。


 ゆっくりと写真立ての後ろを見ると、やはりそこには、"君たちの未来の幸せを願っています"とアンドレによって書かれた文字があった。


 その文字が目に飛び込んだ瞬間、抑えきれずに嗚咽が漏れる。


 あのとき、あの場所のあの数日間、私たちは確かに恋人だった。太陽の下で、堂々と恋人同士の距離で歩き、腕を組み、微笑みを交わした。私の隣で彼女は安心しきって、それがあまりにも無防備だから、こわいような気持ちさえして、同時に、愛しくてたまらなかった。

 そして、そんな私たちを知ってくれて、認めてくれて、応援してくれた人、アンドレがいた。

 それの、なんと安らぎに満ちて、ありがたく、幸せだったことか。震えるような嬉しさが雷撃のごとく胸に蘇る。



 ――それなのに今、自分が彼女にしていること、課していることはなんなのだろう?

 自分の意志、本当にしたいことを抑えて、ねじ伏せて、引き裂かれる思いをしながら。彼女を傷つけることしかできなくて。

 ありえたかもしれない未来を、ただ、諦めて。



 何もない床に座り込み、声を殺して泣いた。



「……」


 しばらくしてから、もう一度、写真を見る。



 ――未来には、まだ間に合うだろうか。

 彼女が私に向けてくれたあの柔らかな微笑みを、取り戻せるだろうか。



 涙を拭き、部屋の電気を消す。そして音を立てぬよう廊下を歩き、靴を履く。

 玄関の扉を閉めてすぐ、スマートフォンを取り出した。

 祈るような気持ちで通話ボタンを押す。


 出て。出て、お願いだから。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る