傾月下 波打ち際の 砂の城
ある日、撮影スタジオの通路を一人移動していると、遠くに見覚えのある姿を二つ見つけた。
「未唯ちゃん!」
声を上げ、走り寄る。
「――こんにちは、瀬戸さん」
追いついた先で、未唯は小さな頭を少し傾げ、落ち着いて挨拶を述べる。晶さんもその後ろで会釈をくれる。
「聞いたよ、未唯ちゃん引退するんだって!?」
数日前、接したばかりのニュースについて息急き切って訊けば、
「はい」
とまたもしごく冷静に未唯は返答する。
「なんでよどうしてよ、寂しいじゃんよ」
読んだ限りの記事では、未唯の引退理由は明らかになっていなかった。玲と同じ時期、同じようにモデルとして歩んできた彼女が引退するという一報は、思いのほか大きな喪失感を私へもたらしていた。
二人は視線を交わし、晶さんが頷く。未唯は淡々として言う。
「ヘアメイクをされるより、ヘアメイクをする側に回りたいな、と思ったからです」
「えっ?」
「メイク、楽しそうだなと憧れる気持ちが強くなってしまって。ヘアメイクを学んで、その道に進んでみようと思っています」
「はあ〜〜。へええ」
まさかの回答に驚くばかりでまともに言葉も発せられない私の様子に、未唯は少し口元を緩めて、
「裏方のほうが性に合っていますし」
そうかすかに微笑む彼女が、かつて、モデルという仕事について戸惑いを零していたことを思い出す。それでもやはり、今まで目にしてきた未唯の仕事を思い浮かべると、もったいないと思わざるをえない。
「表舞台で未唯ちゃんの姿が見られなくなるのは残念だな」
「責任の一端は瀬戸さんにもありますよ」
「んんっ?」
未唯の不穏なひと言に、マネージャーである晶さんの目が光る。
「何したの」
鋭い詰問を受けるが、覚えのない私は未唯に助けを求めた。
「未唯ちゃん、意味深な言い方の訳を教えて、さもないと私あなたのマネージャーさんに何らかの法的措置を受けそう」
「メイクの面白さを教えてくれたのはあなたです。瀬戸さんにメイクをしてもらってから、興味を持つようになったので」
「あ〜……そうかぁ。そうかー…。いやはや」
以前、雑誌の特集で未唯にヘアメイクを施したことがあった。その日の夜には、彼女に頼まれてメイク講座めいたものも行った。
随分と昔のことのように感じる。
あの頃は、玲と付き合うだなんて思いもしなくて、私はまだまだ新米マネージャーで、ヘアメイクアップアーティストとしての自我のほうが断然強くて。そして、玲と付き合って……別れた。
そうこうしているうちに、この若い女の子は、やりたいことを見つけて違う世界へ旅立とうとしている。
「私はもう今はヘアメイクの世界を離れちゃったけど、これからの新しい未唯ちゃんの活躍を楽しみにしてるね」
年長らしく、若者へのエールを送ったつもりだったが、未唯は眉をわずかにひそめて言う。
「――瀬戸さん、どうかされました?」
「え?」
「なんだか……元気がないように見えましたので」
一瞬言葉をなくし、それから苦笑いが漏れた。
「……はは、さすが未唯ちゃんだわ。その観察眼は、きっとメイクにも役立つと思う。心配ありがと、頑張ってね」
続けて、「この業界でまた会えるのを楽しみにしてる」と言いかけてやめる。
――わからないな、この先私がどうしているか、ここで仕事を続けていられるか。
だから代わりに、
「応援してる」
とだけ伝えた。目に力を込めて、ゆっくりと彼女は宣言した。
「修行して、力を積んできっとここに戻ってきますから、その時までには元気になっていてください」
……敵わんなあ。それまでは、この業界にいなきゃいけないのか。
再び苦笑していると、未唯の肩越しから晶さんに睨まれた。
「……なんですか」
「うちの子にちょっかい出した罪人を観察しているだけです」
「ちょっかいなんて出してませんし、観察というには剣呑な視線のように感じますが」
頑張ってね、と最後に未唯へ声をかけた別れ間際、晶さんの目元に、こちらを案じるような気配がわずかに滲んだ。どこまでも優しい人だ。
小さく笑いかけ、手を振って別れた。
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しばらく、玲の顔を見ていない気がする。
もちろん、仕事で毎日顔は合わせている。だが、目を合わせていることが堪え難いのだ。
彼女の中を覗くことが。彼女から私の中を覗かれることが、怖い。
哀しみ、もどかしさ、寂しさ、怒り、やりきれなさ。それらが噴出して、胸をかきむしりたくなる。
そしてまた、彼女もこちらを見ることに苦痛を覚えているように思う。
視線の交錯が数秒以上に及ぶと、耐えきれず逸らされる。
そうして私たちはお互いの目線を避けながら、しかし今まで通り、むしろ以前よりも熱量と集中力をもって仕事を二人で続けていた。特に玲の集中力はすさまじく、傍から見ていても鬼気迫るものがあった。
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玲のSNSアカウントへ載せる写真の候補たちを、久しぶりに彼女へ送った。
あまり写真は溜まっていなかったが、ファンからの「最近更新頻度が少なくて悲しい」というコメントをよく目にするようになったからだった。その他にも、「仕事中っぽい写真ばっかりでさみし〜」、「ふざけてる玲ちゃんが不足」などという声があった。
以前ならば、写真共有をしたときの嬉しそうな玲の様子を見たくて彼女と一緒にいる際に写真を送ったものだったが、今回は同じ空間にいないときに送信した。
しばらくして、彼女からメッセージが届いた。マネージャーの事前チェックなしで投稿するようになって久しいにも関わらず、アカウント開設当初と同様の形態で写真と文章が共にあり、チェックを求めているようであった。ただし、「添削願います」とは書いていない。
薄暗い部屋で簡素なパイプ椅子に腰かけ、視線をやや下に落とした真剣な横顔の玲の写真。
続いて文章。
――『これは あなたのことを考えていた瞬間の 私』
――『その私 を見ているあなた』
――『でも 視線が交わることはない』
単なる詩とも解釈できるだろう。彼女のアカウントでは、ファンに向けた親しみやすい普通の文章はもちろん、抽象的な詩や断片的な言葉が並ぶだけのこともままあり、それらと比べて今回のものが抜きん出て変わっているわけではない。
……でもこれは、全世界になんて公開できない。きっと、私と彼女のことだから。
彼女にお願いされたって公開させない。それはマネージャーとしての危機判断なのか、個人的な独占欲なのか。
少し迷ったのち、「これのアップは許可できない」と、あくまでもマネージャーとしての答え方で返信を行う。ややして、玲から返答がある。
――『初めて添削された。改善点はありますか?』
それから、ちょっとの間をあけて、ぽつり、
――『また向かい合える望みはある?』
「……」
液晶の上でメッセージを入力しては削除して、を何度も何度も繰り返す。
伝えるべき正しい言葉も、伝えたい本当の言葉も、もうわからなかった。結局、短く答えた。
『ごめんなさい。私から言えることはない』
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未明まで続いた仕事をやっと終え、現場近くの立体駐車場へ停めた車へ乗り込む。真冬のかじかむような空気が肌を刺す。手袋を付けていなかった両手をさすりながら暖房を最大出力にするが、助手席側のドアを開けたまま玲が乗り込んでこない。
「玲?」
声をかけたものの、暗い車外で立ち尽くしたままの彼女から返事がなく、不審に思って外へ飛び出した。向こう側を覗くと、玲は車に体を預けて顔を伏せていた。
「どうしたのっ」
車体を回り込んで彼女の体を支える。彼女はゆるゆると首を振って、かすれた声で返答した。
「……ちょっと、目眩がしただけ」
コートを通しても伝わる、以前よりも骨ばったような体の感触が気になった。少し、痩せたかもしれない。
「大丈夫――?」
覗き込んだ顔がこちらを振り向くと、予想外に間近で目が合った。
青褪めた小さな顔の中の、驚いて丸くなった瞳。無防備に少し開いた唇。支えている上半身から伝わる温かさ。
彼女を求める気持ちが、自らの内側でガスに点火したようにひと息に燃え上がる。
その気配を感じ取って、鏡のようにして彼女の瞳にもさっと情欲が走った。お互いの気持ちが須臾の間にして通じ合う。
彼女の眉根に切なさが滲んだことで我に返り一歩退くと、玲は小さく息を呑み、素早く視線を外した。かすかな羞恥心、次いで怒りが彼女の口元を彩った。
何も言わずに彼女は車へ乗り込み、扉を閉めた。
後悔が苦く、全身を浸していく。何か言葉を交わしたわけではない。けれど、はっきりとこちらの欲望を露わにしてしまったし、それは余すことなく彼女へ伝わった。
頭を振って、ゆっくりと運転席へと戻る。
「……大丈夫?」
ちらりと視線を投げながら、今一度、玲へ確認する。
「うん……」
先ほど感じた、彼女の薄い肉の下の骨の感触がかすかな怖気と共に蘇る。「ちゃんと食べてる?」という質問は飲み込んで、代わりに、
「――最近、頑張りすぎだよ」
「……」
「しっかり息抜きもしなきゃ」
「……でも」
ぽつりと零した玲を見る。
「でも……ここで努力しなくなったら、絶対にあなたは私に失望する。わかってる」
「……失望なんかしないよ。できるはずない」
小さな子どものように心細げな彼女に対し、本当にまっさらの無垢な同情の念が湧き、そして思わず語りかけていた。
「――やめたい? この仕事。普通の女の子に戻ったっていいんだよ」
口にしてから、なんて迂闊なことを、と鋭い悔悟が胸を衝くと同時に、運転席がガタンと後ろ倒しにされていた。私の上で馬乗りになった玲が、感情を剥き出しにして荒く息を吐いていた。
「――わお、鮮やか。スパイ映画みたい。……追っ手から守ってくれるの? それとも――殺されるの?」
「……」
いっそ殺したい、と激情に滾るその目が言っている。
こちらに向かって垂れ下がる彼女の長い髪をかきわけ、その頬に手を伸ばした。跳ね除けられるかとも思ったが、そうはされなくて。
そのまま、こちらの腕の中へ彼女を引き寄せる。
久々の彼女の体温と香りに、胸が締め付けられた。ぎりぎりと胸が痛んで、このまま死んでしまいそうだった。
「いいよ、私を殺しても。君になら、殺されても」
「……」
わずかに震えているその肩を強く抱きしめた。
しばらくしてから、彼女は静かに口を開いた。
「――昔、あなたは、この業界にいる間に私にとっていいものが見つかるといいね、って言ってくれた」
「……」
「でもね、そのときとっくのとうに私は、私の『いいもの』は見つけてて、だけどその『いいもの』は手に入りそうになかったから、少しでもその近くに長くいられるように、無茶な目標を掲げたの」
「無茶な……目標?」
「"この業界で天下を取る"って」
不敵に笑っていた彼女を思い出す。
「そんな不純な動機で掲げたものだったのに、夢中で仕事をしていたら、いつの間にかそっちの夢も捨てられなくなっちゃった。私の夢は、私たち二人の夢になって、そうしたらますます手放せなくなった。欲張りなの、私。それで……私はあなたを失ってしまった」
くすりと笑って、「神さまは、業突く張りに優しくないんだね」と玲はつぶやいた。
外部への吹き抜けが近い場所へ駐車していたため、外の光が届いて、彼女の黒髪を艶やかに照らしていた。目を巡らせると、冴え冴えとした光をたたえた月が見えた。
そっと腕を伸ばして、月の光を浴びているその頭を撫でる。玲は小さく、だがはっきりと言う。
「だから……中途半端にやめることなんてできない」
「うん……」
どれぐらいそうしていただろうか。そのままずっと、こうしていたかったけれど。
呼んで、と願われて、ぎこちなく呼んでいた彼女の本名、でも結局は舌に馴染むことのないまま、呼べなくなってしまった、それでも、彼女の香りに包まれていては呼んでしまいそうな、彼女の本当の名前。今は、その名を口にする資格を自分は持たないのだ。
――"慧"と、決して発音してしまわないよう、慎重に。
「……玲」
彼女を抱いていた腕を解いて、肩をかすかに押す。
そして、かつて慣れ親しんだ体温は離れていった。
==============
翌日、写真共有のSNSには、「これのアップは許可できない」と伝えた写真が投稿されていた。ただし、その写真に添えられた文章は異なっている。ただ短く、こうあった。
『あなたは私を創って、私を壊す』
スマートフォンから目を離し、暗い客席の片隅から、演劇のリハーサルで舞台上に立つ彼女を見上げる。
見目好い俳優たちに混じってなお、研ぎ澄まされた美しさ。張り詰めた演技。
きりりと立つ彼女は、舞台の照明を抜きにしても、輝いて見える。
――君は、私がいなくたって美しい。
この世界に。
凛と立つ姿を、見せつけろ。
玲瓏と、その声を響かせろ。
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