新玉の床


 重たい体を引きずり、玲から事前に預かっていた鍵を使ってそっと玄関に再び入った。

 時刻はすでに明け方近くになっている。居間へ入ると、ロールカーテンの隙間から夜明け前の光が淡く差している。


「……」


 昨夜から今朝まで夢中になって駆けずり回ったものの……今さら彼女は私を受け入れてくれるだろうか。

 緊張で息苦しい。カーテンを上げ、バルコニーの窓を少しだけ開けた。日の出にはまだ少し時間があり、深い藍色の空には白い星を見ることもできた。地上のほど近くでは、朝陽の気配に街ビルのシルエットが黒く立ち上がっていた。息を吸い込むと、春暁の冷たく澄んだ空気が肺を満たした。窓を閉める。

 あともう少ししたら彼女を起こそう。


 ぐるぐると歩き回りたくなる気持ちを落ち着けてダイニングテーブルの椅子へ腰かける。袖口の匂いを嗅いでみれば案の定煙草臭く、息をついてジャケットを脱いだ。

 昨夜買った、テーブル上の飴の袋が目に入る。赤い包装紙の中心でお下げ髪の少女がぺろりと舌を出している昔ながらのそれは、彼女の好きな商品だ。

 疲れと眠気に呆然としながら、ひとつ飴を手に取り、ゆっくり包装を解く。

 乳白色のころりとしたその飴玉は、薄暗い部屋にあって、ぼんやりと光るようだった。なんだかその在りようは、間抜けなようでも、ごくごく平和なようでも、とても清らかなようでもあった。今から自分がしようとしていることを思うと少し笑えた。


 飴を口に放り込み、そして、赤や青が散らばったカラフルなその包み紙で、ある物を作ろうと考えついた。

 よれよれの身一つの、何も特別なものを持たない私が用意できる、せめてもの私の想い。祈りを込めながら手を動かす。


 どこか遠慮がちだった鳥のさえずりが、少しずつ賑やかになっていく。ほんのりと届くだけだった太陽の光がぱっと力強くなり、眩しくて目を細めた。


 夜が明けていく。




==============


 控えめにノックをして、寝室へ入る。朝の光がカーテンの隙間からほんのりと入り込む部屋の真ん中で、玲は穏やかな寝息を立ててまだ眠っていた。熱は下がったのか苦しげではないその表情に、安堵の息が漏れる。

 額に冷えピタがありながらも彼女の芸術品のような美しさは健在で、呼吸音が聞こえてこなければ、なんらかの彫像のようにも思えた。

 もし――彼女が私を拒絶するならば、この眠り姫を見ることも二度とないのだろう。そうなると、彼女を激しくかき抱きたくなるのと、このままずっと静かに眺めていたい衝動が沸き起こった。


 なんと呼びかけるべきか迷って、結局、布団から出ている肩にそうっと触れて「おはよう」とだけ囁いた。

 小さく唸り、おもむろにまぶたを震わせて目覚めた彼女がこちらの姿を認めると、ほっとするのと同時に、ささやかな失意のような影がその目にさっと走った。


「おはよう」

「おはよう、これよかったら飲んで」

「うん、ありがとう」


 差し出した水のグラスを受け取り、彼女はベッドの上に半身を起こしてそれを飲んだ。


「熱の具合、どうかな」


 ベッドの端に腰かけさせてもらいながら訊けば、


「うん……たぶん、もう平熱になってる気がする」

「そう……よかった」


落ちかけた沈黙に身動ぎしてベッドから出ようとした彼女を、


「あの!」


と慌てて制した。目を丸くして再びヘッドボードに背を預けた彼女を見つめながら、唾を飲み込む。


「あのね……聞いてほしい話がある」

「――うん」


 怪訝そうに眉をひそめた彼女に、無理やり笑いかける。自分を奮い立たせるために。


「あのね、これから、一生に一度の、私のわがままをお伝えします。もし……もし、君がそれを聞いてくれなくても、もうしょうがないと思う。だけど……伝えさせてほしい」


 私の言葉を聞くうちに彼女の表情は徐々に真剣味を帯びて、そして黙って頷いた。私も頷き返し、息を吸って言葉を紡ぐ。


「私、やっと思い出したんだ。スペインで、私がどんなに幸せだったか。君と外を堂々と恋人同士として歩けたとき。君の膝の上で寝転んでただ風に吹かれていたとき。アンドレに私たちの仲を認めてもらって、応援してもらえたとき。どんなに嬉しくて、満たされていたか。――私は、あの時間を、あの時だけのものにしたくない。この先だって、私は君と恋人として外を歩きたいし、誰彼に遠慮することなく君の膝を占領したい。それに、私の好きな人たちに、本当の私たちのこと知ってほしい、隠したくない」


 そんな日が来るまでどれぐらいかかるかわからない。けれど。


「私は、そのときが来るまで、そのときが来たあとも、ずっと、ずっとずっと、ひとつの家で、君と暮らしたい、一生」


 目を大きくする彼女の手を両手で包み込み、話し続ける。どうか、どうか聞いてほしい。


「私は、君のマネージャーは辞めて、フリーのヘアメイクに戻る。君のパートナーとして、誰にも文句を言わせないような、"ビッグカップルだね、すごいね"って大勢に祝福されるような、実力のあるヘアメイクアップアーティストになる。――それで、私は、私の叶えたい未来を手に入れる。君とふたりで仲良く太陽の下を堂々と歩けるようになるまで、なってからも、君とふたりで暮らす、いつまでも」


 深呼吸して、ゆっくりと言葉を続ける。


「君は、この世界で何にだってなれる。それは変わらず信じてる。でも、それはもう、私、マネージャーとしては手伝えなくなった。これからはずっと、君のそばに……『玲』としての君じゃなくて、慧と一緒にいたい。最後までマネージャーを務められなくてごめん。私にとってのだいじなものを見つけたよ。ううん、もうずっと見つけてたはずなのに、守り方がわかってなかった。……ごめんなさい、今までたくさん君を傷つけてきたこと」


 ぼろぼろになっても、表舞台で光を浴びながら涙も見せずに立ち続けてきた彼女を知っている。年若い彼女が挑んでいるその途方もない状況を思うと、涙が溢れてくる。


「私は、マネージャーでもなく、メイク担当でもなく、ただ、君の隣にいたい人間の一人として、君が泣いてたらすぐ涙を拭ける存在としてありたい」


 とめどなく私の頬を流れる涙を、目の前の彼女が優しく拭う。そして、笑い混じりにつぶやいた。


「私が先に拭いてあげちゃってるじゃん」


 その慈しみに溢れた声音と表情に、さらに涙と嗚咽が止まらなくなる。


「……だって、やっと言えた。怖かった。ごめん、ずっと意気地なしで」


 くすりと彼女は笑って、私の手を柔らかく握った。


「知ってる、意気地なしってことは。ほんとにあなたは臆病で、ビビりで、お節介で過保護の……あんぽんたん」


 彼女の声が揺れだして、そしてその瞳からも雫がはらはらとこぼれ始めた。


「でも、どうしたって、私はそんなあなたが好きなの。何度諦めようとしてもできなかった。あなたを苦しませてるってわかってても、手放せなかった」


 彼女はこちらの胸元へ頭を埋めて囁いた。


「遅いよ……決心するのが。ばか。大馬鹿者。待ちくたびれたぞ。ばか」


 震えるその頭を撫でて答える。


「はい、大変お待たせしました。……大馬鹿者の私は私で頑張るからさ。世界に名を轟かせる、すっごいヘアメイクアップアーティストになるんで。君も、君がやりたい限り、プロの道を突き進んでほしい」


 彼女の肩を掴み、今度こそ私が彼女の涙を拭って、その目をまっすぐ見ながら述べる。


「――私たちのこと、絶対に、単なるスキャンダルにさせない。世間に認めさせる。つまんない悪意なんか、私の才能でねじ伏せてやる。私たちのこと、外野にぶち壊させてたまるもんか。"あの玲ちゃんが選ぶのもしかたない、この女を選ぶとは玲ちゃんさすがだわ"、って、世界中の皆を納得させてやる。"こんな二人ならお似合いのカップルだ、おめでとう"って、祝わせてやる」


 私たちを応援してくれる人を、自らの力で増やすのだ。そして、誰に憚ることなく、彼女と幸せに暮らすのだ。


「そのために、私もヘアメイクの世界で成り上がってみせる、君に相応しい実力と地位を身につけるから……その途中で私が潰れそうなときは、私を支えてほしい。私も君を一生支えていくから」



 ――叶わないことを口にできるのは、無邪気な子どもか、向こう見ずな野心家か、夢を現実にできる力を持つ者だけだ。私はそのいずれでもない。


 だから、言うのだ。


「私は、君、百瀬 慧さんと、ふたりで一生幸せに暮らしていきたいです。これが、私の夢、掴みたい未来。いろんな障害があるかも、いろんな困難を強いるかもしれない。出来ないこともきっとたくさんある。でも――私と一緒に、乗り越えてほしい」


 共に、私の夢を形にしていってくれないか、力を貸してくれ。そう、みっともなく、最愛の人に乞うのだ。


「この私の夢を、わがままを……一緒に叶えてくれますか?」


 薔薇色の頬を綻ばせて、彼女が答える。


「――はい」

「……っありがとう、ありがとう。本当に……よかった」


 ぎゅうと彼女を抱きしめて、ただただ感謝を伝えた。うん、うん、と彼女も応えながら抱きしめ返してくれる。



 しばらくそうしてから、ポケットに忍ばせていたある物のことを思い出す。

 抱擁を解いて、それを注意深く取り出し、両掌の内に包んで彼女の目の前で掲げてみせた。


「なあに」


 目尻をこすりつつ疑問を浮かべる彼女に笑いかけ、それから、「ぱっかー」と擬音を口に出しながら、箱の蓋を開くようにして手首を返した。

 私の掌には、先ほど作った、カラフルな紙が細い輪っかになった物が載っている。


「本物は用意出来てないし、お遊びみたいなもんですけど。……私の気持ちの表明として」


 それは、飴玉の包み紙を細く縒ってリング状にした物だ。恋人が結婚を申し込むときに贈る、指輪代わりの。


「マネージャー辞めるからさ、私たちの間には明確な、書類上の契約関係はなくなるよね。だけど、そんなものがなくたって、私は、一人の人間として、いつまでも君に寄り添いたい。――私の気持ちを信じてほしい。私も、君の気持ちを信じるから」


 ちゃちな指輪を掲げたまま、ベッドから降りて床に片膝をつき、彼女を見上げて伝える。


「ずっと、私と一緒にいてください。お仕事ではそばにいられないけど、同じ家で暮らして。病めるときも健やかなるときも、君を愛します。一緒に笑い転げて、同じご飯を食べて、時々……いや、ごくたまーに喧嘩して、すぐ仲直りして。――そうやって、どうか……私と暮らしてくれませんか?」


 彼女はくしゃりと表情を歪めると、両手で顔を覆って俯いてしまった。


「な、なんで」

「えっ?」


 その尋常でない様子に驚いて訊き返すと、


「……なんでこんな調子が万全じゃなくて、寝起きで、まぶたもむくんで、髪ぼさぼさで、全然可愛くないときにそんなこと言うの、もっと私が完璧に可愛いときに言ってほしかった」


恨めしげな目から涙を流すので、笑ってしまう。


「可愛いよ、君はいつでも綺麗だよ」


 親指でその涙を拭って、頬を包む。彼女はへにゃりと表情を緩め、そして答えた。


「はい……うん、暮らそう、一緒に、ずっと」

「うん……」


 それから彼女の左手を取って、丁寧に、その細い薬指へ紙製の指輪をはめる。

 彼女は左手を見つめながら、ぽかんとしてつぶやいた。


「――今、すごい頭の中混乱してる」

「なんで」

「幸せすぎて、今すぐ死んでもいい、って思って、それから、二人でずっと暮らしていくんだから、絶対に死にたくない、長生きしたい、あなたに長生きしてほしいって思って、色んな気持ちがぐちゃぐちゃになってる」

「はは。――長生きしようね、おばあちゃんになるまで」


 莞爾と笑って、彼女が頷く。


「私も指輪、はめてあげたい」


 備えていた物が役立って、心底嬉しい。


「ごめん、稼ぎが少なくて指輪は一個しか買えなかった。でも……飴ちゃん一個なら持ってます」


 誇らしげに飴玉を手渡した私に微笑んで、彼女はその包み紙を開いた。白い球体を指先でつまみ、


「この状況だと、真珠みたいだね」


と言う。


「あ、私も思ったんだー。こんなに特大の真珠は買ってあげられそうにないけどねえ」

「――じゃあ」


 剥き出しの飴玉が私の手へ渡される。


「今その真珠ちょうだい。あーん」


 そう言ってねだるように口を開けてくるから、その安い珠玉を愛しい人へ食べさせる。彼女は満足そうに笑い、それから包み紙を折り始めた。


 片頬を丸い飴玉で膨らませながら、幸福に満ちた表情で手元を動かしている、カーテンの隙間から届く朝陽を浴びるその美しい横顔を見ていると、例えようもない歓びが私の全身を震わせた。


「できたっ!」

「うわ、ぶっさいくな」


 作り終わった指輪もどきを得意げに見せてきたが、有り体に言ってそれは不恰好だった。この人料理はうまいけど、手先が不器用なんだよな。


「失礼な。丹精込めて作ったのに。……では、お手を拝借」

「……うん」


 左手を差し出す。児戯にも等しい行為だが、胸が高鳴る。

 神聖な儀式を遂行するように、二人で息を詰め、私の薬指に装着されていくそれを見守る。


 無事に偽物の指輪を同じく着け終えた私たちは、互いの手を出し合い、それを見比べた。微笑みの吐息が漏れ、そして、私の目からはまたしても涙が出てきてしまう。

 めそめそ泣く私の姿に頬を緩めた彼女が、私を抱きしめる。


 それは、懐かしい温かさで、香りで。


 どちらからともなく、そうっと背中に回した腕を解いて、見つめ合う。

 濡れた瞳が、私だけを見ている。そこには、もはやどんな影も存在せず、信頼と安らぎに満ちていた。

 自然と私たちの顔は近付き、唇が触れ――


「あっストップ」


唇が触れる前に、私は片手を互いの顔の間に挟んだ。


「え……何」


 彼女がぎょっとして問うてくる。ので、正直に訳を申し上げる。


「いや……君、風邪ひいてますやん……?」

「えっ……今この状況で……それ言う……?」

「粘膜接触はやっぱリスク高いっつうか、私が風邪もらって、また君にうつしたら元も子もないし……」

「プロポーズした直後に、キス拒否とか……愛を疑うんですけど……」


 そこまでぼやいて、彼女は急にはっと息を呑んで、


「っていうか、あの、さっきのは、プロ…ポーズ……で合ってる……?」


もじもじと確認してきた。


「はい、まごうことなきプロポーズです」

「……」


 私が重々しく肯定するや、彼女はおずおずと寝巻きのフードを頭に被り、その紐をぎゅっとしめると、下を向いた。その顔は全く見えない。


「……照れてるのかい」

「……おおいに照れています」


 フードののっぺらぼうの頭頂部だけ見せてきながら、彼女はもごもごと答える。それが可愛らしくて、やはりキスしたい気持ちが再熱したが、なんだかとてつもなく恥ずかしいから、その頭を乱暴に引き寄せ、フードに隠されたおでこへ、わざと派手な音を立ててキスした。


「愛してる、愛してるぜベイベ」


 冗談混じりに言った私を不満げに見上げて、彼女はつぶやく。


「……冷えピタ越しのデコちゅーだけでも、すごく嬉しい……久しぶりすぎて……泣けちゃう……」


 冷えピタっていうかもはやフード越しだけど。

 フードを極限まで絞っているため、目元だけ見えるそこから、彼女はぽろぽろと涙を流し始めた。何この謎の可愛い生き物。抱きしめたい。

 けれど、人生一度きりの大一番の局面を終えていったん冷静になってみると、この美しい人に触れるのは、とても勇気がいることと気付く。心臓の動悸が独りでに早まっていく。

 そうして無言で固まっていれば、彼女は呻くようにして言葉を絞り出した。


「うーー私ばっかりあなたのこと好きだ……」

「なっ…!?」


 いかなる経緯を経てその結論へ至ったのか。


「そんなことないない、ほら、聴いて私の心臓、めっちゃくちゃドキドキしてるの」


 触れ合うことのなかった期間を通じて、彼女に対する免疫が著しく下がっている。

 久しぶりにこんな近くで、まともに目を合わせて、体温を感じて、ドキドキしないわけがなかった。

 慌てて弁解した私を不審そうに見つめ、それからのろのろと彼女はフードを脱いで、こちらの心臓へ片耳を当てた。ち、近い。めちゃくちゃいい匂いがする、この生き物。あ、私昨日お風呂入れてない、やだ、臭くありませんようにっていうか煙草臭いはずだもうやだ。なんでこんないい匂いなのこの人は、だめだ息止めよう。やっぱちょっとこの細い肩抱きたいかもしれない、いやでも今そんなんしたら死ぬな私。

 私が彼女を好きであるということを証明するためには鼓動は早くあるべきなのだが、いや、でもこんなに早まってしまうと、それはそれでキモがられてしまうのではないかやだ。


 そうこうして無限に早まっていく私の胸に耳を当てたまま、彼女はぎゅうと抱きついてきた。ひっ。

 それから、上目遣いで見上げてくる。


「……」


 魅入られて、吸い寄せられるようにして唇を重ねた。


 気付けば、するするとベッドの上に押し倒されて、彼女に組み敷かれそうになっていた。脚を素早く縮こませて彼女との間に入れ、それ以上の接触をブロックした。


「だ、だめっ。もう数時間もしたら仕事だから、今は休んで」


 必死に言う私の頬に触れ、真面目な顔で彼女はつぶやく。


「――あなたの顔も赤い」


 これ以上間近でその顔を見ることに耐えられなくて、視線を外して説明を述べる。


「……そ、そりゃあ、だってブランクがあったから。君とこうしてるの、すごく、すごく……恥ずかしい」

「……っ」


 彼女は感極まったような表情を、ぎゅっと瞳を閉じて収めると、にっこりして、それからおでこ同士をくっつけて歌うように言った。


「私が治ったら、たっくさんいちゃいちゃしようね」

「……これで風邪ひいたら君のせいだ」


 恨み言を口にするこちらを意に介する様子もなく、


「そのときはかいがいしくお世話してあげる」


彼女が幸せそうに言うから、なんだか脱力して、疲れと眠気がどっとやってきた。

 私の横に寝転び、甘えるように肩へ頭をすりつけてきた彼女が、


「あ、あなたがマネージャー辞めるってことは、誰か新しい人にマネージャーしてもらうことになるんだ」


と言っても、もはや抗いようのない眠気がこちらのまぶたを重たくさせてくる。


「それについてもあとで話します、ただ、ちょっと、私すごーく眠くて、ここでひと眠りさせてくれない? あと1時間半は眠れるはず……」

「もちろんいいけど、寝てないの?」

「ちょっと野暮用で……。今はただ、眠らせて……」


 ふわふわのかけ布団を引き上げ、眠りの体制に入ると、いよいよ睡魔が押し寄せてきた。


「そういえば声枯れてる。もうすでに風邪うつしちゃった?」

「いや、全然違うから御心配なく。野暮用でね……化粧だけ……なんとか落とす……」


 ベッドの内側から手を伸ばして鞄を引き寄せ、常備しているメイク落としのシートを取り出す。

 すでに半分眠りの世界に足を踏み入れて安心しきった今、ある実感が胸にじわりと広がった。


 ――ああ。やっと彼女の隣に戻ってこられた。


 また泣けてきてしまい、目元の化粧を落とすふりをしてメイク落としのシートでまぶたを押さえつけていれば、彼女がこちらの顔に触れてきた。


 鼻をすすってそっと横を見ると、


「ほたか。ほたかがここにいる」


柔らかく微笑む彼女がいた。


「うん。嬉しい」


 笑って答えてすぐ、堪えきれずに右目から流れた涙が重力に従って、鼻を横切って左耳まで伝った。


 彼女はふわりとこちらの体を包み込んで、あやすように背中でリズムをとった。



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