夜の底 紫煙くゆらし スタア・バー(歯車職人の夜は遅い_Ⅰ)
忙しい。
多忙を極める玲の仕事に関する事務所の打ち合わせが多くなり、慌ただしくメイクを施すのが精一杯で、現場の玲をしっかりサポートするまで回っていない。
彼女の慣れた現場ならタクシーを利用して一人でそこへ向かってもらい、誰かの補助が必要そうならば事務所の手が空いている人間に代わりの送迎や現場でのサポートを頼むこともままある。場合によっては、ヘアメイクを外注することすらあった。
久しぶりに玲を家へ送り届ける車のなかで、ぽつりぽつり、今後数ヶ月を俯瞰した仕事の予定と近況報告を話す。深夜の道には人気も少なく、すいすいと車は進んだ。街灯の鈍い光が夜の闇ににじんで流れていく。
車が彼女の家へ近付くと、玲がじれたように切り出した。
「やっとまともに会えたんだから、今日ぐらい、少し家へ寄っていってよ。ちょっとは家片付いたから」
最近、セキュリティのより堅固なマンションへ玲を移らせた。引っ越し前後から、やれ荷物の整理だ、やれ荷解きだ、と彼女の家へ来て手伝うよう頼まれていたが、なんだかんだと断っていた。
「……もう時間も遅いし、早く休んで。明日の朝も早いでしょう」
彼女は声を荒げた。
「あなたとゆっくり話せる時間もない。車の中でも触れちゃだめ。ちゃんと休めって言って、あなたの家に行かせてもくれない。そして、あなたは私の家には絶対に、一度も来てくれない。――じゃあ、いつ、私たちは恋人らしい時間を持てばいいの?」
「……今は特別忙しい時期なんだから、仕方ないよ」
「ここ最近、ずっとそう言ってる」
「それは……玲の健康と安全を、いちばんに考えてのことだよ」
ため息をつかぬようにしてそう述べると、彼女は声を押し殺して言った。
「私は……マネージャーのあなたと話したいんじゃない」
「――"玲"、私は必要なことだから言ってる」
「……っ」
マンションの駐車場へ着くなり、彼女は言葉もなく車を降りた。
明日の朝も迎えには来られない。
……うまく、歯車が回らない。
彼女の世界がすべらかに、きちんと動作するように仕事をしているつもりだが、いつの間にかその機構は複雑になって大小いくつもの数えきれない歯車が間に挟まり、それらを忙しくメンテナンスする合間合間にやっと、くるくると華やかに舞う彼女の姿をどうにか遠くから見かけるといった調子だ。
一度どこかが歪み出したら、その歪みは最初は小さくともやがてあらゆる歯車に伝わり、全体の構造自体がひしゃげていく。
==========
挨拶もなく玲と別れたあと、いつも通る道路が大規模な夜間工事で封鎖されていたため、回り道をした。
ふと特徴的な建造物が、疲れきった目に入る。製菓学校の目印として巨大なケーキを模したそれに、ここ一帯はかつてよく通っていたバーの近くだと知る。
少し酒を飲もうかなとぼんやりと考えて、運転代行を利用する心積もりで手頃な駐車場へ車を止め、その店へ入った。
入り口のドアを開けたと同時、知った顔が目に飛び込む。扉に据え付けられたベルが鳴り、カウンターに座ったあちらの視線もこっちへ向いた。――未唯のマネージャーである、
お互い数瞬見つめ合ったが、ふいと彼女は目を逸らして手の中のグラスを口元へ運んだ。
息を吸い込み、カウンターへ向かう。
あの頃のバーテンダーとは違う人のようだ。注文した酒が供されて、アルコールを喉にゆっくりと流し込んでしばらく黙っていた。
二杯目を注文してから、数席離れたところに座る彼女へ声をかけた。
「……よく来てるの?」
顔をほんの少し傾けて、しかし目線はよこさずに彼女は静かに答える。
「……いや、数年ぶり。あんたは?」
「……私も」
彼女はシガレットケースから小さな煙草を取り出して、円筒形の機器に刺した。
彼女がそれを使用していることになんだか無性に反発心が湧いて、
「電子タバコかよ。時代に流されやがって」
そう皮肉を投げつけると、彼女はメタルフレームの眼鏡の奥の目を細め、白い煙を吐き出してから、
「――これは、正しくは加熱式タバコね。少しでも肩身の狭い思いをしない、涙ぐましい努力よ」
「そうまでして吸いたいもんかねえ」
「あんたはやめたの?」
「とっくに。昔より健康的なんですよ」
「どうだか」
ふっと鼻で笑って短く言葉を切るその調子が懐かしくて、静かに白状してしまう。
「……有働さんが吸ってたから、吸ってたようなとこありましたし」
「不良にさせちゃったかしら」
「背伸びしてたんだよね」
紫煙をくゆらせる彼女の横顔を見るうち、久方ぶりの欲求が芽生えた。
「……やっぱ一本ちょうだい」
「……」
ちらりと無言で彼女はこちらを見る。今日初めて会話のなかでまともに視線を交わすが、その表情は呆れが大勢を占めている。
「アナログな煙草と違って、気軽に分け与えられるもんじゃないのよ」
「え?」
「カートリッジこれしかないから」
「あ、そういう感じ」
ならいいです、と挙げかけた片手に向かって、腕を伸ばした彼女からすっと煙草が差し出された。吸い口についた朱に一瞬ひるむが、何ともないようなふりをして煙草を唇に挟み、ひと口息を吸い込んで驚く。
「うぇ。まず。煙草ってこんなに不味かったっけ」
正直に感想を述べると、彼女は怜悧な顔をむっと曇らせた。
「……今、煙草ってどんどん高くなってるのだけど」
「うーん、ソーグーッド。ニコチンがびんびん沁みるぜえ。……貴重な体験、ありがとうございました」
彼女は無言でゆるゆると首を振っている。
==========
「……」
「……」
思い思いのスピードでグラスを傾けていたが、これは現状を打破する思いがけない機会なのではないか、という一筋の光にも似た思いが膨らむ。彼女を頼ること自体図々しいに違いない。が、彼女なら、客観的で現実的な意見をくれるだろう。
勇気を出してしゃべりかける。
「お仕事を終えてひと息ついているであろうところ、……お仕事のご相談させていただいてもよろしいでしょうか」
「……はー」
首を落として彼女は大きくため息をついた。
「やっぱりだめでしょうか……」
煙草を深く吸い込んでから、彼女は煙とともに静かに言葉を吐き出す。
「普段飄々としてるのに、弱ってるときはとことん弱ってみせるの、あんたのずるいところよね」
「……弱りたくて弱ってるんじゃないんですよ」
スツールに座る脚を組み換えて、彼女は気怠げに言ってくれた。
「はあ、構わないけど。相談とやら、してみたら」
こく、と息を飲み込んで、だがどんな言葉から始めるべきかわからなくて、結局、
「……思うんですが」
「……」
「電子タバコってなんかそのふっとい機械に煙草挿すじゃん。なんか絵面的にそそられないんですよね」
どうでもいいことを口走ってしまう。
――晶さんの長い指に挟まった、細い煙草と、白い吸い口に映える口紅の跡が好きだった。
だが、こちらのうわ言を聞くやいなや彼女は氷のように冷たい一瞥を投げつけて、
「そそらせようとしてないので結構。相談ってそれだったわけ? もうお会計していいかしら」
小さなバッグへ手を伸ばした。
「あ、ごめんなさいごめんなさい!」
改めて、今現在置かれている仕事の状況を話す。玲の認知度と人気は十分に上がりきり、舞い込む仕事は後を絶たない。彼女の存在感が事務所的にも圧倒的に大きくなって私一人で仕事内容を舵取りするわけにもいかなくなり、所内で複数人と営業戦略を練りながら案件を進めなくてはならない。
有り体に言うと、現在の仕事量はもはや自分の手に負えなくなっている。そしてその状況は日に日に悪くなっていた。いつか取り返しのつかないミスをしでかすのも時間の問題だと思えた。
「未唯ちゃんも、すごく忙しそうでしょう。すごく大雑把な聞き方になっちゃいますけど……有働さんは、忙しさをどう管理してるんですか」
こちらの言葉を聞き終えた彼女は、酒を数口飲み、それからゆっくりと口を開いた。
「……まず前提として、仕事はタスクの分解と優先順位の組み立てが全てでしょう。そして、組織の中の立場と、相手との関係性によって、求められるものは違う。自分の立ち位置を正しく把握しておかないと、見当違いの優先順位を付けてしまう。特にこの業界は、立場なんてものは目まぐるしく変化するから、マネージャーとしては常に自分たち――タレントが今どんな位置にいるのか、鋭敏でいる必要がある」
「……はい」
「だけどあんた、少なくともマネージャーとヘアメイクの二つの立場を抱えてるわけでしょう。立場云々というより、まるっきり違う部門よね。ただでさえスピード感の早いこの業界で、その二つの違うレイヤーを通してタスクと優先順位を整理しながら、都度それぞれの仕事を並行してきちんとこなす? あんたがそんな器用なタイプじゃないってこと、わかってる?」
「……存じて……おります……」
小さく返答する私を横目で見て彼女は煙草をひと吸い、煙を長く吐き出してから言う。
「根本の問題から目を逸らしてると思う。全部は手に入れられないんだよ」
「……」
そして、静かに、だがはっきりと告げる。
「無理だと思うよ、今の体制は」
苦く、やるせない気持ちが胸のうちにじわりと広がっていく。
わかってはいた。ただ、その事実に向き合うことを避けていた。
「…………」
口にするべき言葉が像を結ばず、グラスがテーブルの上で作っている光の模様を見つめていた。
黙って新しい煙草を手元で用意していた彼女は、こちらへ向けた視線をわずかに厳しくした。
「そんなこと、とっくにわかってたでしょうに。――そのうえで、あんたが正しい判断、というか行動ができない原因、自分で気付いてるでしょ?」
何のことかわからず、ただ見返すと、彼女は淡々として言った。
「はっきり言うとね、あんたたちの仲良しこよしっぷり、目に余る。ちょっとでも注意深く見ていたら、視線の親密さ、熱量が普通じゃないことはわかる」
――晶さんは、玲と私が付き合っていることを承知しているというのだ。
「……うそ。わかる?」
玲と付き合い始めてから晶さんと現場を同じくしたことは、すれ違った程度のものを含めても数えるほどしかないはずだ。
愕然とした私に、彼女は薄く笑った。
「……他人には、どうかしらね。少なくとも、いつだったかは私たち、そういう視線を交わし合った仲だから」
「……」
皮肉じみた笑みを口元に浮かべた彼女に対して何か返答しようとしてできず、グラスに口をつける。
少し語気を鋭くして彼女は言った。
「それが役に立ってるの? いい影響より、悪いことのほうが多いんじゃないの。個人的な感情にひきずられて、出来ないことまで抱え込んでちゃあ、どうしたって無限大に忙しくなる」
彼女もグラスをぐいと傾けて飲み干し、次の酒を頼んだ。そして酒ができるまでしばし待ち、ため息をついてスツールをこちらへ向け、正面からこちらを見据えた。
「私たちマネージャーの役目は黒子に徹底すること。環境を整えて、本人のモチベーションを最大限に伸ばす。……それなのに、そのモチベーションを目一杯左右する存在になってしまっては、だめでしょう」
「それは……本当に、そう」
絞り出すようにして答えた私に対し、ほんの少し黙り込んでから、
「――あの子の今後のこと、ちゃんと考えてあげたら」
その言葉には、慮るような柔らかい響きがあった。
相談に乗り気ではなかったのに、きちんと誠実に言葉を届けてくれる。その、厳しくて優しいところは変わっていない。
全てを見透かしているような目。当時はそれから逃げたけれど。
公にできなかった恋。公にしなかった恋。
それが後ろめたくて、その後ろめたさや恐れを全て知られていて。そして、私たちの関係を周囲に打ち明けてほしいと彼女が考えているのもわかっていた。それを知っていてなお、私の怯懦から彼女の願いに沿ってあげられなかった。
いつしかそれは、私たちの関係を腐らせてしまっていった。
私はまたも、同じ道を辿ろうとしているのだろうか。
――いや、『世間』に広く存在を知られている玲の場合は、私たちの恋がいまだ"普通"ではないとされるこの世の中で、それが公になったときに彼女が失うもの、傷つくものは計り知れないはずだ。
「……わかってる。このままじゃいけない、もっとあの子にとっていい道があるだろうってこと。……わかってるのに、どうしても、できなくて……手放せなくて」
「――へえ、そんなに執着してるの」
彼女はすう、と目を眇めた。
こちらが何か口にするよりも早く、彼女は短く息をついて、
「まあ昔のことはもういいんだけど。問題は今のあんたたちのことだった」
少し苛立たしげに煙草を灰皿に押し付けた。
それからグラスの縁に指を這わせつつ、ぽつりと言葉をこぼす。
「――そういう立場も含めて、隠さないでいいから。今あんたがどんなことを感じてるのか、いったん言葉にしてごらん」
「ありがとう、ございます」
視線こそくれないものの、彼女なりの気遣いがこもった在り方に、弱った心が揺り動かされて思わず涙がこみあげそうになる。
「私は彼女に対して……私生活におけるパートナーとしてはもちろん、そのほかにも……友達のような、姉のような、母のような、ヒーローに憧れる子どものような、あるいは、手の届かないものに憧れる信徒のような……そういう色んな気持ちを持ってる。そのどれも、彼女を大切にしたいってところは同じ。だけど……私はマネージャーでもあって。表舞台でたくさんのプロたちを相手に一日中緊張感をもって休みなく働いてる彼女こそすごくギリギリでやってるのに、あの子にとって今は大事な時期だから、彼女の尻を叩いて発破をかけて、うずくまりそうになってる若い女の子をまた立ち上がらせなければならない身でもあって……」
グラスを揺らして、自分の中から言葉を探す。晶さんは黙って待ってくれている。
「私としても、弱ってるあの子をむりやり仕事に向かわせるような仕打ち、したくないのに。だからせめて、マネージャーとしてきちんと支えたいんだけど、その行為自体があの子を悲しませてしまうこともある。それどころか、マネージャーとしてさえ、この頃は時間がなくてろくに彼女のそばにいてやることもできない。単に一人の人間として支えてあげたいって思うのに叶わない。最近はずっと、引き裂かれるような心地で……」
「マネージャーとしてタレントに対して課すこと、個人として彼女に相対すること、それはどうしたって矛盾するでしょうね」
表情はつまらなそうに、言葉をそっと置く彼女を見ていたら、若かったときの投げやりで無責任な気持ちが沸き起こってきた。
「もういっそ、全部かなぐり捨ててしまえたらって思ってしまう」
「だけど、そんなことはできない」
「……うん」
非現実的な甘えた放言も、彼女はちゃんと否定してくれる。
「よく考えなさい。いずれにせよ、今のままじゃ、破綻する」
ごてん、とカウンターに額を預けて、目をつむる。締まりそうになる喉から、ようやっと声を出す。
「本当は……すべきことはわかってる。でも……それはしたくない。これは私のエゴだけど」
「……」
身をのろのろと起こし、彼女へと顔を向けて言う。
「そんなことしたって弥縫策でしかないって有働さんには思われるかもしれないけど……やれることからやってみる」
「――あがいてみることはいいんじゃないの。あがいてる間に、別の道が開けることもあるだろうから。無駄じゃない」
そっけない物言いだけど。
やっぱりこの人は、とてつもなく優しい。
「わかった、ありがとう。あの子のためになると思うこと、やってみます」
彼女はじっと見返してきて、それから微かに笑った。
「なんか結局、惚気られたなー」
「そう、ですかね」
「そうよ」
彼女はくっとグラスの中身を空にすると、無造作に眼鏡を外した。その鼻の付け根には眼鏡のパッドの跡がついていた。
眼鏡を外されてしばらくは残る、そのかすかな窪みを昔はよく触った。好きだった。
ちくりと何かが胸を刺す。
ちらりと視線をこちらに投げた彼女は不快げに眉根を寄せて、
「……あんた昔のこと思い出してんじゃないわよ」
「なんでわかった」
「顔に出すぎ」
「いや、有働さんの観察力が尋常じゃないんス」
そう苦笑しながら、ふと、ある物のことを思い出す。
共に暮らしていた部屋に彼女が忘れていったルージュ。
がらんどうになった部屋にぽつんと残されていたそれは、捨てる気にもなれず、その家を引き払ったあともまだ手元に取ってあった。
返すべきか訊こうかと一瞬思ったが、やめた。
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