居心地の悪い部屋②(東風吹きて_Ⅲ)


 モデル当人が納得していれば、どんな指示を出そうが問題なかろう、と水を向けられた玲は、やや固い表情で少し押し黙ったものの、瞑目したのち、落ち着いた様子で口を開く。


「……実際、先ほどから私は少し、不安と怖さを覚えていました。それでも、私さえ我慢すればいい、と思っていました。

 ですが、私一人が今我慢して、これも許されるんだ、どう扱ってもいいんだ、という感覚が作り手側に広がってしまったり、私たちはどう扱われても仕方がないんだって、この場にいる同じ女性たちへ感じさせてしまうのは、もっと怖いことかな、と思いました。

 そういう事態を作り出すのだとしたら、これは私だけの問題ではありません。……いえ、むしろ、私のいっときの恐れから、ただこの時間だけを耐えて過ごすなら、それは私の責任で、私がのちのちまで負う問題だと思います」


 彼女は、一度息を大きく吸ってから、広いスタジオへ力強く、朗々と声を響かせる。


「……ですから、どう作ろうか、どういう風に作れば本当の意味でいい作品になるのか、今からは、監督や、私、何か少しでもアイディアがあればもちろん現場の他の方も交えて、もう少し、意見を持ち寄って、一緒に作ってくれませんか。

 それが普通ではないやり方なら、今日、ここから新たに始めましょう。"始まりの朝"というテーマにふさわしい、そういう仕事にしましょう。変えること、変わることの希望を表現しましょう。協力してくれる人たちは、きっとたくさんいます」


 玲が示すように広げた腕の先に、照明や、衣装、美術、制作の女性が集まってきていた。決して彼女が一人ではない、と教えてくれるかのごとく。

 誇らしい気持ちと、ありがたい気持ちに、泣きたくなる。


 寄り集まってきていた女性たちと揃ってT氏へ視線を向けると、


「……じゃあ、勝手にすればいいよ」


居心地が悪そうに彼はあさっての方向へ視線を投げて言った。



 降りかけた沈黙を破って、衣装を担当する女性が遠慮がちに声をあげた。


「あの〜、さっきちょっと思ったんですが、今首に巻いてるスカーフ、これは――」


 ありがたい。本当に。

 その場を静かに離れて、O監督の横へするりと並ぶ。衣装の女性と玲がやりとりする様子を遠目に、声をひそめて彼へ語りかける。


「Oさんの撮影、玲はいつも楽しみにしてるんです。思いもしない発想で違う世界が見られるからって。そのあの子がさっき、あんな風に言いました。

 ……Oさんは"始まりの朝"をどう表現なさいますか」


 隣をそっと窺い見ると、彼は口を引き結んで拳をぎゅっと握り、それから椅子を立ち上がった。

 そしてセットの中心へ歩み寄り、声を張り上げて、


「いいね、その提案。やってみよう。じゃあ、顔を隠したスカーフの色と合わせて、黄緑色のモチーフも増やそう。そこのシルクと似たような色調の小物、何かある? できればそこのポットと同じくらいのサイズ感がいいんだけど」


彼は美術担当の女性へ顔を向けた。


 止まっていた時間が、生気を伴って動き出したのがわかる。

 うん、うん。たぶん、もう大丈夫。




===============


 玲の言葉をきっかけにして撮影現場は活き活きと回り出した。各分野のプロたちが意識して互いに意見を出し合うので、なんら専門的な知見を持たないT氏は蚊帳の外状態が続いている。時折愚にもつかない戯言めいたものを差し挟んだが、撮影に関わるそれぞれの人が、己の職人としての理をもってそれら戯言を撃ち墜としては、いい作品を作ろうという目標のもと結束を高めていっていた。


 私も、セット上で監督や広報担当の人、玲を交えてヘアメイクの方向性を今一度確認し、メイクの修正を施した。今日やっと、本当の意味で集中してヘアメイクの仕事が行えて楽しい。


 メイクボックスを抱えてセットから降りた私をT氏は訝しげに見てきたが、無視して通り過ぎた。



 この次にメイク直しのために壇上へ上がった私へ、ねちっこい声がかけられた。


「あーあ。化粧だけやってりゃいいのに。素人に興味本位でマネージャーなんてやられちゃあ、こっちも迷惑なんだよなあ」


 マネージャーと名乗る女がたびたびヘアメイクを行っているので、どこかで私の来歴を聞き出したのだろう。

 今までだって何度もメイク直しに入っているのに今更気付くあたり、悪意のほかは観察力も知能も備えていないのだろう。可哀想な人だ。

 もはや、そんなことを彼に言われようが私は痛くもかゆくもなかったけれど、玲が耐えかねて反駁しようと息を吸うのがわかった。彼女はこの種の陰口を非常に嫌うのだ。

 今にも立ち上がらんとした彼女の肩を押さえ、T氏のいるスタジオの暗いほうを見下ろして、へらへらと笑ってみせた。


「本当にね、おっしゃる通りで。意外とマネージャーの仕事も楽しかったので欲張っちゃって。至らない部分もたくさんあって色々とご面倒おかけするんですけど、どうかご寛恕願えませんか」

「……」


 おとなしく黙って聞き流すでも、しかつめらしく抗議するでもなく、馬鹿のように笑って応えたこちらに気勢をそがれてか、はたまたスタジオにいる女性たちが一斉に振り返って彼を見つめたことに気圧されてか、腕を組んだT氏はふっと鼻で笑ってそれ以上は何も言わなかった。


 振り返ってヘアメイクの続きを行う。玲は不機嫌な顔。


「め。眉間にしわ寄せない」


 険しい山脈を築いていた彼女の眉間を二本指で平らにした。


「だって……」

「め。いつも通り、堂々として」

「……」


 目をつむり大きく息を吸って、また目を開くと、彼女は下界のつまらぬ些事などどこ吹く風の超然とした空気をまとった。




 撮影はその後もおおむね順調に続いたが、ピンクのシャツの首元をぱたつかせたり、ふうふう言ってうちわを扇いだりして、T氏がなんだかやたら暑がり始めたことに気付いた。よくよく見ると、彼の座るそこだけ妙に明るい。

 照明の元を辿ると、キャットウォーク上の若い男の子がそれとなく光を彼に集めていることがわかった。


「ああっもう、喉乾いたからちょっと出てくわ、適当にやってて」


 だらだらと流れる汗を拭いながら、T氏は荒っぽく立ち上がってスタジオを出て行く。

 あんたなんかいなくたって、むしろいないほうが円滑に現場は回るんだけど、と思ったが、「ふぁ〜い」といった曖昧な返事がまばらに撮影メンバーから一応返る。

 あ、本当に功を奏した、といった様子で口元に拳を当てて笑っている若者の下へ歩み寄って、組んだ両腕の隙間から、ぐっと親指を立ててみせた。すると、にかっと白い歯を見せて彼も親指を立てて返してくれた。



 結局、自らの横暴がすんなりと受け入れられる環境はすでにないと悟ってか、その後T氏がスタジオに戻ることはなく、無事に撮影も完了した。




===============


 短い打ち合わせを挟み、その日最後の仕事として、玲はドラマの脚本の読み合わせに参加していた。


 基本的にヘアメイクの直しも生じないし、聴き漏らしてはならない情報へ主体的に神経を尖らせる必要もないので、ホン読みの仕事の場合は部屋の片隅で私もゆっくりと座るか、内職ができる。

 彼女は普段通り、自らの役に集中して演じたり、和やかに共演者と談笑したりしていた。だが、表にはおくびにも出していないものの、今日一発目の仕事以来、彼女が一日中ぴりぴりしていることは知っている。




 読み合わせが行われている中央付近の机たちから離れた片隅に座って、"新しい朝にふさわしい仕事を"と呼びかけ、見事に空気を変えてみせた彼女の頼もしく、尊厳に満ちた姿を思い出す。


 毅然とものを言えるようになったんだな、と思う。

 いつ頃から彼女はあんな風に立ち振る舞えるようになったんだろう、と疑問がふとよぎり、スマートフォンを手にした。日々の記録として私が残している彼女の写真を見返す。



 土産物屋の菓子を厳選している真面目くさった横顔の写真。

 芝生の上でカメラに手を伸ばして笑っているぶれぶれの写真。

 なんだか気難しそうな顔を机に載せてぶうたれている写真。

 遠く、撮影メンバーと打ち解けて笑い合っている写真。

 撮影の合間、薄暗い空間でぼんやりと背を丸めている後ろ姿の写真。

 餃子をこのうえなく美味しそうに頬張る写真。

 化粧を落としたばかりの、前髪をあげたすっぴんで眠そうな写真。

 地方のゆるキャラ像の隣で澄まし顔をしている写真。

 だらしなく横たわって台本を掲げ読んでいる写真。

 降り注ぐ夏の光のもと、白い頬にまつげの影を落としている写真。

 突然振られた大雨にびしょ濡れになって呵々大笑している写真、など。


 どれも、どんな仕事の時のものか、どの仕事の合間のものか、すぐにわかる。

 この仕事は苦労したなあ、また一緒にここ行きたいな、あの仕事は彼女にとってのターニングポイントだったな、この時はものすごくはしゃいで楽しかったなあ、などと目まぐるしく思い出が蘇った。自然と頬が緩む。



 控え室の畳の上で眠っている写真もある。

 それに続く、寝起きで寝ぼけまなこの写真、意識がはっきりしていくまでの何枚かの連写。これらは、彼女の隣へ寝転がって間近で撮ったものだ。

 この中の最後は、SNSへ載せる候補として自信の一枚だった。

 何とも言えぬ、かすかなニュアンスの表情をしている。起きたばかりで、夢からまだ覚めきらないような、現実に戻ってきたことを切なく思うような、あるいは戻れたことの幸せを噛みしめるような。

 玲ならこの玄妙な美をわかってくれるだろう、と考えていたが、SNSに載せるものとして彼女には選ばれなかった一枚。


 そのときは、「なんだーい、いい写真なのにな、ちぇっ」くらいに思っていたけれど。


 ――いやいやまさかこんなの選べないって。


 今はこう感じる。

 意識が覚醒するに従い、カメラの存在に気付いて、困ったような、恥じるような、でも幸せに満ちて、その幸せ自体が切ないような。

 この写っている人は、"カメラの向こう"の人間にそれを捧げてしまっている。きっと……その存在を愛おしく感じている。


 そして、この撮り手も、レンズの向こうの人を確かに愛おしく思っている。だから、この写真を撮れている。



 全身の血が巡りだす。

 この撮り手はいつから彼女にそのまなざしを?


 そう思いながら、慌ててこれまでの写真を見直す。

 ……




 ――ぱたり、とスマートフォンを机に置き、額に両手をついて、倒れこみそうな体をどうにか支えた。


 ラブレターみたいだ。お互いの。



 さっきの寝起きの写真だけじゃない。

 共にいられる喜びが、手の届かない存在を見る苦しさが、あらゆる写真の端々に表れている。


 恋い焦がれる視線が、レンズを通して交錯している。



 ……うわあ、なんてものを、私はSNSを通じて世界に発信していたんだろう。


 思わせぶりも何も、とっくのとうに想っていたじゃないの。




 おずおずと顔を上げて、部屋の中央にそっと視線をのばす。

 古ぼけた蛍光灯の平板な灯りのもとにあって、だが彼女だけが光り輝いて見える。



 そうだ。君は、いつでも眩しかった。私にとって。ずっと。






===============



 バタン! と荒々しく車のドアが閉められる。

 長かった今日の仕事も終わった。それぞれの家へ帰るだけだ。


「アーもうむしゃくしゃする!」


 助手席に座るやいなや、長い髪をわしわしと振り乱して玲は吐き捨てるようにして言った。

 珍しく仕事の苛立ちを露わにしている彼女に苦笑する。


「今日は本当におつかれさまでした。よく耐えて、よく働きました」

「耐えた……! 耐え抜いた! 私、ちゃんとプロフェッショナルに徹してたよねっ?」

「うんうん、あんな男に対して、ちゃんと最後まで礼儀正しかった。いつ牙を剥いて食い殺すかとはらはらしたけどね」

「……ほんとはあいつの喉笛食いちぎって、二度とあの薄汚い口をきけないようにしてやりたかったよぉ……」

「おおこわ」


 暴れ出したいのを抑え込むかのごとく、身体を折り曲げ膝に顔を埋めて彼女は「ほんと…むかつく……あーもう……」とつぶやいている。

 今朝、未来を背負って堂々と何十も年上の男と対峙した彼女だが、今は華奢な肩を縮こませている。

 この肩が、どれほどの重圧を耐え抜き、押しつぶされそうになりながら、背筋を伸ばしてここまで歩いてきたか。


「よし、玲ちゃん」


 顔を上げて泣きだしそうな表情をさらした彼女へ、サムズアップして暗い笑顔を向ける。


「これから飲みに行ってあいつの悪口言いまくろうぜ!」


 一拍置いて、彼女も悪巧みたっぷりに笑う。


「おう。けちょんけちょんにしてやろうぜ!」

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