居心地の悪い部屋①(東風吹きて_Ⅱ)
「なんで最近避けるの」
部屋を出ようとした腕を玲に取られた。
驚いて彼女を振り返ると、静かな、しかし気迫に満ちた目が、まっすぐ視線を返してきた。
次の撮影は自由度の高い内容になることが予想されたため、メイク道具も幅広く取り揃えてある。普段持ち運びするメイクボックスの量では心許なかったので、大きいキャリーケースに詰めてきた。
メイク道具を広げるにも時間がかかりそうだから先にメイクルームに入っている、と玲へ短く告げて控え室を出ようとした直後の出来事だった。
部屋の外へ踏み出しかけていた足を戻してドアを閉じ、ため息をつく。
「……今言ったでしょう。どんな要望にも応えられるように、道具を用意しておきたいだけ」
顔を合わせるのを恐れて、閉じたドアの前でぼそりと述べるも、彼女は腕を解放してくれない。
それどころか、腕をぐいと引き寄せ、彼女と真正面から相対するよう強要してきた。向き合って見上げた玲の目は、先ほどよりも感情を色濃くしている。
「……今日のことだけを言ってるんじゃない。最近、ずっと私を避けてる」
鋭い視線が、私の心臓を締め付ける。
その視線からどうにか逃れたくて、自由なほうの手で目元を覆って、弱々しく反論するだけだ。
「……避けてないって」
嘘だ。
驚天動地の"可能性"に当てられて、年甲斐もなく全力で混迷を極めている無様な自分を落ち着かせたくて、ここ数日は、休憩時間も何かと理由をつけて玲と同じ空間にいないようにしていた。
目元へかざしていた手もまた取られる。
「嘘」
小さく言った彼女に両手をしかと掴まれ、逃れることも、隠れることもできなくなった状態へ追い詰められた私は、観念してその人を見上げ、言葉をなくした。
その目には、はっきりと、"お前が欲しい"という熱が赫々と燃え盛っている。
一歩、彼女が距離を詰めてきた。
瞳の焔は絶やさぬまま切なげに眉をひそめて、彼女はうめくようにして囁いた。
「……なんで」
突如、この目の前の人が、ただひとつの生身の肉体を持った人間なのだと、強烈に理解させられる。
体温を持ち、脈を打ち、怒りと痛みと熱情に、柔らかい体を波立たせている一人の女性なのだと。
これすらも、この私を騙すための演技だと、私は言うのだろうか?
自分がごくりと息を飲み込んだのを一瞬遅れて自覚する。自然とあとずさりした足が、閉じた扉にぶつかった。
握られた両腕が熱い。
もう何も、言い逃れもごまかしも思いつかなかった。
熱源から顔を背けて目をつむり、赦しを請うことしかできない。
「――お願い、お願いだから。あんまり、思わせぶりなことしないで。……困る」
「……」
つかの間沈黙が降り、恐る恐る視線を向けると、握られていた両腕がゆっくりと扉に押しつけられて、また一歩、玲の身体が距離を縮めてきた。
もはや距離なんてものはほぼない。彼女の体温すら感じる。
「……」
こいつぁもしかして、か、壁ドンてぇやつじゃないですかい?
まさか、こんなシチュエーションが私にもたらされる日が来るなんて。しかも、この玲から。
いや、両手の自由が拘束されている分、ただの壁ドンではなく、もっと別のスーパーな……。
――この不可解な状況にふさわしい曲を選ぶドン! かの有名な太鼓のキャラクターが脳内で陽気に語りかけてきた。
思いもよらぬ事態に、混乱と恐怖と落ち着きと、いっそ面白さがごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。フルコンボだドン!
間近で対峙する玲は、猛る
「……私が、あなたに――」
――ドガシャンッ!
そのとき、扉の外から派手な物音が鳴り響き、そして、
「ってぇな! 誰だよこんなとこにでかい荷物置きやがって!」
思わず身もすくむ男性の怒鳴り声が届いた。
「……」
二人して一瞬黙り込んだが、
「――あ」
思い当たった。
「……私のものかも」
押さえつけられたままの手から人差し指を一本出せば、彼女もふっと息を吐き、張り詰めていた空気を霧散させて、自由の身にしてくれた。
扉をそうっと細く開けて廊下の様子を伺うと、私のメイク道具を詰めたキャリーケースが先ほどとは違う場所に位置し、一人の男性がぶつぶつとつぶやいていた。
不穏なものを予感したため、再び閉じた扉の内側で玲へ、
「話をシンプルに終わらせたいので、君は絶対顔を出さないように」
と言い置いておく。
部屋を出て、まだ何事かつぶやいている中年男性の背中に声をかけた。
「あの、どうかされました?」
「そこの邪魔な荷物にぶつかったんだよっ」
振り返った彼は怒り心頭とばかりに太い黒縁眼鏡の奥の目を釣り上げ、私のキャリーケースを指差して言った。
「……申し訳ありません。それは私のものです。お怪我はありませんか」
「んだよ! てめぇのかよ! 転びでもしたらどうしてくれんだよ!」
さらに感情を昂ぶらせたその男の声に後方の扉が開かれかけたが、かかとを付けて押さえていたので、玲が出てくることは叶わなかった。深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
「ったくよぉ! ふざけんなよ!」
吠えながら、その男は怒り任せにキャリーケースを足で蹴った。大きな音を立ててケースが壁にぶつかり、跳ね返ってまた少し移動する。
瞬時に口から出かかった抗議の言葉は、今ここにどういう立場の人間として自分が在るのか、という意識によって、すんでのところで声帯を震わせることを回避した。だが、飛び出す先を失った言葉は、腹の底に沈殿していって
端的に言って、"クソ野郎、もしも何かが壊れてようもんなら末代まで祟る"、という感情がめらめらと身体中を支配してゆく。
「気をつけろよな!」
吐き捨てるように言って、男は歩み去っていく。
もう謝罪を口にする気にもなれなかったので、無言、無表情で相手を見送る。
確かに、壁側にぴたりと寄せてはいたたものの、広くない通路に大きなキャリーケースを置いていたのは、不用心だし危険だった。
だが、だからといって、他人の所有物をぞんざいに、積極的に攻撃的な意志をもって扱っていいとは思わない。
――こういう時、自分がもし、体の大きな強面の男性だったらどうだっただろう、と思わず考えてしまう。二度目のキャリーケースの移動は起こりえなかったのではないか。
そんなことを考えても、感じた不快感も恐怖も怒りも収まるどころか、ふつふつと昏くたぎるばかりで詮無いのだけれど。
悔しさから目に浮かびそうになる何かをこらえながら荷物へ歩み寄ってしゃがみ、しかしキャリーケースに手をかけたまま立ち上がれずにいると、後ろで控え室の扉が静かに開いた。
「……大丈夫だった?」
「顔出すな、つったじゃん。……大丈夫、とても不快感を感じているが、死んではいない」
「……あの人?」
細く長く続く廊下の奥をまだ歩いている、派手な蛍光ピンクのシャツを着た中年男性の後ろ姿のことを指しているのだろう。
「そう。もう見ないで、玲の目が汚れる」
「……ごめんなさい、私が引き止めたばっかりに」
「違う。私の不用心が招いたことだし、他人の物に敬意も払わないで八つ当たりする、最低の大人が悪い。だから玲が謝ることなんかじゃない。……ごめん、道具の様子確認したいし、もう行くわ」
うまく笑える自信も、情けない顔をさらさない自信もなかったので、彼女の顔も見ずに重たいキャリーケースを引きずって歩き出した。
少しして、奴の末代まで祟ることが決定した。
高かったのに。あのファンデ。けっ。家でどうにかちまちま使うよ、まったく。
===============
気遣わしげに接してくる玲をこれ以上心配させないよう、表面上だけでも明るく振る舞いながらなんとかヘアメイクを終え、撮影開始となったのだが。
うわ、あいつじゃん。
関係者紹介の場に、広告代理店の人間の一人として、先ほど廊下で会ったあのピンクシャツの男がいた。
「……先ほどはどうも。誠に申し訳ありませんでした」
ひくつきそうになる頬をどうにか抑えて、再び頭を下げておく。
「あんたか。玲ちゃんのマネージャーだったとはねえ」
べっとりとしたしゃべり方と、酷薄な笑みを薄く貼り付けた表情に、嫌悪感を表さないよう努力を要した。
関係者間の挨拶が終わり、それぞれが定位置へ向かうなか、隣に並んだ玲がそっと声をかけてきた。
「……"うわ"って、露骨に顔に出てたよ」
「……今朝ね、いつも見ないようにしてるのに星座占い目にしちゃってさ。最下位だったの。『波乱含みの一日! ラッキーアイテムはカラスの羽!』って言ってて。カラスの羽なんてすぐ用意できる人いる? 道で拾ったガラクタを集めてる少年くらいじゃない? ていうかカラスの羽なんて大事に持ち歩いてるアラサーの女がいたら、それこそ運なんて上向くわけなくない? ……でも玲、もしカラスの羽持ってたら貸してくれる?」
「ごめん、今日は持ってない」
「明日だったら持ってる可能性あった?」
「なきにしもあらず」
「……きっと今日はどうあがいても最下位の運命なんだ。甘んじて受け入れるよ」
自分一人だけが最下位ならば我慢してやり過ごせばよいのだけれど、その悪運が玲にまで影響する事態は看過できない。
その男、T氏は、あてつけのように、嫌な注文を玲につけてきた。
奴曰く「そこの布いる? 邪魔じゃない?」、「せっかくいいもの持ってるんだからさあ、隠さないで胸のライン強調してみてよ」、「もっとぐっと腰突き出して。そう。もっと」、「俺、前も似たような企画の案件やったことあるけど、お高くとまってても結局クライアントの心掴めないっていうか」、「その引きずってる裾もなんかさあ、だらしなくない? ちゃっちゃと衣装さん、どうにかしちゃってよ」、「おっせーなあ。それくらいさっさとできねえのかよ。玲ちゃん待ってるでしょうが」、「え? いやいや、そんなのさっきと何にも変わらないでしょ。もっとさ、どーんといかないと意味ないの。わからない?」など。
数段高いセットの上の玲は、嫌な顔も表さず、淡々と要求に応えていた。
気軽に外野が近付けるようなセットでなくてよかった。もしも歩いてすぐに近寄れる環境であったならば、T氏は玲の身体に触れようとしたかもしれない。
メイク直しのたびに玲の心理状況を確認しようとするも、常に彼女から先手を刺されて、問題ない、のアイコンタクトが発信されていた。
……他人の容姿をとやかく言うのは品性に欠く行為だ。
だが、その中身を著しく下劣に感じているとき、相手に対して口をついて出る悪態は、外見の特徴を揶揄したものになりがちである。
後退する額の分、髪を長く伸ばして未練たっぷり油分たっぷりに後ろへ撫でつけているその中年男性の後ろ姿と気丈な玲を見ながら、「おい、ハゲ、ええ加減にせえよ!」とT氏に掴みかからないでいるには、相当の忍耐力が試されていた。
よく知っているはずの企業のあまり聞かない部署の、肩書きだけは立派だった彼が、この撮影においてどういった立場から、それらの反吐が出るような勝手な"指示"を出しているのかも判然としないのだが、それを野放しにしているアートディレクターのO氏もわけがわからない。
O氏とは何度か共に撮影をしたことがあるが、斬新な発想と現場の士気を上げるのが上手く、彼の仕事は楽しいね、と玲とも話したことがある。それがどうだろう、今日は、監督のO氏より前方にでんと座るピンクハゲ氏のカスにも及ばぬ思いつきと注文になんら適切な口出しもせず、もごもごと追随して時折切れ味のない提案をするだけだ。
現場の空気はどんよりと停滞して、独特の良くない緊張感と腐臭の気配すら漂い始めていた。
セットの構成変更のために小休憩となったタイミングを見計らって、T氏と同じ企業に務める、以前から顔見知りである情報通のMさんへひっそりと近づき、小声で探りを入れた。
「Mさん、ちょっと伺いたいんですけど」
「はいはい」
「Oさん、今日はあんなんですけど、Tさんに頭が上がらない要素が何かあるのか、ご存知だったりします?」
「あー大学の広研サークルの先輩後輩みたいですよ」
くっっだらな!
「瀬戸さん。顔に出てます」
「ちょっとあまりにくだらなさすぎて」
「ありのまま声に出しちゃってます」
「Tさんの社内での立場ってどんな感じですか。結構幅きかせてますか」
「いやーわりと煙たがられてるっぽいっすよ。バブルの頃の感覚引きずってる感じで」
Tさんの部署自体、困ったおじさんの吹き溜まりみたいなもんで、とMさんはより一層声をひそめて情報を付け加えてくれた。なんだよ、そんな部署の人間が玲のいる現場に出張ってくんなよ、溜まるな、散れ、と言いそうになる。
「瀬戸さん。声には出てないですが、全身からものすごい怒りが表出されてます」
「なる、ほど……。貴重な情報、ありがとうございました」
いつもは飄々としているMさんも、気遣うような視線をそっと送ってきたが、頭を下げてその場を離れた。
電子タブレットを取り出して、この仕事にあたって結んだ契約書をざっと確認する。
はーもうやだ。やだよお。闘いたくないよお。怖いよお。
玲のご両親の記念日を祝う際、スケジュールの調整をつけてくれた人づてに「他のモデルが都合つかなくなったらしいんだけどなんとかならない?」と頼まれた仕事で、恩を返そうと考えての受諾でもあったし、何よりOさんが面白い仕事をする人だから、と甘く考えて、O監督以外のメンツについてろくに調べなかったツケだった。
ため息をついて、椅子にうすらぼんやりと座っているだけのO氏の後ろへ立つ。
「Oさん」
声をかけられて振り向いた彼は、気まずげな表情を浮かべている。
そんな罪悪感に塗れて怯えた顔をするくらいなら、頼むから先輩とやらに正しく忠言してくれよ。
「あれ、私からちょっと割って入ってもいいですか」
「うん……ごめんね」
多くを語らずして伝わることが悲しいし、やるせない。
セットの変更終わりましたーと上がった声を耳にしつつ、
「できれば援護射撃していただけ――」
淡い望みを伝えかけたものの、T氏の発言に口を閉じた。
「玲ちゃんさあ、もっとそそる顔できないの。ほら、テーマが……なんとかの朝、でしょ。ヤッたあとの朝とかさあ、想像してよ。男がそそられるような表情――」
「あの、Tさん」
スタジオに大きく響いた自分の声があからさまに刺々しかったので、ひと呼吸おいて笑顔を浮かべる。
「すみません、Tさん、先ほどからちょーっとご要望が過激に過ぎるというか。本来のテーマとは違う方向性にいってる気がするんですが」
「そうか? あんたの気のせいでしょ」
小馬鹿にした笑いを浮かべながらT氏は短く答えた。
「……気のせいかもしれません。ただですね」
奴の視線から玲を遮るようにして立ち、タブレットを手渡して契約書を見せた。
「今回の撮影にあたっての契約書です。ここと、ここなんですが」
契約書らしく迂遠な書きっぷりになってはいるが要旨としては、"撮影においては被写体本人の意思を常に尊重すること"、"クリエイターは、被写体に対して求める仕事内容、作品テーマに関して明示し、被写体から明確な同意を得ること"、"性的・暴力的なものを喚起させるポーズ、衣装、その他の条件を被写体に求める場合は、事前に被写体から同意を得ること"などを定めたものだ。
「この撮影について事前に同意していた内容としては、『およそ80年続いた公報誌を全面リニューアルするにあたっての企画の一部であり、"始まりの朝"としたテーマに沿ったイメージ写真の撮影』です。先進的な文化を女性に向けて紹介してきた雑誌が、女性に限らず様々な層の人たちに向けて新しい一歩を踏み出すことの、希望と、力強さ、祝福を描き出すような写真、です。これに対して私どもは同意をして、この撮影に臨んでいます。
しかしながら、先ほどからTさんが玲に求めていることは、その承諾内容から逸脱しています。
事務所といたしましてはこの状況が続くことは承服しかねますし、本来の撮影テーマに沿った状況への軌道修正を求めたいんですが。
――具体的には、合理性のない、ただ露出度や性を強調する指示は控えていただきたいと、そう考えています」
「……ふぅーーん、契約書、ねえ。あんた、いい作品作りたいって思わないわけ?」
「もちろん私も、Tさん同様、思っています。ただ、」
震えそうになる肘を抱える。
黙っていては彼女を守れない。私の怯懦が玲の心を削り取り、殺す。
言葉を、表情を間違えるな。間違えれば、玲にその影響が及んでしまう。
「モデル本人の人格を無視して、単なる人形のように扱って作った作品がいいものだとは、私は思いません。
出来上がった作品の外側だけが、その作品を構成するものではないこと、作品制作の過程もだいじな作品の一部であることは、おそらくこれまでたくさんの制作現場に関わってこられたTさんもご存知かと思います。
"いい作品"のためにただの駒として存在する人はいないんです。
この現場に携わるそれぞれの立場の人間が対等に、尊重し合って、協力し、知恵を絞って作りあげたものが、真にクリエイティブな作品だとは思いませんか」
その場限りの欲望をぶつけるな。卑小な支配欲を満たす手段にするな。傷付けるな。踏みにじるな。それを、娯楽にするな。
「……じゃあ、モデル本人が納得してれば問題ないだろ。どうなの、玲ちゃんは」
そう述べて、彼は私の後ろに首を伸ばして玲へ視線を投げた。
――クソハゲ。
腹わたが煮えくり返る。見間違えようもない敵意が今、自分の目に灯っていることだろう。
やってしまった。間違えた。私の言い方では、その矛先が彼女に向かうのは当然の流れだ。奴に対しても、脇の甘い私自身に対しても怒りがぐらぐらと湧く。
次の契約書には、被写体本人だけでなく、"被写体および被写体の属する組織の代理人の同意を得ること"的な文言を絶対に盛り込んでやる。
そう考えながら振り返って、祈るような気持ちで壇上の玲を仰ぎ見た。
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