こらえた先のあっち側①(東風吹きて_Ⅳ)
「あのクソ野郎の? クソさにかんぱーいっ」
「口の悪い音頭でかんぱーいっ」
人々の喧騒に包まれながら、ジョッキをカチンとぶつけ合わせた。よく冷えたビールをごくりと煽ってから、親指を下に向けて上下させる。
「クソ野郎は滅べー。ぶーぶーぶーぶー、ほらご一緒に」
「ぶーぶーぶーぶー」
ひとしきりぶーぶー言い合う。
「ほんっとないよね。まじでむかつく。人間の嫌なとこをかき集めて固めたみたいな奴だったよね。キモさの煮こごり」
「お、玲ちゃんとばすねー」
「ていうかハラスメントの教本みたいな? こういうのがいわゆるセクハラ、パワハラですよって教える、今日って実はそういう教材の撮影だった?」
「残念ながら違うねえ。ただただクソ野郎が現実に存在していただけですねえ」
「あの人はあんなので生きていけるの? なんで生きていけてるの?」
「きっとこれからの時代じゃ生きていけないよ。あの調子を正さないなら、痛い目見るし、社会的に抹殺される日も遠くなかろう」
どんどん飲んで、食べて、管の巻ける大衆居酒屋そのものずばりな串焼きの店に玲と入った。
二人きりなので串から肉をひとつひとつ箸で分離させておくなんて面倒なことも行わない。各自の串からダイレクトに肉を歯で引き剥がす動作も、食べ終えた串を容器に放り込む動作も、"悪口大会"という会合目的のもと、ワイルドに、雄々しくキマる。ひと串ごとに凶暴な気持ちも高まっていく。
あの男のにやついた顔、ねっとりとした物言い、後退する額に抗うように伸ばされてうねった髪などを思い出すだにふつふつと怒りが湧いてくる。
「私だって本当はあんなヤツ、怒鳴り散らしてやりたかったわ。ハゲ散らかしやがってよお」
「散らかしてはいないと思うけど。撤退戦って感じで」
「じゃあ私がそのしんがりどもをひっつかんで本当に散らしてやるわ」
「じゃあそのあと私は除毛剤をたっぷり撒いて、わずかな毛も二度と生えないような不毛の土地にするね」
「玲ちゃんは容赦がない」
あいつの指示がどんなに横暴で気色の悪いものだったか、Oさんのクリエイターとしての才能を尊敬していたけれど、所詮くだらないしがらみに捉われて自らの創造性を殺すような意気地なしであったとか、でも周りの女性や照明くんが協力してくれて泣きそうだったとかを、「あー! あの指示まっじキモかったよねー!」「サブイボ出まくった」「ほんっと失望したよね」「まあ最後のほうは恐る恐る協力してくれたけどさ。遅いっつーの」「照明ピカピカ集めてあいつんとこだけ真夏で」「えーそんなことしてくれてたの! やばい! イケメンー!」などとしゃべり散らしていると、ぐいぐい酒は進み、他の酔客の騒々しさにも負けじと声は高くなっていく。
「あいつ絶対ろくな死に方しないね。どんな地獄に行くか一緒に考えよ」
不穏なこちらの提案に、彼女はふむ、と真剣な様子で考え込む。
「地獄ねー…。ところてんの地獄っていうの、こないだSNSで見たよ」
「ところてんをひたすら出し続けるってこと? なんかかわいいな」
「そうじゃなくて、自分がところてんの突き器に入れられて、にゅ〜ってされるってこと」
「ああ、ちゃんと地獄だった! でもやっぱなんか牧歌的だな」
しばし黙して二人、地獄について考える。
己の経験にひきつけて"地獄"を考えたときに、まっさきに思い浮かぶものがあった。
「永遠に満員電車に乗り続ける地獄、とか……。自分自身がたくさんと、会社のめっちゃ偉い役付き上司のおじさん数人が乗客。上司は皆、汗びっちょりで脂ぎってる。揺れの激しい切り替えポイントが断続的にたびたびくる。上司を不用意に押し潰せないし、なかには横柄な偉い人もいてめっちゃ感じ悪く押し返してくるけど、縮こまるぐらいしかできない。自分があちこちにたくさんいるから、その気まずさと苦しさを何重もの意識で感じ取るの。気を紛らわす読書も音楽を聴くことも、何もできない、息をするのもやっとな、ぎゅうぎゅうのすし詰め状態を何十分も耐えて、ああ、もうすぐ目的の駅に着くって気が緩んだ瞬間、車内放送で、"先を行く電車でのお客様同士のトラブル対応により遅れが生じています。車両間隔調整のため、この電車もしばらく停車いたします"、つって、十数分、駅と駅の間で微動だにしない車内でただただ非生産的な時間を過ごす。そのうち周りからいらいらした舌打ちとかぶつくさ言う声が聞こえ始めて、隣、というかもはや圧縮されすぎて同じ塊の人間になった隣の人の機嫌もめちゃくちゃ悪くなってくのがわかる。いつその苛立ちが爆発するかはらはらしながら、ただ圧縮され続ける。やっと電車ものろのろ動き出して、ようやく降車駅に着いた〜と思って降りようとしても、上司と自分の人波に阻まれて絶対降りられないの。乗ってるのは山手線だから、これが永遠に続く。――っていう地獄」
「……すごく……ディテールが細かい……。日常から想像が及ぶだけにその嫌さがわかるね……」
通学、通勤で電車を使っていた頃のどんよりとした気分が蘇ってくる。あれは現世にある地獄だと思う。まじで。
考え込んでいた玲が静かに口を開く。
「すごく猫が好きになるんだけど、ものすっごく猫アレルギーがひどくて、触ることはおろか、一緒の空間にいられないの。豆粒くらいの小ささで、猫たちが遠くで何か可愛いことしてるんだろうなってかろうじてわかる。でもちゃんとは見えない。……そういう地獄は?」
「甘いよ! 同じ空間に猫が存在してるって、それだけでもう救いだから!」
「そうか〜」
「永続的な苦痛と無益感、徒労感が地獄の肝要なところじゃないでしょうか。目的が達成されそうになった瞬間、自分で台無しにすると徒労ポイントが高くてなおよし」
「地獄評論家? 閻魔さま?」
「……でも一向に他の地獄が思い浮かばないんです」
んー、と可愛らしく地獄プランについて悩んでいた玲が、「じゃあ」と挙手をした。
「パン祭り地獄。パンに付いてるシールを一生懸命集めて特典をもらおうとするんだけど、応募条件達成まであと一枚、ってところでなぜかいつも用紙をなくしちゃって。しかもパン嫌いなのその人。ご飯派なのに。毎日毎食しかたなくパンを食べて、ちまちまシールを集めてるの。特典がどうしても欲しいから。でも永遠に応募できないっていう地獄」
「……いいけど。なんか、やっぱ平和だね。君には地獄をデザインする才能はないみたい」
「えー別にそんな才能いらないけど、なんか悔しいなあ」
口を尖らせた玲に、笑いかける。
「君にはもっと別の才能と強さがあるから。――今日もね、女性たちの、これからの女性たちのために、みんなで作品を作ろうってきちんと提案してくれたの、誇らしかった。みんな勇気づけられたと思う」
「……今までも、いろんな現場で女の人たちに助けてもらったから。安直に逃げちゃだめだって思って。……本当は怖かったけど」
「うん、文句なしに格好よかったよ」
「……それに」
つかの間視線を逸らしてから、意外なほど強く、まっすぐに彼女はこちらを見つめてきた。
「それにあの時、背中しか見えなかったけど、あなたは私を守ろうとしてくれてた。いつもあなたに守られてるばかりじゃなくて、私もあなたを守りたいって思ったの。だから、言えた」
「……。…そ、それは、なんていうか、私が思っていた以上の格好よさだった……」
外した視界の範囲内へ、つむじを見せて彼女は頭を差し出してきた。
「……玲さんが一分の隙もなく、つむじまで美しくあられることはわかったけど、何?」
「褒めてもいいよっていう」
顔は見せないまま、つむじが褒めろとおっしゃっている。
「よーしよしよし! グーッ、グッジョーブ!」
ふんわりと綺麗に巻かれていた髪をぐしゃぐしゃに撫でくりまわした。
すぐに彼女は頭をひっこめて恨めしげに睨んでくる。
「あーもう、そうやってまたわんこ扱いする!」
乱れた髪の毛を鬱陶しそうに手ぐしで整えていた。
身支度がひと段落したらしき状態で、ヘアメイク担当としては気になった前髪からサイドへの流れと数カ所のシルエットに対して、卓の上から腕を伸ばして微調整を行う。
おとなしくされるがままになっていた彼女だが、私が満足してひとつ頷いてみせると、目を細めて問うてきた。
「……何か言うべきことがあるんじゃない?」
「え?」
「あなたは今私にスタイリングを施しました。それが完了したときにいつも言ってくれることがありますよね? あれがないと私、調子狂うんですけど」
ヘアメイクの終わりに、「綺麗です」と鏡の中の彼女へ声をかける、なかば儀式化したそれのことを言っているのだと思う。
……確かに不用意だった。今の私たちにおいては、なんというか、マナーに反する行為だった。
「今のは……仕事でやったわけじゃないっす……」
「じゃあいつもは仕事だから言ってるだけ? 私をやる気にさせるためのただのお世辞?」
「……そ、そういうわけじゃないですけど」
なんだよこの玲、妙に絡んでくるぞ! 絡み酒かよ!
「では、さあ、感じるままにこの私を讃えるがよい」
長い腕を大きく広げて彼女は促してくる。
しかたなく、居酒屋のメニュー冊子の上に片手を置き、右手の平を彼女に向けて宣誓する。
「……いつも、いついかなるときも、玲さんは綺麗です」
なんでこんなに恥ずかしいのだ。
彼女は冷え冷えとした目線を投げてくれてから、無言でぐいっとサワーのジョッキを煽る。
そして、大きく息を吐くと、真剣な眼差しを向けて言う。
「でも、本当に今度は止めないで。……"素人がマネージャーなんて"とか、あなたがあんな風に言われるの、我慢できない」
こちらも小さく嘆息し、ずっとくすぶっていた罪悪感を、頭を下げて伝える。
「……今日はさ、嫌な指示をもっと早くに止められなくてごめんね。だし、今回の案件は、受ける前の事前調査が甘かったのが本当にだめだった。ごめんなさい」
「あなたが謝らないでよ。悪いのはあのクソ野郎じゃん」
憤然として、私のように口汚く答えた彼女に苦笑を返し、店員さんへ手を上げて水を二つ注文しておく。もともとアルコールに強いほうではないのに、今夜の彼女は酒の消費スピードが早い。
「うん。……私も、あんなことを言われたときにへらへら受け流す対応がベストだとは思ってない。無礼なことを言われたらきちんと言い返すべきだよ。何にも構わないんだったら、クソジジイはっ倒すぞってぶちかましてたわ。
……でもさあ、私は君のマネージャーなんだよ。君の名前も背負ってる。私の行動によって君をまずいことにさせるわけにはいかない。もちろん、私のために君が何か行動をすることも、それが君を危うくさせるものなら、私はそれを止めなきゃいけない。
――私のために自分の立場を悪くしないで。マネージャーである私は、君の影なんだから。怒ってくれるのは嬉しいけど、それはやっぱりだめだよ」
そう諭すように言ったが、彼女は納得したとは言い難い顔だった。峻厳な顔つきで無言のまま、一回、二回とジョッキを傾けている。そして、
「……でも、でも、私のためにあなたが侮辱されたり、馬鹿にされるのは、私はいやだ。そんなの、いや。そんなことで私の仕事がうまくいっても、全っ然、いちミリも嬉しくない」
首を振って、きっぱりと述べる。
彼女が本気で怒っているのが伝わる。その怒りは、私のことを思ってくれているがために生じているとわかる。
テーブルにやってきた水の入ったジョッキを横目にしながら、照れ隠しのような、諦めのような、困惑のような、曖昧な笑みが自らの頬に広がるのを感じた。
「うん。ありがとね。でも、君がいつでも輝いてることが私の喜びなんだから。私のせいで君を煩わせたくないの。ね、わかってよ」
「……」
ますます目を釣り上げてむっつりと口を曲げる彼女は、不条理を飲み込めと訳知り顔で説いてくる大人を前にして、「どうしてわかってくれないのか」と黙り込む子どもみたいだ。
その様子に、もうだいぶ酔ってるなと判断して彼女のジョッキを遠ざけ、代わりに水を玲の手元へ置いておく。
その動作を黙って見ていた彼女は、きっとこちらを睨みつけると、突如私の飲んでいた日本酒を徳利ごと奪って、なんと直接飲んでしまった。
「ええっ、何それやめてよ」
すぐさま彼女から徳利を奪還したものの、中身の少なくなっていたそれはすでに飲み干されたあとだった。
「ちょっと、玲、大丈夫?」
みるみる顔を紅潮させ、爛々と獰猛に目を光らせて、彼女はぐい、と粗暴な手つきで口元を拭う。
それから、重大事実を告げるかのごとく厳かに宣言した。
「わたしは、子どもではない」
「……そりゃあ、お酒も飲める成人女性ですよ。でもさ、そんないきなりぐいっと飲んだらよくないから。水飲も、水」
水で満たされたジョッキを差し出すも、彼女は傲岸と顎を上げてこちらを睥睨するのみだ。
「飲んでよお、お願い! 玲ちゃんのいい飲みっぷり、私見たい!」
両手をぱちんと合わせて懇願したところ、彼女はふん、とつまらなさそうに鼻息を吐いて、水をごくごくと飲んだ。
「もいっちょ! こちらも! ゆっくりでいいから!」
私のものとして頼んでおいた水を献上すれば、彼女は冷たい一瞥をくれてから、それもまた飲んでくれた。
「あーさすが! 玲ちゃんさすが! お美しい! 滴ってる! 水も滴るいい女! いい女すぎて口から水が滴っている!」
威風堂々とした彼女の口元から垂れる水におしぼりを当てがうと、さすがの彼女も恥ずかしげに、しおらしく自らおしぼりで口を押さえた。
急いでお会計を済ませて、念のため玲をトイレに連行しておき、店を出た。
タクシーの走る大通りまでの道、心許ない足取りで歩く玲を下から支えながら、
「気持ち悪くない? どっかで休んでく?」
と訊くも、
「だいじょうぶなのだ、ただ、わたしは怒っているのだあ」
ハム太郎かバカボンのパパみたいな回答をくれるのみだった。絶妙に可愛くない。
たとえぺろんぺろんに酔っ払っても、翌日に酒を残さずケロリとしているのが彼女の常で、明日の状態についてはあまり心配していないけれど、千鳥足の人を無事帰宅させるのは、面倒といえば当然面倒だ。
いくら正真正銘のモデル体型の細い女性だといっても、自分より上背のある人を支えるのは骨が折れる。日本酒なんて頼むんじゃなかった、と後悔が募って、
「……おも」
と思わず漏れた私の声に、しかして酔っ払いのモデルさんは敏感に反応する。
「重くなんてないっ!」
さっきまでぐでぐでのふにゃふにゃで歩いていた人が、ぴっと背筋を伸ばしてなぜか180度の方向転換をして毅然とモデル歩きをしだした。まるっきり目指す方角の反対だ。
「ああ、もう。そっちじゃないって」
なまじ脚が長い分、数歩ばかり歩いた距離でも思いのほか遠くて、咄嗟にその無防備な手を握って止めた。
腕だけ留められたそこを起点に、がくんと歩行を妨害された玲が、なぜそんな事態に陥ったのかと、全身から一部置いていかれた右腕を不思議そうに振り返り、そしてその先に続く私の右手をまた不思議そうに眺めた。
そして、雑に握られていた右手をするりと解くと、指同士一本一本をしっかり重ねて握り直してきた。
手同士の絡み方だけ取りあげれば恋人繋ぎ状態だが、前後に立って同じ側の手を重ねているから意味がわからない。リレー? リレーのバトンを手渡すのに失敗して手繋いじゃった?
頭では状況を面白がっているけれど、その手から伝わるふんわりとした感触や温度が、私の余裕を奪っていく。
「違う、手を繋ごうとしたんじゃなくて」
「ちがうの?」
「歩くの、こっちだから」
努めて冷静に、こちらの動揺が伝わらないようその手を丁寧に優しく開かせて、魅力的な拘束から逃れた。
背中を押して再び明るい幹線道路の方へ向かう。
先ほどよりまともに歩いてくれる玲が、なおも不可解そうにぽつりと言う。
「わたしは、ちがわないんだけど」
「……」
私だって、アルコールで頭の働きが鈍っている。
何と答えるべきかわからなくて、押し黙ったまま、とにかく歩だけを進めた。
……私だって、君と手を繋ぎたくないわけじゃない。
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