その男、奔放につき


 狭くて薄汚れた通路を歩く。


 ただでさえ狭いのに、通り道の両側はぼろぼろのダンボールが山と積まれ、その中から何かの布がはみ出していたり、文字がきちんと消されぬまま幾度も使われ、落書きの上に落書きを重ね続けた治安の悪い地域のシャッターのような様相を呈しているホワイトボードが街路樹のようにときどき現れたりしている。LED照明なんて文明はまだこの廊下には届いていないので、蛍光灯が窓のないここを明るくしているが、寿命が近づいてチカチカと点灯しているものやすでに事切れているものも、当然のように取り替えられることなくそのままだ。


 華やかなイメージのある舞台のその裏は、だいぶ地味で寒々しいものだ。



 初めてのCM仕事です。国内有名化粧メーカーのファンデーション商品のためのCMである。確かなカバー力と持ちの良さで、そのメーカーの定番商品となっているそれを刷新するのだそうで、その宣伝のイメージモデルに玲が選ばれた。

 大抜擢といって差し支えないこの仕事に、マネージャー初心者の私は内心ビビっている。

 けれど、マネージャーがそんなようでは当の担当モデルにいらぬ不安と緊張を強いてしまうので、外面的、というか局所・対玲的にはなんでもないことのように振舞ってみせている。幸い、この撮影スタジオ自体はメイク仕事で何度も訪れているし、今日の撮影の監督と仕事もしたことがある。不要なことは考えずに目の前の仕事をひとつひとつやっていけばいいだけだ。



 玲は雑然とした廊下を歩きながら、ふいに、


「テレビのお仕事をやるところ、もっとキラキラした空間を想像してたけど、ビル自体はキラキラの対極って感じだね」


と冷静に述べてくれる。


 何気ない風を装ってかけられた言葉に、気を遣わせてしまったな、と思う。

 普段通りを心がけていたはずなのに、言葉少なに先を急いでばかりいた自分に気付いた。不慣れな仕事に様々な不安を感じているであろう彼女に気遣われていることを恥じる。


 幸い、目論見通り余裕を持って早めに着いている。

 何か彼女の気持ちをほぐすような軽口を叩こうと歩速を緩めたところ、慌てた様子でひゅんと駆け抜けていく小さい男が、左手から目の前を過ぎ去る。そのまま歩き続けていればぶつかりかねない勢いだったが。


「あ」


 見覚えのある姿に喉の中で小さく声を漏らすのと同時、そいつもまた猛然と引き返してくる。

 そして、スニーカーとリノリウムの床をきゅっと音高く鳴らし、目を見開いて両手でこちらを指し示しつつ、素っ頓狂な声を上げた。


「瀬戸ちゃん⁉︎」


 幾つになっても少年にしか見えないような懐かしい顔に頬が緩む。


「あ、やっぱヤマダァだ」

「瀬戸ちゃんじゃないっすか〜久しぶり〜。ってうわっ!」


 和やかに再会の挨拶をしかけたものの、私の隣に並ぶ人物を目に入れて、若手芸人もかくやというほど大げさに身を引き、


「本物の玲だ……」


と惚けた様子で彼女を見上げながらつぶやく。


 変わらない彼にますます口角を上げながら、こう言わざるをえない。


「おいこら、さんを付けろよデコ助野郎」

「あ、失礼しました、玲さん!」


 勢いよく頭を下げる彼に玲は戸惑いつつ、そこはやはりさすがの彼女で、出会い頭の私のつぶやきを拾ってきちんと挨拶をしてくれる。


「こんにちは。山田、さん?」

「あ、こちらは……ヤマダァの今の肩書きって何?」


 旧知の仲であるこの男を正しく彼女に紹介しようとするが早速つまずく。


「えーと……マルチなスーパークリエイターっす!」


 彼自身もすぐに自らの職を表す一言が思いつかなかったと見えて、目をぐるんと空中に向けて数瞬思考したのちに、親指を立て勢い良くぼんやりした自己紹介をした。胡散臭い。よってこちらもため息を吐きながら仲介する。


「……ただのヤマダァと覚えて帰ってください。こちら玲さん、そしてわたくしマネージャーをしております瀬戸です」


 すっ。見よ、この流れるように滑らかな名刺の差し出しっぷり。数ヶ月前にはありえなかった身のこなし。

 期待通りヤマダァは感心してくれたらしく、しみじみと言う。


「ハァ〜噂には聞いてたけど、本当にジャーマネやってんすね瀬戸ちゃん……」

「おうよ、なんとかね。ヤマダァはなんかこの前もおっきい賞獲ってなかった?」

「どれのことだろ」

「相変わらずだねえ」


 彼にとっては瑣末なことのようで、可愛らしく人差し指を口元に当ててとぼける姿に苦笑してしまう。


「それより……うわぁ生で見てもやっぱ顔ちっちゃくて足長くて、めっちゃ綺麗なんすね……」


 自らの輝かしい受賞歴などすぐに頭から追いやって、目の前の美女に彼は心の底から賛嘆の目を向けていた。

 玲の美しさに圧倒される人間はこれまでも星の数ほど目にしてきたが、身近なこいつにこう言わしめるのは、私としては素直に誇らしい。

 数多接してきた反応に玲は透明に微笑んでくれている。


 私はこの微笑みを"無の笑顔"と呼んでいる。

 口角を数ミリ上げ、目尻をわずかに下げる、そのような筋肉運動をなせば、そこに感情はなくとも、たいていの対面する相手はその神々しさ、あまりの幸運に慄き、頭は回転することをやめ、ついでに口も閉じるか、ぽかんと口を開けるかしてそれ以上のやり取りを断ち切れるので、ありきたりな言葉やつまらない世辞を受けて、いちいち相手するのだるいな、と彼女が感じたとき発動するものだ。

 そういう真意による無の笑顔でしょう、と玲本人に言ったら、めちゃくちゃ嫌がられたが。

 無の笑顔出たな、と思いながら彼女をチラ見すれば、つまらない相手と別れたのちに「さっき出たと思ったでしょ」と彼女に言われるようになったので、最近は心中で一人、「無、いただきました」と報告するに留めている。


 だがヤマダァにまで無の笑顔をくれてやる必要はない。ヤマダァへの対処としてはこう言うことが正しい。


「やめな、汚らわしい目でうちの玲を見ないで。それ以上見ると卑しいお前の存在が浄化されて消えるよ」


 冷たく言い放って彼と玲の間に立って奴の視線を遮った。


「え〜消えてもいいから見せてくださいよぉ」


 私よりもはるかに低い身長ながら負けじとぴょんぴょん跳ねて後光凄まじい玲を覗き込もうとするのを、バスケ部で培ったディフェンス力で防ぐ。

 数秒の攻防が続いたが、ふと地上に落ち着いたヤマダァがこちらの顔に視線を固定して訝しげにつぶやいた。


「あれ、瀬戸ちゃんもなんか綺麗になりました?」


 おっほ。まじか。


「え、ほんと? 玲の有り余る美イオンの影響かな?」


 女たるもの、たとえ相手がヤマダァであろうと綺麗になったと言われれば喜んでしまう。

 にやけて崩壊する頬を押さえつつ、あらゆる善なるイオンを降り注いでくれる隣の美の化身をぽんぽんと気安く叩く。彼女は半笑い。


「え〜いいな! 俺も玲ちゃんチームに入って、その恩恵にあやかって綺麗になりたいっす!」

「何、玲ちゃんチームって。しれっと混ざりやすい体制に勝手にしないでくれる。あと誰も綺麗なヤマダァなんて求めてないよ」

「じゃあせめて身長を高くしたい!」

「諦めなよ、私たちにはもう加齢によって背を縮ませる定めしか待ってないんだよ……」


 無邪気に夢を語る彼に私が頭を振って諭せば、


「そうだよなあ……じゃあお参りだけしとこ……」


 彼もしんみりと言って、両手を合わせ目をつむった。

 玲に向かって神妙に頭を垂れるヤマダァに倣い、私も彼の隣に移動して玲に手を合わせておく。身長が伸びますように、ますます美しくなれますように、宝くじが当たりますように、家族みんなが健康でありますように、世界が平和でありますように……などとぶつぶつ神頼みをする悪ノリ二人組にとうとう玲も呆れた様子を隠さない。


「ちょっと、やめてくださいよ……」


 すぐさま玲の隣へ並び直し、腕組みをしてヤマダァを睨めつけた。


「美の神がお怒りであるぞ」

「やっべ。すみませんね、はしゃいじゃって」


 出会うなりやかましかったムードもようやっと一息ついたのを受けて、玲は表情を改めて上品に微笑する。


「いえ。穂高さんと仲良しなんですね」


 久しぶりの再会で土の上を他愛無く獣と転げ回っていたのを、彼女のその横顔を見た一瞬で、崇高さとは……仕えるべき神とは……といった深淵な気持ちにさせられた。だがヤマダァは無神経にへらへらと笑いながらこちらに水を向ける。


「こよしっすよね」


 飾らぬ素振りににやりと笑ってしまう。


「まあね」


 つかの間、懐かしむような空気が互いの間に流れた。幾分声の調子を和らげてヤマダァが言う。


「こないだノダも瀬戸ちゃんに会いたがってましたよ」


 久しく顔を見ていない面々と、それを取り巻くかつての情景を一気に思い出した。胸に、あの頃のけたたましさやらひたむきさやらの青臭い何がしかがせり上がってきていっぱいになったので、大きく息を吐きそれを逃しながら答える。


「ノダか〜会ってないな〜。今度みんなで飲みに行こうよ」

「いいっすね〜。そのメンツだと歯止め役いないんでオイちゃんあたりも誘って」

「あー絶対楽しいけどもう昔みたいには私飲めないからね」

「そう言っていつもベロベロになってくれるんで瀬戸ちゃん好きっす!」

「はいはい」


 子どもみたいに笑う男をあしらうと、彼はひょいと真顔になって、


「あ、他にも瀬戸ちゃんと飲みたがってる人いました」

「誰?」


 すると、片手を口に添え、目を弓なりに細め、可笑しくてたまらない表情を浮かべる。せわしない男だ。


「ある番組の看板プロデューサーっす。玲ちゃん瀬戸ちゃんのコンビは目の保養になる、げへへって言ってました」

「は? キモ。保養してやる義理なんかねえっつーの、勝手に養生してんじゃねーよ。誰そいつ」


 穏やかに凪いでいた心も刹那のうちに冷え込み、早口で返せば、途端に彼は目を泳がせた。


「……あー……。すんません口滑らせたっす。げへへは俺が盛って言ったかもしれないっす」


 いずれにせよ、そういう下卑た雰囲気の物言いだったということだろう。


 いい男、いい女、均整のとれた体つきをした人がいれば、目が向いてしまうのは誰だって自然なことだと思うし、惹きつけられるのはわかる。

 だがそれを、単に消費する側として一方的に品評するような目線を恥ずかしげもなく表現するのは、腹が立つ。


「三日ぐらいお風呂入らないで毛玉だらけのジャージとスッピンでならそいつと飲みに行きたいわー」


 この場でヤマダァが口を割ることはなさそうだが、不埒な考えで玲に近づきかねない危険要素を排除するためにも、その輩の正体をのちほどヤマダァから聞き出そうと決める。


 静かに闘志をたぎらせるこちらを見て、彼は苦笑をする。なんだヤマダァのくせに、生意気な表情だぞ。

 その意図を込めてじろりと見返すと、彼は苦笑の質をふっと変えた。


「瀬戸ちゃんも相変わらずっすね。この人いらん苦労を背負いがちなとこあるんで、玲さんどうかよろしくお願いしますね」


 そうして玲に笑いかけるのだ。


「はい」


 対して玲も柔和に微笑み返す。

 "しょうがないね、この人はまったく"ってな雰囲気を共有して微笑を交わす二人の様子がこそばゆい。


「……なんか二人から私への愛情を感じるのは嬉しいけどさー、さっきヤマダァものすごく急いでなかった?」

「あ! やっべ遅刻してんだわ! じゃあまた! 近々飲もうね瀬戸ちゃん! そして玲さんもいつか一緒に仕事しましょうね〜っ」


 まくしたてるように話して、何かの台本だろうか、手に持つ紙の束をばさばさ振りながら奴は去っていった。



 ふ、と形容しがたい種類の笑みがこぼれた。

 すっかり私の緊張をほぐしやがって。止まっていた足を再び動かす。


「嵐のような人だったね」


 隣を歩き出した玲も言葉に笑みを滲ませて話しかけてくる。


「騒がしいよね。……加えて私も騒がしくして、お恥ずかしいところをお見せしました」


 過ぎてみれば、いい大人がなんともはしゃぎ散らかして恥ずかしいことこの上ない。彼女は温かく笑う。


「ううん、楽しそうでよかったよ」


 無ではない、きちんと実体のある微笑み。なんとまあ。


「信じられない優しさ、そして母性」

「でも、結局何をしてる人なの?」

「何なんだろう……」


 指を折りつつ考えてみる。


「脚本家、演出家、作曲家、編集者、コピーライター、映像作家、と私が知っている限りにおいても奴の活動範囲は多岐に渡り、数多の賞を総ナメにする男、それがヤマダァ……」

「ええっ……本当にマルチなんだ。山田、なにさん?」

「あいつ仕事のたびに名前変えてるから固定の名前ないんだよ。飽きちゃうんだって」

「それは……本当に天才って感じだね……」


 感心も通り越して呆れているようだ。


「ちなみに、私より年上」

「えっ……!」


 彼女は立ち止まって絶句している。


「驚くでしょ。高校生みたいな肌ツヤだよね」

「私、働きたてのADさんかなってまず思った……。だからさっき加齢がどうのって言ってたんだ。あなたはともかく、山田さんはまだ身長伸びる余地あるだろうにって思ったんだよね」


 再び歩き出すが、驚きのあまり感じたままの感想を正直に伝えてくれる玲ちゃん。


「なんかさらっと私に対して失礼だね君は。でも確かにヤマダァ、知り合って十年くらい経つけど全然変わらないもんなあ」

「学生のときに知り合ったの?」

「ううん、私が社会人一年目のときに、キッッツイ仕事があって、そのときに現場で。あの人はどういう立場だったかな……まあ忘れたけど、修羅場をともにくぐり抜けた変な連体感で、その仕事の人たちとは、今も一部つながりがある感じ」


 それを聞いた彼女は眩しそうな目をする。


「へえ、なんかいいなあ、そういうの」

「……」


 しみじみと、羨ましそうに言うものだから黙ってしまう。


 異例のスピードで大躍進を続ける玲は、同時期に入った事務所の子ともメディア露出の歩調が合わず、雑誌の専属モデルを務めているわけでもないので、いわゆる同期と呼べるような仲間がいない。

 私が臨時のマネージャーに就いた頃から、新人にそぐわぬ仕事を与え、間を置かずして舞い込むようになった仕事をどんどん調子良く回して、その果てに、心許せる"同期"がいない。そういう心細い立場に彼女を追いやっている人間の一人であるという自覚は当然あるので、申し訳ない気持ちがずっとある。



「……昨今の世の流れでは、さすがのこの業界でもブラックな労働環境は改善されつつあるし、ブラックそうな案件は慎重に避けてるつもりだけど、一回地獄見て、君も同じ釜の飯トモ作ってみる?」


 罪悪感から、むちゃくちゃな提案をしてみるが。


「そんな死んだ魚みたいな目で言われても、ゆとり世代の私にはちょっと荷が重いかも……」

「あーっ! 私だってゆとり世代なんだからね! 玲が私を年増扱いしたあ!」

「し、してないって、あなたも十分ゆとってるゆとってる、大丈夫だから……」


 怒涛の勢いで糾弾するこちらに気圧されて、彼女はあいまいにフォローを入れてくる。


「へっ。……ま、わざわざきつい環境でテンションおかしくなりながら絆を深めなくたって、真剣に本当にいい仕事したら、いい人といい関係性は作れるよ」

「そうだね。……最近疲れが抜けないとよくおっしゃっている穂高さんも、ゆとり世代同士、一緒に頑張っていこうね」


 最高に素敵で健気で魅力的な笑顔を向けてくださるが、その甘い香りと共にある毒を隠そうともしない。悪い笑顔。

 それならば私も、抗えぬ老いにきしむ体へむち打ち、涙を飲んでその挑発に応えるのが親心というもの。


「……かわいい子には旅をさせよと言いますが、超絶かわいい子にはそれ相応の地獄が旅先としてふさわしいよね。こないだお断りした、地獄の香りがぷんぷんする仕事は、今からでも手を上げたら間に合うかなあ……?」


 嗜虐心も露わににやついて玲を見やれば、彼女は背筋を伸ばす。


「うそうそ! 私、最高のコンディションと環境で、最高のパフォーマンスがしたいです!」


 ――私の緊張はヤマダァが解いてくれたが、それをきちんと玲に還元できているだろうか。


「よし、最高の環境かはわからないけど、テレビのお仕事が君を待っている。今日"も"、最高のパフォーマンス、期待してます!」


 彼女は自信たっぷりに微笑んだ。

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