第7話 いつか一緒に山登りしよう
土曜日の朝。
和也は事務所を開けると、休日出勤してきた事務員の大谷に留守を任せ、タカユキビルを出た。圏外のスマートフォンと、少しだけ中身の増えた財布を持って。
服装はあいかわらずニート然としていた。
彼は寺吉駅前からバスに乗り、ある場所へ向かった。目的は仕事ではなかった。その日彼は、久々の休みを取ることにしていたのだ。
バスに揺られてしばらくすると、車内放送で、聞き覚えのあるバス停の名前が告げられた。和也は一瞬、躊躇したものの、意を決して降車ボタンを押した。決して悪いことをしている訳ではないのに、ドキドキしながらバスを降りると、彼はある場所へと向かった。
「あったぞ……同じ場所、そしてもちろん同じ家だ……」
和也は少しの間、その表札を見つめていた。久々に見る表札だ。
『新戸 達也
南海子』
表札にはそう刻まれていた。和也の名前はなかった。
「まあ、そうだろうな……」和也は悲しそうに呟いた。
彼は「ただいま!」とドアを開けたくなる衝動をぐっとこらえ、玄関を離れた。すぐ目の前の公園へ場所を移し、ベンチに腰を下ろすと、植え込みの隙間から玄関が見えた。さらに良いことに、木の葉が邪魔をして、向こうからはこちらの顔が見えにくい位置関係となっていた。
彼は木の葉の隙間からこっそりと自宅玄関を監視した。自分の家であるにもかかわらず、まるで張り込みをする刑事だ。寂しいような、それでいて、わくわくするような、妙な気分だった。
「二人とも、元気で暮らしているのだろうか……」
ほどなくしてチャンスが訪れた。玄関から両親が現れたのだ。二人は、カラフルなマウンテンパーカーに身を包み、帽子を被り、小ぶりなリュックサックを背負っていた。そして和也がさっき降りたバス停のほうへ向かった。
和也は、公園を横切って、家とは反対側の道へ出た。そして少し遠回りをし、駅寄りの道を通ってバス通りへ出た。素知らぬ顔でバス停へ近づくと、そこにはまぎれもない、バスを待つ両親の姿があった。彼はそのまま、偶然を装ってバス停の前を横切ることにした。
和也の心臓は高鳴り、冷や汗が吹き出た。こんなに緊張したのは、中学生のころ、好きな女性に告白したとき以上かも知れない。
すれ違いざま、母親の南海子が和也の存在に気づき、彼に一瞥をくれたが、すぐ何事もなかったように視線を戻し、父親である達也との会話を続けた。
和也は、彼に気づかない両親を背に、バス停から遠ざかった。残念だった。
もし、向こうから気づいてくれたら、生き別れの息子として受け入れてもらえるかも知れない。最初は戸惑うかも知れないが、すぐに慣れるだろう。
だが、兎にも角にも、向こうから気づいてもらえないことには、始まらない。自分からオレが息子だと言ってもきっと信じてもらえないだろうから。
* * *
「はぁー……ドキドキしたぁー……」
和也は深いため息をついて、先ほどの公園のベンチに腰掛けた。ベンチの背もたれに身を預けて上を見上げると、抜けるような青空が見えた。
両親は、あの服装だと、多分ハイキングにでも行くのだろうな、と彼は思った。こんな天気なら気持ちいいだろうなあ。
ふと、現実に戻った。彼は母親に電話で言われたことを思い出した。うちには子供はいない、たしかそう言っていた。そして家の表札に刻まれていたのも、両親の名前だけだった。
ということは、いま『我が家』は無人だ。思わず彼はベンチから立ち上がり、ジーンズのポケットに手を突っ込むと、鍵を取り出した。それは、こちらの世界へ来てからもずっと、肌身離さず持ち歩いていた、実家の鍵だった。
二人は軽装だったから、日帰りに違いない。だからあまり時間をかけられない。ちょっと覗いてみて、すぐに出よう。そう思うと彼は鍵を握りしめたまま、実家の玄関に歩み寄った。
だが一瞬、彼は迷った。
無人だと思っていたが、そうでなかったらどうしよう?
子供はいない、と言っていたが実は嘘で、弟か妹がいるとか?
実は大金持ちになっていて、お手伝いさんを雇っているとか?
鍵が変わっていて、玄関でガチャガチャやっているところを怪しまれたり?
しかしこうやって玄関で立っているのも怪しまれるかも……。
……ええい、行ってしまえ!
直後、彼は玄関の内側にいた。久々の我が家の匂いがした。
薄暗くひんやりした玄関に立ち尽くす彼の心臓は、百メートル走を走りきったあとのように高鳴っていた。彼は心臓をなだめながら、玄関ドアを施錠し、急いで靴を脱ぎ、家に上がった。そしてそのまま二階へ直行し、自分の部屋……だったはずの部屋の扉を開けた。
部屋の中へ入ると、向かいの壁には大きな窓があり、その向こうに、彼がさっき張り込んでいた公園が見えた。
「さっきまであそこにいたのか。なんか妙な気分だ」
次に彼は室内を見回した。
「こんな感じになってるのか……」彼は新鮮な驚きを覚えた。見慣れたはずの彼の部屋は、いつもの散らかり放題の部屋とは違って、実に整然としており、まるで仕事場のように見えた。どうやら父親が書斎として使っているようで、壁一面の本棚には、本や雑誌がぎっしりと並んでいた。
「まてよ……これは日記じゃないか?」
和也は、父親が日記をつけているのは知っていた。若い頃からずっと続けている、とも聞いていた。
彼は本棚からそれらしき一冊を手に取ると、パラパラとページをめくって読み始めた。そこには父親の最近の仕事のことが書かれていた。だが彼が知りたかったのはそれではない。
改めて、一歩引いて本棚を眺めてみる。整然と並んだその様子から、日付順に並んでいるだろうと推測し、左上のほうを探ってみた。すると案の定、学生時代のものが見つかった。
「これこれ、これだよ」
彼は日記帳を片っ端から手に取り、時系列に沿って次々と拾い読みしていった。すると、こんなことが分かった。
父親は趣味の山登りを通じて、母親と出会い、結婚を約束したこと。
父親は大学を卒業し、就職したが、会社がすぐ倒産してしまい、再就職を余儀なくされたこと。
「なんだ、就職先が倒産って、オレと一緒じゃないか……」
その後、苦労して、数回の転職をしたのち、今の会社に入って、ようやく二人は結婚することができたこと。
「親父、今は高給取りかもしれないけれど、若い頃は苦労したんだなあ……」
そしてついに、こんなページまでたどり着いた。
”ついに……待望の第一子誕生! 元気な男の子だ!!”
そのページは喜びに満ちあふれていた。
そこには、生まれた日付や時刻、身長や体重、その時感じた気持ちや、母親の様子が、生き生きとしたトーンで綴られ、その時の情景が手に取るようにわかった。その文体は、普段の淡々としたものとは、明らかに異なっていた。
そしてその日の日記はこう締めくくられていた。
”南海子ありがとう、そしてお疲れ様! 和也、いつか一緒に山登りしよう。早く大きくなってくれよ!”
「もちろん、一緒に登った……当たり前じゃないか」和也は日記の向こうにいたはずの父親に向かって、思わずつぶやくと、日記帳を閉じ、次の日記帳へと読み進めた。
だがしばらくして雲行きが怪しくなる。例によって、和也が謎の高熱を出して入院したのだ。その後のいきさつは、見るのが苦痛だった。目を背けるようにして斜め読みするのが精一杯だった。何せ、自分自身のことだったから。
両親はもっと辛かっただろう。日記にも、その気持ちは、ありありと書き連ねてあった。自分の葬式のくだりで、和也は思わず日記帳を閉じた。涙で日記がぐしゃぐしゃになってしまうと思ったからだ。
「和也……くそっ! なんで死んだんだよ……バカヤロウ!」
彼は誰も見ていないのをいいことに、声を上げてオイオイと泣いた。
しばらくして気持ちが落ち着くと、時間が気になってきた。両親が戻って来る前に家を出なければ。そして日記を元どおり棚に戻し、何事もなかったように玄関を施錠して家を出た。重たい足を引きずるようにして。
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