第6話 取締役ヒラ社員
和也はとにかくよく働いた。
何しろ生きていないはずの人物だ。預金口座もなければ健康保険もないのだ。若く健康な彼が、ある日突然倒れる危険性は、決して高いものではないが、全く無い訳ではない。ましてや、幼いころ、病弱だった彼は、気が気でならなかった。
そういうわけで、とにかく現金が欲しかった。その点、給料を日払いで受け取れるのはありがたかった。働いたら働いた分だけもらえるというのも、励みになった。
和也は例の会議室を『自宅』と名付け、アゴヒゲ社長の私物であるテントを張った。それは『月明かりの中でも設営が可能』という触れ込みどおり、一人でも簡単に立てることができた。
そうやってプライバシーを確保したうえで、テントの中にクッション性の高いキャンプ用のマットを広げ、その上に寝袋で寝た。いずれもアゴヒゲ社長の私物だった。
彼は自宅から毎日通勤時間ゼロ分で『出社』し、朝から晩まで働いた。
仕事が終わるとゼロ分で『帰宅』。
会社の中はWi-Fiの電波が飛んでいて、タダで使うことができたので、業務終了後は、『自宅』で動画サイトを見て気晴らしをしたりした。
またお金がもったいないので、外食はなるべくせずに、アゴヒゲ社長のキャンプ用の調理器具で簡単な料理を作ったりしていた。
さすがに着の身着のままという訳にはいかないので、近所の安い洋服屋で最低限の着替えを購入し、ときどきコインランドリーで洗濯した。また風呂は近所の銭湯で済ませた。
ところで、「女性になりすましてサクラをやってくれ」と雇われたのだが、実態を知って驚いた。彼が演じるサクラは一人だけではなかったのだ。十人ほどのアルバイトでサイトを賑わすためには、一人当たり、常時だいたい十人ぐらいのキャラクターを巧みに使い分ける必要があった。
これには、ニート暮らしの長い彼が暇を持て余し、過去に小説を書いていた経験が役に立った。
様々なキャラクターを創作することはもちろん、その設定が破綻しないよう、表計算ソフトで『キャラクター設定シート』を作り、なりきるキャラクターの年齢や容姿、趣味などの設定を簡単に管理できるようにした。自分でも重宝したが、アルバイト仲間に配ると喜ばれた。
更に少し余裕ができると、例の『思わせぶりテンプレート』を工夫して、より、男心をくすぐるように改良した。彼も、ここにいるサクラがなぜ男性ばかりなのか、わかってきたような気がした。男心をわかっているのは、やはり男だ。
色々と工夫したおかげで、売り上げに貢献することができ、彼は仕事の手応えを感じていた。いくばくかの良心の呵責とともに。また、そのおかげで、すぐにアルバイトから正社員に昇格した。例のギャル専務からも一目置かれるようになり、『取締役ヒラ社員』という、有難いんだかどうなんだか、よくわからないあだ名で呼ばれるようになった。
* * *
さて、街を紫とオレンジに彩っていたハロウィーンもいつの間にか過ぎ去り、その代わりに赤と緑のクリスマスカラーがやってきた。
その頃、和也はすっかり新しい生活に慣れてきた。元の世界が実は彼の妄想の産物で、こちらの世界が真実なのではないか? そんな風に思えることすらあった。
そんなある日の朝のこと。
「新戸くん、実は困ったことになった」アゴヒゲ社長は和也を社長室に呼び出し、何やら話し込んでいた。自慢のアゴヒゲをジョリジョリと触りながら。
「社長、どうしたんですか?」何かヘマをやらかしたのではないかとビクビクしていた和也だったが、そうでないらしいと分かると、内心ほっとした。だがわざわざ改まって相談事とは、どういうことだろう?
「実は崎浜くんが辞めた。もうここにはいない」アゴヒゲ社長の表情は暗かった。
「なんですって?」和也は椅子の上で身を乗り出した。
「そうなんだよ……今度はファッションブランドを立ち上げるとか言ってた……」
「本当ですか?」
「ああ。引き止めたんだが、『ヴァイブスが下がった』とかなんとか、よく分からん理由で、とにかくもう無理だとさ」
「そうなんですか……」和也はギャル専務から、おちょくられたり、からかわれたことを思い出したが、いなくなったと思うと寂しかった。だがそれを言うためにわざわざ社長室へ呼び出したのだろうか? だがそんな彼の疑問はすぐに解けた。
「ところでタイミングの悪いことに、来週は海外出張へ行かないといけない」アゴヒゲ社長は悩みを打ち明けた。「海外の現地法人を立ち上げる準備なのだが、ずっと前から現地とアポイントを取っていたので日程は変えられない。そこで、俺がいない間、君に現場の責任者をやって欲しいんだ」
なるほどそういうことか。ギャル専務は専務と言いつつ、役員室に篭ってひたすら書類に判子を押すわけでもなく、実際には現場を取り仕切るリーダーであった。
ところでこの会社『プレシャス・ゴー』だが、仕事内容が仕事内容だけに、長く勤める人は少なく、また集まるアルバイト達も、一癖も二癖もある人物が多かった。彼女はそんなチームを、上手いことまとめていた。それはまるでサーカス団員が猛獣を手なずけるかのようだった。
噂によると、彼女は十代の頃、素行の悪い仲間の『チーム』を仕切っていたらしく、類まれなるリーダーシップはその時に培われたのだとか。
だからこの会社のメンバーをまとめるというのは、ギャル専務には出来たとしても、和也には正直なところ、荷が重いように思われた。
「
「いやだめだ、彼は今まで、人事とか法律面とか、事務職が専門で、サイト運営にはノータッチだった」アゴヒゲ社長は和也を説得した。「今は君が誰よりも実務に詳しいんだ」
「わかりました。文字通り、取締役ヒラ社員ですね」和也は腹を括った。
「そうそう、そういうことだ。頼むよ」さっきまで落ち込んでいたアゴヒゲ社長は、人が変わったように明るい表情になった。「ところでフライトは今日の深夜便だ。何かあれば早めに言ってくれよ。それからいつも通り、戸締りとかも頼む」
「はあ……わかりました……」和也は怪訝な顔をした。「でも、今日ってまだ金曜日ですよね? なんで今日の出発なんですか?」
「おいおい、うちの妻みたいなこと言うなよ……これも仕事なんだよ」アゴヒゲ社長は大げさに驚いてみせた。
彼いわく、海外進出は一社の力だけでは難しく、現地の企業とパートナーシップを組んで合弁会社を立ち上げる必要があるのだそうだ。そして関係づくりのためにも親睦を深めることが大事なのだと、彼は力説した。
「向こうへは土曜日へ着いて、まずその日の晩は飲み会だろ? それから日曜日はゴルフだ」アゴヒゲ社長はとても楽しそうに答えた。「そうだ、新戸くんはゴルフやったことあるかい? 楽しいぞ」
「いえ……ないです……」和也はアゴヒゲ社長の変わり身の早さに呆れていた。ポジティブというか、なんというか……。
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