第2話 今年初めての患者さんですね

 話は和也の小学生時代にさかのぼる。スマートフォンという言葉はなかったが、携帯電話が一般ユーザーにも普及しはじめた頃だった。


「カッちゃん、懐かしいものが出てきたわよ」家の大掃除をしていた母親の南海子は何やら小振りなノートを発見し、和也に渡した。


「ん? 何これ、母さん?」和也はそれを受け取ると、ページをパラパラとめくってみた。中はカレンダーになっていて、花や動物の可愛らしいシールがたくさん貼られていた。


「あ、オレが幼稚園のときの出欠ノートだ」


 彼が通っていた幼稚園では、毎日、登園するとシールを一枚もらい、その日の日付のマスに貼ることになっていた。つまり、何も貼られていないところは休んだ日。


「中、見てごらん、休んでばっかり」南海子は作業を続けながら和也に言った。


「本当だ」和也は、そのノートには意外と空白が多く、月によっては半分ほどしかシールが貼られていないのに気づいた。「でもオレ、こんなに休んでたっけ?」


「なに言ってんの、今だってしょっちゅう熱出して学校休むくせに……でも、幼稚園に上がる前なんか、もっと大変だったのよ、どうせ覚えてないでしょうけど」


 南海子はさほど大変でもなかったかのようにそう言った。しかし実際には、過去に大事件が起きていたのだ。


 * * *


 それは更に時代をさかのぼって昭和の終わり。携帯電話どころかパソコンもまだ一般家庭には普及しておらず、マニア向けの「高価なおもちゃ」だった時代……彼が二歳のときだった。正月早々、未明に高熱を出した彼は、救急指定のある近所の大学病院に担ぎ込まれた。そこは偶然にも、彼が生まれた病院でもあった。


「今年初めての患者さんですね」


 最初はそんな風に茶化され、両親も苦笑いだったそうだ。


 だが、容態はどんどん悪化し、笑っている場合ではなくなった。熱は下がらず、色々と検査をしても原因がわからない。未知のウイルスに感染した可能性もあるとのことだったが、あくまで推測の域を出なかった。

 そしてついに和也は意識不明に陥ってしまった。


 昏睡状態の和也は、すぐさま集中治療室へ移され、生死の境を何日もさまよった。医師はあらゆる手を尽くしてくれたが、容体は一向に回復する気配を見せなかった。

 南海子は不安のあまり泣きじゃくり、達也にできることといえば、そんな彼女の肩をそっと抱いてやるしかなかった。

 そして時代が平成に変わり、両親も、駆けつけてくれた親戚も、誰もが諦めかけた頃、和也は奇跡の生還を果たしたのだ。


 それは後になって、彼が両親から何度も聞かされた話だった。もっとも南海子は、息子の手前、自分が泣いていたことを頑として認めなかったのだが。


 * * *


「だが、あのとき、もし仮に、オレが死んでいたとしたら……?」


 和也は考え事をしながら、なんとなく吉北センター街を東へ向かって歩き、行きつけの本屋にたどり着いた。行きつけといっても本を買うことはほとんどなく、いつもは立ち読みするだけなのだが。


「はいはい、見るだけで買わないお客様が来ましたよ、っと」


 和也は自嘲気味に呟き、あてもなく売り場をぶらぶらした。


「しかし山登りとか、キャンプとかの本が増えたなあ。最近、アウトドアブームなのかあ……そういえば山登りなんて長いこと行ってないよな」


 彼はそう言いつつ、買うつもりもない本を次々と棚から取り出しては、パラパラとページをめくり、また本棚へ戻した。そんな中、彼は父親のことを思い出した。


 子供の頃、彼は両親と三人で、よく登山やハイキングに行った。病弱だった和也のことを思い、少しでも体が丈夫になるように、との思いだったのだろうか。

 学校の遠足でも山へ登る機会はあったが、両親と行くほうが楽しかった。なぜなら、リュックサックに登山用のガスコンロやら調理器具を詰め込んでいたので、山の上で暖かい食事をとることができたのだ。

 眺めの良いところで楽しむ食事は、最高に美味しかったのを覚えている。


 また、こんな言葉も思い出した。


「道に迷ったら、戻れ」


 それは当時父親がよく和也に言い聞かせた、サバイバルの知恵だった。


 もし山道で、道に迷ったかも知れないと思ったときは、それ以上事態を悪化させないため、一旦、道に迷う前の確実な地点へ戻るのが大事なんだそうだ。

 逆に最悪なのは、焦って闇雲に歩き続けることらしい。完全に迷ってしまう。


「まあ、このあたりは庭みたいなもんだから、迷いようもないんだけどな……」


 彼は他の売り場にも行ってみた。


「おっ、来年のカレンダーだ……もうそんな季節か。もっとも我が輩は毎日が日曜日であるから、カレンダーなど、あろうがなかろうが、関係ないのだがな。フヒハハハハハハ!」


 彼は心の声で悪魔笑いをしつつ、それを何の気なしに手に取ってみた。すると何かに気づいた。


「あれ……いま平成何年だっけ? いや、そんなはずはないんだが……」


 彼は本屋にもフリーWi-Fiがあったのを思い出した。そこで彼は「座り読み用」のベンチに腰掛けると、スマートフォンを本屋のWi-Fiに接続し、気になったことを検索してみた。


「オレが死にかけたのは、昭和の最後、六十四年の正月……そして退院すると平成になっていた……これは両親から何度も聞いたので間違いないはずだ。だが、検索結果によると……昭和時代は六五年の十二月まで続いたそうだ……なんで?」


 続いて、ニュースサイトを見ると、こんな見出しが目についた。


『マドリード五輪 スタジアム建設費用膨らむ デザイン白紙撤回も』


「マドリードってどこだ……? 二〇二〇年に、そこでオリンピックがあるって……東京じゃなかったのか? なんかオリンピックの偉い人が『TOKYO』ってカード持ってるシーン、テレビで何度も見たぞ」


 だが調べてみると、東京は開催地の最終選考まで残ったが、惜しくも落選、スペインのマドリードが選ばれたのだとか。


「昭和は六十四年ではなく、六十五年まで続いた。東京オリンピックがなくなった代わりに、例の駅前再開発がスタートした」彼は歴史の重みを噛み締めた。「オレが知っている過去とは、どうやら少し違うらしい。そしてオレは……どうやら死んでしまったらしい……」


 何かが少しずつ違う世界。つまりパラレルワールドだ。当然、信じられるはずもないが、状況証拠からすれば間違いなかった。


「ウソみたいだろ……オレ、死んでるんだぜ……」


 世界は、なんらかの確率で動いている。サイコロを振れば、六つある目のうち、どれか一つが、六分の一の確率で登場する。

 世の中で何かが起きるとき、そこでは常に無数のサイコロが振られ、ミクロの決定が次々と下されている。

 そして小さな因果律の積み重ねが、雪だるま式に膨らみ、運命の歯車を回していく。ゆっくりと、しかし誰にも逆らえない強大な力で。


 一番の問題は、枝分かれした複数の歴史が、異なる世界で同時に存在しているということだ。今回の場合、和也が九死に一生を得た世界と、そうでない世界。どういうわけか、彼は、自分が死んだほうの世界へ迷い込んでしまったらしいのだ。確たる証拠はないが、そうとしか彼には思えなかった。


「オレは死んだ。帰る家はない。住所も戸籍もない。まさに天涯孤独だ。スマートフォンは圏外だし金も残り少ない。それに仕事も……あ、オレは元々ニートだったか……」

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