第5話
「だったらこうすればいい。この場で結衣と別れれば解決じゃない?」
まるで悪い夢を見ているようだった。
言葉が、出てこない。
ひどい目眩がして、視界が何度も大きく揺れた。
「なんでそんなこと言うのッ!? 葵に関係ないでしょッ!」
「関係ないのは結衣の方だ。私と瞬矢は両思いで、結衣は片思いしてるだけ。そっちが身を引くのが当然じゃない?」
二人の怒声が、妙に遠く聞こえた。
胃の中に鉛が詰まったみたいに身体が重い。
とくとくと脈打つ心臓の存在感が、全ての現実感を押し流していく。
「ちがうッ! 瞬矢は私を受け入れてくれたッ!」
「そうかな。どうせ落ち込んでいる瞬矢につけこんだだけでしょう?」
物心ついた時から続いてきた俺たちの関係は、破綻を迎えようとしていた。
ほんの少しのすれ違いが、どうしようもないほど膨れ上がって破裂しようとしていた。
頭が動かない。
渇いた喉を潤そうと、半ば義務的に唾を飲み込む。
起きた間違いは、もう正せない。
ならば、後は筋を通すしかない。
「葵」
ゆっくりと息を吐き出す。
声を荒げていた葵と結衣が口を閉ざし、俺を見る。
二人の瞳には、不安の色があった。
きっと、俺も似たような目をしているのだろう。
「葵は一度、明確な否定を口にしたはずだ」
葵の表情が固まるのが分かった。
結衣は次の俺の言葉を待つように黙っている。
「俺は一度、結衣の好意を明確に受け入れた」
だから、と全てを言い切る。
「それが全てだ。それ以外は何もない。葵と付き合うことはできない」
結衣の顔一面に喜色が広がっていく。
対する葵は呆然とした様子で俺を見ていた。
「葵……本当に悪いと思っている」
秋の澄んだ風が俺たちの間を駆けていく。
あとには静寂だけが残った。
喧騒は遠く、まるで俺たちだけが世界から取り残されたようだった。
葵の眼球が、舐めるように俺と結衣を交互に見る。
彼女の唇が、震えるように動いた。
静寂を破るわけではなく、静寂に溶けるようにゆっくりと。
「最後にひとつだけ、聞いていいかな」
葵の端正な顔が、歪んだ。
歪み、としか形容しようのないそれは、どこか底知れない感情を俺に抱かせた。
仄暗い視線が、刺すように俺に向けられる。
「瞬矢は、まだ私のことが好きなんだよね」
それはどこか確信めいた言い方だった。
俺は、答えられなかった。
その沈黙こそが答えだというのに、否定の言葉を口にすることが出来なかった。
視界の隅で、結衣が不安そうに俺を見ていた。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
正しい言葉が、頭に浮かばない。
黙り込んだ俺を見て、葵は笑みを深くした。
「そう。瞬矢の気持ちは分かったから最後まで言わなくていいよ」
そして葵は幼い少女のようにくすくすと笑った。
「今は結衣に預けてあげる」
葵は踵を返して、それから最後に振り返って微笑んだ。
「私は大人しく順番待ちしているよ」
すらりとした葵の背中が遠ざかっていく。
中庭に残された俺たちは言葉を交わすこともなく、しばらくの間じっとしていた。
「瞬矢……」
結衣が蚊の鳴くような声で俺の名前を呼ぶ。
「……ああ」
無意味な言葉の羅列が口から飛び出した。
「寒いね」
「……ああ」
「中、入ろっか」
結衣の声に被さるようにチャイムが鳴る。
俺たちは重い足取りで校舎に向かった。
◇◆◇
「カラオケでも行くか?」
授業が終わり、クラスメイトがぞろぞろ教室から出ていく。
喧騒の中、拓海が小声で声をかけてきた。
ぼんやりと帰り支度をしていた俺は、少しだけ反応が遅れた。
「カラオケ?」
「あれからまた何かあったんだろ。話してみろよ」
「……いや、今日はいい。少し時間をくれないか」
話しても気持ちが晴れるとは到底思えなかった。
好意を無碍にする形になるが、鞄を持ってそのまま立ち上がる。
「そうか。何かあったら言えよ」
「ああ、悪いな。また明日」
拓海に軽く手を振ってから戸口に目を向けると、廊下に結衣が立っていた。葵の姿はない。
俺はクラスメイトの間を縫うように歩いて結衣の元に向かった。
「葵は?」
俺たちはいつも三人で一緒に帰っていた。
「……先に帰ったみたい」
「そうか」
当然と言えば当然なのだろう。
俺たちはそれ以上何も言わなかった。
無言のまま校舎を出る。
茜色に染まる空に、うろこ雲が浮かんでいた。
葵に振られ、結衣に告白された昨日と似た空模様だった。
「瞬矢は」
不意に結衣が沈黙を破った。
「葵のことが、まだ好きなんだよね」
葵が最後に残した言葉は、まるで呪いのようだった。
それは深く打ち込まれた楔に似ていて、簡単には抜けそうにない。
「俺は――」
「――いいの」
答えようとした俺を、結衣が制止する。
「うん。一日で好きだった心が変わるはずなんてないもの。だから、いいの」
それは俺に向けた言葉ではなく、自分自身に言い聞かせているようだった。
「私はこれから、少しずつ頑張るから。瞬矢が私のことを好きだって言ってくれるように頑張るから」
だから、と結衣は俺を見上げた。
「すぐに見捨てないで、長い目で見てくれると嬉しいな」
結衣の瞳は、不安に揺れている。
しかし、視線は俺に向けられたまま離れない。
彼女の真っ直ぐな心に、俺は何と返せばいいのだろう。
元来、俺はあまり口数が多いほうではない。
この場に相応しい言葉も、彼女が喜ぶ言葉も思い浮かばない。
だから、行動で示すことにした。
すぐ近くで揺れていた彼女の手をそっと握る。
「……ぁ、っ……」
驚いたように結衣が声をあげる。
俺は思わず視線を外して、真っ直ぐと続く住宅街を見つめた。
「こうして手を繋いで歩くのは、何年ぶりだろうな」
「……七年ぶりだよ。くっつくのを瞬矢が嫌がったから、私は嫌々やめたんだよ」
「そうだったかな」
小さい頃はこうしてよく手を繋いでいた気がする。
俺たちは、本当に長い年月を一緒に過ごしてきた。
「私はあの頃から、ずっと……」
結衣の言葉で思い出したのは、葵の顔だった。
べったりするのを嫌がるようにはなったのは、俺が葵を意識するようになったからだった。
「私は、ずっと瞬矢のことが……」
繋いだ手が、一度離れた。
それから、より深く繋がろうとするように指先が絡まる。
「小さい時はいっぱい手を繋いだけれど、こういう風に手を繋ぐのは初めてだよね」
そう言って、結衣は嬉しそうにはにかんだ。その頬は夕陽に負けないくらい赤く染まっている。
次第に結衣の家が近づいてくる。
――瞬矢は、葵のことがまだ好きなんだよね。
結衣の震える声と、不安に揺れる瞳が脳裏に蘇った。
「結衣。久しぶりに家に寄ってもいいか?」
「え? わたしの家?」
結衣が驚いたように俺を見上げる。
「えっと、うん、いいけど、お母さんいるよ?」
「ああ。久しぶりに挨拶したい」
「あ、うん。えっと、本当に何もないけど……」
結衣が動揺した様子を見せているうちに、彼女の家がすぐそこまで近づいてくる。
どこかそわそわした様子で結衣は繋いでいた手を離し、鍵を取り出した。
「あの、どうぞ」
玄関扉を開けて、結衣が中に入るように俺を促す。
「ああ。おじゃまします」
声をかけてから玄関で靴を脱ぐ。
懐かしい匂いがした。
結衣の家にあがったのは小学生の時以来だった。
「お母さん! 久しぶりに瞬矢連れてきたよ!」
後ろで鍵を施錠しながら結衣が叫ぶ。すぐに奥から彼女の母親がやってきた。
「あらあら。瞬矢くん? 久しぶりねぇ」
結衣の母親、舞さんとは昔から何度も顔を合わせている。
久しぶりに見る姿は、昔よりやや肉付きが良くなったように見えた。
「お久しぶりです」
小さく頭を下げる。
それから大きく息を吸った。
結衣は、俺たちの関係に不安を覚えている。
ならば、吹き飛ばす必要があった。
「今日はひとつ、大きな報告があるんです」
「報告?」
不思議そうに首を傾げる舞さん。
「ちょ、ちょっと瞬矢?」
結衣の慌てたような声。
俺はそれを無視して、舞さんを正面から真っ直ぐ見つめて口を開いた。
「実は結衣と交際することになりまして、今日は改めてそのご挨拶に参りました」
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