第4話
「わたしは瞬矢のことが好き。これからずっと一緒にいてほしい」
全身の血の気が引いていくのがわかった。
世界中の時間が止まったみたいに、何も考えられなかった。
「昨日はごめん」
葵が近づいてくる。
いつもの眠そうな顔が、すぐそこまで迫っていた。
「もしかして怒ってる?」
怒りなんて、どこにもなかった。
あるのはただ虚しさに似たなにかと、得体の知れない焦燥感だけだった。
俺たちは、どうしようもない過ちを犯そうとしていた。
「瞬矢? びっくりした?」
葵は小首を傾げて、おかしそうに小さく笑った。
対する俺は、表情を凍りつかせたまま人形のように突っ立っていた。
震える唇を、無理矢理こじ開ける。
「落ち着いて聞いて欲しい」
掠れた声が出た。
自分の声とは思えないほど低い声だった。
「葵とは、付き合えない」
葵が首を傾げたまま、何度か瞬きする。
そして、彼女は微笑んだ。
「どうして?」
葵はまだ、俺の言葉を本気で受け取っていない。
もっと明確な言葉が必要だった。
吹き付ける風が、気力を削いでいく。
枯れ葉のように、何もかもが落ちていく。
零れていく。
「俺は」
逡巡があった。
言ってしまっていいのか、という迷いがあった。
しかし、進むしか道はない。
肺腑の中に冷たい空気を吸い込んで、それから言葉を続ける。
「結衣と付き合うことになった」
葵の表情は、なにも変わらなかった。
彼女の目は、ただ不思議そうに俺を見つめるだけだった。
まだ、足りない。
俺は足跡を辿るように、自分の選択と責任と失敗の全てを振り返って、その全てを彼女に説明しなければならなかった。
「葵に振られたあと、結衣に告白された」
葵の微笑みが、ゆっくりと崩れていくのが分かった。
赤く染まっていた頬が、色を失っていく。
「俺は、それを承諾した」
まるで悪夢を見ているかのようだった。
想い人の好意を踏み躙らなければならない時が来るなんて、想像したこともなかった。
俺はいま、一体どんな顔をしているのだろう。
心がざわついて、叫ぶように蠢いて、どうにかなってしまいそうだった。
「だから、葵とは付き合えない」
葵は表情を失い、呆然とした様子で俺を見ていた。
彼女の視線を受け止めることができず、俺はゆっくりと視線を落とした。
「どうして」
蚊の鳴くような声だった。
葵は震える声で言う。
「瞬矢は、私のことが好きなんでしょう」
俺は、何も言えなかった。
いつもの余裕のある葵の表情が崩れ去り、瞳が不安そうに揺れていた。
「どうして」
繰り返される言葉に、返す言葉などなかった。
取り返しのつかない失敗をしてしまったのだと、徐々に脳の隅々まで理解が広がり始めていた。
「結衣を」
葵がゆっくりとスマホを取り出す。
「結衣を、呼ばないと」
「……葵」
制止の声を無視して、葵はスマホを耳に当てた。
「結衣、中庭に来て」
短くそれだけ言って、葵はすぐにスマホを耳から離した。
「ねえ」
だらりとぶら下がった手でスマホを掴みながら、葵が口を開く。
「私は瞬矢が好きで、瞬矢は私のことが好き。そうだよね」
「……葵」
目眩がした。
「俺は、結衣と付き合うことになったんだ」
「……どうして」
葵の顔色がどんどん色を失っていく。
多分、俺も同じような顔をしているのだろう。
どこにも適切な言葉が見つからず、俺たちは互いをただ見つめることしか出来なかった。
葵の目がゆっくりと俺の後ろを見る。
振り返ると、結衣が立っていた。
彼女は俺と葵を見て、表情を硬くしていた。
「ねえ、結衣」
先に口を開いたのは葵だった。
「瞬矢と付き合うことになったって本当なの?」
「……そうだけど」
どこか警戒するように、結衣は低い声で答えた。
きっと、この場の只ならぬ空気に気づいているのだろう。
結衣の返答に、葵は一瞬笑おうとして失敗したような顔を浮かべた。
「お願いがあるんだけど」
葵の目が、俺を見る。
「身を引いてくれないかな。私と瞬矢、両想いなんだ」
「……なにそれ?」
結衣の目にはっきりと、怒りの色が宿る。
俺は大きく息を吸い込んで、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「葵、やめろ」
「どうして?」
葵が首を傾げる。
「だって、昨日の帰り道で瞬矢は言ったでしょう。私のことが好きだって」
それなのに、と葵が結衣を睨みつける。
「どうして結衣と付き合うなんて事になってるの?」
「それは――」
「――経緯なんてどうでもいい」
全て説明しようと口を開くと、葵がそれを制止した。
「どうでもいいの。ただ、私はこう言いたいの。なんで結衣が割り込みしてきてるの?」
「割り込みって……」
結衣が言葉を失ったように呟く。
「わたしは……わたしは瞬矢に気持ちを伝えただけだよ。葵になにか言われる筋合いなんてないッ!」
それに、と結衣は俺を見た。
「瞬矢は私の気持ちを受け止めてくれた。付き合おうって言ってくれた。もう葵は関係ないでしょッ!」
葵の昏い目が、俺を見る。
「でも、瞬矢はまだ私のことが好きでしょう?」
俺は、何も言えなかった。
結衣の瞳が不安そうに揺れる。
葵は薄い笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「だったらこうすればいい。この場で結衣と別れれば解決じゃない?」
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