第3話
日付が変わっても、憂鬱な気分は晴れなかった。
それでも、結衣のおかげで少しだけ前向きになることができた。
朝。
いつも通りの時間に起きて、妹の分も合わせて朝食を準備する。
スクランブルエッグをフライパンから皿に移していると、のそのそと妹がリビングに出てきた。
佳矢は俺を見て、一瞬だけ意外そうな顔をした。
しかし、なにも言わず席についた。
「おはよう」
声をかけると、佳矢はぼんやりとした顔で俺を見た。
「牛乳でいいか?」
「あ、うん」
冷蔵庫からパックを出し、コップに注ぐ。
「結衣さんとなにかあったの?」
背後から声がかけられた。
振り返ると、佳矢が真剣な顔で俺を見ていた。
「結衣さんが帰ってから、お兄ちゃんちょっとだけ元気になった」
「そうかな」
「そうだよ」
トーストの焼ける音。
皿に移して、まとめてテーブルに運ぶ。
「ま、いいや」
妹はすぐに興味をなくしたようにトーストにかじりついた。
リモコンに手をのばし、テレビの電源をつける。
そこでインターフォンが響いた。
「だれ? こんな時間に?」
妹が不機嫌そうに顔をしかめる。
「俺が出るから」
受話器に付属しているモニターを確認すると、制服姿の結衣が映っていた。
めずらしい。
下校時は毎日一緒に帰っていたが、登校時まではいちいち時間を合わせていない。
「結衣? どうした?」
『あ、えっとね。一緒に登校しようかなって』
結衣の家のほうが高校に近い。
わざわざ逆方向へ歩いてきたことになる。
「いま開ける」
受話器を置いて、すぐに玄関に向かう。
ドアを開けると、どこか気まずそうな表情を浮かべた結衣が立っていた。
朝の冷たい風が肌に染みる。
「おはよう。急にごめんね」
結衣はそう言って、家の中を覗くように身体を傾けた。
「あの、瞬矢の顔見たくなっちゃって」
佳矢のことを気にしているのか、結衣は小声で囁くように言った。
思わず面食らう。
頬を染めて、恥ずかしそうに上目遣いをする結衣の姿はこれまで見たことがなかった。
「ああ……問題ない。中で待っていてくれ」
外は冷える。
中に入るように促すと、結衣はどこか緊張した様子で頷いて玄関に入った。
参った。
いつもと違う結衣に調子が狂う。
結衣とともにリビングに戻ると、佳矢は不思議そうに結衣を見た。
「結衣さん?」
「おはよう、佳矢ちゃん。朝からごめんね」
「ソファに座って待っててくれ。牛乳とコーヒーどっちがいい?」
冷蔵庫を漁りながら問いかける。ジュースは切れていた。
「えっと、じゃあ牛乳」
コップに注いで手渡すと、結衣は居心地が悪そうに微笑んだ。
「すぐ食うから」
声をかけてから席に戻り、トーストを齧る。
テレビから流れるどうでもいい情報が沈黙を誤魔化してくれた。
対面の席で、妹はちらちらと結衣を気にするように視線を向けていた。
説明しようかと思って、結局やめた。
妹も追求しようとはしてこなかった。
朝食を食べ終えて、食器を流しに浸ける。
「着替えてくる」
自室に向かおうとした時、結衣がソファから立ち上がった。
「どうした?」
「うん、ちょっと」
振り向くと、結衣は言葉を濁した。
妹の前では言いづらいことなのだろう。
何も言わず、結衣を連れて自室に入る。
ドアを閉めると、結衣は恥ずかしそうに俺を見上げた。
「えっとさ」
歯切れが悪い。
「今日は急にごめんね。でもこれまで通りだと意識してもらえないかなって思って……」
俺たちの関係は変わった。
付き合い方も改めるべきなのだろう。
幼馴染から恋人へ。
互いが意識しないと、たぶん何も変わらない。
「……そうだな。これからは朝も時間を合わせようか」
「うんっ!」
弾けるように笑う結衣に、思わず目が奪われた。
俺は誤魔化すように視線を外して、着替えるから、とぶっきらぼうに言った。
「あ、うん」
部屋を出ていく結衣の後ろ姿を見送りながら、思わず自嘲する。
昨日まで葵のことばかり考えていたというのに、随分と惚れっぽい奴だ。
それから息をついた。
なんとか葵との関係を修復しなければならない。
◇◆◇
葵と結衣は、俺とは別のクラスだ。
顔を合わせる放課後までは少しだけ猶予がある。
「拓海、ちょっと良いか」
昼休みになると俺はすぐに拓海に声をかけた。
鞄から弁当を取り出していた拓海が不思議そうに俺を見る。
「相談がある。中庭まで来てくれ」
「ああ」
拓海は少しだけ周囲を気にする素振りを見せてから、弁当を持って立ち上がった。
混雑する廊下を抜け、人のいない中庭を目指す。
季節は秋。
肌寒くなってきた今、外で弁当を食っているやつは少ないはずだった。
「それで、何があった?」
中庭につくなり、拓海はベンチに腰掛けて俺を見上げた。
どこから話すべきか迷い、全て言ってしまうことにした。
「振られた後、どういう対応をしたらいいと思う?」
拓海は怪訝な表情を浮かべた。
「だれに?」
「葵に」
一瞬の沈黙があった。
「いつ?」
「昨日の帰り道だ」
拓海は大きく溜め息をついて、空を見上げた。
「馬鹿野郎。告白は雰囲気のいいデート帰りとかにするもんだろ。互いに暗黙の了解がある上で、最終確認でするものなんだ」
呆れたような声色だった。
「一か八かでいきなり告白するなんて中学生のすることだ」
「……その時は、いい雰囲気に思えたんだ」
思い返してみると、後悔しかなかった。
秋の空色と、誰もいない暗闇で変な気になってしまった。
「それで、失敗した後はどうやって接すればいいと思う?」
拓海の隣に腰掛ける。
「そうだな。向こうの出方次第だろ」
頷く。
たしかに、相手に合わせるしかないのかもしれない。
「例えば相手が露骨に避けてるなら無理に接触する必要はない。反対に相手がいつも通りなら――」
そこで拓海は言葉を切った。
彼の視線が俺から外れて、肩越しに誰かを見るように動く。
「瞬矢」
背後から声がした。
振り返ると、葵が立っていた。
冷たい風で、彼女の長髪が大きく舞う。
「東村くん、少しだけ席を外してくれないかな」
葵はいつもの眠そうな目で、穏やかにそう言った。
拓海は弁当を持って、無言でベンチを立った。
残された俺は、ただ葵をぼんやりと見つめることしかできなかった。
言葉が出てこない。
何を話せばいいのか分からなかった。
「あれから私なりに考えてみたんだ」
葵がゆっくりと近づいてくる。
枯れ枝の折れる音が響いた。
「昨日言った通り、私は瞬矢を異性として見たことがなかった。だから正直、驚いた」
葵は俺のすぐ前で足を止め、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
俺はベンチに座ったまま、無言で葵を見上げていた。
「私たちは幼馴染だ。それ以上でもそれ以下でもない。ただの友達でもないし、ましてや恋人でもない」
けれど、と彼女は微笑んだ。
「これから先はどうだろう、って考えてみたんだ。このまま高校を出て、大学に進学したり就職したりして、それぞれ結婚していく」
珍しく饒舌だった。
いつもの眠そうな目が、正面から俺を見下ろしていた。
「私たちはいつまでも幼馴染ではいられない。それぞれ人生の中で一緒に歩いていく最愛のパートナーを見つけていく。結婚すれば異性の幼馴染と頻繁に会うことは難しくなるだろう」
なにか、いやな予感がした。
昨日振られたばかりなのに、葵はどこまでも穏やかな声色で語り続ける。
頭の奥で警鐘が鳴り響いていた。
「いろいろなことを想像した。瞬矢が誰かと付き合って、結婚していく姿。あるいは私が誰かと付き合って、結婚していく姿」
口の中がひどく渇いていた。
胸の奥で得体の知れない恐怖心のようなものが蠢いていた。
「どれもしっくりこなかった。特に瞬矢が誰かと付き合っている姿を想像すると胸が苦しくなった」
まさか。
頭の中が真っ白になっていく。
思考が削ぎ落とされていく。
「私たちはあまりにも長い年月を一緒に過ごしてきた。あまりにも近い距離にいたから、ずっと気づかなかった」
葵が穏やかに微笑む。
対する俺は、表情を凍りつかせていた。
まさか、そんな。
「瞬矢」
冷たい風が吹いた。
体中の体温が奪われいく。
頭の中は信じられないほど冷え切って、何も考えられなかった。
「改めて答えを出そうと思う」
なんで、という思いだけがあった。
これから出てくる答えは俺がずっと望んできたものだった。
けれど、今じゃない。
もう手遅れだった。
「わたしは」
葵の薄い唇がゆっくりと開く。
「瞬矢のことが好き。これからずっと一緒にいてほしい」
いつもの眠そうな葵の表情が、うっすらと恥ずかしそうに赤く染まる。
俺はただ呆然と、彼女を見上げていた。
秋の冷たい風が頬を撫でる。
俺たちの関係は、静かにエラーを吐き出し始めた。
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