第2話
あとに残ったのは、後悔だけだった。
気づけば、自室のベッドで横になっていた。
どうやって帰ってきたのか、記憶になかった。
ただ深い後悔だけが頭の中を占めていて、なにも考えられなかった。
「お兄ちゃん?」
ドアの向こうから、妹の佳矢(かや)の声と足音が届いた。
「帰ってるの?」
ノックもなしに、ドアが開く。
俺は壁側を向いたまま振り返らなかった。
「あ、いるじゃん」
いつも通りの佳矢の声。
寝た振りをして無視する。
「なに寝てんの?」
ベッドに妹が腰掛ける気配。
それから額に冷たいものが触れた。
驚いて上半身を起こすと、瞬きする妹と目が合った。
「熱もないみたいだけど、なに? どうしたの?」
「疲れてるんだ」
思わずぶっきらぼうに答えた俺に、佳屋は興味なさそうに「ふうん」と呟いた。
「それより、お母さん夜勤だからいないよ。適当に買ってこいだって」
父は単身赴任で、母は看護師のために夜勤の日は外で適当に買ってくるのが習慣になっていた。
「俺の分はいらない」
食欲なんてなかった。
今はただベッドで無為な時間を過ごしていたかった。
「ダメだって。ちゃんと食べなよ」
妹が顔を覗き込んでくる。
反射的に視線を外すが、遅かった。
「……なにか、あったの?」
俺の顔を見た妹の表情が凍りつく。
そんなに分かりやすい表情をしていたのだろうか。
「頼む。いまは放っておいてくれないか」
それだけ言うと、妹は黙り込んだ。
何も食べたくないし、喋りたくなかった。
失恋に有効な薬は時間しかない、という言葉をどこかで聞いたことがあった。
多分、その通りなのだろう。
テレビを見ても笑える気がしないし、音楽を聞いても気分が良くなるとは思えなかった。
ただ、傷が癒える時間が欲しかった。
「お兄ちゃん。とりあえずご飯だけ買いにいこう?」
普段からは想像できないほど優しい声色だった。
「無理して全部食べなくてもいいから。でもご飯だけは用意しとこう。ね?」
それ以上邪険にも出来ず、俺は長く息を吐き出してから立ち上がった。
「……そうだな」
顔を見られないように、後ろを向いて服を脱ぐ。
「着替えるから出ていってくれ」
「あ、うん。わかった」
おずおずと妹が出ていく。
着替えながら、ふと鏡に視線を向けた。
ひどい顔が映っていた。
特に目元は充血していて、真っ赤だった。
思わず溜め息が出た。
一度深呼吸して、部屋を出る。
妹は玄関で既に靴を履いて待っていた。
「お、ちょっと元気出てきたじゃん」
そう言って、佳矢は笑った。
充血している目には触れなかった。その優しさが、心に染みた。
妹と並んで外に出ると、夜の冷たい風が肌を撫でた。
「うわ、寒っ」
身を縮こませながら早足で歩いていく妹の後ろをついていく。
「今日さー」
俺を励ますためか、佳矢は妙に明るい調子で話をはじめた。
「中学の新井先生って覚えてる? なんか浮気したらしくてさ、丸坊主で出勤してきたんだよ」
よく印象に残っている先生だった。
たしか、下ネタが多い人だった。男子からは人気があったが、女子からは不評だった。
「妙に真面目な顔してさー、いつもの冗談もナシ。いかにも反省してますって顔を一日中作ってて笑っちゃった」
笑おうとして、うまく笑えなかった。
口角が重く、相槌の声も出なかった。
住宅街に妹の笑い声だけが響く。
「寒いな」
何の意味もない言葉が、自然と零れた。
「うん。寒いね」
沈黙が落ちた。
国道が見えてきて、角にコンビニの明かりがあった。
そのまま無言で店内に入り、奥の弁当売り場を物色する。
食欲はなかったから、適当に安いものを買おうと値段を見比べる。
そのとき、後ろから声がかかった。
「あれ。瞬矢?」
振り返ると、私服姿の結衣が立っていた。いつものポニーテールではなく髪も下ろして、随分と印象が違った。
「結衣も買い物か」
「あ、うん。明日の朝パンにしようと思って」
結衣と話してると、気づいた妹もすぐにやってきた。
「あ、結衣さんだ」
「こんばんは、佳矢ちゃん」
昔は結衣も葵もよく家にあがっていたため、佳矢とはそれなりの仲がいい。
「二人は晩ごはん買いにきたの?」
「ああ。今日は母さんが夜勤だから」
「へえ。なんか作ってあげよっか?」
「いいって。面倒だからズボラしてるだけだし」
断ると、結衣は少しだけ考える素振りをみせた。
「ね、今から家いっていい?」
突然のことに、少しだけ反応が遅れた。
「なんで?」
「最近行ってないなぁって思って。どうせ暇でしょ?」
「いや――」
「――大歓迎ですよ、結衣さん! 是非きてください!」
断ろうと口を開いたとき、後ろから妹が遮るように大声を出した。
思わず振り返る。
「おい、佳矢」
「いいじゃん。別に暇なんだし」
「じゃあお邪魔しようかな」
結衣がにこにこと言う。
何を言っても無駄だとわかり、俺は抵抗するのをやめた。
「それよりも」
結衣の瞳が、じっと俺に注がれる。
「なにかあったの?」
答えに窮した俺の代わりに、佳矢が冗談を交えて答える。
「お兄ちゃん、えっちな本隠してるのがバレちゃったんです」
「へえ」
結衣の冷たい視線を無視して二人分の弁当をレジに通す。
会計が終わった後、レジ袋を手に二人と一緒に店を出ると結衣は何が楽しいのかにこにこと笑っていた。
「二年ぶりかな。全然変わらないね」
俺の部屋に入ると、結衣は懐かしそうに目を細めた。
彼女の言う通り、ここ二年ほどは結衣も葵も部屋にあげていなかった。
幼馴染とはいえ、互いに年頃を迎えると色々と難しくなってくる。
「それで」
結衣が興味深そうに周囲を見渡す。
「さっき言ってたエッチな本はどこにあるの?」
「いや、ないから」
思わず面倒くさそうに流してしまうと、結衣は肩を竦めた。
「で、本当はなんなの」
結衣は俺と並ぶようにベッドに腰掛けた。
「なにかあったんでしょ。付き合い長いんだからわかるよ」
自然と視線が落ちた。
そして考える。
どうせ隠しきれることではない。それに同じ幼馴染である結衣にも影響のあることだった。ここで報告しておくべきなのだろう。
深い溜め息をつく。
「笑わないで欲しいんだが」
前置きすると、結衣は神妙に頷いた。
「葵に振られた」
短い沈黙が落ちた。
「冗談でしょ?」
結衣が唖然とした表情で俺を見る。
俺は何も言わなかった。
それでようやく、本当のことだと理解したようだった。
「いつ?」
「帰り道。結衣と分かれた後に」
「……ついさっきじゃん」
結衣の目が動揺したように泳ぐ。
「えっと、ごめん。瞬矢は葵のことが好きだったの?」
「ああ、ずっと前から」
今日何度めかの溜め息が自然と口から飛び出した。
「悪い。たぶん、俺のせいでしばらく変な空気になると思う」
明日からのことを考えると、気が重かった。
どうやって接すればいいのか、皆目検討がつかなかった。
情けなさがこみあげてくる。
「そっか……ぜんぜん気づかなかった」
結衣は呟くように言って、あとは沈黙が落ちた。
並ぶようにベッドに腰掛けたまま、互いに何を言っていいか分からなくなっていた。
時計の針の音が妙に大きく聞こえる。
頭の中に靄がかかったみたいで、思考がまとまらない。
「えっと、いま言うべきことじゃないかもしれないけどさ」
不意に、結衣が口を開いた。
言葉を選ぶように、どこか歯切れの悪い様子だった。
「ねえ、私たち付き合ってみない?」
言葉の意味を理解するのに、多少の時間が必要だった。
「付き合う」
反芻すると、結衣は慌てたように言葉を付け足した。
「瞬矢が葵のこと好きで、私のことなんて別になんとも思ってないのは知ってる」
でもね、と結衣は考えるように俯きながら言葉を続けた。
「瞬矢の話を聞いてて、自分でもびっくりするくらい衝撃受けてて」
頷いて、話の続きを促す。
「瞬矢が葵とくっついたかもしれなかったっていうのに、すごい嫉妬みたいなのを感じて。同時に振られたってことに正直安心したの」
結衣の目が、ゆっくりと俺を見上げるように動く。
「瞬矢はさ、葵のことが好きだったんだよね。でも、たとえば私がほかの男の子と付き合ったらどう思う? 素直に祝福できる?」
うまく想像できなかった。
でも多分、結衣が他の男子と付き合うことになったと報告してきたら動揺するだろう。
娘が嫁にいくときの父親のような複雑な気持ちになるかもしれない。
黙り込んだ俺に、結衣が顔を近づけてくる。
「私たち、ずっと一緒にいたよね。私は出来たらこれからも一緒にいたいって思ってる。瞬矢と葵はちょっと無理だったのかもしれないけど、せめて私は瞬矢とずっと一緒にいたい」
だから、と結衣は言った。
「わたしと、その、お試しでいいからさ、付き合ってみない?」
「結衣」
息を吐き出す。
「葵に振られたばかりで、正直結衣のことを真剣に考える余裕なんてない」
けれど。
「でもたしかに、ずっと一緒にいられれば、とは思う」
結衣の顔が明るくなった。
「結衣の言う通りだ。結衣が他の男子と付き合うと報告してきたら素直に祝福できないかもしれない。俺たちは随分と長い年月を一緒に過ごしてきた。いまさら恋愛感情なんて自覚するのは難しいが、それに近いものはあるのかもしれない」
姿勢をただし、正面から向き合う。
「こんな俺でよければ頼む」
結衣の目から、透明な雫が落ちた。
「わ、わたし、実は結構前から……」
「……そうか」
俺も随分と前から、葵のことが気になっていた。
結衣も長い時間、ずっと隠していたのだろうか。
幼馴染。
その関係を壊すのは、正直怖かった。
けれど、壊れることはないのかもしれない。
ただ、緩やかに変化していくだけだ。
名前は変わっていくけれど、互いに離れることはない。
俺たちの関係は、壊れなどしない。
この時、俺は本気でそう思っていた。
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