トライアングル・エラー
月島しいる
第1話
「俺、彼女ができたんだ」
囁くように言ったのは、友人の東村拓海(ひがしむら たくみ)だった。
放課後の閑散とした教室。
警戒するように周囲を確認したあと、拓海は嬉しそうに言葉を続けた。
「中学の時、池澤って子いただろ。四回目のデートの帰り道で告ってみた」
池澤。たしか、学年の中でも綺麗どころだった。
その報告は正直なところ予想外で、どういう反応をすればいいのかわからなかった。ただ曖昧な笑みを浮かべことしかできなかった。
拓海は整った顔をしているが、これまで浮いた話とは無縁だった。
「正直、驚いた」
思ったことをそのまま口にすると、拓海は悪戯っぽく笑った。
「俺はそんなにモテそうにないか?」
「いや、異性に興味なさそうだったから」
中学の時は部活にしか興味をみせない奴だった。誰もが彼のストイックさに舌を巻いていた。
「そうか? 隠れてマッチングアプリとかやってたけど」
要領のいい奴だ、と思わず苦笑する。
陸上部で随一の結果を出していた拓海は、大人たちに受けがよかった。
拓海は俺と違って何事も卒なくこなしてみせる奴だった。
「お前も使ってみるか? 月額のアプリなら詐欺師も少ないし」
「いや、俺はいいよ」
首を横に振ると、拓海は意味深な笑みを見せた。
「すでに両手に花だもんな」
言葉に詰まった時、廊下から声が聞こえた。
「瞬矢! 待たせてごめん!」
振り返ると、戸口に二人の女子が立っていた。
一人は清潔感のあるポニーテールが目立つ葛城結衣(かつらぎ ゆい)。
もう一人はやや身長が高く、少し目つきの悪い長宮葵(ながみや あおい)。
二人とも、俺の幼馴染だった。
「いやー、教室でちょっと話し込んじゃってて」
結衣が顔の前で両手を合わせて、とたとたと走り寄ってくる。
俺は用意していた鞄を手にとって席を立った。
「拓海、さっきの話は明日詳しく聞かせてくれ」
「ああ、おつかれ」
拓海に小さく手を振って、結衣と並んで教室を出る。
廊下で待っていた葵が穏やかに微笑んだ。
「待った?」
「いや」
「そっか」
短いやり取りを終えて、そのまま昇降口に向かう。
俺と結衣と葵。
家が近く、幼少期の公園デビューを起点にかれこれ十数年の付き合いになる。
男1。女2。
正直、居心地が悪いときもある。
今だって、結衣と葵が並んで歩くのを俺が後ろについて歩く形になっていた。
元来、俺はあまり口数が多いほうではない。
二人の会話をぼんやりと聞きながら、校庭を出る。
茜色に染まる空に、うろこ雲が浮かんでいた。
秋の訪れを示すように、冷たい風が頬を撫でる。
「だからさぁ、十五センチ差くらいが一番いいんだって」
数歩前では、結衣が楽しそうに声をあげていた。
「瞬矢もそう思わない?」
不意に話題を振られて、俺は空を見上げるのをやめた。
「悪い。聞いてなかった」
「恋人同士の理想の身長差だよ。十五センチ差が一番だと思わない?」
思わず、葵に目を向ける。
葵はどこか眠そうな目で、どうでもよさそうに小さく笑った。
「五センチあったら十分かな」
「いやいや。十五センチくらいあった方が抱きしめられた時、包まれる感じがあって良いんだって!」
結衣の目が、俺を見上げる。
「そういえば、瞬矢と私がちょうど十五センチ差くらいかな」
自然と、葵に視線がいった。
葵は女子にしては背が高い。
身長差は、五センチほどだった。
「あんまり身長差があると、歩幅合わないんじゃない?」
葵は俺の視線に気づかず、結衣の主張を適当に流していた。
「いや、身長差は絶対必要だって! 瞬矢はどれくらいがいいの?」
「……俺も五センチくらいかな」
声が震えた気がした。
結衣が不満そうな声を漏らす。
葵の反応は、怖くて見れなかった。
「えー。二人ともわかってないなぁ」
ころころと表情を変える結衣。
口数の少ない俺と葵を、彼女はいつも持ち前の明るさで振り回す。
「じゃあさ、理想の年齢差は?」
「同い年のほうが話が合って良いんじゃない?」
葵が即答する。
二人の視線が俺に集まった。
「同学年だな」
答えると、結衣が満足そうに頷いた。
「お、これは満場一致だね。私も同学年がいいなぁ」
「意外だな」
つい本音が漏れた。
結衣が首を傾げる。
「なんで?」
「いや、年上が好きなのかと思ってた」
結衣が押し付けてくる少女漫画は、男側が年上の傾向にある。
年上に憧れているのだと思いこんでいた。
「そう? わたし、年上を好きになったことないよ」
「いつも読んでる漫画は大体年上から迫られるパターンじゃないか」
「あー、あれね。リアルと漫画は別だから」
けろっと言う結衣に、そんなものか、と俺は頷いた。
そこでいつもの分かれ道がやってきた。
結衣の家は、いちばん学校に近い。
「じゃ、また明日ね」
大きく手を振る結衣に、俺と葵は小さく手を振った。
それから、すっかり薄暗くなった住宅街を二人で歩く。
結衣がいなくなると、途端に静かになった。
俺と葵は、決して口数が多いほうではない。
沈黙が落ちるのはいつものことだった。
そして、俺はこの沈黙が好きだった。
幼少期から長い時間を一緒に過ごしてきたため、いまさら気まずく思うような仲でもない。
盗み見るように、隣を歩く葵の横顔を見る。
頼りない街灯の明かりが、暗闇の中に彼女の美貌を照らし出していた。
「瞬矢はさ」
珍しく、葵が沈黙を破った。
「なんで陸上続けなかったの」
陸上。
中学の時は、ずっと短距離をやっていた。
拓海ほどではなかったが、それなりのタイムを持っていた。
「ここの陸上部は雰囲気悪そうだったから」
半分本音で、半分嘘だった。
陸上を続けなかったのは、帰宅部の結衣や葵と一緒に帰るためだった。
いや、もう誤魔化のはやめよう。
俺は葵と一緒に帰るために、陸上部に入らなかった。
俺と結衣、そして葵の家は近い。
結衣と別れた地点から、約100メートル先に葵の家がある。
100メートル。
中学のタイムは11.32秒だった。
全力で走れば11.32秒で終わる距離が、葵と二人きりになれる唯一の時間だった。
それだけのために、俺は陸上をやめた。
「そっか」
葵が前を向いたまま呟くように言う。
そのとき、強い風が吹いた。
「走ってるところ、かっこよかったのに」
風に紛れて、そんな声が届いた。
時間が止まった気がした。
薄暗い住宅街で、まわりには誰もいなかった。
頼りない街灯が、俺たちの表情を隠していた。
足を止めた俺に、葵も釣られるように足を止めた。
「葵」
自然と彼女の名前が口から飛び出した。
脳裏には、学校を出る前に聞いた拓海の言葉が蘇っていた。
――俺、彼女ができたんだ。
俺たちはもう、大人になりつつある。
子供のままじゃいられない。
結衣も葵も、ずっと一緒にはいられない。
そのうちそれぞれ彼氏ができて、結婚して、子供を産んで、きっと別々の人生を歩んでいくのだろう。
俺たちは幼馴染で、長い年月を共に過ごしてきた。
願うだけでは、なにも変わらない。なにも発展しない。
行動が必要だった。
「俺さ」
葵の眠たそうな目が、街灯の下で不安定な反射を見せていた。
思うように言葉が出てこない。
口の中がカラカラだった。
薄がりの中、首を傾げる葵の視線が痛かった。
「葵のことが、好きだ」
言ってから、ひどい後悔が襲ってきた。
葵の目が、驚いたように僅かに大きくなる。
「付き合ってくれないか」
訪れたのは沈黙だった。
世界中から音が消えたみたいに静かだった。
小さい羽虫が、街灯の下で踊っていた。
葵は困ったように笑って、それからゆっくり唇を開いた。
「えっと」
羽虫が上にのぼっていく。
葵の顔を正面から見れず、俺は不規則に舞う羽虫を目で追っていた。
「ごめん」
短い一言。
それだけで十分だった。
俺は言葉を失っていた。
「瞬矢のこと、そういう風に見たことないから」
彼女は気まずそうに視線を落として、それからもう一度呟いた。
「ごめん」
俺は何も言えず、ただ立ち尽くしていた。
葵は最後に唇を噛んで、背を向けた。
夜の住宅街に彼女が小走りで去っていく靴音だけが響き、あとには呆けた顔を浮かべて突っ立てる俺だけが残された。
すぐ目の前で、街灯の熱にやられた羽虫が地面に落ちていくのが見えた。
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