第6話
「実は結衣と交際することになりまして、今日は改めてそのご挨拶に参りました」
頭を下げた後、数拍の沈黙があった。
「あらあら。うちの結衣と?」
舞さんの驚いたような声。
顔をあげると、舞さんは目を大きくしながらも穏やかな笑みを浮かべていた。
「結衣は昔から瞬矢くんに熱い視線を向けていたものね」
からかうように言う舞さんに、後ろから結衣が顔を赤くして抗議の声をあげる。
「ちょ、ちょっとお母さん! やめてよ!」
「だってそうでしょう。あなた、小さい時に瞬矢くんから貰った消しゴムとか鉛筆、なんでも大事そうに保管しているじゃない」
「わああ! ああああっ!」
舞さんの声を掻き消すように結衣が大声をあげた。
俺は言葉に窮して、思わず苦笑した。
「もういいからっ! お母さんはあっち行ってて!」
結衣が舞さんをリビングの方に押していく。
舞さんはどこか仕方なさそうに肩を竦めて俺に視線を向けた。
「ゆっくりして行ってね。あとでお茶を持っていくから」
「はい。ありがとうございます」
軽く頭を下げると、結衣が戻ってきて俺の手を握った。
「ねえ、早く部屋行こ」
「ああ」
結衣に引っ張られるようにして二階へ続く階段をのぼる。
懐かしい。
小学生の時はこうして互いの家をよく行き来していた。
階段をのぼりきったすぐ手前の部屋が結衣の部屋だった。
「ごめん。何もないけど」
そう言いながら結衣が部屋の扉を開ける。
まず記憶通りの勉強机とベッドが目に入った。
それから見たことのないカーテンとラグ。それだけで随分と印象が違って見えた。
室内に足を踏み入れ、ゆっくりと中を見渡す。
勉強机の引き出しに、昔貼ったシールがそのままになっていた。
「このシール、おかしのオマケだったっけ」
昔流行ったキャラクターだった。
当時の俺たちは何故かこのシールを集め、互いに交換を繰り返していた。
「うん。懐かしいでしょ」
結衣が笑いながらベッドに腰掛ける。
俺は頷いて、それから勉強机の上にある写真立てを見て思わず動きを止めた。
俺と結衣、そして葵の写真だった。
幼稚園の頃だろうか。
正門の前で三人仲良く並んで、手を取り合っていた。
真ん中には、当然のように結衣がいる。
俺も葵も、昔から活発的な方ではなかった。結衣がリーダーのような存在になって大人しい俺たちを引っ張ってくれていた。
写真の向こうで、葵は表情が乏しいながらも笑っている。
どこか眠そうな表情は、今も昔も変わらない。
昔から、ずっとそうだった。
他人と距離をとって、静かに本を読んでいるタイプだった。
いつも集団で行動している他の女子とは、雰囲気が違った。
結衣がいない時、俺たちは他の子供たちと違って静かに過ごしていた。
そういう遊び方ができる友人は、他に誰一人いなかった。特別だったと言い換えてもいい。
だから俺は自然と――
「……その写真」
俺の視線に気づいた結衣が声をあげる。
「卒園式のやつだっけ?」
「さあ。どうだっただろう」
俺たちは、ずっと一緒だった。
共に過ごした行事なんて多すぎて、どれがどの写真だか正確には分からない。
「幼稚園のときは、よくママゴトをしたよね」
「……どうだったかな」
記憶の糸を辿る、
結衣が妙に豪華なままごとセットを持っていたような気がした。
「たしか、大きい家のセットみたいなのを持っていたな」
「そうそう! 私がお母さんで、瞬矢がお父さんだったの」
配役までは記憶になかった。
結衣がベッドから立ち上がって、俺の横に立つ。
「結婚式もやったんだよ」
そう言って、彼女は一番上の引き出しを開けた。
「ほら、これ。瞬矢が私にくれた指輪」
彼女が取り出したのは、いかにも安っぽいおもちゃの指輪だった。
「誓いのキスもやったよね。今思えばマセてるなぁ」
「……覚えていないな」
結衣が不満そうに唇を尖らせる。
「絶対やったよ。わたし、覚えてるもん」
彼女の瞳が、正面から俺を見上げる。
「忘れてるなら――」
声色が、少しだけ変わった。
交差した視線が、鎖のように俺の動きを止めた。
「――もう一度、ここでしてみる?」
どこか冗談っぽい言い方だった。
しかし、彼女の瞳はしっとりと濡れていて、瞬きすらせずに俺を真っ直ぐ見つめている。
そこにあるのは、紛れもない期待の色だった。
結衣との距離が近いことに、今更のように気づく。
少しだけ肩を抱いて引き寄せてしまえば、それだけで俺たちの距離はゼロになる。
十五センチ。
俺と結衣の身長差を埋めるように、結衣は少しだけ俺を見上げるようにしていた。
全ての環境が整えられ、あとは俺が動くだけだった。
「結衣……」
視界の隅の写真立てにふと意識が向いた。
仲良く並んで笑う三人。
何よりも大事だったもの。
俺たちの根底をなしてきたもの。
ゆっくりと息を吐き出す。
「結衣、全て片付いてからにしよう」
彼女の瞳が、動揺したように揺れる。
「葵との関係を修復して、それからにしよう」
俺たちは、長い年月を共に過ごしてきた。
喧嘩だって、何度もあった。
今回だって、大丈夫なはずだった。
「少しだけ、頭を冷やす時間が必要だと思う。けれど、このままの状態は良くない」
期待するように俺を見上げていた結衣の顔が、俯くように沈んでいく。
「……できるかな」
「少しだけ時間を置いて、それからちゃんと話し合おう。放置していい問題じゃない」
「……うん」
結衣の瞳が俯いたまま左右に揺れる。
「でも、悪いのは葵だよ。あんな言い方するなんて……」
それに、と結衣の顔に怒りの色が浮かんだ。
「瞬矢と別れろ、なんて許せない。あまりにも勝手じゃない?」
「……ああ。そうだな」
数日、置く必要がありそうだった。
人の怒りは長続きしない。必ずどこかで許容ラインを下回る時がくる。
しかるべき時に話し合いの場を設ければ、問題は解決するはずだった。
結衣と葵は親友だ。俺なんかが原因で二人の関係を破綻させるわけにはいかない。
◇◆◇
結衣の家を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
冷たい風が頬を撫でる。
いつもは葵と並んで歩く帰り道。
約100メートル。
ふと、足を止める。
――どうして陸上をやめたんだ? お前ならインハイだって行けただろう。
この前久しぶりに会った中学の顧問の声が脳裏をよぎった。
100メートル。
中学のタイムは11.32秒だった。
深く息を吐き出して、身体を沈める。
手をついたアスファルトが、冷たかった。
肩に担いだ鞄がずり落ちそうになり、腋で抱えて不格好になった。
――走ってるところ、かっこよかったのに。
目を閉じる。
瞼の裏に、広いトラックが広がった。
号砲は響かない。
呼吸を止めると同時に地面を蹴り出す。
抱えた鞄が大きく揺れて重心がずれた。
風が唸る。
冷気が肌を刺した。
太腿の筋肉が肥大化したような錯覚とともに、制服のズボンを押し上げる。
流れる視界が爽快だった。
アスファルトの上を走るのは、膝によくない。
しかし、もう関係ない。
俺は、陸上をやめた。
このたった100メートルのために。
一瞬で終わってしまう、この区間のためだけに。
足を止める。
目の前に葵の家があった。
息を吐きだし、彼女の家を見上げる。
まだ明かりがついていなかった。寄り道しているのだろうか。
「陸上か」
呟きが漏れた。
俺は、一体何をやっているんだろう。
全てが半端だった。
だからこそ、結衣と葵の仲だけでも修復しなければならない。
それだけは、半端な対応は出来ない。
葵の家から目を離し、歩き出す。
少しだけ走ったせいか、身体が熱かった。
すぐに家に辿り着き、鍵を取り出して解錠する。
玄関ドアを開けると、見慣れないローファーが視界に飛び込んできた。
思わず動きを止める。
「おかえり」
声がした。
知っている声だった。
どこか眠そうで、それでいて大人びた声。
綺麗に揃えられたローファーから、視線をあげる。
眠そうな顔で微笑む葵の姿が、そこにあった。
「遅かったね」
彼女はそう言ってクスッ、と笑った。
「お、帰ってきた」
奥から母の声がした。
夜勤明けなのに、それを感じさせない明るい表情で奥から歩いてくる。
状況を理解出来ずにいる俺に向かって、母は嬉しそうに口を開いた。
「あんた、葵ちゃんに告白したんだって? いやぁ、もうそんな年頃なんだねぇ」
全身の血が引いていくのがわかった。
俺はただ、呆然と葵に視線を向けることしか出来なかった。
彼女はいつもの眠そうな表情に加え、どこか昏い目を俺に向けていた。
「荷物、持とうか」
抱えていた鞄が、葵の手に引っ張られる。
俺は言葉を失って、玄関に突っ立っている事しか出来なかった。
「いやぁ、葵ちゃんならしっかりしてるし安心だねぇ」
母親はそう言って、俺の背中を押してくる。
「今日は出前取ったからね。ちょっと豪華だよ」
リビングに押し出されるように向かうと、ソファに座っていた佳矢と目が合った。
「やるじゃん」
妹はからかうように、そう言って笑った。
俺は未だ、状況を理解できずにいた。
言葉が見つからない。
「大丈夫だよ」
後ろから葵の囁く声。
「瞬矢の気持ちは分かってるから」
けれど、と葵は言う。
「瞬矢は昔から、周囲のために自分の気持ちを殺すところがあったよね。だから、背中を押してあげることにしたの」
葵の声が、脳髄に溶けていく。
どこか眠そうな声色が、ゆっくりと染み込んでいく。
「私が悪者になって、全てのしがらみを壊してあげる」
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