縞(しま)第2話

その夏は、電車で二時間程の町で無名の画家達の小さな個展が開催されていた。

自分では絶対に行かない小規模すぎる展覧会。

先生が教えてくれたので、行くしかないと思った。


新幹線で行けば三十分で着く町ではあるが、私はお金が無いので、各駅停車を乗り継いで二時間かけて見知らぬ町へ向かった。


 確かその日の気温は最高三十五度だったと思う。母親に帽子をかぶれと言われたけど、かぶらなかった。

 

 アスファルトの道を縫ってたどり着いた画廊には、思ったより人が並んでいた。


 そこは一見すると、アンティーク風の喫茶店に見えるのだが、喫茶店の奥に画廊があった。私が中に入ると、六畳ほどのクリーム色の部屋がふたつあって、小さな絵がまばらに飾られていた。

 

 作品には統一性が無く、子供がクレヨンで描いたような落書きみたいなものから、何十年も絵を描き続けてきたような繊細な風景画、彫刻やコラージュ、写真の作品もあった。

 作品名は、どれもありふれたものばかりで、作者もイニシャルしかのっていない。

  

 私は注意深く作品を見続けたが、何もそこからインスピレーションを得ることはなかった。作品を見ている人は、ずっと見ているし、見ていない人は数秒見ると離れて次の作品にふらっと移る、といった具合だ。


 私は、ある枯れた花の作品の前で脚を止めた。


 作品が気になったからではない。

 

 そこに、松島がいたからだ。

 

 制服ではない彼を初めて見る。夏なのに黒いカーディガンと暗い緑色のパンツ、暗い緑の襟が切りっぱなしになっているシャツを着ている彼は、彼自身の絵から出てきたような装いだ。

 陰気という一言に尽きる。


「あ……観に来てたの」


 松島が、人混みに隠れようとした私を見つけて話しかける。


「この画廊、知ってたんだ」


 こんなに喋る人だったろうか? 私が近くで見えるように、松島は、少し横にずれた。私は、おずおずと空いたスペースに入り込み、引き続き枯れた花を見つめる。


「この作者は、恋人を殺してしまったみたいだよ。殺人犯」


 殺人犯? 聞き返すと松島が、怪訝な表情をしている。殺人犯って、誰が? 彼が絵から得た狂った解釈のひとつなのかと考えたが、どうやら違うようだ。


 何回か絵の前で、つじつまのあわないやりとりをした結果、この展覧会は犯罪者が獄中で描いた絵の展覧会であることを私は理解した。


「知らないのに来たの?」


 私は、あまり言いたくなかったが、北川先生に教えてもらって来たと伝えた。すると彼は少し考えておかしそうに微笑んだ。


 「僕が北川先生に展覧会のことを教えたんだよ」


 私は自分が何も知らないことを悟った。そうだったんだ、と笑って返すのが精一杯。私だけに教えてくれた情報だと思っていた。


もう一度枯れた花の絵を見る。何の花かわからないが、白と黒で描かれた花は、「殺人犯」という一言で何十倍も不気味になった。



「アイスコーヒーでも飲む?」


  松島と画廊に併設されたカフェに立ち寄ろうとしたが、メニューの値段が思っていたよりも高かったのと、人でいっぱいだったので、二人で十五分程歩いてどこの街にでもあるありきたりなチェーン店のファミレスに入った。

 ドリンクバーを頼んで、席に着く。

 

 何か会話が始まるでもなかった。私は、普段よく誰かに話しかけられるが、松島は積極的に私に話しかけなかった。


 私と目をあわそうとしないし、たまに外を見て気まずそうにしている。私も彼と話がしたいのではない。私は先生と話がしたかったのに。

 

 ため息をつきそうになるのをこらえながら、カフェオレをスプーンでかき混ぜる。何も話すことがないので、先生にされた質問と同じことを聞いてみた。


「松島君は何の絵が好きなの? ああいう感じの変わった作品?」


「変わった作品?」


 松島が抑揚のない声で、聞き返す。少し、びくりとなる。何か怒らすようなことを言ってしまったのだろうか。


「絵に変わってるも何もないよ。特に好きな絵も無い。好きな作品も。ただ、自分が描く材料を探すために絵を見ることはある」


私は、閉口する。それじゃ会話が終わってしまうのですが……。頑張って話しかけて損をした気分だ。


 だから、彼がさっきからいじっている文庫本を見る。


 そこに見たことのある青空があった。


「じゃあ、マグリットも好きじゃないんだね?」


 投げ捨てるように言うと、彼は、驚いた顔をして本に挟んであるしおりを見た。このファミレスに入って約五分後に気が付いた、彼の文庫本にはさんであるしおりは、私が先生にもらったものと同じだった。


「……これは、近くの書店で本を買ったらおまけでついてきたから」

と、彼は急いで鞄の中にしまってしまった。


 そうなんだ。本のおまけでついていたしおりなんだ。おまけでついていた、いらないものを先生は私にくれたの? 松島にもあげたの? 


 カフェオレのミルクのごとく、様々な疑惑が私の頭の中でぐるぐると回った。


話題を変えようとしたのか、松島が私に聞く。


「成沢さんは、今日の展覧会で一番どれがよかった?」


 私は、展覧会の序盤で飾られていた、子どもが描いたような色とりどりの花の絵を何とか思いだし、松島に告げた。


「ああ、あれは子供と心中しようとした女が描いたらしいよ 」


私は更に気持ちがどんよりする。


「僕もあの絵がいいと思ってたから、偶然だね」


彼はなぜか笑っている。何がおかしいんだろう。でも、なぜか嬉しそうだ。でも、私は全然嬉しくない。


適当な理由をつけて、私は駅前で松島と解散した。各駅停車で帰るのを見られるのが恥ずかしかったし、なんだか惨めな気持ちだったので一人にしておいてほしかった。


 二時間かけて家路に着くと、もうすっかり日が暮れていた。夕焼けの空にカラスだかコウモリだかわからない黒いものがバタバタと飛んでいった。夕食は食べなかった。熱中症になったんじゃないかと母に心配された。部屋に戻り、布団をかぶって寝る。悔しい。



その夜私は夢を見た。美術室で先生とキスする夢。誰もいない美術室で私達は抱き合った。先生は私の内腿を触って、スカートに手を入れてくる。そこで夢は終わった。私はそんな夢を見たのは初めてだったので、一日中その夢のことを忘れることはできなかった。



経験をしないと、具体的にどう描写すればいいのかわからない。私は昔同級生とキスをしたことがあるが、その先をしたことがない。だから、次にどうなるのか感覚ではよくわからない。


 もちろん男女がそういう雰囲気になったら何をするのかは知っているけど、経験したことがないので、それを題材に絵を描けと言われたら無理だろう。


 絵を描くこと、創造という作業は、技量だけじゃなくて、自らの経験や記憶をもとになされることだと思う。ほんの小さな思い出でも、それが蓄積されていって巨大な想像源になるんだ。


 でも、今の私の想像源はあまりに没個性的なものだ。私が描いた宇宙の絵は、先生や松島にとっては、ありきたりでちっぽけな宇宙なのだろう。



もうあれから何度題材を描いたのだろう? 何度松島と比べられ、何度取り残されただろう。

 いくら画集を見ても、駄目。黄色のクロッキー帳に腱鞘炎になるまで練習しても駄目。松島の数倍も私は美術室にいるはずなのに、駄目。いつも彼の持ってくる作品の奇抜さには叶わない。色遣いやデザインには叶わない。


 なぜ?


  彼は細くて白くて頬もこけてていじめられていて不潔で、勉強も大して出来ず、誰とつきあっても上手くいかず、モップで体操服を汚されてぼろ雑巾のようなのに。私は、彼の持っていないものは大半持っているのに。


 私が持っていなくて彼が持っている何かがあるんだ。 私が経験したことなくて彼が今まで経験してきた何かが、その天才的な作品を成り立たせている。


 私はそれが欲しい。

 

 松島は今日もいじめを受けている。あることないこと言われて、難癖をつけられ、殴られるために存在している。


 彼のやってきた宿題は全て破られ、持ち物は破壊される。なのに、彼は一度も泣いたことがないし、だからといって逆らうこともしない。だから、いじめはエスカレートしたのだろうか。


「あれじゃ誰も止めないよ」


 美也がまるで松島が自業自得であるかのように言い放つ。私は、一瞬そうかもしれない、と思う。ああいう扱いをされることを、彼は敢えて自ら受け入れているような気がしてきたのだ。


 皆の行き場の無い憎しみを、抵抗しないことによって、全力で無視している。それが彼の唯一の抵抗なのかもしれない。


 ねえ、どうしてそんなことができるの? どうしてそんなに人に無関心でいられるの? 松島、君は嫌われているんじゃ無くてむしろ好かれてる。北川先生からも皆からも、注目を浴びてる。


そうだよね、松島? 

これは私なりの解釈だった。



蝉の声がうるさい。もうすぐ夏休みなので、生徒達が、心なしか落ち着きがない。美也が更衣室で、生理用のナプキンのストックが無い、と騒いでいた。


 私はその頃から、彼女のテンションについていけなくなっていた。更衣室でスカートとブラだけで騒ぐ美也を始めとした女子達を見ていても、何も楽しくなかった。


 つまらなかった。


 自分と彼女達の間に見えないベールができていた。今考えると、それは不思議なほど急激な変化だった。周りと自分が離れていくような、落ち着かない感覚に終始包まれていた。

 

 その頃、北川先生が、部活の終わりにある重大な発表をした。それは全国高校生絵画コンクール。年に一度だけ行われる高校生の絵画コンクールの中では一番規模の大きいものだ。


 私達はそれに参加するために、夏休みを使って作品を作り上げなければならないという。


 死ぬわけではないのに、私の中で死へのカウントダウンが始まった。


 何を描けばいいんだろう? 夏休みに向けて遊びの約束をし合いながら帰る生徒達の間をすり抜けて、私は夕暮れの中、一人で帰る。


 家で「ただいま」も言わず、手も洗わずうがいもせず、部屋に閉じこもる。教科書は美術以外全て学校に置いてきた。


 クロッキー帳を広げ、鉛筆を持つ。思いつくがまま、たくさんのアイデアを描く。しかし、描いては消した。駄目だ。何故思いつかない? 鉛筆を持つ手に汗をかいている。


 描いては消し、消しては描く。あっという間に夜になる。


「沙希、いいかげんにしなさいよ!」


 一階で、母が心配を超えて苛立った声で私を呼んでいる。私は泣きそうになる。なぜ、彼女がそんなに怒っているのかわからない。


 この時の私は、周りの人達がどんな表情で自分を見ているのかわからなくなっていた。


 今までいろんなことに分散させてきた集中力や時間を、北川先生に認められるために、絵を描くことに注いでいるからだ。

 

でも、本当にそうだろうか? 


私は何のために絵を描き始めたんだろうか? 


強く圧をかけ過ぎて、鉛筆の黒い芯が折れたと思ったら、母が部屋に初めて無断で入ってきた。


 そして、泣きながらクロッキー帳に絵を描き続ける私をひっぱたいた。



 私は自分の誕生日が来ると苦しくなる。私の誕生日は秋だ。秋は、それまで葉をつけて輝いていた植物が枯れて、空はすぐに暗くなる。向日葵は急激に枯れ始め、太陽の去った方向をいつまでも眺め続ける。全て終わってしまうのだ。そう、秋は無の季節なのだ。



私は母親に叩かれた翌日、普段通り徒歩と電車とバスで学校に登校した。いつものように、上履きを下駄箱に入れて、暗い美術室の横を通り抜け、階段をのぼる。いつものように、クラスメイトや先生に挨拶をして、教室に入る。


 いや、入ろうと、した。


 いつもと変わらない、朝の風景だった。


 私はその日、いつもと違うことをした。


 教室に入る前に、廊下で松島を裸にして殴っている男子達に「やめなよ」と叫んでみたのだ。クラスメイト達は信じられないという顔をして私を見つめる。数秒の間、沈黙が広がった。廊下には朝の光がさんさんと降り注いでいた。

 

 私は沈黙を無視して、思い付く限り、いじめていた男子達の悪口を大声で言った。たまにわざと嘲笑してみたりもした。すると、一瞬ひるんでいた男子達は、すぐに狂暴さを取り戻した。私のこめかみに、黒板消しが飛んで来て、チョークの粉末が舞った。

 

 誰かが悲鳴をあげたが、それはすぐに複数の笑い声に変わった。いじめの標的が松島ではなく、私に移った瞬間だった。廊下の窓から見える空は、絵に描いたように嘘の青だった。

 

 チャイムが鳴り、先生が向かってきたところで生徒達は蜘蛛の子を散らすように、各々の教室へ戻った。私も戻ろうとした。すると後ろのほうで、松島のかすれた声が聞こえた。


「……がとう」


 私の教室と彼の教室は反対だったので、私は彼の顔を見ずに教室に入った。



 放課後、美術室に向かおうとすると美也に呼び止められた。


「どうして」


何が? と私は聞き返した。


「松島をかばう必要なんてないよ」


かばう? 私はかばったんじゃないよ。


「もう、あそこまでいったら私も沙希のこと助けられないよ」


 私は何も言わずに廊下を突き進む。


「松島の家、普通じゃ無いって知らないの」


 確かに美也はそう言った。普通じゃ無いって、何なのだろう。それ以上、聞いてはいけない気がした。

 私の頭の中で、記憶が妄想となって繋がり始めた。


 松島の描いていた数々の暗い絵、狂気じみた発言。そしてあの展覧会は? あの絵は? なぜ彼はあそこにいた? なぜいじめられているのか? 


 ばくばくと心臓が激しくなるのがわかった。だけど、私は止まらずに突き進み続けた。美也はもう今後私に話しかけてくることはないだろう。私は美術室に続く暗くて冷たい廊下を歩いた。


(続く)

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