縞(しま)

紅林みお

縞(しま)第1話

絵は嘘をつかない。


いつも本当のことを教えてくれる。幸なことも不幸なことも。報われることも報われないことも。私は、それに救われることもあったけど、たまに悲しい気持ちになる。創造という名の最大の虚構は、やがて私を飲み込む現実となったからだ。



その日は暑いはずなのに寒かった。

 

私は、次の授業の実験の準備をするために、ビーカーやフラスコ、ホルマリン漬けを運んでいた。ホルマリン漬けの中のネズミは死んだ目を全開にしている。暗い階段を上ろうとすると、ふと横にある教室に目がいった。美術室だ。いつもは空いていないはずの扉に、少しだけ隙間ができていた。美術室は、一階の北側の隅にあるのでほとんど陽があたらず、昼間でも暗い雰囲気を醸し出している。


中を覗いてみると、美術室の真ん中に、それはいた。黒くて長い髪、白い肌に妙に上気したピンク色の頬。しかし、とても暗い表情をした女性。彼女がじっと私を見つめていたのだ。彼女は極彩色で描かれている油絵だった。絵を描いているのは、男子生徒だろうか。後ろ向きで顔は見えない。黙々と筆を動かしている。

 

 キャンバスの彼女は、虚ろな瞳で私を見つめる。刺すようなその視線に思わず後ずさると、ホルマリン漬けとビーカーがあたって、かちゃりと音がしてしまった。その音に男子生徒が気がつき、いまにも振り替えろうとした。そこで私は逃げた。



「それ、松島でしょ。転校してきた」

 失敗して吹きこぼれた溶液を見て、笑いながら友達の美也がいう。彼女が理科の実験を手順通り成功させたのを見たことは、一度も無い。

「ほら、前皆で体操着捨ててやった隣のクラスの奴。白くてキモい、ほらちょうどあんなかんじの」

 

 教壇の上に置かれたホルマリン漬けのネズミを指差して笑う美也。 何も見ていないネズミの濁った目を見たら、夏なのに鳥肌がたった。あの絵の女性と似ている。彼女はあんなに鮮やかな色で描かれていたのに、瞳だけは絶望の色に染まっていた。まるで地獄をみているように。美也の話を聞いて、私は一週間前の出来事を思い出す。ある男子生徒が、廊下で体操着をとられて、裸にされてモップでぐちゃぐちゃにされていた。いわゆる、いじめだ。私はあの時、特に何もせずにその場を通りすぎた。地獄のような光景だったのに、私は見て見ぬふりをした。その時の生徒が、美術室にいた松島だというのか。彼はまさにいじめの標的にされそうな体躯をしていた。白くて痩せていて、静かで暗い感じの少年。


 胸の谷間に汗が生まれ、行き場をなくして制服のスカートに垂れていった。理科室の外は、むせかえるほどの草いきれ。蝉がわんわん鳴いていて、中庭の桜の木は、すっかり緑の葉が生い茂り、毛虫がうごめいている。その桜の木の下に、北川先生がいるのを見つけた。女生徒たちと楽しそうに会話している。北川先生は、去年東京から転任してきた、長身の男性教師。すれ違ったら、女子の大半は必ず振り替えるだろう端整な顔立ちをしている。


「北川先生えー!」

 

美也が大声をあげて手を振る。授業中なのに止めなよ、と私が思わず美也に注意する。しかし、美也の声に振り向いた北川先生は微笑んでいた。そして、隣にいる私にも微笑んでくれた。私の顔はぽっと熱くなる。他の女子もこんな気持ちなんだろうか? 北川先生を見ると釘付けになって、見いってしまう。いくら見ても飽きない。だけど、私は先生と話したことが一度もない。  

 

 北川先生を見ていると、不安な気持ちになる。誰か他の女子にとられてしまうとか、独身だけど彼女がいるかもしれないとか、そういうありふれた不安ではなく、先生に近づくと私の中の感情の構造がひっくりかえって自分が壊れていくような不安だ。


 ああ、この感じ。さっきと似ている。あの美術室で見た、暗い女の瞳。私を遠ざけるようで、吸い込んでしまいそうな……魅力的な絵だった。




放課後カフェに行こうよ、という美也の誘いを断り、私は一人で美術室へと続く暗い階段を下りていた。もう一度あの絵が見たかった。

美術室の前に行って、扉の窓の外から覗いてみると、中には誰もいないようだ。扉は空かない、鍵がかけられている。動かない扉を前に、我に返る。ああ、私何をしているんだろう。と、帰ろうとすると、


「見学?」


 聞き覚えのある爽やかな声がした。私は、よくわからない小さな悲鳴を出して、硬直してしまう。北川先生が暗い廊下からこちらに向かってきた。空気が震えて、拍動が速くなった。


「今、鍵を開けるからね」


 セーラー服の裾をいじって、あたふたしている私を差し置き、先生はポケットから美術室の鍵を取り出す。鍵穴に差し込み、重い美術室の引き戸をひいた。絵の具の香りがふわりと漂い、ひんやりとした空気が私の頬を撫でる。


「美術部、再開したんだよね」


先生は、先月から美術部の顧問になったと言う。美術部は今まで閉部していたが、松島が転校して一人目の美術部生となった。彼には絵を描く才能があり、様々なコンクールの受賞歴があるようだ。そんな彼の才能を十分に生かすために美術部が必要である、と学校は判断したらしい。


楽しそうに話す先生を見て、私はうっとりする。先生が笑っている。なんて完璧な笑顔なのだろう。ビスクドールのように歯と肌は白く透き通り、髪と目は漆黒の中に繊細な輝きを放っている。こんなに近くで先生の笑顔を見ることができるなんて、思ってもなかった。


「……はようございます」


 先生の後ろからふいに現れたのは、松島だった。私は初めて彼の顔をちゃんと見た。長い前髪からニキビだらけの頬、薄汚れたシャツから伸びた枝のように細い腕は、まばらに毛が生えている。目の下には、黒いくまが。腐った魚の腹に似ている。不潔という言葉がぴったりだと思った。


「見学?」


 濁った瞳で松島が私を見て先生と同じことを聞く。松島のあまりの陰気さに閉口しながらも、私は頷いてしまう。そうしなければ、今私がそこにいていい理由など無いからだ。


私は、結局その日のうちに美術部に入部した。美術部の名簿には「松島 健司」「成沢 沙希」の名前が並んだ。


「成沢さんは、どんな絵が好き?」


 美術室から校門までの帰り道、先生が私に聞いた。私は一瞬考え込んだ。何が好きって、別に絵自体好きではないのだ。私の目的は先生しかないのだから。いったいどう答えればいいのか。その時、私は美術の教科書に載っていた鳥の絵を急に思い出した。曇り空の中、鳥の影が切り取られており、その部分だけ青空が広がっている絵だ。画家の名前はわからないが、その絵のイメージを先生に必死で伝えた。


「マグリットだね。僕もその鳥の絵は本のしおりで持っているよ」


先生は、手持ちのカバンから文庫本を取り出し、卵焼きと同じくらいのサイズのしおりを取り出した。しおりで見ると鳥も青空も小さかった。


「成沢さんにあげるよ」


え? 私の手は汗ばんでいた。予期せぬ出来事。先生が私にしおりをくれたのだ!

帰宅途中、私はしおりが折れないように、大切に財布の小銭入れの中に入れておく。しおりが汚れないように、十円玉とか一円玉とか、小銭は全部出した。先生が、私にくれた特別なプレゼント。私は父親以外の男性からプレゼントをもらったのが初めてだった。これから、美術部で頑張ろう。絵のことはよくわからないけど、先生に近づけるように。


 入部してからは、デッサンの授業ばかりだった。果実など「静物」と呼ばれるモチーフをひたすら鉛筆で描く。描いている間、先生は時々私と松島を見て回り、指導をしてくれる。


 先生は自分で作品を作ることはなかった。昔は美大に通い、画家を目指していたそうだが自分には才能が無いと諦めてしまい、専ら生徒を指導することに専念したという。基本的な技法や空間の作り方を教えることは誰にもできることだから。と、先生は言う。先生は、東京の美大に通っていたが、都会での美術教師の枠は僅かで、生まれ育ったこの町に戻ってきてやっと美術教師になることができたらしい。


私は、鉛筆をナイフで削りながら、先生をこっそり見つめるのが日課だった。部活中は、黙々とキャンバスだけを見てリンゴの絵を描くのだが、鉛筆を削る時だけは少しだけ先生を見て良いことにする。それは、自分で作ったルールだった。早く鉛筆を削るために、私はいつの間にかデッサンを素早く仕上げる癖がついた。


「……速いね」


私の描いたリンゴを見て、不潔な松島がぼそりと言った。確かに速い。速いけど、リンゴの完成度は松島のほうが高かった。そして、先生に褒められる回数も松島のほうが格段に多かった。


 やがてデッサンに加えて新しい活動が加わった。それは、共通した題材を与えられ、一週間以内に描く。そして、一週間後に互いの作品を比べ、先生が評価をするというものだった。私は松島に負けまいと、意気込む。最初は油絵の具ではなく、アクリル絵の具という水溶性の絵の具で描くことになった。扱いは油絵の具よりも簡単なものだ。初心者の私を考慮しているのがわかった。


 題材は「宇宙」だった。


 私は、群青色の宇宙に浮かぶ月を描いた。果てしない芸術の闇に浮かぶ孤高の存在である先生、というイメージ。どこまでも光り輝く月を描いた。月は丁寧に、できるだけ完全に近い円を描いた。完全な先生の存在を示したかったのだ。一方、松島は赤い海みたいなものを描いていた。私にとって宇宙は青、もしくは黒いものだという概念しかなかったので、題材を間違えてるんじゃないか? と思った。


「松島、なぜ君の宇宙は赤いんだ?」


 先生は、私の作品には一言も触れずに松島に聞いた。私は、彼の絵を見つめた。赤い海にはとぐろを巻いた長い線や、無数の楕円が浮かんでいて、気味が悪いのに、自然と見入ってしまう。


「人間の体内をイメージしました。僕が宇宙だと思っているのは、本当は誰かの体内じゃないかと思うんです。誰かが自殺したり、誰かを殺したり、人類がいなくなって、地球が太陽にのみこまれて無くなったりしても、それはちっぽけなこと。誰かの身体で小さな細胞がはじけたに過ぎない、新陳代謝の一部に過ぎないのではないかと思っています。」


何を意味不明なことを言っているんだろう。どこかのテレビのジャーナリスト、或は芸術家の狂言? 私は彼の発想を理解することができない。しかし、理屈でわからなくとも、赤や黒い渦から目を離すことができないのだ。松島の宇宙が、私の脳みそを鷲掴みにする。


先生は彼の絵を褒めちぎった。もちろん私の描いた絵も、最初の作品としては素晴らしい。成沢はこれから伸びると思う、みたいなことを言ってはくれたが、肝心の月は褒めてくれなかった。初回の題材から、私の気分はどん底に落ちた。こんなにも彼と私の技量が離れているなんて思わなかった。同じ十六歳なのに、こんなに距離が離れているなんて。


 私はその日から美術書を読み漁り、家でもデッサンや絵の練習をするようになった。今まで行ったこともなかった画材屋に通い、月に一度もらえる小遣いをほとんど使って画材道具をそろえた。先生の勧めた展覧会や画家は必ずチェックして、手帳に書き込み、行くように決めた。それは今思い返すと、恋というよりも、脅迫観念に似ている。先生に見捨てられないようにするためなら、どんなことでもしたいと思った。絵が上手くなることによって、必ずしも先生が自分に好意を抱いてくれるとは限らないのに、ほんの僅かな可能性を無我夢中で追いかけた。

(続く)

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