第10話「この決別は……」Aパート
スマホのロック画面を見る。日付は6月9日金曜日と表示されていた。時刻は14時。
あれから、あの日から、虚無に時間が過ぎ去っていた。1週間も経っていたのかと思うと、時とは恐ろしいものだと思う。何をしていたのだろうと思うと、何もしていないことに気づく。最低限の食事や身辺整理はしていたけど、髪は起きた時の寝癖がついたまま。やっていることと言えば、精々スマホでネットサーフィンとスマホゲームぐらい。我ながら、絵に描いたような引き籠り生活を送っていた。母さんも父さんも、何も言ってはこなかった。普通に接してくれていた。
だけど、だって、仕方ないじゃないか。あんなことがあれば、ボクだって引き籠りぐらいにはなる。なってしまう。
あんなことがあれば……。
■
それは、高校から帰ってきてすぐのことだった。17時半ぐらいだっただろうか。夏に近づいて、空はまだ明るかった。
音信不通だった加那から、LINEが届いた。加那が高校に来なくなる前にLINEを交換していて正解だった。そう思っていた。
LINEの内容は「
「ひ、久しぶり……」
普通を装おうとして声をかけたのに、その声は震えていた。焦った。とても焦った。加那に何か言われるかもしれないと思った。
だけどそれは、この時はいらぬ心配で済んだ。
「久しぶり、沙耶ちゃん。元気してた?」
加那は至って普通に話しかけてくれた。まるで何事もなかったかのように。今まで通り、普通に話しかけてくれた。それに、あの綺麗で可愛い魅力的な笑顔は目の前にあった。確かにあった。ボクはなるべく普通に、元気、と答えた。
「……あのさ、加那」
「何ー?」
「加那って今、えーと、児童相談所だっけ……? そこに保護――」
「逃げ出してきた」
完全に予想外の答え。逃げ出してきた。加那が。どうして。そんなことをしても、もう元の生活には戻れないというのに。そんなことぐらい、加那が一番知っているはずなのに、なんでそんなこと。ボクは分からなかった。青が揺らぐ。波立つ。まだそこまで大きくはない。大丈夫、と青に言葉をかけて、ボクは平静を保った、つもりでいた。
「車ってさ、いいよね。どこまでも行けそうで」
「え? まぁ、そうだよね。ガソリンとか必要な物があれば、行けるよね、どこまでも」
いきなり何を言い出すのだろうか。ボクたちはまだ高校生で、原付の免許は取れるとはいえ、取っちゃいけないから、意味は無いのに。
昔からそうだった。加那が何を考えているか分からない。そう思うことが、知り合ってからずっとあった。それが加那への恐怖にもなっていたし、ボクの力不足も感じた。好きな人が考えていることすら分からないなんて、と思ったこともあった。だけどこの時は、ただ単に分からなかった。
それからしばらく、橋から見える車をボーっと見ていた。と言うより、どう声をかけたらいいのかさっぱり分からなくて、どうしたらいいのかをずっと考えていた。
程なくして、加那が先に口を開いた。
「あのこと、あの男に言ったんでしょ?」
その言葉に棘を感じた。毒も感じた。あの男というのは、間違いなく和哉のことだ。それ以外に考えられない。ボクはボクを落ち着かせようとした。青は既に激しく波立っていた。動揺を見せないよう、素直に謝る。そうすれば、事態は収まると思っていた。
「……ごめん、つい」
だけど加那の答えは、またしても予想と違っていて、ボクは完全に動揺してしまった。
「いいよ、別に」
「えっ……」
許して、許してくれるというのだろうか。あれほど酷いことを、酷い結果になってしまったというのに、加那はボクを許してくれるというの……? そうなの、加那……? 加那はすぐに答えてくれた。
「おかしいのは私じゃなくて、私とお母さん以外の皆だから」
……どういうことだろう。何を言っているのだろう。加那と加那のお母さんは正常で、それ以外の人がおかしいって、どういう……。分からない。何も分からない。加那の言っていることが何一つ分からない。そんなことはないはず。加那はしっかりと日本語で話をしている。だから、分からないはずがない。そう、分からないはずが……。
「どうせ私の言ってることなんて分からないよ。皆がおかしいんだから。そう、沙耶ちゃんもそのうちの一人。分かるはずがないんだよ」
何を、何を言っているの、加那。ボクには分からない。分からないんだ。一語一句が日本語であることしか分からない。言葉の意味が分からないんだ。ボクが馬鹿なだけなの? それとも違う何かがあるの? 駄目だ、考えれば考えるほど分からなくなる。思考が止まる。焦る。青が大きく揺らぐ。駄目。今ここで止まっては、駄目。何かを言わないと。でないと。ああ、でも何を言えば。分からない。分からない。あれほど好きだった加那の言葉の意味が、まるで分からない。
加那は欄干にもたれながら続けた。
「簡単だよ。私とお母さんが正義で、皆は悪。これだけのことが、どうして分からないの、沙耶ちゃん? そうだよ、皆分からないなんて、皆が馬鹿で愚かで惨めで愚鈍な人間でしかないんだよ」
いつもの加那とは思えない。こんなことを言う加那は見たことがない。それとも、これが本当の加那なの? いや、分からない。こんな加那は、加那じゃない。本当はもっと綺麗で可愛いんだ。そうだ、これは演技。前にもやってくれた演技に違いない――
「演技とか思った? 残念だったね、これが本性だよ」
息を呑む。分からない。本性? じゃあ今までの加那は一体? 高校で一緒に楽しく笑っていた加那は一体……?
どこかで雷が鳴っている。遠かった。
「楽しかったよ、君との高校生活は。だけど、それをも潰したのは、君だ、石動沙耶」
不気味な笑顔が、一瞬にして赤い怒りに満ちる。もう、何を言ったらいいのかも分からない。どうすれば元に戻ってくれるかも分からない。怯えながら、加那を見ているしかできなかった。
それでも何とかボクは、言葉を腹の底から絞り出した。ここで何か言わないと、後で後悔しそうだったから。
「ボ、ボクは、加那をただ救いたくて……」
「そんなことを言う正義のヒーローは、正義のヒーローじゃない」
冷たい。どうしようもなく、加那が冷たい。ナイフで胸の奥底までごっそりと切り刻まれるような感覚に陥った。もう、何を言っても無意味に思えた。だって加那は、前に進んでいる。加那に敷かれたレールを、物凄い速さで進んでいる。ボクはその速度には追いつけない。追いつけるわけがなかった。だから、加那が欄干の上に立ち上がろうとするのを、ボクは止めることができなかった。それが、加那の道。ボクには、もう何も出来ない。運命のレールは、猛スピードで進んでいる。
「じゃあ、バイバイ」
そう言って加那は、自分の運命に従った。ボクはただただ、その光景を見ているしかできなかった。18時のサイレンが鳴った。雨が降り始めた。ボクは何もせず、ただただそこで突っ立っているしかできなかった。
6月2日金曜日の夕方。激しい夕立が降った日であった。
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