第9話「あの思い出は空音」Aパート
6月2日金曜日の晩御飯は、皆で作るカレーライスだった。具材をまな板の上で切る音、切った具材を大きめの鍋で炒める音。牛肉の匂いもする。熱々の鍋に水を入れる時に出るジュワーという音。うるさいものだと私は思った。窓から見える外の景色は、しょぼい庭があるだけで、殺風景且つつまらないものだった。
私は何もしていなかった。というより、料理ができない私にやる事なんて無いと思っていた。実際、最初の方は台所に立ってみたのはいいものの、包丁の持ち方も知らなければ、卵を綺麗に焼くことすらできない。こんなので何ができる、何の役に立つ。
ここに来て1週間以上が経っていた。だけど、ここに暮らしている歳の近い子供たちとは、全く仲良くなれていなかった。そもそも、私は自ら望んで、ここに来たわけではない。裏切られたから、ここに来ただけ。こんなところに来るなんて、1週間前は思ってもみなかった。全ては裏切られたから。ただそれだけ。
「本島さん」
声変わり前の男子の声。台所でカレーを作っていた男子だろう。誰がどんな顔で、どんな声で、どんな名前かなんて覚えていない。覚える気も無い。面倒だったし、覚えたところで必要の無いことだと思っていた。だから、その声を無視した。知らない誰かに声をかけられるのは好きじゃない。
「無視しないでよ、本島さん。カレー、思ってたより難しいから本島さんにも手伝ってほしいんだけど」
まただ。前にもこんな誘い方をして、私に料理をさせようとしたことがあった。どうせそうやって、料理ができない私に変な料理を作らせて虐めるという根端だろう。そんなことぐらい視えている。
「私、料理した事無いの。一回も」
「いや、それは前にも聞いたけどさ。けどさ、やらないと何もかも分からないままで終わってしまうよ? だからさ……」
ああ、どうしてこうもしつこいのだろう。たかが料理。それをやりたくないだけで、何で、どうしてこんなにしつこく言われなければならないのだろう、この施設は。ここの子供は。ああ、鬱陶しい。たかが中学生ぐらいの歳の分際のクセに、タメ口なんて。私は16なのだというのに。一度そういう根本的な部分から教え直した方がいい、絶対に。この男子の将来なんて心底どうでもいいけど、少なくとも現状をどうにかしないと、私の精神が壊れるのは確実だ。私は目の前の男子を睨んで、
「まず、そのタメ口直したら?」
男子は少し息を呑んで、再びすぐに口を開いた。
「本島さん、料理手伝ってください」
「やだ」
「え……」
「料理ができないって、前に言ったでしょ。料理はあんたたちがやりなさい」
「……先生に、怒られますよ?」
「別に。気にしない」
「でも――」
「うるさいってんの!」
2階の私の部屋から携帯だけを持って、裏口へ向かった。途中、先生や職員にどこへ行くのか言われたけど、私は無視をした。ここを出ようとしているのが分かった先生と職員が、私を追いかけてくる。だけど、そんなの気にしなかった。この施設の構造は来た時に既にチェック済みで、どこをどう行ったら逃げ切れるかは理解している。足に自信はなかったけど、これだけ理解しておけば問題無い。予想通り、先生たちを撒くことができた。裏口の扉を開けて、外に出る。夜勤交代をするためにやってきた人とぶつかったけど、私は怯むことなく走り続けた。行くアテもなく、走り続けた。
止まることなく走り続けた。走りながら泣いていることに気づいた。あの施設から脱出できたことからの嬉し涙なのか、それともあの子に裏切られたことへの涙なのか。はたまたお母さんが逮捕されたことへの涙なのか。
恐らく、最初以外の二つだろう。そうに決まっている。脱出できたから何になるのか。何にもならない。追われるだけだ。追われて、追いつかれて、戻されて、あの施設で一体何をするのか。
答えなんて決まっている。何も無い。あるはずがない。あんなところ、普通の人間が来るところじゃない。私はあの子に裏切られたから、あの施設にいる。仕方なくいる。バイトができたらバイトをして、お母さんと一緒にどこかで暮らしている。なのに私は、学校側と警察側から無理矢理ここに連れて来られた。こんな訳の分からない場所に。こんな無の空間に。児童養護施設に。お母さんと引き裂かれて。
全ては裏切られたからだ。裏切られたからこそ、こんなことになっている。裏切られなければ、こうはならなかった。少なくとも私は、あの子は裏切るとは思わなかった。思えなかった。素直で、どこか気が弱い、あの子なら。だけど、あの子は裏切った。誰かに秘密を喋った。そして今、私はこうなっている。
それがどこまでも、果てしなく腹が立てば、涙が枯れることもなかった。
6月だというのに、夏が近いというのに、さっきまで降っていた雨のせいか、外は寒かった。涙が頬をかすめて私の後方へ飛んでいくから、余計寒かった。
自然も人間も、何もかも、私には冷たかった。
■
まだ石動沙耶が私のことを「本島さん」と呼んでいる時期だった。
授業中、私が先生に問題の答えを述べよと指名された。前の方には石動沙耶が座っている。その石動沙耶は、私の方をチラッと見ていた。当てられたから見ているのではなく、少し吊り上がったような、怒ったよう目つきをしていた。私は少し気になった。だけど、とりあえずは答えないと、先生に怒られる。現国だったので、教科書をサッと見て答えた。適当に言った答えは正しかったらしく、私は席に座った。先生に言われるより先に座ったからか、先生はどこか腑に落ちない様子だったけど、そんなことを気にしていたら授業は進まないので、少しため息をついて、授業を進めていった。ボーっとしていたら、また視線を感じた。石動沙耶が、チラチラと私を見ていた。気になったので、授業後の休み時間、石動沙耶の席まで行って、問うた。どうして私のことを見ていたのか、と。なるべく優しく、穏やかに。石動沙耶は動揺しながらも、肯定した。
「何で見てたの?」
これも冷静に、好奇心いっぱいに見えるように、言う。
石動沙耶の回答というものは、面白いものだった。
「……き、気になる、から。本島さんの、こと」
「でも、怒ったような目をしてたよ?」
「そ、それは……」
「それは?」
優しく、静かに、しかし追い詰めるように問う。
「……緊張してたから。本島さんを、見るの」
「そっか」
「ご、ごめん……」
「いいよ。気にしてない」
「いや、気にしたからボクのところに来たんだとばっかり……」
妙なところで細かい。言葉の意味を一つ汲んで、まるで私がしつこいみたいな感じに言う。私に気があるのは分かっていた。だったら、そういう言い方はしない方がいいのに。でも私は何も言わなかった。言ったところで空気を悪くするだけだ。だから私は、石動沙耶の流れに乗った。
「そうとも言う」
さぞ昔の武士のようなイントネーションで言う。石動沙耶の顔は赤くなっていた。俯いてはいたけど、微かに見える頬でそれが分かった。
「でも、怒ってないのは、本当だから……」
まるで弁明するかのようだった。面白かった。この子は、石動沙耶は、私に気がある。ならば、彼女に秘密を作らせて、私と一緒に秘密を共有し合えば、それはそれはさぞ楽しいことになると思った。事実、楽しかった。石動沙耶が私に気があったのは確かで、私と一緒にいてくれた。こんな私と一緒にいてくれることが、嬉しいと思ったこともあった。
だけど、私は彼女を「好き」になったことはない。あくまでも、楽しいだけ。そう、楽しいだけで、彼女のようなレズではなかった。私はそういう疚しいことには興味が無い。興味を抱いてはいけないと、お母さんから教わっていた。世間には、無垢な女の子を狙って食い漁る野蛮な人間もいるから、と。だから、私から見れば石動沙耶はその野蛮な人間の一人にしか過ぎなかった。そんな野蛮な人間を人形のように動かすのは快感だった。こと石動沙耶は割と単純で、私のしょうもない演技にも引っかかった。
しかし、それもすぐに終わった。あの日、忌々しいあの日が訪れた瞬間に、楽しい時は終わりを告げた。
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