第7話「あの正義は虚構」Aパート
あの日、加那の言ったことがずっと頭の中で反芻していた。新しい秘密のこと。もう、1週間も経つというのに、まだ。5月は21日の日曜日だというのに、ボクの中の青は荒れた海のように、バシャバシャと波打っていた。
どうして、こんなにも。そんなこと、答えなんて分かり切ったことだ。ボクが加那を好きだからだ。恐怖は感じた。確かに恐かった。でもそれ以上に、好き、という感情が勝っていた。他人のことをこんなにも考えるのは、人生で初めてだった。
それでも、気になることはあった。加那のお母さんのこと。考えたくなかったというのも、また事実。だけど、どうしても考えてしまった。加那のお母さんは本当に、加那が言っているような凄い頑張り屋で娘想いのお母さんなのだろうか、と。違うのではないだろうかと、ボクはどうしても考えてしまう。違う、あの母親は危険だと言うボクの中の声もあれば、そうでないと言う声があるのも、また事実。
「沙耶?」
母さんの声。これはボクの母さんの声。母さんの心配そうな声。そう、ボクの……。
……そうか。今晩御飯を食べているんだった。完全に忘れていた。でも、考えているうちにお箸は進んでいたらしく、お皿の上に盛られた食事は全て綺麗に無くなっていた。思考にはカロリーが必要だから、無意識に食べていたのかな。
「大丈夫か?」
父さんが声をかけてくる。二人の顔を見て、時計に目をやる。晩御飯を食べ始めたのは19時丁度で、今は19時45分。食べ終わってからも考えていたのだろうか。お茶も飲まずにボーっとしていたようにでも見えたのだろうか。どっちみち、ボクには分からない。というより、そんなことはどうでもよかった。
晩御飯の内容は鶏肉の照り焼きに付け合わせでほうれん草のお浸し、そして白ご飯と玉ねぎのお味噌汁。どれもこれも、ボクの好きなメニューだ。それを無心で食べていたと思うと、結構勿体無いことをしたなぁと思った。
だけど、あんなことを考えていたら、何を食べているかも分からなくなるのも無理は無い、と自虐的にもなった。
「明日から中間試験だろう。大丈夫なのか?」
父さんが余計なことを訊いてくる。そんなの、やってみないと分からないというのに。何で大人って、こうも無駄な質問ばかりするのだろうか。
「大丈夫、多分」
「多分って……」
ボクは何か言われる前に、さっさと自分の食器を台所の流しへ持って行った。これ以上余計なことを言われるのは時間の無駄だ。まだ試験勉強だって完全には終わっていない。いや、終わる気配は無いんだけど……。でも、最後の抵抗ぐらいはしたかった。
水を一杯だけ飲んで、ボクはさっさと自室へ戻った。
■
自室へ戻り、一人になる。すると、加那のことが頭の中に湧き出てくる。今はどうしているのだろうかとか。何を食べているのだろうかとか。冷凍食品か、菓子パンを食べているのだろうかとか。そういう、今のボクが考えるべきではないことが、ずらずらっと頭の中に現れる。嫌ではないと思う。さっきもずっと考えていた。それに、やっぱり加那が好きなことは何者にも変えることの出来ない、ボクだけの事実だから。だけど今は、明日からの中間試験のことを考えるべきだ。
「1時間ぐらい頑張ろう……」
やる気は無かった。けど、やらなければ追試や留年とかいう絶対経験したくないことがばっちり待っている。それだけは避けなければ。今後の高校生活、そして待ち受けている大学入試にも響くことだ。そう思うと、否応なくやらなければ、という意志がボンッと出てくる。鞄から帰りに買ったペットボトルの緑茶と数Ⅰの教科書、真っ新なルーズリーフを取り出し、勉強机に向かう。
試験範囲のページはしっかりと付箋でマークしている。20ページ分の試験範囲。それを今から全部やらないと、まともに解答出来ない。一晩で20ページ分。見開きで考えても10ページ分。
……
………
…………
……多い。というか、間に合うのかこれ。数Ⅰに関しては天才レベルの馬鹿だし、授業中なんてまともに答えられないぐらい分からないというのに。加那にも笑われたこともある。それなのに、範囲は20ページ分。
駄目だ。明日は現国の試験もあるというのに。現国の勉強もまだ完全じゃないというのに。このままだと、現国はまだ多少は何とかなるとして、数Ⅰの方は地獄を見る破目になる。確実に赤点を取る。間違いない。
試しに数Ⅰの教科書を開いてみる。すぐに閉じた。分からない。本当に最初の最初辺りは分かるけど、ちょっと進むとすぐに分からなくなる。何が書いてあるのか分からない。いや、数式だってことは分かるけど、どういう計算なのかさっぱり分からない。まるでテレビドラマとかでよくある物理学者が使う数式のように見えた。本当はもっと単純なのだろうけど、ボクにはそう見えた。
「……徹夜するかぁ」
こうなったらやけくそで一夜漬けだ。基礎の基礎だけ覚えて、応用問題は全部捨てよう。それぐらいなら出来るはず。……多分。
すぐに閉じた数Ⅰの教科書を開く。数学は初歩が出来ていないと後が何も分からなくなる教科だ。一瞬、最初の数ページは飛ばそうかと思ったけど、後々に響くとまずいので簡単な問題を解いていく。授業内でやったことなので、答えは数Ⅰ用のルーズリーフに書かれているけど、答えなんて見ても何のタメにもならないので、意識して見ないようにする。油断すると見てしまいそうだったので、結構つらかった。
最初の方は当然、それなりにスラスラと解ける。けど、少し応用が入った問題が出てくるとすぐに何が何だか分からなくなり、シャーペンを動かす手と思考回路が静止する。何でこんなに分からないのだろうか。そんなこと分かってはいるけれど、分かっているからこそ、ボクの頭の悪さを呪いたくなった。特進クラスになど、入らなければよかったともさえ思える。
だけど、特進クラスに入らなければ加那とは出会えなかった。こんな気持ちになることもなかった。こんな体験、一生に一度かもしれない。
何故、加那を好きになってしまったのだろうか。どうして男子じゃなくて、女子だったのだろうか。そんなこと、ボクに分かるはずがなければ、他の誰だって分かるはずがない。他人が分かるのは、精々ボクが普通とは違う性癖を持っているかもしれない、と推測することぐらいだ。ボクはそんな変な性癖を持ち合わせているつもりはないけど、もしかしたらあるのかもしれない。ボクが気づいていないだけで。でも、そんな変な性癖でよかったかもしれない。でなければ、加那はボクに振り向いてくれなかったかもしれないから。
こんなにも他人のことを考えるなんて、生まれて初めてだった。和哉は腐れ縁だから考える必要も無く、適当にやり取りしていた。喧嘩をしても、何だかんだで時間が経てば勝手にいつもの空気に戻る。和哉とはその程度。加那とは特別。絶対的な差があった。
……けど、和哉に加那のこと、加那のお母さんのことが知られたらどうなるのだろうか。和哉の性格のことだ、間違いなく警察に通報するだろう。和哉にだって証言はできる。入学式の放課後に叩いていたことを言えば、少なくとも加那のお母さんは警察に連れて行かれる。それに、ボクは一度和哉に加那のことで相談をしている。
何となく気になったので、机の半分を占めているノートパソコンを起動して、色々調べてみた。家庭内の子供への暴力による事例。そこに書かれていることはあまり分からなかった(専門用語が多かった)けど、今の加那の家の状況を当てはめると、どうやら最初に児童相談所というところに連れて行かれ、調査を受け、最終的に逮捕の順、らしい。この調査の段階で、和哉がその時のことを言えば、逮捕される確率は上がる。もしこれで他にも証拠が出れば、加那のお母さんは間違いなく逮捕される。
……じゃあ、残された加那はどうなるのだろう。お金が無くては生きていくことは出来ない。そうすると、残されている道は一つ、だけかもしれない。ボクのお頭が弱いので、本当にこれしかないのかどうかは分からないけど。
身体を売る。要は水商売。当然高校は中退するだろう。そうすると、ボクとの秘密の共有どころの話じゃなくなる。関係が崩壊して、加那は一人苦しみながら生きていくことになる。そんな未来は見たくない。そんな闇しか存在しないような未来なんて、未来永劫来てほしくない。ボクは望まない。
だけど……。ボクは迷っていた。和哉にちゃんと言った方がいいのか、せめて相談だけでも乗ってもらった方がいいのではないのか。今のままだと、加那は今でも幸せなのかもしれないけど、あの加那のお母さんの表情を見ていると、本当に自分の娘のことを大事に想いながら育てているのかどうかも分からない。しかし、今が幸せなら、言わない方がいいのは確かだ。けど、ボクから見れば、加那は本当に、全ての意味で幸せだとはとても思えない。どこかで苦しみながら、辛い思いをしながら、闇を抱えながら生きているのかもしれない。でも加那は何も言ってくれない。何も相談してくれない。
ああ、和哉に相談したい。相談した方がいいかもしれない。けど、それで関係が崩れるのは嫌だ。滅茶苦茶嫌だ。死んでも嫌だ。今の関係を保ち続けたい。たとえ周りからどう見られようと、ボクは加那との関係を世間に貫きたい。貫いて貫いて貫いて、望み通りに生きていきたい。
……でも、それも出来る自信は無かった。だって、所詮は高校生。大したお金も無ければ、力も無い。そんな高校生に、一体何が出来ようか。決まっている。何も出来ない。そんなこと、分かり切ったことだ。どうにか出来るはずがないのだ。
もう、疲れた。考えるのは疲れた。誰か、助け船を出してよ。ねぇ、誰かアドバイスでもなんでもいいから、助けてよ……。
■
……
…………
………………
「う~ん……」
カーテンから微かに差しこむ太陽の光。いつの間にか眠っていたらしい。体を起こそうとすると、一瞬体が宙に浮いた感じになり、慌ててバランスを取る。視界には広げっぱなしの数Ⅰの教科書とルーズリーフがあった。つまり、勉強机。最初は何も分からなかったけど、時計とカレンダーを見ると、今が何時で、今日が何の日か分かった。一気に目が覚めた。バっと椅子から立ち上がる。
「ヤッバイ!」
時計の針は、いつも家を出る時間だった。この時間までにボクは朝食、歯磨き、洗顔、着替えの全部を済ましているけど、今日はどれも出来ていなかった。急いで着替えて、最低限歯磨きを顔だけは洗って、鞄を持って急いで玄関へ向かった。途中、母さんから「朝ごはんはー?」と訊かれたけど、食べている暇なんて無かった。とにかく急がねば。ご飯なんて
ダッシュで近所のバス停を向かった。
まぁ、全然勉強出来てないから、意味は無いと思うけど……。
今更最後の悪足掻きをする気にもなれず、移動の間、ずっとボーっとしていた。コンビニでジュースを買って、電車に乗り継ぐと、そこはまだ時間はあると、ボクには無駄にしか見えない無駄な足掻きをしている松野高校生徒で埋め尽くされていて、電撃が走っているような気がした。そんな中でもボクはただただボーっと
今日の現国はともかくとして、数Ⅰが惨い目に遭うのはもう見えていた。
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