第6話「その衝撃は鈍重」Bパート
気づけば
正面から誰かが歩いてくるのが分かる。だけど、誰なのかまでは分からない。視界が歪んでいて、シルエットしか分からない。教師とかだったら注意されそうだったので、ボクは俯きながら歩き始めた。ボクの息を吐く音、ローファーの足音、相手の靴の足音だけが耳に入る。相手はどうやらヒールを履いているらしい。カツカツと、少し高い足音だった。
すれ違うその瞬間、知っている視線を感じた。それは、猛獣のような視線。鋭利な武器を構えた動物の視線。殺意こそ感じなかったけど、攻撃の意思だけは感じ取ることができた。全身が恐怖を覚える。
間違いない。この視線は、あのシルエットは、加那のお母さんだ。加那を殴っていた時と同じ視線だ。だけど、加那はいない。ボクが見た時のシルエットは、加那のお母さんただ一人だけだった。だとすると、加那はどこに……。
「……ッ!」
そう考えると、猛烈な悪寒が全身を駆け巡った。映画などでありそうな事が起きているのではないだろうか。そう、痛めつけられて、動くことが出来ないぐらいのではないだろうか。そうかもしれない。いや、そうだとは思いたくない。だけど、可能性はあった。とても大きな可能性だった。最悪な可能性だ。
ボクは目を拭って、再び走り始めた。加那を探した。あの時とは別の場所にいるかもしれない。大して速くもない足を全力で回して、加那を探した。こけてしまうのではなだろうかというぐらい、全力で走った。声は出さず、ひたすら目だけで探した。声を上げようものなら、面倒くさい教師に見つかって面倒なことになってしまいだろうだったからだ。いそうな場所を徹底的に当たった。運動部の部室裏はあり得ない。一番見つかりやすい。とするなら、校舎棟の裏か、最悪の場合、裏山の中。裏山は校舎棟からはかなり遠いので、それもあり得ないと思ったけど、隠れてそういうことをするには絶好の場所に思える。無くは無い。もしそうなら、探すのは至難だ。だとするなら、まず裏山を探した方が効率は良い。
ボクが裏山に向かおうとしたその時。
「さーやちゃん」
加那の声がした。ビクッとした。どうして。何を震えているのだろうか、ボクは。いや、それよりも、どこに加那はいたのだろうか。それに、どうして少し涙声でボクを呼んだのだろうか。とりあえず、声のした方を見る。そこは、さっきボクが駅に向かおうとして、ダッシュで逃げ去った場所だった。加那の顔がはっきりと見えた。だけど、その顔はいつもと違った。多少、綺麗で可愛らしい顔ではなくなっていた。
赤く腫れている部分もあれば、青痣になっている部分もあったし、口からは血が少し流れていた。
「何で、そんな……」
涙は出なかった。恐怖が完全に勝っていた。悲しくて涙を流すどころではなかった。だからせめてと思って、ボクは加那を抱きしめた。強く抱きしめていた。でも加那は何も言ってこなかった。それがまた怖かった。痛いとも何とも言わない、加那が怖かった。ハッとして、ボクは加那から離れた。俯いた。恥ずかしいとか、誰かに見られたら変に思われるとか、そういう卑しい感情じゃない。
恐怖。誰への恐怖。加那への恐怖。
そう。何も言ってこない加那がボクは怖かった。ホラー映画とかで体感するカタルシスのある恐怖じゃない。単純な、恐怖。他人が何を考えているかまるで分からない。読み取ることもできない。顔を見ても、ただただ痛々しい顔で笑顔のまま。その恐怖。哀しいなんて一切感じなかった。もう、ただひたすらに加那が怖かった。
だけど加那は、ボクに近づいてきた。逃げようとかは思わなかった。そもそも、その場から動けなかった。足が鎖で地面に繋がれたように動かなかった。近づいて来る加那は、全く表情を変えない。その笑顔の裏に何かある。このままだとまずい。そういう確信はあった。だけど、動けなかった。
「沙耶ちゃんって、私のこと、まだ好き?」
笑顔のままの加那が言ってきた言葉は、ボクを揺らがせた。
まだ好き。まだ。その何気なく使っている形容動詞は、一体加那にとって何を意味するのだろうか。どういう答えを望んでいるのだろうか。ボクの奥深くの青が揺れ動く。考える。脳と一緒に、心も考える。何を答えればいいのか。どういうイントネーションで答えればいいのか。
……分からない。何も分からない。答えが見えない。加那への気持ちは嘘だったのだろうか。いや、そんなことはない。それはボクの深部がきっぱりと否定している。だけど、それでも、分からない。
だからせめて、加那の顔を見て、答えようと思った。少なくとも、嫌いではない、と。そんな表情ができているかどうかなんて分からないけど。
加那の顔は、笑顔は、どれだけ痛々しくても、やっぱり魅力的だった。吸いつけられるような感覚だった。
「よかった。まだ好きなんだね。じゃあ、新しい秘密出来たから共有し合おうよ」
至って普通に答える。まるでいつもの日常会話のように言う。サラッと、スッと、当たり前のように。
……どうして、どうしてそう言えるの? あれだけのことをされて、どうしてそこまで普通でいられるの? ねぇ、加那……。
「不健全そうで面白そうだし。ねぇ、言っていい?」
不健全そうで面白そう。前に加那は言っていた。正義のヒーローについて。自分は正義のヒーローだって。だけど、それだと正義のヒーローどころか、悪者の立場になってしまう。加那はそれでいいのだろうか。駄目だ、やっぱり何を考えているか分からない。
「加那は、それでいいの? それが、正義のヒーローなの?」
「ヒーローだって人間なんだよ? ちょっとぐらい、何かあるよ」
それはそうだ。テレビの中のヒーローは、特に日本のヒーローは人間であることが多い。だけど、だからって……。これじゃまるで、本当に悪いことをした人みたいだ。本当にそう思えた。思えてしまった。
けれど、それ以上に加那に引っ張られてしまう。何をどうやっても、理性で制御し切れない部分が、加那に引き寄せられる。黒い渦に吸い込まれる。渦の中は闇で満ちていて、何も見えない。だけど、視える。そこには、ボクの青を動かす確かな存在があった。不安定で不気味な、恐いなにか。そうだというのに、ボクはそれに惹かれていた。だから、加那に何も言えない。言ったら、ガラスが割れる如く、全てが崩れ去りそうだった。それは、それだけは嫌だった。だからボクは、自分の青に従った。
「入学式の日、見たよね?」
それは、加那がお母さんに叩かれているところ。電車から和哉と二人で見ていた、痛々しい光景。
「あれね、私がお母さんに全力で励ましてもらってるところだったんだ。失敗することもあるけど、あなたはとても素晴らしいのだから、もっと頑張りなさいって」
屈託無く笑う加那。そこには無の色も、哀の色も感じ取ることは出来ない。心の底から母を愛する温かい、しかしどこか歪んで黒く染まってしまった赤だった。加那の瞳を見ると、溢れ出ている笑顔にボクはボクの青が吸収されそうになった。ボクのどこかがそれは駄目だと言う。けど、もう一つのボクが別にいいじゃないかと言う。拮抗する。衝突する。答えは出ない。弾かれて、ボクの青が揺らぐ。体まで揺らいでいる感覚になった。実際、揺らいでいた。倒れそうになっていたのだろう。加那がボクを受け止めてくれた。動かない体を加那に預けた。加那の体は温かった。だけど、これじゃ駄目だということは分かっている。でも、どうすることも出来なかった。
「沙耶ちゃんの体、冷たいね」
「……走ってきたから、そうかも」
「それじゃ、風邪引かないように、私が温めてあげるね」
ボクのどこかが再び衝突する。甘えればいい。それは駄目だ。二つの青の拮抗。
もう、どうでもよかった。加那とずっとこうしていたかった。歪んでいるとか、そんなのどうでもいい。温かった。ボクは確かに加那のお母さんを怖いと思っている。だけど、加那からは怖さを感じない。あるのは魅力的なオーラ。それだけだ。揺らぐ視界が正常に戻ってくる。
どちらからともなく、ボクは加那から離れた。
「帰ろう、加那」
「うん」
ボクと加那は歩き始めた。いつもの松野駅へ向かって。そう、いつもの。
「学校からの帰りの空気って、なんだかいいよね」
「うん、ボクも好きだ。この空気」
「束縛から解放されたっていうか」
「分かる分かる」
「授業は長いし」
「先生はうるさいし」
「勉強は難しいし」
「嫌なことだらけだよね、学校って」
それから松野駅に向かうまで、ボクたちは高校の愚痴を吐き出しまくっていた。先生に聞かれたらヤバいんじゃないかってぐらいにまで。
「でも、ボクは特進クラスに入って正解だなって思った」
「どうして?」
「……普通、分かるでしょ」
「えー」
からかうように、加那はボクの前に出る。どう考えても、答えは分かっている。多分、ボクの言葉で聞きたいのだろう。少し前のボクなら、ここで言い淀んでいたかもしれない。だけど今は違う。はっきりと言える。
「そりゃ……」
着信音が響く。ボクのスマホの音じゃない。加那だ。スマホをポケットから取り出して、電話に出る。相槌を打ちながら答える。その間、ボクはただひたすら待っていた。
しばらくして、加那はスマホを仕舞った。同時に、申し訳なさそうになった。
「お母さんがね、ロータリーで待ってるから早く来なさいって」
「……そう」
「ごめんね、沙耶ちゃん」
「ううん、いいよ。行ってあげて、お母さん待たせちゃ駄目だよ」
「ありがとう、沙耶ちゃん。それじゃ、またね」
手を振りながら、加那は踏切を越えて、
「……どうして、こんなにタイミングが悪いのだろう」
ボクはボクを呪った。間の悪さ。決心の遅さ。どれもこれも酷いものだ。大事なことを告げようとしても。覚悟を決めても。何をしても、タイミングが悪い。全部、余計な出来事が挟まって、何も出来ない。
「今なら、好きだって言えたのに……」
踏切の遮断棒が上がり、ボクは
家庭内ストックホルム症候群と学習性無力感。そういう精神医学用語があるということを知ったのは、そんなに後のことではない。
でも、知った時には、既に遅かった。
この時にこの言葉とその意味を知っておけば、ボクは加那の運命を、希望に満ち溢れたレールに変更できたのかもしれなかった。
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