第6話「その衝撃は鈍重」Aパート
5月15日月曜日。中間試験期間に突入した。その日からクラスでの雰囲気が少し変わった。前からピリピリとはしていたけれど、それが大きくなった、ような気がする。ここは特進クラス。皆、良い成績を保って良い大学に入りたいのだろう。だけどボクにはそんな気は全くとまではいかないけれどもあまり無くて、いつも通りに過ごそうと思っていた。まぁ、教室に入った瞬間、クラスの空気の鈍重さに負けて見事にできる気が消え去ったけど。ちなみにボクは中間試験というのは初経験だ。ボクが通っていた中学では中間試験なんて無かった。今考えれば、ゆとり教育の影響なのかもしれない。
まぁそんなこんなで、気を引き締めてしばらく生活しないと、周りから総スカンを受けそうだった。疲れるなぁ。
4限目までは普通の授業だった。昼休みもまぁ、ちょっと辛かったけど、普通だった。加那がボクのところに来なかったことを除けば。流石の加那も空気を読んだのだろう。
午後の5限目からは、教室にクラスメイトの親が入ってきた。何もこんなピリピリした時期に授業参観なんて敢行しなくても……。親も居づらいと思うんだけどなぁ。そう思うのって、ボクだけなのだろうか。
多分、自分の子供が学校でどういう態度で生活を送っているのか、っていうのと、生徒にもっと緊張感を持ってもらうためなのだろう。学校側の気持ちも分かるけど、ちょっと強引過ぎる気もする。
けど、ボクには何の関係もない。何故なら、ボクの親はとにかく仕事が忙しいので、どんなに早く帰宅出来ても、21時が最速だからだ。こんな昼間から学校に来るなんて、不可能だ。休みを取ればいい話だけど、そう簡単に休みも取れない。ボクの家はそこまで裕福ではない。貧乏というわけでもないけど。といって、別に来てほしいわけでもない。むしろ、仕事で来られないことがありがたい。そんなにストレス無く授業を受けられるからだ。
だから、ボクには知らない大人が来ている程度の認識しかない。緊張こそは多少するけれど、所詮赤の他人だ。怒られても関係無い。気楽だった。ボク自身のことに関しては。
問題は加那だ。入学式のあの日、ボクと和哉は見た。加那のお母さんらしき女性が、加那を叩いていたことを。結局、あれ以降加那の母親を見る機会は無かった(当たり前だが)。
加那は珍しく授業を受けていた。普段はいないのかと言うと、そういう時もあるけど、基本的にはいる。けど、このかったるい5限目などの午後の授業は時々いないことがあった。その加那が今日はいる。そして加那のお母さんも、今日はいる。教室にいる。後ろにいるのでチラッと見てみると、加那を見つめている。周りの親とは違う、鋭く、厳しそうな目で。
視線に気づいたのか、ボクを睨みつけてきた。すぐにボクは視線を正面の黒板に戻した。気づけば冷や汗を少し掻いていた。あれで完全に気づかれていたら、どうなっていたのだろうか。想像もつかない。考えたくもない。
チラッと見た感じ、加那のお母さんは厳しそうな印象しか抱けなかった。けど、ボクにはあの時の記憶がある。親が子を殴っていた時の記憶。あの女性が加那を叩いていた記憶。それはしっかりと覚えている。鮮明に。
だからだろうか、どうしても最近テレビで見る虐待をする母親のようにしか思えない。いや、そんなことはないと思いたいのだけれど、入学式のあの時がたまたまだったとは思えなかった。たまたま不快に感じることを加那がしたからああなったのか。そうではない。常にそうなのかもしれない。家でも平気で何かを加那にしているのかもしれない。
けど、見た目だけで言えば、至って普通とは言えないものの、若い母親ならこんな感じなのだろうとは思えた。ただ、やはり怖いという印象、というより厳かな雰囲気はしっかりと出していた。そのせいか、加那のお母さんの近くには誰も行きたがらなかった。微妙に、少しだけ、けどしっかり分かるぐらいの距離は取っていた。
そんな怖い人が立っていると思うと、元々かったるい授業が更に辛くなってきた。
(早く終わらないかなぁ……)
そんなことを祈っても、時計の速度が速くなることもなければ、時が流れる速度が変わるというわけでもない。いや、変わることには変わった。時間が過ぎるのが、遅く感じるようになった。中学の時からそうだ。かったるくて嫌で面倒くさい授業に限って、時間の流れる速度は遅い。それに対して試験は異常な速さで時が過ぎる。どうしてこんな仕組みなのか、当然ボクは分からない。だけど、これだけは出来る。全ての概念を作り上げた神様をちょっと恨むことぐらいは。
そんなどうでもいいことばかりを考えていると、チャイムが鳴った。授業参観は5限目だけで、それ以降は普通の授業だ。これで少しは楽になる。
それにしても、長い授業だった。
■
「っはぁ~……」
7限目も終わり、篠原先生がダラダラとしか進めないホームルームもようやく終わった。帰る準備をしていたら、急にドスン、と疲れが体に襲い掛かってきた。一気に体が鉛のように重たくなる。間違いない、今日の授業参観の時の疲れだ。だからといって、加那が悪いわけではないけど……。
「?」
そういえば加那はどこだろうか。教室にいない。先に帰ったのだろうか。
いや、違う。お母さんと帰ったんだ。そうに違いない。親が来ていて、親と帰らないなんて……あるにはあるけど、加那ならそれは無いだろう。ならばボクは、ダラダラとこの重たい体を頑張って動かしながら帰るだけだ。まぁちょっと寂しいのは事実だけど。
4階分の階段を降りる。上履きからローファーに履き替える。カツカツと靴音を鳴らしながら、
しかし、それにしても体がだるい。今日はさっさと帰ってさっさと寝よう。宿題もそこまで出ていないことだ。試験は近いから、多少のプレッシャーはあるけど……。
歩いていると、背後から鋭利な牙を剝いたライオンのような視線をゾクゾクっと感じた。何だろうと思って振り返ってみると、加那と加那のお母さんがいた。加那は俯いていた。何だろうと思っていると、加那のお母さんが加那を引っ叩いた。かなり強めに。乾いた音が辺りに響く。一度だけじゃない。何度も、何度も。あんな音立てていたら簡単に見つかるんじゃないかとも思ったけど、周りを見ると、二人がいるのはかなり分かりにくい位置だった。あれじゃそう簡単には見つからない。
加那のお母さんが何か言っているようだった。何を言っているかまでは分からない。だけど、分からないから……。でも、どうしたら……。
加那のお母さんがこっちを見た。視線も感じる。
「ッ!」
気づけばボクはその場から逃げ出していた。気づかれないよう、慎重に、静かに、しかし急いで。声をかけられることは無かった。
加那を裏切るような気分だったけど、恐怖には勝てなかった。どうしようもなかった。
でも、どうにかできる自信も無かった。ボクまでが巻き込まれるような気がしてならなかった。情けないとも思った。
だけど、どうしようもない。どうしようもないじゃないか、あんなのなんて。
どれだけ加那が好きでも、出来ることと出来ないことぐらいある。
言い訳だろうと言われてもいい。実際言い訳だ。それぐらいの覚悟はしている。
元々ボクはそういう人間だ。ビビりで情けない、至って普通だった女子だ。今は同性を好きになる、普通じゃないけど怖がりで情けない、しょうもない覚悟しかできない女子だ。
それの、それの何が悪い。ボクは平和に過ごしたいだけなんだ。
これぐらい、いいじゃないか。
■
走って走って走って、走り続けた。ただただ、走り続けた。逃げるように走り続けた。息なんてもうとっくの前から切れていて、情けないぐらいゼーゼー言っている。それでも、それでもボクは走り続けた。現実から逃げるように。加那から逃げるように。
鞄に入れていた体育用のタオルで、汗を拭く。下敷きを取り出してうちわのように暑い部分を扇ぐ。涼しくて、気持ちが良かった。座り込んで休んでいると、
「えらく必死だったな」
見上げると、そこには和哉が立っていた。
「まだ帰ってなかったの?」
「ちょっと居残って勉強。来年にはもう受験生だからな」
「忙しいんだね。帰りも勉強してたら?」
「お前ね……」
ため息を吐かれた。ため息したいのはこっちの気分なのに……。
沈んでいると、和哉は必ず気を遣って何か言う。お節介なのだ、和哉は。大抵、悪い方向に働くけど。
「……本島さんのことか?」
こういう時だけ、勘が鋭い。中学の頃、ボクの一人称が「ボク」だということを気持ち悪がった同級生に隠れて虐められていた時、先生は気づかなかったのに、和哉だけは気づいた。それで、問題をある程度解消した。嫌がらせはほんの少し続いたけど、虐められることは無くなった。正直、この時は感謝しきれないぐらいに助かった。中学に行くのをやめようかどうしようか迷っていたからだ。だけど、今は逆だ。本当に余計なお世話だ。これはボクと加那の問題なのに。
「何も無い」
至って平静を装って答える。答えられただろうか。
「いや、あるだろ」
「無い」
「声、震えてんぞ」
やっぱり駄目だった。どうしてだろう。和哉の前では隠し事が上手くできない。これも昔からそうだった。
「やっぱり何かあった――」
そういう勘繰るようなことは言ってほしくなかった。ちょっとでも加那のことを知っている人として、少しは考えてほしかった。加那のことを。ボクのことを。そんなこと、今のボクに言わないでくれ。何をどうしたらいいのかも分からないんだ。そんな人を疑うようなこと、言わないでくれ。
「あんたには関係無いじゃん!」
和哉を突き飛ばして、ボクは再び走り出していた。どこへ向かうのだろう。どこへ向かっているのだろう。何を考えて、どう思考して、走っているのだろうか。息はまだ切れているというのに、何で走るのだろうか。どこまで走るのだろうか。そんなこと、誰にも分かるはずがないし、ボク自身にも分からなかった。
ただただ、全力で走って
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