第4話「この少女は病的」Aパート
4月も25日は火曜日。ボクは思わず呟いていた。一瞬だけ周りから視線を感じた、ような気がした。
「……えっ? ちょ、嘘でしょ?」
4限目も終わった昼休み。ボクは鞄の中を焦りながら漁っていた。朝、自宅を出る時にちゃんと鞄に入れたはずのお弁当の姿がどこにもないのだ。スプーンも、フォークも、お箸も、お弁当を包むランチクロスも、何も無い。影も形も無い。完全に忘れている。今頃は家のテーブルの上で眠っていることだろう。やってしまった……。中学の頃なんて忘れたことなかったのに。
「どうしたの、沙耶ちゃん」
「あ、本島さん。ごめん、お弁当忘れたっぽくて……」
「あちゃー、それはやっちゃったね」
「ほんと、馬鹿だよね、ボク」
「私のお弁当いる? 今日はカロリーメイトなんだけど」
入学式の日以来、ボクが本島さんとご飯を食べるのは高校だけだった。どこかに出掛けて食べるということはなかった。だから、たとえ本島さんが菓子パンを食べていても、カロリーメイトを食べていても、何ら違和感は無い。いや、感覚が麻痺するかのようにその違和感は消え去っていた。
だけど、それでもやっぱり、本島さんの家庭がどういう状況なのかは、ずっと気になっていた。だから、こうして本島さんはボクにカロリーメイトを差し出してくれる。でも、ボクは受け取らない、受け取れない。好きだと思っていながらも、本島さんからはどこか危うさを感じた。
「本島さんが食べて。それは本島さんのご飯なんだから」
「そんなのいいよー。あと加那って呼んでってば」
そう言って、本島さんはニッコリとする。名前呼びだの何だのと言っても、もう周りから視線を浴びるということはなかった。4月も25日の火曜日にもなれば、皆興味を失くすのだろう。それはありがたかった。まだボクは本島さんのことを名前呼びすることに慣れていなかったから、何となく情けないなぁとは思っているけど。
「ほら」
本島さ……加那がカロリーメイトを突き出してくる。ちょっと今日は強引気味だ。
「や、だから加那が食べてってば」
名前呼び成功。しかもすんなりと言えた。でもやっぱり何となく恥ずかしい。
「沙耶ちゃん、お弁当無いのに?」
「いいから。購買行ってくる。向こうで食べてから戻るかもしれないから、今日はごめん」
一方的に言って、ボクは本島さんの目の前から、教室から出ていった。一瞬、加那の顔が見えた。寂しそうだった。罪悪感を覚えたけど、そういう時だってあると割り切って、ボクは購買へ向かった。
さっさと購買でパンを買って、1年9組がある教室棟に戻ってきた。
「疲れた……」
購買での買い物はもはや戦争だった。誰もが敵。己の今日を乗り切るために、皆必死だった。そんな戦争に慣れていないボクにとってそこは戦争ではなく、混沌に満ちた空間だった。絶対、もう二度と行かない。誰かのパシリでも絶対行かないぞ、ボクは……。
階段を上がっていると、窓辺でもたれている和哉を見つけた。チラッと顔を見た。なんだかつまんなさそうな表情をしていた。9組の教室はすぐそこだ。見なかったことにして戻れば、加那と一緒にお喋りができる。
だけど、どうしてだろう……。戻りたい、と思えなかった。だからだろうか、気づけばボクは和哉に話しかけていた。
「なに黄昏てんの」
和哉はビクッとした。見られてないとでも思っていたのだろうか、この馬鹿は。ボクだってことを確認すると、ため息をついた。
「沙耶か、おどかせんなよ……」
「そんな珍しいことしてる方が悪い」
「そんな珍しいことに、お前も声暗いぞ」
「え?」
「気づくわけないか、自分の声のトーンなんて」
完全に無意識、無自覚だった。多分、教室に何となく戻りたくないからだろう。
でも、そのことを和哉には知られたくなかった。
「……何でもないよ」
和哉はまだボクの顔を見ている。そんなに見つめんなってんの。変に思われるじゃんか……。
和哉がいきなり上を指した。屋上のことだろう。
「入れるの?」
「今日は開いてた」
「……それじゃ」
ボクは小さく頷いた。
「おう」
今ここで教室に戻って一人で気まずくなるよりも、和哉に愚痴を言った方が精神的にはよさそうだ。
だからボクは、ある意味憧れでもあった高校の屋上へ向かった。
■
ギィィ、という金属の錆びた音を出しながら、和哉が見るからに重そうな屋上の扉を開けてくれる。一応、レディファースト、ということだろうか。まぁ、和哉がそんなことを考えているとは思えないけど。
扉が開いた瞬間、ビュウ、と風が顔面にぶつかる。一瞬、目が開けられない。風の感覚が無くなると、そこは確かに憧れの屋上だった。
「わぁ……」
思わず感嘆の声を上げてしまう。それぐらいの感動が、ボクにはあった。
「俺は、こんなもんかって感じだったけどな。初めて来たとき」
もう慣れてしまった感じの感想だった。ちょっとぐらい感傷に浸らせてほしいものだ。やっぱり所詮は和哉、といったところか。
とりあえず購買で買ってきたパンを食べることにした。そうしないと、次の授業の時にお腹が空く。しかも確か次は体育だったはず。早めに食べておきたいところだ。手すりにもたれて、パンに大きく齧りついた。
「そんなにがっつくと、喉につっかえるぞ」
あんたはおかんか。思わずツッコミそうになった。でもまぁ確かに、ここでつっかえたくもない。焦らずそこそこ急いで丁寧に、パンを齧り続けた。
「で、なんかあったんだろ?」
「……うん、まぁ」
ボクはさっき教室であったことを話した。ボクがお弁当を忘れたこと。加那が少ない昼食の殆どを分けようとしてくれたこと。けど、ボクがそれを断ってしまって、加那が寂しそうにしてしまったこと。全部話した。
「うーん……」
それを聞いた和哉は唸っていた。しばらくすると、腕組みをして、黙り込んだ。何を考えているのだろうか。和哉の表情は、ボクが今までに見たことがないぐらいに真剣だった。同時に、他人のことをここまで真剣に考えてくれるやつだったのかと感心した。
「……何か、ズレてるんだよなぁ、あの子。何かこう、何だろう……」
「何か分かんの?」
「いや、分からん。分からんけど、何かある……そんな気がする」
「例えば?」
確定的ではないものの、何か分かるのなら分かりたい。加那のことを少しでも分かってあげたい。
「……思い当たるのは思い当たるけど、いや、言っていいものかどうか」
「気になる」
ボクは更に食いついた。
和哉は本当に言っていいのかどうか分からないことだったらしく、またしばらく唸っていた。けど、ふぅ、と息を吐いたことは、決心したことなのだろう。
「……病気」
「は?」
思わずボクは訊き返していた。病気? 何の病気? そんなこと、ボクが一番分かっている。加那が何かを抱えているかもしれないということぐらい。それが病気かもしれないということぐらい。分かっているつもりだ。
「や、だからその……」
和哉はまだ言いづらそうだった。だからボクは、物理的に和哉に迫った。顔を近づけた。和哉は視線を逸らして、堪忍したかのように言った。
「……精神系の、病気」
その答えは、一番望んでいない答えだった。一番聞きたくない答えだった。一番言ってほしくない答えだった。だけど、一番あり得ると思っていた答えだった。何故なら、それ以外にあり得ない、というより、考えられないのだ。加那のあの変わった性格、としか今のところ言いようのない部分は。
「まぁ、その可能性は捨て切れない、よね……」
平静を保って言ったつもりだったけど、その声は震えていた。波立つように、自分でもはっきりと分かるぐらい。
けど。やっぱりそれはどうしても。いや、仕方ないのかもしれない。避けられないことかもしれない。それが本当の答えなのかもしれないのだから。和哉は悪くない。何も悪くない。誰が悪いわけでもない。
視線を感じた。扉の方を見ると、クラスメイトの女子数人が覗いていた。あれでバレていないとでも思っているのだろうか。けど、そこまで気になるほどではない。気にすることができるほどの余裕は無い。
びゅう、と風が吹くと同時に呟いた。
「簡単に言わないでよ……」
小さな怨恨の念が込められたボクの言葉は、風と共に去った。ただ、ボクが何かを言ったことは、和哉も分かったらしい。
「なんか言ったか?」
何を言ったかまでは聞こえていないらしい。よかった。
「いや、別に」
「そっか」
残っていた菓子パンを全食べる。次は体育だ。満腹ではなく腹六分目ぐらいがボクには丁度いい。
「次、体育館だから、戻るね」
「んじゃ、俺も教室戻るわ。さっきから視線が気になってな」
「ボクは気にならないけどね」
「気づいてたのか」
「まぁね」
「お前が先に出た方が良さそうだな」
「うん。それじゃ、お先」
ボクが扉に向かうと、覗き込んでいた女子たちはどたどたと大きな足音を立てながら、降りて行った。多分、というか間違いなくわざとなんだろうなぁ。まぁ、どうでもいいけど。今は加那のことが一番気になる。
教室に戻ると、皆は体育の着替えの準備をしていた。しばらくすると、男子たちが出て行き、女子だけが1年9組の教室に残って着替えを始める。皆、ぺちゃくちゃ喋りながら着替えていて、その速度は遅かった。着替えはボクが一番に終わった。教室を見渡したけど、加那の姿は無い。女子トイレで着替えて先に行ったのだろう。加那が何の理由も無しにサボるとも思えなかった。さっさと教室を出て、体育館へ向かった。
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