第3話「あの好意は弱点」Aパート
4月17日。そう、入学早々のことだ。
私は遅刻してしまった。校門が閉まるのは8時半で、今が11時半ぐらいだから、3時間以上の遅刻だ。大遅刻だ。やってしまった。理由はただの寝坊だ。といっても、昨日お母さんとお話をしていて、眠るのが遅くなってしまったからだけど。でもそれはお母さんのせいじゃない。私が早くに眠らなかったのが悪い。だから、こうして私は今、9組の教室ではなく、別室にいる。
「入学早々遅刻なんて、何考えてんだ」
担任の篠原先生が私を叱っている。嫌な感じ。まるで叱るのが仕事のように思える。自分こそが正義のように聞こえる。本当に正しいとでも思っているのだろうか。教師の仕事はもっと別にあるだろうに。
「おい、聞いてるのか?」
聞いているフリをしているのがバレたようだ。妙に洞察力はいい。だから教師は嫌いなんだ。生徒のことを考えているのか、自分の保身のことを考えているのか、読み取ることができない。気持ちが悪い。読み取れないと、気味が悪い。
だから私は、ストレートに質問してみた。
「殴らないんですか?」
篠原先生は呆気に取られていた。何を言いだすんだろう、こいつは、といった感じだ。理解出来ない。理解しなければ。いや、どうしてそんなことを。ああ、理解出来ない。理解してあげたいのに。そう考えているに違いない。
しばらくして、篠原先生は口を開いた。
「……殴られたいのか?」
良い解答だ。だから私は真面目に答えた。
「こういう時、普通は殴るものなんじゃないんですか?」
私は至って真面目に答えたつもりだ。それが私の出た中学では普通だったし、お母さんも必要があれば私を叩く。それは、大人として、当たり前のことだと私は思っていた。でも、篠原先生はそうでもないらしい。というのも、腑に落ちない表情をしていた。訳が分からない。何故そのような理論に辿り着くことができるのか。どうしてだろう。どうして、そんな顔になるんだろうか。教師なら教師らしく、しっかりしてほしい。
「……もういい、教室に戻りなさない」
篠原先生はそう言って、指導係の先生と一緒に部屋から出ていってしまった。
情けない教師だ。生徒一人を指導(なぐ)ることすらできないなんて。でもまぁ、教室に戻れるならそれでいいか。今は授業中だから戻れないけど。あ、でも、授業中に沙耶ちゃんに視線を送ったら沙耶ちゃん、どういう反応するんだろう。気になるなぁ。面白そうだなぁ。
私は部屋を出て、すぐ近くの9組の教室に前のドアから戻った。先生に事情を説明して、席に向かう。
その際、沙耶ちゃんが目に入った。沙耶ちゃんは私を教科書に顔を隠して、チラチラ見ていた。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのになぁ。
私がニッコリとすると、沙耶ちゃんはすぐに顔を赤くして、私から視線を逸らした。なんか、可愛いなぁ。
「さっさと席に着いてくれ」
うるさいなぁ、分かってるよ、それぐらい。っていっても、授業、あと10分も無いじゃないか。けど、この残り数分が意外と長く感じる。
ああ、早く授業終わらないかなぁ。
■
最近の本島さんはよく遅刻する。といっても、本格的に授業が始まったのはまだ2日しか経ってないけど。それでも多い。というか、入学式と翌日の説明以外では、毎日遅刻をしている気がする。先週の合宿にも来なかった。風邪だったらしい。正直、そのタイミングで本島さんと話せたらいいなと思っていたけど、叶わなかった。
けど、本当に風邪だったんだろうか。別に理由があるんじゃないのだろうか。それこそ、学校に行けないヤバい理由とか。
皆は気づいてないだろうけど、遅刻してやってくる本島さんの顔には、微かに痣の痕がある。あれは一体、何なのか。何故そんなものがあるのだろうか。時々帰りで一緒になる和哉はこう言っている。
「なんか、ありそうだよなぁ」
この「なんか」は多分、というか間違いなく、いや、ボクはそうは思いたくなかったけど、そう思うしかなかった。この言葉しか頭に浮かばなかったというのもあるけれど。
虐待。
確かに入学式のあの日、本島さんは彼女のお母さんらしき人にぶたれていた。それも一回ではない。何度も。もしこれが、家庭で日常的に、頻繁に行われていたとしたら、本島さんはどういう生活を……。
気づけば、周りはガヤガヤしていた。いつの間のか授業は終わって、お昼休みに入っていたらしい。合宿に行った際に、周りは友達をしっかりと作っていた。他人と接するのが苦手なボクは別だったけど。
「さーやちゃん」
「え?」
いつの間にか、目の前に本島さんがいた。周りから視線が一瞬集まる。物珍しい物でも見るような視線。気まずい。でも、ここで気まずくなって本島さんの前から離れたら、本島さんはボクを嫌うだろう。それに、秘密も握られてるし……。でも、恥ずかしいという感情はなかった。むしろ、誇らしさすらあった。そうだ、構うものか。周りなんて気にしない。高校生活なんて、楽しんだ者勝ちだ。
「どうしたの?」
「ご飯食べようよ、一緒に! 椅子も持ってきたからさ!」
9組のクラス人数は25人とかなり少ないので、机や椅子の数も自然と少なくなる。そのため、椅子を持ってくるなんて簡単なことだった。
ボクは、本島さんがそこまでしてくれることに、嬉しく感じた。いつの間にか視線も消滅している。所詮、人間なんてそんなもんだ。
ボクはお母さんが忙しい中作ってくれたお弁当を。本島さんはいつものように菓子パンを食べる。前はモールのフードコートで菓子パンだったので違和感があったけど、今日は学校で菓子パンだ。違和感は全くない。でも、ボクはやっぱり前に本島さんが言った「菓子パンは贅沢」というのが気になった。
「菓子パン、だね」
「うん。これがお昼ご飯ってことは、私の家では結構贅沢なんだよ?」
……やっぱり気になる。菓子パンがお昼ご飯で贅沢なんて、ボクは思わない。それとも家庭によって贅沢の度合いが違うだけなのだろうか。もしかして、本島さんの家は物凄く貧乏なんだろうか。一体、どういう生活を送っているのだろうか。
けど、ここでそれを問うてはならない。周りには無関係な人間がいる。尋ねるのは二人きりになった時だけだ。
「沙耶ちゃん、はい、あげる」
と言って、本島さんはいきなりボクにちぎった菓子パンを渡そうとした。当然ボクはそれを拒否した。唯一のご飯をどうしてあげるのだろうか。しかも、ボクのお弁当から何かが欲しいというわけでもなさそうだし。
「どうして?」
本島さんは至って不思議そうな表情をする。ボクは至って普通の返事をする。
「貰える理由が無い」
「別にいいよーそんなの。私ね、こういうことが好きなんだ。誰かのために役立つことが」
所謂自己犠牲、というやつなのだろうか。自分を犠牲にしてでも、他人のために尽くすとか、そういうやつ。
ボクはそれが苦手だった。はっきりと言ってしまえば、嫌いだった。他人のためにそこまで尽くす意味があるのか、所詮他人は他人じゃないかとボクは思っている。
でも今は、どちらでもない。揺らいでいる。陽炎の如く、ゆらゆらしている。相手が本島さんだからだ。ボクの弱みを握っている人。ボクが本島さんのことを……好きになってしまっているということを。
けど、それでも、今本島さんにとって唯一のお昼ご飯である菓子パンを受け取るわけにはいかない。何となくだけど、受け取っちゃ駄目な気がする。理由は無い。ただ、何となくそんな気がするだけ。けど、今のボクには十分過ぎる理由だと思った。
だから、素直にボクは答えた。
「本島さんが食べて」
「えー」
「午後の授業でお腹空いても駄目でしょ」
「それはまぁ、そうだけど」
「だから、ほら」
「……分かった」
しょんぼりとしながらも、本島さんは笑顔を絶やさなかった。こうして見ると、本島さんはボクの前ではいつも笑顔な気がする。和哉の前ではどうなのかは知らないけど。
本島さんはようやく、残りの菓子パンに食べ始めた。ゆっくりと、しっかりと、大事に味わうように、嚙む。何度も何度も嚙んで、パンから出てくる味を全て堪能して、ようやく呑み込む。菓子パンでそこまでのことをするなんて……。
そんなのでボクは、もっと本島さんに惹かれていく、ような気がした。笑顔で菓子パンを食べる本島さんの姿は、美しくも思えた。この世のものでない、人だけど人を超越した、というか。庶民のボクからすれば、そう見えた。
だからこそボクは、その姿をもっと見たいと思った。違う面から見たいと思った。その気持ちがあったからこそ、「今日一緒に帰ろう」と言ってみようという勇気が出た。
「ご馳走様でした」
行儀良く、本島さんは少し頭を下げる。パンの袋をビニール袋に突っ込んで、椅子を持って自分の席へ戻ろうとする。今しかない。
「本島さん」
ボクは本島さんの腕を掴んだ。本島さんが振り返る。顔を見ることはできない。本島さんの笑顔を見ると、ボクの顔が赤くなるのが自分で分かるからだ。でも、言わないと。言わないと、何も始まらない。
「今日、一緒に帰らない?」
少しだけ小声。それでも周りには聞こえたらしい。一瞬だけ視線が集中する。物珍しそうな視線。でも、それも一瞬だけだ。皆、仲の良い友達と再び喋る。どうやらボクたちはもう、珍しいということもないのかもしれない。それはそうだろう。本島さんはともかく、ボクは極力目立たないように動いているから。
「いいよー」
あっさり。あんまりにもあっさりとしていて、何故自分が今の今まで緊張していたのかよく分からなくなるぐらいだった。好き、だと思っているから、余計そう感じたのだろうか。そもそも、本当に好きなのだろうか。まぁ、彼女の顔を見たら自分でも分かるぐらい顔が熱くなるから、そうなのだろう。
とにかく、何はともあれ、スムーズに事が進行してよかった。あとは残りの授業を受けて帰る時を待つだけだ。
7限目まであるから、結構長いけど……。
唯一、ボクが特進クラスに入って失敗したなと思ったポイントだった。
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