Challenge 5

 幸か不幸か、その日の部室には僕と森川さんだけしか居なかった。安心の直後には不安と緊張が訪れ、それが波を打つように繰り返し現れる。森川さんの講習に集中するにつれて、徐々にどんなものだったのか解らなくなっていったが。


「なんで浮世絵を鉛筆で模写しているの?」


 時々投げかけられる鋭い質問に、僕は答えをはぐらかしつつ誤魔化しつつ答えていく。この点は幸運にも「何となくやってみたくなって」と言ったような答えで乗り切ることが出来た。洞穴の奥の土偶に見せるため、何て言っても信じてもらえないだろうし。信じて貰えるかもしれないが、今はこの方が良さそうだ。


「こう……力が抜け過ぎと言うか、入り過ぎと言うか、そんな感じで―――」

「はい」


 教えられるアレコレに僕は素直に従って行った。親の言うことも先生の言うことも、こんなに素直に聞いたことは無い。そりゃ、反抗的にならないように工夫はしているけど。


「吾妻くんのには、こう……グラデーションが無いんだ。そこが出来に影響しているのかも」

「グラデーション?」


 教えてもらいながら、観る。そして、考えてみた。描かれている川、水平線に向かうにつれて白くなっている。空も地面に近付くにつれて白くなっている。他にもいくつかの色の変化があった。言われて気付き、何で今までそう思わなかったのか、と落ち込む。森川さんは僕の心境が少し解るようで「誰でもそんなもんだよ!」と力強く僕の背中を叩いた。その日の下校時刻になって「鉛筆だけだと難しいかもしれない」と思うようになった。森川さんと別れ、一人で家路を歩いていると「何で鉛筆だけで描こうとしたのか?」と今更ながらに思っていた。


 自室であれこれと想いを巡らせ、机やカバンや本棚に仕舞った入門書を広げていたところ、その入門書からボロボロの絵が出て来た。それを取り出し広げて思い出した。これは土偶にダメだしされたもの、2回目に持っていった絵だ。それを見て思い出した。絵の具を使うと通常のA4の紙では破れてしまうことがある。そのために、とりあえずは鉛筆で形を上手く描けるようになろうと思ったのだ。それで僕は必死に鉛筆であれこれと描いていたのだった。


 改めて観ると無茶苦茶のことをしていたと感じる。一か月も経っていないが、自分の過去を悔いてしまった。この絵も捨ててしまおうと思ったが、僕の手が止まった。その後、いつからか買い揃えていたスケッチブックにテープを使って貼り付ける。次のページを眺めながらまっさらな、真っ白な風景にぼんやりと絵の様子をイメージしてみた。


 その後、僕は美術部に入部することとなった。


 土偶とのやり取りを忘れた訳じゃない。だけど、このきっかけを逃したくなかった。森川さんとどうにかなりそう、という期待は多少あったけれど、とにかく今はこのまま突き進んでしまいたかった。あの土偶と出会って以来、僕の沈んでいた気持ちは何処かへ行ってしまったから、今はこれで良いと思える。丁度いい機会というものだ。


 その後も、洞穴の土偶と美術部を行き来しながら、土偶からダメだしを受け続けながら、僕は日々を過ごしていた。土偶の言葉には「惜しい」が混ざるようになっていく。僕はそれを繰り返し、いつの間にか終業式になってしまった。明日から夏休みに突入する。随分と変な気分だ。あんなに時間が経つのが遅かった日々が信じられない。


 半日の日程を終えて、今日はこの後どうしようかと考えていると、


「ねえ、吾妻くんって、いつも走って何処に行ってるの?」


 再び、僕の肩がビクッと震える質問が投げかけられた。振り向くと、そこには森川さんが笑顔で立っている。どうやら僕の土偶洞穴への旅は森川さんに気付かれていたようだ。


「その……」

「その?」


 口ごもる僕を、森川さんは微笑んだまま見つめて来る。


「何で知ってるの?」

「いや、たまには途中まで一緒に帰ろうかなと思う事もあったんだけど。吾妻くんって部活が終わるとささっと帰っちゃうし。その内に気になって追いかけてみると、走り出しちゃって。もう追いつけなくて」

「うん……」

「うん?」


 森川さんの表情がやや険しくなった。僕は「ゲホン」と咳ばらいをしてから、こう切り出した。


「ちょっと、落ち着ける場所で話したいんだ」


 彼女は「いいよ」と明るく答える。僕は学校の近く、自動販売機とベンチがあるところまで森川さんと歩き、そこで缶コーヒーを買って彼女に渡す。森川さんが受け取り、飲み始めた事で少しだけ安心できた。僕も自分の分のコーヒーを一口すすり、こんなところから始めてみた。


「僕はいつも、この先にある洞穴に行ってるんだ」


 僕にとってはここまで言うのも大変だった。これでも恥ずかしい何かを告白しているようなものだった。僕はもう少し詳しく語らなければならないのだ。その筈だった。しかし、そうならなかった。意外な答えが返ってきてしまったからだ。その答えとは、森川さんが口に含んだコーヒーを僕の顔に向かって噴き出したことだった。

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