焔を抱く女 ~六条御息所無明語り~

長居園子

第1話

 なぜいまも自分は、この世から離れられないのだろう?彼女は眼下に広がる家々の甍をぼんやりと眺めながら、もう幾度となく繰り返した問いへ思いを巡らせた。


 確かに父の大臣は生前、「我が子ながらそなたは、まことに趣味の良い聡明な子じゃのう。父としては誇らしい限りじゃが、己に自信があるせいか案外妥協するということを知らんのうぉ」と娘の性質に一抹の不安を覚えていたようだった。おそらく父には父なりの懸念あっての発言だったのだろうが、歳月を経たいま、彼の懸念は言った当人が想像していた以上の災いとなって娘にふりかかっていた。

 娘は、怨霊と化してまったのである。

 思えばそうなる予兆は、に逢う以前からあった。後宮一の美姫ともてはやされ、その評判にふさわしいふるまいをしていたあの頃、心底で自分はいつも疲れていた。東宮妃とうぐうひの身分に恥じぬよう殿舎でんしゃのしつらえや女房たちの素行には常に目を光らせ、自身も流行の衣装や化粧・薫物で外見を装うだけでなく、密かに国内外の書物を蒐集し妃として求められる以上の教養も積んだ。また表の政治にも関心を寄せ、少しでも縁を結んでおいた方が良いと思われる相手には、気のきいた消息や贈り物を送って人心を掴み、政敵やいずれ自分たちの脅威となりそうな人物には、警戒心を怠らず彼らの動向を監視させたりもしていた。とにかく、表面はあくまで優美でたおやかな貴女きじょを演じながら、裏では自分に関わるあらゆるものごとに注意を払う才女として賢く立ち回っていのだ。

 無論そのような生活には並々ならぬ心労があったし、我ながらやり過ぎではないかと嗜めたくなる気持ちになる時もあった。しかし、後々否が応でも自覚していくことになるのだが、彼女はいったんこうと思いつめると突き詰めずにはいられないタチであった。なまじっか要領が良いだけに、努力すればしただけ賞賛や羨望という成果としてかえってくるため、そういった無理をすることへ快感すら覚えていたフシがあった。

 ひとつだけ気に入らないことがあるとすれば、夫東宮の自分への接し方であった。どれだけ美しく飾り立て、あわれ深い歌を詠み、妙なる調子で琴を奏でても、夫はいつも慇懃な態度を崩すことはなかった。生来温厚な気質で、将来の帝王になるべき者とは思えぬほど覇気のない背の君は、たまさかに彼女を召し出す折も、当たり障りのない世間話をするばかりで夫婦らしく打ち解けた関係に発展させようとはしない。実家から皇子を生みまいらせることを熱望されていた彼女は、少しでも夫婦の溝が埋まるよういろいろと工夫を凝らしたが、そのどれもを夫は控えめな微笑みを浮かべやんわりと拒絶した。

 だから姫宮を出産した後、またたく間に東宮がおかくれになった時には正直言って安堵した。女児だったとはいえ子どもを産んで課せられた義務は果たすことができたし、もうあの微笑みの向こうに透けて見えた不満と、無言の夫婦喧嘩をする必要はなくなったのだ。夫の御魂みたまには申し訳ないと思いつつも、十二単を一気に脱ぎ捨てたような気分になり、彼女は口元の緩みを檜扇ひおうぎで覆い隠した。


 まだ姫宮が幼少であることを口実に出家を拒んだ彼女は、生まれ育った六条邸へ帰った。何もかもが嫁ぐ前と変わらない実家のありさまには、言葉にできぬほどのなつかしさと安らぎを感じたが、すでに父大臣が鬼籍に入っていたこともあり、邸内のそこかしこに衰退の兆候があった。

 「お父さまが愛したこのお屋敷を、朽ち果てさせるわけにはいきません」

 古参の女房たちの前で、静かによく通る声でそう宣言した彼女は、さっそく邸内の改修を命じた。そして、姫宮の世話役にするという名目で若く才長けた娘たちを新たに女房として雇い入れ、歌会や香合こうあわせなどの催しものを頻繁に行わせた。そうすると案の定、彼女たちを目当てに若い公達きんだちたちが邸宅を出入りするようになり、かつて大臣が家族とつつましいやかな生活を送らんと造らせたついの棲家は、たちまち宮中に並ぶ社交場として故人の生前以上の活気を帯びるようになった。本来ならば、旧勢力の象徴として忘れられていく存在だったはず彼女が、当代きっての風流人として復活したことに一部からは反感の声があがったが、それでも彼女は素知らぬフリをして社交場の女帝として君臨し続けた。彼女にしてみれば、東宮妃だった頃よりも現在の自分の方がよほど本来の能力を発揮できていると実感していたし、心底では女としての人生を謳歌したいという願望をいまだ捨てきれていなかったのである。


 そういう願望を密かに抱く女にとって、彼の登場は拒みがたい誘惑そのものだった。今上帝の寵姫の忘れ形見にしてひかり輝く美貌をもつその青年は、若さゆえの押しの強さで彼女の心にせまってきた。当初は、年上の分別で彼の求愛に戸惑っていた彼女も、あの例の老若男女を問わず全ての人々を惹きつけてやまない彼の魅力には、長く抵抗することができなかった。名の知られた子持ちの未亡人が若い男の愛人の一人になるというのはいかにも体裁が悪く、矜持の高い彼女には始めから悩ましい恋路ではあったが、それはそれとして気楽なつき合いをすれば良いではないかと言い聞かせ受け入れようと努めた。

 実際、彼にはすでに左大臣家から娶った北の方がおり、当家は彼を下へも置かず遇していたが、彼自身は妻のことを、「美しく良くできた人ですが、いつまでも他人行儀であたたかみが感じられません」と評しており、その実家についても、「大層な扱いをしてくれるのはありがたいのですが、毎回我が家の婿殿と大袈裟に歓待されるので息がつまります」と辟易しているようだった。そして、六条邸を訪れる度に、「こちらは本当に何もかも行き届いていながら、それでいてゆったりと落ち着いたところですね。わたしも貴人のお宅へ伺う機会が多少ありますが、よほどの身分の方の住まいでさえ、何度か訪問すれば何かしらの欠点が見つけられるものです。それがこちらのお宅には、いまだに欠点らしい欠点が見つからない。これも全ては主人であるのあなたの手腕なのでしょうね」と褒めたたえてくれた。かつて東宮妃であった頃、夫からもらいたかった賛辞を耳元でささやいてくれる青年に、慈母めいた愛情以上のものを抱きつつあることを、彼女は自制することが困難になりつつあった。

 「わたくしは、あの方の心の拠りどころとなっているのだわ」

 もう何年も前から熱望していた役柄を与えられたと錯覚し、気がつけばいつも恋人のことばかりに思いをはせるようになっていた彼女であったが、彼の前ではあくまで包容力のある大人の女を演じ続け、正式な妻の地位を要求することもしなかった。はやくに女の身内に死に別れた男が、年上の愛人へ何を求めているのかは心得ているつもりであったし、そういう関係でいた方が自分としても優越感に浸ることができたからである。

 綻びが生じたのがいつの頃からだったかは、多分双方共に正確な時期はわからないだろう。ただ、多くの破局にありがちなように、最初に冷め始めたのは愛が浅い方だった。もとより、出自も容姿も申し分なくみやこじゅうの女の憧れの的である彼が、いつまでも自分にばかり夢中になっているはずはないことはわかっていた。わかっていたつもりであったが、「近頃はお越しになる間隔が空くようになってきましたね」と、女房らが密やかに語らう中で平静な態度を貫くことは、当人が自覚している以上に精神的な負担となっていた。なぜ、なぜまたこうなってしまったのか。何もかも完璧にこなしていたはずなのに。彼につめ寄りたい気持ちは多々あったが、それでも訪れればこれまで通り寛大に接した。が、以前はそうすれば素直に甘えてきたはずの男は、やさしく笑うばかりで親しげな態度で接してこなくなってきた。その笑顔が、かつての東宮のそれと奇妙なほど酷似していると気づいた瞬間、彼女の心の中に悲痛な叫び声がこだました。

 (あのひともまた、父や夫のようにわたくしの本質を見抜いたのだ…!)

 正体を暴かれてしまった、女としての魅力が自分にはないのか、世間がこれを見てなんと思うだろう。様々な負の感情がどす黒い靄となって胸中に渦巻き、もの思いに沈む回数が格段に増え、にこやかに微笑んでいる最中でさえ心の内では焦燥感にさいなまれていた。それを悪化させるように、どうやら最近男が新しい通いどころをつくったらしい、と出しゃばりな女房が耳打ちしてきた。

 「何でもその女、卑しい者どもが住む五条界隈に居を構えているそうですわ」

 御息所みやすどころさまという女人がいらっしゃりながら、何と不誠実な方でしょう。ぶつぶつと追従の言葉を並べたてる女房の傍らで、彼女は頭が真っ白になった。五条の女!五条といえば、ここからほど近い場所ではないか!身近なところで相手を見つけたということに対し、理屈では説明しがたい怒りを感じたと同時に、自分よりずっと格下の女に横取りされたという事実で、大きな敗北感に打ちのめされた。

 (許さない、許さない…!)

 何が許せないのかは、もはや自己分析ができなくなっていた。ただそれ以後、凝り固まっていた憤怒が身体から抜け出でていくような感覚に、たびたび襲われるようになった。だいたいそういう状態になっている時は前後の意識が混濁しているため、疲労から知らぬ間にうたた寝でもしてしまっているのだろうかというくらいにしか考えていなかったが、あとになって思えば、その頃からすでに自分はとしての枠組みから外れた存在になりつつあったのだ。


 それからしばらくして、例の出しゃばり女房が「あの五条の女は急な病で死んだそうでございます」、と嬉々として報告してきた。彼女はあさましいとは思いながらも、胸がスッとした気持ちになるのを抑えられなかった。死んだ女には同情の念が一切わかなかったし、悲嘆に暮れているであろう男に対しても嘲笑ってやりたい衝動にかられた。

 これで彼も、少しは自分のもとを訪れようと思う機会が増えるだろう。思いわずらうことは日常的になっていたが、いずれ彼が自分のもとへ戻ってくるに違いないと心のどこかでは信じていた。だが、むしろ以前にもまして減っていく夜這いの回数と、ときたまの逢瀬でふと見せる彼のもの問いたげな視線に、彼女は言いようのない不安を感じるようになった。単純に飽きられているということでは説明のつかない溝が、いつの間にか自分たちの間につくられてしまっている。

 「わたくしの何が、不満だというのですか?」

 矜持をかなぐり捨て、そう問いかけることは、彼女の生まれ育ちが許さなかった。それどころか、「こういう時こそ心を強く持ち、年長者らしい大らかな心であの方に接しなくてはならないのです」と語り、女主人の超然とした態度に感嘆する女房たちの賞賛で溜飲を下げていた。しかし、日を追うごとにますます間遠になる男との関係は、彼女の情緒を限界まで疲弊させた。「いっそのこと、斎宮さいくう卜定ぼくじょうされた娘につき従って伊勢に下ってしまおうか」。そんな考えが頻繁に頭をよぎるようになっていたある日、とうとう感情の堰が決壊する出来事は起こった。

 「左大臣家の北の方さまが、ご懐妊だそうよ!」

 声を落としながらも隠し切れない興奮を含んだ若輩の女房たちの噂話が耳に入ったのは、偶然だった。聞いた瞬間目の前が暗転し、これまで自分がつくり上げてきたもの全てが崩れ落ちていくような気がした。そんな、そんな。北の方とは上手くいっていないと言っていたではないか。かたわらに控えていた古参の女房は女主人の動揺を察し、自身も聞いたことがないような裏返った声で慌てて後輩たちを諌めたが、すでに手遅れだった。それからというもの、六条邸は物音ひとつ立てることも憚られるような陰鬱な空気で支配されるようになり、仕える者たちは女主人の気を紛らわせることが当面の課題となった。

 「あの、もし、御息所さま。たまには外へお出かけになってみるのはいかかでしょう?」

 おずおずと御前おまえへ参上した下臈げろう女房が、蚊の鳴くように申し上げたのは、新緑のまぶしい卯月初旬のことだった。藪から棒に何を言い出すのだろう。脇息にもたれかかりながら目線だけをそちらへやり、彼女は訝しんだ。しかし、よくよく周囲を観察すると、ほかの女房たちも何気ないふうを装いながら自分たちのやり取りを注視している。どうやら、この下臈者は立場の弱さにつけ込まれ、やりたくもない役回りを上位者たちから押しつけられたらしい。

 彼女はにわかに、たまらなく恥ずかしい気持ちとなった。年増が若い男に袖にされ、見境なく悲嘆に暮れている。この者たちは、世間は、いま自分をそのように見ているのではないか。このさきの東宮妃たるわたくしを、この六条の女主人たるわたくしを!ならぬ、それはならぬ!心中では恐慌をきたしながらもそっと身を起こし、柔和な表情で心もち目を見開いた。まるで、さもいま始めて下臈者の言葉を理解したかのように。

 「まぁ。そなたには、このつれづれをなぐさめるような秘策が何かあるようですね」


 やはり来るべきではなかった。網代車あじろぐるまの外から聞こえる一条大路の喧騒にうんざりした彼女は、同乗する女房たちに気づかれぬよう神経質そうにギュッと目を閉じた。穏やかな女主人の様子に安堵した下臈者は、一刻もはやく押しつけられた役回りを終えたいとばかりに、お忍びで葵祭見物へ参りませんかとまくし立てた。もともと人混みは嫌いであったし、いまは祭り見物なぞしたい心情ではなかったが、断ったら断ったで女房らはまたあれやこれや提案してきそうだったため、悩ましいそぶりをしながらしぶしぶ受け入れたのだった。それにしても、例年のことであるからある程度は予想していたが、やはり今日のこの御禊ごけいの日は大変な賑わいである。とくに今年は彼が供奉として祭り行列に加わるとあって、京じゅうの人々がその花の顔容かんばせを拝もうと押しかけて来ているのだった。

 (なぜ人々は皆、あのひとに惹かれずにはおれないのだろう)

 ほかならぬ自分もその一人であり、彼との交際もしばらくになるが、いまだに彼女はその疑問が解けなんだ。ただ容貌に恵まれているというだけではない。あの青年に放つ美には人を取り込む魔性がある。そして女たちは、そうとわかっていながら、彼の魅力に病んでいくのである。

 「まぁ、何でございましょう?」

 喧騒の渦中で自分の世界に沈んでいた彼女は、耳元でつぶやかれた女房の声にハッと顔を上げた。女房の視線をたどって外を見ると、声高に先払いをして人や車を追い払いつつこちらに近づいて来る集団がある。「左大臣家の姫さまのご一行だそうだ」喧騒の中でだれかがそう言った。その声が耳に入った瞬間、六条邸の人々は主従共々我知らず身を固くした。なるほど。確かにこんな日も高くなった刻限にやって来て、先に場所取りをしていた人々を押しのけ、自分たちの車を次々と止めていく不作法は権勢家でなければできまい。

 どうかこちらへ来ませんように。女主人は言うに及ばず、従ってきた者たち全員が心の中で念じた。この人混みで車を動かしたくとも、動かせないのである。が、こちらの願いに抗わんとするかのように、左大臣家一行はどんどんと近づいてきた挙句、とうとう「さぁ、どいてもらおうか」と横柄な態度で無体を言ってきた。

 「いまさらやって来て、何を言う。こちらにいらっしゃる方には、そのような失礼をはたらくべきではない」

 女主人に忠実な従者たちが負けじと言い返してしまったことで、かえってその場にいた人々は、網代車に乗る人がだれであるかの検討がついてしまった。そうとわかると、左大臣家の者たちも「こちらこそが、大将の君さまのご本命なのだ」と意地がわく。祭りの酒が入り血気盛んになっていた双方の若手たちは、年長者の制止もきかず公道の真ん中で大騒ぎした。お忍びのはずがいまや衆目の的になっているこの状況に、彼女は茫然自失となった。皆がわたくしたちを見ている、皆がわたくしを嘲笑っている!女房たちは必死で呼びかけるが、まるで魂が抜けたかのように女主人は全く反応しない。

 結局多勢の左大臣家側に押しのけられ、人垣のはるか後方に追いやられた六条邸の人々は、まるで葬列に連なっているような暗い表情で祭り行列を眺めた。このまま露と消えてしまいたい。その思いばかりが占める胸中に前駆ぜんくの音が鳴り響くと、騎乗した憎らしい恋人が颯爽と現れた。

 (…なんと、美しい)

 感情の奔流も忘れ、つかの間彼女は武官装束姿を身にまとい白馬へ跨る彼に見入った。周囲も似たような思いにふけっているのか、見物人たちの感嘆の溜息が大路に鳴動する。要するに自分は、彼の魅力に取り込まれているこの聴衆の一人に過ぎぬのだ。彼女はようやくその事実を受け入れた。

 「見ろよ。大将さまが左大臣家の車に会釈なさったぜ。やっぱり奥さまには頭が上がらねえんだなぁ」

 みすぼらしい服を着た赤ら顔の男が屈託なく大声でそう言うと、その場にいた大勢の庶民たちがちげえねぇと笑った。男の言う通りだと、彼女も思った。悲嘆に暮れるまま帰路についた彼女は、そのまま何日も御帳台みちょうだいから出てこなかった。祭り見物の翌日には事情を聞いた彼が訪ねてきたが、「斎宮になります娘が潔斎中でございますので、これよりはわたくしもそれに準じようと存じます」と含んだ口上で逢うことを拒み、そのあと届けられたなぐさめの消息にも、「わたくしのようなつまらぬ者のことをお気にかけるくらいならば、もっと身重の北の方さまのことを重んじてあげてくださいまし」とあてこすりで返した。以前の彼女ならば、このような時は努めて大人の対応をしようと心がけたのだろうが、破れかぶれも末期になったいま、もはや自己嫌悪にも陥らなかった。


 「わたくしも姫宮と共に、伊勢へ参ります」

 数日ぶりに表に出てきた女主人が、どことなく据わった目でこう宣言した時、女房たちはどう反応するべきなのか戸惑った。なんにせよ、もう京を去ると決めたのだから、男への執着は捨てねばなるまい。こう思いつめれば思いつめるほど、意識のはっきりしなくなる回数と時間が増えていった。名医と評判の者に診察させても、まるで原因がわからない。しかも、そのような時間を過ごした後は、決まって魔除けに用いる芥子の香りが身体から漂った。いよいよ我が身のことながら不気味なことよと悩んでいた矢先、例によってまた夢の中にいるような感覚が彼女を襲った。

 今回はいつもより自我がはっきりとあった。はるか上空から京の景色を眺めていた彼女は、一件の大邸宅に目を留めると人とは思えぬ速さで下降した。そして、瀟洒な造りの対の屋に入り込むと、部屋の奥深くに横たわる女人へ一気に近づいた。女は苦悶した表情で寝入っていたが、ものの気配にうっすらと目を開け、絶え絶えに語りかけてきた。

 「また、いらしたのですか…?」

 (えぇ、そう。具合は大分、よろしくないようね)

 「よくもまぁ、そのように愉快そうに…。どなたのせいで、こうなったと、思っているのですか」

 (あら、わたくしのせいだというの?ご自分で人から恨まれるゆえんをつくっておきながら)

 「そのことについては、もう何度もお詫びしたではありませぬか…。あれは、わたくしの意志ではありません。下の者たちが、勝手にやったことなのです。だからもう、許して…」

 (いいえ、許すものですか。あなたはわたくしから、愛しいひとはおろか尊厳も奪った。だからわたくしは、これから息子と共に歩むはずだった人生をあなたから奪いましょう)

 そう言うと彼女は、病床の女の白い首に自身の手をそっとまわした。それほどの力は込めたつもりはないが、相手は口を大きく開き必死で空気を取り込もうともがいていた。が、ほどなくして糸の切れた人形のようにガクリと身体の力が抜け動かなくなった。

 (終わった…)

 夢の中のことであるはずなのに、彼女は逃れようのない罪悪感に捕らわれた。何が終わったというのか、わたくしは同じ懊悩を抱える女を殺めたのだ。そういえば、以前にもこのようなことがあったような気がする。ここよりずっと粗末な古い屋敷で、先程の彼女のように震えていた女の首をわたくしは絞めた。そして、その女もまたあっという間に崩れ落ちて…。

 「ぎゃぁぁー、姫さまぁぁ!」

 気のふれたような絶叫で、彼女はハッと目が覚めた。あたりを見回すと、いつもの自分の御座所おましどころである。だが、あれは夢ではない…。彼女は確信していた。あぁ、あぁ…!自分はなんということをしてしまったのだろう。いくら恋の恨みつらみが深かろうと、あのようなあのようなことを!あぁ、あぁ…!様々な思いが錯綜し、その日から己が犯した罪に恐れおののき、彼が自分を糾弾するところを想像して絶望する日々が始まった。いま思えば、愛を失うことばかりを悲しんでいた頃の自分のなんと浅はかなことだろう。愛は、たとえ一方が冷めても、もう一方が燃え続けていれば完全に消え去ることはない。だが、いのちは、いのちはたったひとつしかない。自分はそのたったひとつしかないものを、ふたつも奪ったのだ。ああ、あの男に逢うのが恐ろしい!我が身の業が恐ろしい!


 昼とも夜ともなく苦悩しているうちに、娘が野宮ののみやへ入る日がやって来た。罪深い我が身のために娘が神罰を受けることがないかと懸念したが、同時にこうなれば世俗でつくってしまった罪を贖うため、娘を介して忠実な神の奉仕者とならんと悲壮の決意を固めていた。実際野宮を囲む静寂は、京の喧騒に神経をすり減らしていた彼女の心をいくぶん和ませ、雑念に捉われず己の罪業と向き合う時間を与えた。だが、かりそめの悟りは彼の訪問によって奈落の煩悩へと突き落された。

 「わたしを捨てて、伊勢へ行っておしまいになるのか」

 捨てられようとしているのは、わたくしではありませんか。二条に住まわせていらっしゃるという方のことを、わたくしが知らないとでもお思いですか。ご自分の恋人や妻を殺めた女へまだそのような戯言をおっしゃるのですか。溜め込んだ不満や戸惑いを言い散らしたい欲求を抑えんがために押し黙った彼女に対し、男の理性は自分に都合の良い解釈を判じたらしい。断わりもなく御簾を上げると、とっさに腰を浮かせた彼女の裳裾をぎゅっと掴んだ。

 もっとも未練が残る別れ方をしてしまったことは、どちらもわかっていた。おかげで神の御前へ参っても湿っぽい気持ちを完全に拭い去ることはできなかったが、退屈をもてあますばかりだと予想していた伊勢での日々は、斎宮の身の回りの世話をしていると案外単調に過ぎっていった。結局のところ、このひとは常になにかしら忙しくしていないと、焦燥感にかられてしまう種類の人なのかもしれない。都会から一歩下がった落ち着きのあった野宮の風景にもゆかしさがあったが、ここはさすがに神の領域とあって糸が一本ぴんと張ったような静謐さがあり、いる者の心身を浄化させる霊験が備わっていた。

 しばらくして、彼の方もみやこを離れて須磨へ蟄居したらしい、という話を風の便りで耳にした。もともと気まずくなっていた関係が、双方地方住まいとなったことでいよいよ疎遠になり、音信不通という状態が数年間続いた。京にいた頃の彼女ならば、彼恋しさに身を切るばかりのせつなさを感じたのだろうが、神のやしろの清浄な空気に浄化された心は、恋人の不遇を憐れみながらもかつてほどの恋慕に燃え上がることはなかった。思えば自分は、京の魔性にどっぷりつかり過ぎていたのかもしれない。相変わらず心は灰色に染まっていたが、己を見失うほどの闇に囚われることはなくなっていた。


 母娘おやこがひっそりと帰京したのは、御代がわりの慌ただしさがいくぶん落ち着いた頃だった。もとはと言えば自分がやらせたこととはいえ、ひなの素朴な情景にすっかり安住していた身には、六条邸の壮麗さがひどく大仰に感じられた。帰りを待ってくれていた人たちにしても、都会人特有の外面の良さと素っ気なさがいまとなっては鼻につき、以前ほど交わりたいとは思えない。

 「父の代から世話になっていた嵐山の僧都そうずは、まだご健勝かしら?」

 仏の慈悲にすがりたいという願望が出たのは、自然なことだった。とくに事前の声明もなくあっさりと出家してしまったため、世間はいささが驚いたようだったが、もはや過去の人となっていた貴女きじょの心境の変化を斟酌する者はいなかった。それからほどなくして、妙に身体が重いと感じられる日が数日続き、気がつけば起き上がれなくなっていた。当然六条邸には激震が走ったが、狼狽はなはだしい周囲とは対照的に、当人は水底沈む石のようにじっと床に身を横たえていた。やっと終わる、やっと終わるのだ。静かな感慨はむしろ幸福感に近かった。

 「あぁ、病床につかれていても、相変わらずお美しい。いや、むしろ以前にも増して気高くおなりになっていらっしゃる」

 静寂を破ったのは、やはり例の低く深みのある声だった。相変わらず断わりもなく御簾内に入り込んできた男は、歳月と苦難を経て精悍な顔つきになっていた。下火になっていた恋情が一気に再熱するのを両者は感じた。もともとの愛おしさに加え、久方ぶりに昔なじみに再会した際に生じるあのなつかしさと慕わしさが、病身の胸いっぱいに広がって温かい気持ちになった。それでも彼女は強いて感動を抑え、やつれた我が身を見られまいとそれとなく顔を背けながら、姫宮のことや六条邸の者たちのことを途切れ途切れに託した。そのいじらしい様子に心を打たれた男は、言いかけている途中の女へ覆いかぶさり熱く抱擁した。どのくらいの時間そうしていたのかはわからない。やがてむっくりと起き上った男は、じっと真正面から女の顔を覗き込み、なにも言わず部屋を後にした。その後姿が視界から消えても、彼女は長いこと彼が出て行った方向を眺めていた。これで終わったのだ。数日後の夕刻、彼女は静かに息を引き取った。


 (それなのに、なぜ、なぜなの?)

 身体から魂が離れた瞬間に、自分はもう自分でなくなったはずなのに。こうして思念ばかりがさまよっている。己の罪は、来世へ希望を託すことも許されぬほど重いということなのか。わからぬ、わからぬ。

 (いいえ、あなたはわかっているはずよ)

 身の内から響いてくる声に、彼女は顔を顰めた。

 黙っていてちょうだい。あなたには関係ないことでしょう?いいえ、大いに関係あるわ。あなたはですもの。いいえ、あなたはわたしではないわ。ふん、否定したいならそうなさい。事実は動かしようもないのだから。わたしは、わたしたちは、これからも共にさまよい続けるのよ。愛憎が独り歩きを始め、罪を犯したあの瞬間から、わたしたちは人のことわりから見捨てられた存在になってしまった。だから当然、輪廻の循環の中へ入ることもできない。女たちが愛に苦しみ続ける限り、わたしたちはもっと大勢のわたしを取り込み、この世にくすぶり続ける宿命なの。イヤッ、そんなのはイヤッ!イヤも何も、そう生きていくことしか許されていないのよ。うるさい、うるさいッ…!

 体あれから何百年、何千年のときが経ったのか?愛した人たちは皆、もう二度も三度も転生を重ねているに違いない。あぁ、あなたどうして迎えに来てはくださらないの?わたくしはここにおります。ただわたくしは、ただ、わたくしは、愛したかっただけ。愛されたかっただけ…ッ!あぁ、苦しい。あぁ、苦しいッ!。なぜわたくしばかりが、このような目に遭わなければならぬ。わたくしは、さきの東宮妃にして斎宮の母なるぞッ!そのわたくしが、なぜ、なぜこのような魑魅魍魎の類に堕ちなければならぬのだッ!許せぬ、許せぬッ…!


 (あぁ、相も変わらず、あなたはまださまよっておられるのか…)

 憤怒で身を焦がすかつての愛人を遠くから眺めながら、男は深い憐みの情を感じた。時折こうして、彼女の様子をそっとみにくることが日課のひとつとなって、もうどのくらい経つのだろう。彼女の心が壊れていることは、人であった頃から薄々気づいていたのに、つまらぬ都合や勝手で見て見ぬフリをした。その結果が、この悲劇だ。自業自得だと言う人も、彼岸の住人の中にはいる。だが、自分はそのように非情な判断を下すことができない。彼女があのような成れの果てになってしまったのには、自分にもいくばくかの責任があるのだから。一体どうすれば、彼女を救うことができるのか。彼は途方もない年月、その答えを見つけられずにいた。

 (結局わたしもまた、あなたと同じなのだ。愛欲に執着し、自分を捨てきることができぬ愚か者。思えばわたしたちが惹かれあったのも、宿命だったのかもしれぬ)

 自分たちが生きていた頃とは、比べものにならぬほどのまぶしい光に彩られた故郷の夜景を見下ろしながら、彼は生前彼女にかけてやるべきだった言葉などを反芻した。

 そう答えは、とうの昔に出ている。共に苦しみ続けること。それしか道はない。幸い、ほかの愛した女たちは皆成仏をしている。残っているのは、自分たち二人だけだ。そのようなこと無意味だと言う者いるだろうが、かまうものか。これがわたしたちの愛の形なのだ。

 「我が君よ、果てなき無明の道を共に歩まん」

 目の前ではなお、逆上した女の魂がほのおを燃やしている。人であった頃の淑やかさとはかけ離れたその姿は、本来男が見てはならぬものなのだろう。だが、彼はいまの彼女がたまらなく愛おしかった。あるいはたったひと言でも言葉を交わせば、女の魂は救われるかもしれぬ。けれど、そうなれば本当に自分はこの世で一人ぼっちになってしまう。そんな孤独には、とても耐えられない。それに、彼女が自分のためにさまよう姿も見られなくなってしまう…。男はほの暗い幸福感に満たされながら、いま一度かつての愛人をじっと見つめた。その瞳は、彼女が発する焔と同じくらい熱を帯びている。

 (まったく、本当にオレは悪い男だな)

 彼はだれに言うこともなく自嘲し、そっと闇夜に溶けた。






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