ドラゴンは 津波 を 起こした!


 なぜ、《黄金の百竜》亭の看板娘が攫われたのか。

 その背景には、王都に於ける《商会ギルド》と《商人同盟》の軋轢があった。


《商会ギルド》は商人たちが円滑に商売を行い、その利益を守るため互いに協力し合う組織……というのが本来の役割だ。しかし王都の商会ギルドは財務省の支配下にあり、その実態は公正な競争市場とは程遠い。


 官僚貴族たちが流通や販路を制限し、彼らにいくら賄賂を送っているかで商会の序列が左右される。つまり商品の質や経営の手腕など二の次で、どれだけ貴族に上手く媚を売るかで王都の商いは決まると言っていい。


 これを良しとせずに商会ギルドから離反し、商いの自由競争を守ろうと結束した商人たちの集まりが《商人同盟》だ。

 当然、官僚貴族の口利きにも頼れない商人同盟は、貴族の権力を笠に着たギルドの陰湿な妨害もあって、長らく苦渋を舐めてきた。


 しかし近年では商人同盟から新しい商売・商品が次々と開拓され、独自に貴族との繋がりを確立。着々と販路を拡大しつつあった。特に《黄金の百竜》亭のリンゴ料理は、有力貴族の間でも密かに人気が高まっている。


 こうなると官僚貴族の権力でも、迂闊に手出しできない。下手に藪を突けば、顧客の有力貴族たちを敵に回すことになる。


 なにより商会ギルドにとって厄介だったのは、商人同盟が次々と生み出す新商品。その再現不能の技術だ。いくら官僚貴族から金や資産で援助を得ても、原理も解明できない技術など真似しようがない。


 そこで商会ギルドは短絡的な判断に出た。真似できないなら奪えばいい、と。

 つまりリンゴ園の一人娘でもある看板娘を人質に、《黄金の百竜》亭を商会ギルドへ無理やり引き抜こうという魂胆なのだ。





「ま、所詮世の中は弱肉強食。お前ら弱者は、俺たち強者の食い物にされるのが運命ってモンなのさ。力もないくせに出しゃばるからこうなるんだよ」


 縄で縛られ猿轡も噛まされた看板娘を、見張りの男がニタニタと笑いながら見下ろす。

 男は商会ギルドが子飼いにしている暴力団の戦闘員だ。見張りを押しつけられる程度の下っ端だが、今夜ばかりは男も自分の役回りに感謝した。


 抵抗もできない弱者を痛めつけるのは、男にとってなによりの娯楽。それが女となれば、二重に「愉しみ」ができて言うことなしだ。

 看板娘の肉付き良い肢体を下卑た視線で舐め回しながら、男は舌なめずりする。


「助けなんて期待するなよ? ここは貴族街の中心にある商会ギルドの商館だ。貧乏人の商人どもや冒険者はこの区画に入ることすらできやしない。衛兵に捕まって牢屋にぶち込まれるのがオチさ。よしんばこの商館までたどり着けても、魔道具による警報装置と連絡経路で、三分と立たず戦闘員に囲まれて袋叩きだろうね」


 今頃は商会の胡散臭い商人が、《黄金の百竜》亭に交渉とは名ばかりの脅迫に行っていることだろう。いくら足元を見られることやら、想像するだけで笑えた。


 さらに別の下っ端が既に王都を出て、リンゴ園を営んでいるという看板娘の実家に向かっている。酒場が屈さずとも、リンゴ園を確保できれば良し。最悪の場合は、厄介な新商品の「元」を断ってしまう算段だ。


 まあ、その最悪はあるまい。なにせ戦力も権力も圧倒的にギルドが優位なのだから。 


「ところで……どうせ親に人質の無事な顔を確認させてやる義理なんかないんだ。流石に殺すのはまずいけど、『それ以外』は人質になにしたって構わないよなあ?」


 男が一層下卑た笑みを深めながら、看板娘の服にナイフを当てる。

 胸元からブツブツと切れていく服。看板娘の瞳が恐怖と絶望に染まっていく様を嗤いながら、男は勿体つけるようにゆっくりナイフを下ろした。


 しかし――突如として男と看板娘の間に、半透明の壁が出現。

 看板娘を包み込むように展開された壁にナイフが弾き飛ばされ、男の頭をかすめて壁に突き刺さった。その際にナイフの刃が耳を深々と裂き、男は痛みで蹲る。


「っづぅ!? なん、だ、この魔力障壁は!? 誰の仕業だふざけやがって! オイコラ、出てきやがれよ、コラァ!」


 苛立ちのまま障壁を蹴りつけるが、当然のごとくビクともしない。


 自分と看板娘の他に誰もいない小部屋を見回しながら怒鳴り散らす男。同僚にお愉しみを邪魔されたものだと思い込み、これが「敵襲」だという可能性がそもそも頭に浮かんでこなかった。


 そして、敵の可能性に思い至る間もなく事態が動き出す。


「あん? なんだ?」


 床に震動を感じて男は首を捻った。


 気のせいではなく、むしろどんどん震動が大きくなる。次いで、どこから「ゴゴゴ」と地響きめいた轟音が。しかし王都で地震が起きるなど聞いたことがないし、王都の貧民街で生まれ育った男も経験がなかった。


 それに、地震にしてはおかしな点が一つ。轟音が震動と共にどんどん大きくなっているのだ。――いや、これは近づいている、のか?


 男が何気なく通路に続く扉へ視線をやった、次の瞬間。

 扉を突き破って、大量の水が流れ込んできた。


「はぁ!? ちょ、なん、ぶぁ……!?」


 誰かがバケツをひっくり返したとか、水道管が破裂した程度では全く説明がつかない、まさに洪水そのものの濁流。


 仮にも暴力の世界で生きてきた身、油断し切っていたとはいえ、襲撃者に対する一定の警戒と心構えくらいはああった。しかしこんな内陸の王都で洪水に襲われるなど、誰が想像できようか。一瞬で男は呑み込まれる。


 無秩序に荒れ狂う水流に翻弄され、天地の感覚さえ見失った。室内のあらゆる物がカクテルのごとく撹拌される。看板娘だけが小癪にも魔力障壁に守られて無事だったが、そんなことに構う余裕もない。


 浮き上がった小奇麗な調度品が生き物のようにグルグル回り、男の体に激突してくる。

 洋服箪笥の突進に左腕を折られ、激痛に悲鳴を上げれば口から水が入り込んできた。すっかり男はパニックに陥り、手足を振り乱しながら順調に溺れていく。


 しかし男にとって幸いにも、地獄のような時間は長く続かなかった。

 急速に水の流れが引いていき、男は通路に投げ出される。


「ぶほっ。げほ、げふぉ! なん、だってんだ、アアアア!?」


 肺にまで入った大量の水をゲーゲーと吐きながら、混乱と恐怖を喉から絞り出すように男は絶叫した。


 脳内を埋めつく「なぜこんな目に」「なにが起こった」という疑問に応える者はいない。なぜなら皆、同じ状況だったからだ。同じように溺死寸前で通路に転がる戦闘員たちが、八つ当たり気味に罵り合っている。


 そんな悠長なことをしている場合でないと、気づいたときには遅い。


「オイ、なんか寒くないか?」

「はあ!? そりゃこんだけずぶ濡れになれば――うあ!?」

「なんだこれ、どんどん凍りついてやがる!?」


 そう、水浸しになった通路が見る間に凍りついていった。床だけでなく壁や天井にまで氷が張り、手足が拘束されて身動きが取れない者も出てくる。男は間一髪、立ち上がるのが間に合い、足元に張った氷も力を込めれば引き剥がせた。


 しかし百歩譲って洪水はまだしも、この冷気は明らかに自然なものではない。

 ようやく敵襲の可能性に思い至った矢先、今度は通路の向こうが騒がしくなる。

 悲鳴、戦闘の音、それに街でそうそう聞くモノではない破壊音。


 ゴクリと生唾を呑み込む音が嫌に大きく響いた。誰もが我知らず息を潜める。


 やがて悲鳴が止んだ直後、通路の向こうからナニカが、砲弾じみた勢いで飛んできた。

 それが人間だと気づいたときには、通路に立つ仲間の一人に直撃。もつれ合いながら突き当りの壁までふっ飛んだ。激突した壁に真っ赤な血の花を咲かせて、崩れ落ちる。血の量からして生きてはいまいが、もう男たちの思考はそこまで及ばない。


 なんだ。なにがいる。なにが来る。なにが襲いかかって来る!?


 続けざまに迫る理解不能の事態が、男たちの化けの皮をいとも簡単に削ぎ落とす。

 自分は恐怖を与える側だと自惚れていた。しかし理解を超えた状況に放り出されればこの有様だ。所詮、安全圏からの弱い者いじめしかできない三流の下衆。


 恐怖に呑まれながら、死にたくない一心で男たちは武器を構えようとする。しかし息が白くなるほどの寒さに、手が震えてそれすらおぼつかない。最悪なことに、照明まで駄目になって明滅し、暗闇が通路を覆った。


 しかし、現れた『ソイツ』に対しては、最早それ以前の問題。


「うわああああ! 来るな! 来るなよクソッタレがああああ!」

「ぎひぃぃ! 俺の腕、腕が千切れレレレェェェェ!」

「ちくしょうちくしょう! 俺が、俺がなにをしたってんだよおおおお!」

『グルアアアア!』


 人の形をした、しかし人では決してありえない黒い影が踊る。


 明滅する灯りの中で影が踊る度、肉を裂き骨を砕く音と、断末魔の悲鳴が鳴り響いた。ある者は爪で胴を引き裂かれる。ある者は尾の一振りで窓の外に叩き出された。ある者は頭蓋を踏み砕かれる。ある者は棒切れのように振り回された挙句、壁のシミと化す。


 そうやって、仲間の声が一人、また一人と減っていく。人間をガラクタ人形のごとく、千切って砕いて血肉の塊に変える悪魔が近づいてくる。


「なんでだよ、なんで俺がこんな目に遭うんだよ。俺は強者だ。俺は弱者じゃない。俺はクズなんかじゃない。強い俺が弱いクズどもをいたぶって殺して、食い物にして愉しむんだ。なのに、なのになんで俺が食い物にされなきゃならないんだよおおおお」


 うわごとを垂れ流し、妄想に逃げた男の目が現実から焦点を外す。

 そして、焦点が再び現実を捉え直したときには。

 目の前に、金色に光る眼が。


「あ、あ、アアアアアアアア!」


 それはいわゆる、火事場の馬鹿力。追い詰められた極限状態の精神が成せる業か。

 剣の道を志し、挫折して暴力団の下っ端まで堕ちた男は、生涯最高の太刀筋を放つ。

 ……尤も、それは凍った床に足を滑らせ、空を斬るだけに終わったが。


「あ」


 ――人間は、余程当たりどころか良くなければ、痛みを感じる間もなく即死などできない。それは今まで多くの弱者をいたぶり殺した上での経験則。

 内臓を抉り出され、腹から胴体を二つに引き千切られながら、その正しさを男は自身で思い知った。


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