色彩
目を覚ました時、時計は12時を示していた。昼食を持ってきた人の声で目が覚めたのだ。
昼食を受け取り、病室に1人だけになった後で、俺は頭の中にあるものを吟味した。
黄島から奪った記憶は、俺の記憶と少しだけ似ていた。
彼女の母は、彼女が小学生の頃に事故で亡くなった。それから、黄島は父親と二人暮らしになる。父親は、「ごめんな、ユリ」というのが口ぐせだった。時に悲しそうに、時に申し訳なさそうに、時に涙ぐみながら、とにかくひたすら謝り続けていた。
彼女の父親は、彼女から母を失わせてしまった罪悪感から、愛を注いでいた。
それでも俺よりはマシだ、とは思わなかった。責任感でも、罪悪感でも、そういう自分本意なものから生まれる愛は、どちらも同じように息苦しい。
黄島は、友人も何人かいたようだ。その中には、あのベンチで話していた2人もいた。
友人たちは口を揃えて言っていた。
「ユリちゃんは笑顔が素敵だね」
「笑顔でいるユリちゃんが好きだな」
俺には、「笑顔じゃないお前に存在価値はない」という風にしか聞こえなかった。記憶を奪っても、彼女が何を思っていたかは分からないが、なんとなく察する事ができる。
謝り続ける父親と、遠回しに笑うことを強要してくる友人達。笑顔でいるしかなかったのだ。彼女に、それ以外の選択肢はなかった。
笑顔の仮面を貼り付けて、その裏側で黄島はずっと膝を抱えて泣いていたのだ。辛いとも、助けてとも言えずに。
俺は、救えたのだろうか。泣き続ける彼女を、抱きしめる事ができたのだろうか。
確かめる必要がある。俺は昼食にまったく手をつけないまま、重い体を引きずり、黄島の病室に向かった。
黄島の病室の前に着くと、中から看護師がでてくるところだった。記憶の受け渡しの実験をしたあの看護師だったので、少し気まずかった。
看護師は俺の顔を見ると、意味深な笑みを浮かべて話しかけてきた。
「あなた、黄島さんと知り合いなんですよね?」
「知り合いってほどでもないですよ」
俺が曖昧に答えると、看護師は更に笑みを深めた。相変わらず意味深な笑みだが、悪いものは感じなかった。
「じゃああなたは、知り合いじゃない人と手を繋いだり、抱き合ったりするんですね」
「……見てたんですか」
「はっきりと」
ようやくこの笑みの意味が分かった。俺たちが秘密の場所だと思っていた場所は、意外と人目につく場所だったのかもしれない。
自分の顔が赤くなっているのが分かる。口元に手を添えて俯いていると、看護師は先程とは比べ物にならないくらい真剣な声で言った。
「黄島さんとあなたがどんな関係か知らないけど、今はあの子の傍にいてあげてください。お父さんは仕事が忙しいみたいだし、友達には大丈夫だから来なくていいって言ってるみたいなんです」
「……俺が傍にいても、いいんですかね」
「大丈夫。黄島さんはあなたを、あなただけを必要としています」
「なんで分かるんですか」
「勘」
それだけ言って、看護師は俺を黄島の病室に押し込んだ。強引な人だが、悪い人ではなさそうだ。
黄島のベッドに近づいていく。外は良く晴れていて、窓から暖かい光が差し込み、カーテンがくっきりとした黒い影を作っていた。
久しぶり(といっても数日ぶりだが)に見る黄島の姿は、俺を少なからず驚かせた。人工呼吸器に半分以上覆われた顔は青白く、もともと細かった腕がより一層細くなっていた。その腕からは細いチューブが伸び、その先には点滴がぶら下がっていた。
分かっていた事だが、彼女の命はギリギリのこところで人工的に繋ぎとめられている。そのことを強く実感させられた。
俺が近づくと、彼女の目が開いた。俺の姿を認めると、人工呼吸器の裏側で、彼女は笑った。
はじめて、黄島の笑顔を見た。
作り物じゃない。心の底から滲み出た笑顔。とても苦しそうだけど、とても幸せそうな笑顔。
人工呼吸器が、邪魔だと思うことはなかった。全てを吸い込んで、柔らかく、暖かいものに変えてしまうような、そんな魔力がその笑顔にはあった。
それを見た時、俺は全身の力が抜けて崩れ落ちそうになった。
勢いでプレゼント作戦なんて言っていたが、本当はただの自己満足なんじゃないか?俺なんかと一緒にいる思い出が、彼女を幸せにできるのか?
頭の片隅にあったその疑問を、黄島の笑顔は吹き飛ばしてくれた。
崩れ落ちないように足に力を入れて立っていると、黄島が手を伸ばしてきた。震えていて、今にも力を失くして消えてしまいそうなその手を俺はゆっくりと握りしめた。
多分、彼女の記憶の中では、俺たちはこうして何度も手を繋いだのだろう。幽霊になるため、なんていう口実はない。ただ、手を繋ぎたいから繋ぐ。そんなことを何度も繰り返していたのだろう。
手のつなぎ目をじっと眺めていると、黄島が、声を出した。とても小さくて、弱々しい声だが、はっきりと俺の耳に届いた。
「ありがとう」
その瞬間、俺の体の奥底から、何かが湧き上がってきた。ずっと押し込めていた何かが、破裂したように全身を駆け巡った。
「……ふざけんな。……その言葉は、俺が何度言っても足りない、のに。……お前が言うんじゃねーよ……」
声が震える。頰に濡れた感触がする。室内なのに、雨が降ってきたようだ。
黄島の手を両手で握り、膝をついて、その手を額に当てた。
何かを祈っているようなポーズだが、別に祈っているわけじゃない。ただ、伝えたいだけだ。大切な人に、大切なことを。
「……ありがとう。……ユリ……」
彼女はもう喋ることは無かったが、ずっと笑っていた。
ああ。なんだよ。もっと早く教えてくれよ。世界には、こんなに綺麗な色があるじゃないか。
その翌日、黄島ユリはこの世を去った。
夏の初日と言ってもいい、暑い日だった。
夏の始まりと同時に、彼女の人生は幕を下ろした。
彼女の父親が病院に来ているのを見た。黄島の死を悲しんでいるようだが、どこか安堵しているようにも見えた。
病室のベッドに腰掛けて、自分の手を眺める。まだ、黄島の手の感覚が残っていた。
黄島の記憶の中で、俺たちはどんな風に出会ったのだろう。どんな話をしたのだろう。どんな所に行ったのだろう。どんな風に触れ合ったのだろう。
自分で作ったものを思い出せないというのは、奇妙な感覚だ。
でも、悪い気はしない。黄島は、笑ってくれた。ありがとう、と言ってくれた。それだけで十分だ。思い出なんて人間にとって大した価値はないと思っていたが、案外役に立つものだ。
黄島がいなくなった世界は、相変わらず灰色だ。でも、それでいいと思う。灰色の世界にいたから、俺は彼女と出会えたのだから。
それに、灰色の世界だって見た方によっては美しいものだ。モノクロの映画が独特の魅力を持っているのと同じように。
この世界を美しいと思えたのも、愛おしいと思えたのも、全部黄島のおかげだ。本当に、ありがとうだけじゃ何回言っても足りない。
俺の体調はどんどん悪くなっていく。やはり自分で寿命を削り取ってしまったようだ。
しかし、体調と反比例するように、心は穏やかになっていく。別に死ぬのが嬉しいわけじゃない。黄島が幽霊になったかどうか、確かめるのが楽しみなだけだ。
病室の窓の外を見ると、若いカップルが手を繋いで歩いていた。外はかなり暑いようで、2人とも額に汗が光っていた。
とても、幸せそうなカップルだ。
一瞬、そのカップルに自分と黄島が重なって見えた。死期が近いから、幻覚でも見たのだろう。
あの2人から、記憶を奪ってやろうか。
俺は微笑んで、その考えを打ち消した。もう記憶を奪うことも、与えることもする気はない。
俺の中には、何よりも美しい記憶があるから。好きな女の子の、最高の笑顔が、俺の中にあるから。
窓の外で陽炎みたいに揺らめく2人の背中を、俺はいつまでも眺めていた。
記憶泥棒 湯上信也 @ugami
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