プレゼント

次の日から、黄島がベンチに来る事はなくなった。病状が悪化し、ベッドから動く事もできなくなったらしい。


ある程度距離の離れた人から記憶を奪うには、相手の位置を把握していなければいけない。そういう理由で、俺たちはお互いの病室を知っていた。


一度、黄島の病室に行こうとしたが、医者や看護師が慌ただしく出入りしているのを見てやめた。


余命3ヶ月と言われて、3ヶ月後に突然死ぬわけじゃない。ゆっくりと首を絞めるように、じわじわと病魔に殺されるのだ。俺はその事をすっかり忘れていたようだ。


病院の裏口を出たところにある、いつものベンチにいつものように座っていた。いつもと違うのは、隣に黄島がいない事だけだ。


先日まで降っていた雨はすっかり止み、空には鬱陶しいくらいの大きな太陽が浮いていた。アスファルトはまだ湿っていて、独特の匂いを放っている。


掌を太陽に翳してみる。こちらに向いている手の甲に、かすかに緑色の筋が見える。いや、信号機の『進め』の合図と同じで、この色も青色というのか。どう見ても緑だろ。


そんなくだらない事を考えている内に、掌が暖かくなってきた。太陽の光のせいだろう。これとよく似た暖かさを最近感じた気がする。


……思い出した。黄島の手を握ったときだ。あの小さな手から、太陽のような暖かさを感じたんだ。手を腿の上に落とし、目を閉じた。


黄島ユリはもうすぐこの世からいなくなる。それは出会った時から決まっていた事だし、俺だって同じ状況だ。


しかし、彼女の死はこの世界の存在価値を根こそぎ奪っていくように思えた。それで、ようやく気がついた。


俺は彼女のことが好きだったようだ。


黄島の隣にいる時間は、何よりも愛おしかった。しかし、俺には果たすべき責任はない。愛っていうのは責任を果たすためのものだったはずだ。


じゃあこの感情は、愛ではないのか?


そんなことは、どうでもいい。感情に名前なんてつける必要はないんだ。それより、俺には考えるべき事があるはずだ。


色々なものをくれた黄島に、俺が渡せるものはないだろうか。


何にも持っていない、持とうとしなかった俺が、人に何かを渡す事なんてできるわけがない。軽くため息をついて空を見上げる。


太陽が眩しくて、目を細めた。もうすぐ本格的な夏が来る。夏は嫌いだ。いい思い出なんてひとつもないから。…思い出?


そうだ。俺にも、持っているものがある。それは黄島との繋がりの証。それがあったから、彼女と出会えた。


記憶を奪う能力が俺にはある。


だが、奪う能力なんて今はなんの意味もない。これが、奪うだけの能力だったら。


それは、記憶泥棒になった時から頭の片隅にあった疑問だ。


奪うことができるなら、与えることもできるのではないか?


今までは、記憶を渡すことができたとしても、自分には関係のないことだと思っていた。俺は泥棒で、盗むのが仕事だと思っていたから。


今は違う。心から、何かを贈りたいと思う人がいる。俺は泥棒だけど、仕事じゃない事をしたっていいはずだ。仕事だけやっていたって、つまらないだろう?


黄島に、プレゼントしてやろうじゃないか。最高の思い出を。生まれてきてよかった思えるような、素晴らしい記憶を。



結論から言えば、記憶を渡す事は可能だった。


いつも同じ時間に薬を渡しに来る看護師が、なかなか来ない日があった。病室を出てナースステーションを見に行くと、その看護師は忙しそうにしていた。都合がいいと思い、その看護師に『いつもの時間に薬を渡した』という記憶を与えた。それから看護師に話しかけた。


「薬、もらいましたっけ?」


「え?渡しましたよ」


看護師は自分の言った事に絶対の自信を持っているようだった。


実験は成功だ。記憶を渡す事は可能だが、いくつか注意点があることにも気づいた。


まず、『渡す』と『奪う』はセットで行わなければいけないとい事だ。完成されたパズルに新しいピースをはめるには、古いピースを外さなければならない。


古い記憶を奪い、そこにできた空間に新しい記憶を埋め込む。それがこの能力の正しい使い方なのかもしれない。俺たちはこの能力の半分しか使っていなかったみたいだ。


だが、今は正しいかどうかなんてどうでもいい。とにかく、記憶を渡すことができると分かっただけで十分だ。


もうひとつ、重要な注意点がある。それは、渡した記憶は俺の中から消えるということだ。


看護師に『薬を渡した』という記憶を与える時、俺は詳細にその場面をイメージした。どちらの手で扉を開け、何歩でベッドまで来て、どちらの手で薬を渡し、どんな言葉を言い、何歩で扉まで戻り、どちらの手で扉を閉めるか、等々。


しかし、そのイメージは俺の頭の中からきれいさっぱり無くなっていた。こういう記憶を作ったという朧げな輪郭があるだけだ。


代わりに、看護師がその時間にしていた仕事の記憶が俺の中にある。ピースの入れ替えは、こちらでも行われるという事だ。


記憶の『共有』はできない。つまり、黄島に思い出をプレゼントしても、その思い出は、俺の中には残らないのだ。


それでもいい。俺の中に無くても、彼女の中にあるのなら、俺は満足だ。


病室のベッドの頭を高くし、そこに背をもたれて目を閉じる。感覚を研ぎ澄ませ、遠くにいる黄島の頭の中を覗き込む。そして、黄島の記憶を奪う。


いつもやっていることだが、今回はその仕事量が違う。彼女の中にある彼女のものではない記憶を、全て奪うのだから。


俺は彼女に、本物をプレゼントしようと考えた。俺が渡そうとしている記憶は偽物でしかないが、彼女が本物と思えばそれは本物以上に本物になるのだ。


彼女から、記憶泥棒になったという記憶を奪う。そうすることで、偽物を本物にする事ができる。記憶を盗む能力を知らない人が、自分の記憶を偽物だと疑う事はない。


そのためにはまず、彼女の中にある他人の記憶を全て奪う必要があったのだ。いくらなんでも、まったく知らない人の記憶が自分の頭の中にあったら流石に不自然だ。


記憶を奪うのには体力が必要であり、その記憶が長時間のものであればあるほど、労力は大きくなる。つまり、黄島の中にある他人の記憶を全て奪うのは、とてつもない体力を使う。


ようやく作業が終わった頃には、汗を流し、呼吸は乱れ、体は墓石になったみたいに動かなかった。ただでさえ短い寿命をさらに擦り減らしてるような気分だ。


しかし、まだ終わりではない。これから黄島自身の記憶を奪い、そこに俺が作った記憶を埋め込む。


俺が作った記憶。それは、俺たちがもっと早く出会っていた世界の物語。俺が生まれたかった世界。こうあってほしかった世界。こうあるべきだった世界。


紙に書き起こそうかと考えたが、それはやめた。これはあくまでも記憶の中に存在するものであり、現実世界に表出させてはいけない気がした。


彼女の生まれてから今までの全ての記憶を奪う事は流石にできないので、多少ちぐはぐになってしまうかもしれない。でも彼女は今、朦朧とした意識をなんとかこの世に押し留めている状態だ。多少の食い違いは、認識されないはずだ。


黄島の頭の中にスペースを作ってから、丸一日かけて作った記憶を埋め込んだ。これでようやく、俺の最初で最後のプレゼント計画は完了した。


この時にはもう指を一ミリ動かすのも億劫になるほど疲弊していた。寿命をすり減らすどころか、ノコギリで切り取ってしまったような感覚だ。もう、1ヵ月も生きれそうにないな、と思いながら眠気に意識を引きずり込まれ、目を閉じた。

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