幽霊
俺にはそこそこ自信があった。この2週間でかなり多くの記憶を奪ってきたから、ストックは相当ある。そんな簡単に空っぽにはならない。
しかし、相手は1ヶ月前から記憶のストックを貯めているわけだから、そんなに悠長にしてはいられない。
次の日から、早速黄島の記憶を奪う。
そして、思い出す。彼女は、不幸な記憶を集めていたのだと。
勘弁してくれ、と言いたくなるような悲惨な記憶ばかりだった。いじめ、家庭内暴力、パワハラ、など。
彼女はこれらの記憶を見て自分はマシな方だと思っていたそうだが、俺はそんな風には思えない。ひたすらに不愉快なだけだ。
しかも、その悲惨な記憶のストックは膨大な量だった。世の中は悲しみに満ちているな、なんて思ってしまうほどに。
他人の記憶が多すぎるので、肝心の黄島自身の記憶は奥底に埋まってしまっている。彼女の人生を知るのは時間がかかりそうだ。
向こうも負けじと俺の記憶を奪ってくるが、俺にも彼女と同じように他人の記憶がたくさんある。簡単に俺自身の記憶には手が届かないはずだ。まあ、奪われて困るような記憶などひとつもないが。
黄島の記憶を奪うたびに気が滅入るが、俺はこのゲームを思いのほか楽しんでいた。記憶を守る術はないから、ノーガードで殴りあっているような感じが嫌いじゃないのかもしれない。
季節は春から夏に移ろうとしている。桜はもう全て散ってしまっだろう。この辺りに桜はないから確認できないが。風が木々の葉を騒めかせる。大きな音だが、うるさいとは思わなかった。
リノリウムじゃない地面を新鮮に感じてしまう。それほど病院に馴染んでしまったことを複雑に思っていると、横から黄島の声がした。
「私が言うのもなんですが、涼川さん、重病人ですよね?外に出ていいんですか?」
「別に抜け出すわけじゃないんだし、検査とか、飯とかの時間までに病室に戻れば大丈夫だろ」
「それもそうですね。ずっと病室にいると息が詰まりそうですもんね」
大きく伸びをしながら彼女は言った。長い髪が風になびいて、ふわっと浮いていた。
俺と黄島ユリは病院の裏口を出たところにあるベンチに座っていた。人が滅多に来ないからとても静かなこの場所は、俺のお気に入りだった。それは俺だけではなく、黄島にとってもそうだったらしい。
記憶の奪い合いが始まってから3日ほど経った頃、俺がこの場所に来ると彼女もここに居た。どうやら、黄島もこの場所に来るのが好きだったらしいが、今まですれ違いになって、俺とは会わなかったようだ。
偶然この場所で鉢合わせてから、俺たちはここで話すのが習慣になった。ここにいる間は、一時休戦で記憶の奪い合いは行われていない。
「それにしても、結構手強いですね」
黄島が腕を組んで難しい顔で言った。
「私、あなたの記憶をすぐに全部盗んじゃう自信あったんですよ。でも、2週間であんなに記憶のストックを貯めていたとは思いませんでした」
「それ以外にやる事がなかったからな。俺は君に驚いてるよ。よくもまあ、あんなに酷い記憶を大量に集めたんもんだな」
「私も、それ以外やる事がなかったんですよ」
彼女は例の笑顔を浮かべていた。この笑顔の深層に何があるのか、それを知るのはまだまだ先になりそうだ。
しばらく無言の時間が続いたが、やがて黄島が口を開いた。
「涼川さんは、死ぬまでにやりたい事ってありますか?」
「やりたい事?」
「ほら、小説とかだと余命わずがな人は『死ぬまでにやりたい事リスト』を作って、どうにかそれを実行しようとするじゃないですか」
「たしかによくある話だな。まあ、俺にはやりたい事なんてないな」
死ぬまでにやりたい事リスト。そんなものを作ろうと思ったこともなかった。やりたくない事なら沢山あるが。黄島は予想通りと言わんばかりに、わざとらしくため息をついた。
「やっぱり。涼川さんは無欲でつまんない人だと思いましたよ。そんなだから友達できないんですよ」
「友達いない、なんて言ったか?」
「いるんですか?」
「……いないけど」
嘘をついてもどうせバレそうなので正直に答えた。黄島が小さい声で「いてもつまんないですけどね」と呟くのが聞こえた。多分これは聞こえなかったフリをした方がいいと思い、会話の話題を戻した。
「黄島は、あるのか?死ぬまでにやりたい事」
「そりゃあ、たくさんありますよ。でも、敢えてそれを実行しないんです」
「なぜ?」
黄島は得意げな表情になった。
「私は幽霊になりたいんです」
「幽霊?」
「そう。幽霊ってこの世に未練があるから成仏できない人達でしょう?だから、敢えて未練をたくさん残して死ぬんです。それで幽霊になって、私のいない世界で幸せそうにしてる人を呪ってやるんです」
「…それは、なかなかいいアイディアだな」
「そうでしょう?」
彼女は誇らしげに言った。
やはり俺たちには似ているところがある。自分がいない世界で幸せそうにしてるやつを不幸にしてやりたくなる。その気持ちは痛いくらい分かる。
俺も幽霊になろうかな、なんて思ったが、そもそも俺には未練なんてひとつもないから無理だと気づいた。
そこで、疑問に思ったことがある。俺と同じように生きるのが楽しくないと言っていた黄島が、死ぬまでにやりたい事とはなんだろう。俺がその疑問をぶつけると、黄島は頬をかいて少し照れくさそうに答えた。
「私も、乙女ですからね。好きな人と手を繋いでみたいとか、好きな人に抱きしめて欲しいとか、好きな人とキスしてみたいとか」
「君がそんな恋愛脳だったとは意外だな。というか、恋人とかいた事ないのか?」
「ないですよ。一度も」
「その見た目なら、彼氏の一人や二人いてもおかしくなさそうだけどな」
素直に思ったことを言っただけだった。しかし、彼女には衝撃の一言だったらしく、目を丸くしてこちらを凝視してきた。
「なんだよ」
「……涼川さん、もしかして彼女います?」
「いたら、君とこんな遊びしてない」
「ですよね。じゃあ天然だ。嫌な人ですね」
黄島が何を言っているのかさっぱり分からないが、なんとなく貶されているような気がした。だから、少し悪戯してやろうと思った。
俺の右の掌を彼女の左の掌に重ね、指を絡ませる。いわゆる恋人つなぎというやつだ。
「何してるんですか?」
「君の手伝いをしてやろうと思ってね。好きな人としたいことを、好きじゃない人としてしまったっていう後悔は、未練につながるんじゃないか?」
「……なるほど」
黄島は手を握り返して、興味深かそうにそのつなぎ目を見つめた。
予想外の反応だった。すぐに振り払うと思っていたが、まさか握り返してくるとは。動揺しているのがバレないように、そっと手を離すと、彼女はこちらを向いて両手を広げた。
「私の手伝いをしてくれるんでしょ?」
ニヤニヤしながら彼女は言った。黄島が何を求めているのかすぐに分かった。ここで拒否すれば余計に意識していると思われ、からかわれるかもしれない。これは彼女が幽霊になるために、仕方なくするのだ。そう自分に言い聞かせてから、俺は黄島を抱き寄せた。
「あったかいですね」
「夏になったら暑くて不快になるけどな」
「どうせ夏は迎えられないから、いいです」
俺の腕の中で、彼女はとてもゆっくりとした口調で喋った。まるで、時間の流れが遅くなるように願っているみたいに。
心臓の鼓動がうるさいが、どちらのものか分からない。どちらにしてもこの心臓がもうすぐ止まるとは、全く思えなかった。
どれくらいの時間抱き合っていたかは分からないが、おそらく数秒だろう。互いの体を離すと、黄島は僅かに頬を紅潮させていた。自分から誘ってきたくせに、この女は何を恥ずかしがっているのか。
こちらも今更恥ずかしくなってきた。何をやっているんだ、俺は。手を口元に添えて、彼女から目線を外す。今は顔を見られたくなかった。
黄島も照れ隠しのようにあさっての方向を見ていた。視線をこちらに向けないまま、彼女は単調な声で言った。
「ありがとうございます。幽霊になる事ができたら、お礼に呪ってあげます」
「頼むよ。どうせ死ぬなら幽霊に呪い殺された方が面白そうだ」
「任せてください」
黄島は嬉しそうに目を細めた。
そんな日々が2週間ほど続いた。記憶の奪い合いをして、外のベンチでたまに話して、また記憶を奪い合う。異常な関係だが、楽しくなかったと言えば嘘になる。
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