96 残念、期待したんだけどな
用事は終わったとばかりに、『彼女』──篠原さんはサロンの個室を出ていってしまった。
わたくしは椅子から立つこともできず、呆然とその背中を見送った。
はあと思わず吐いたため息が、シーンとしたこの部屋によく響いた。
人が帰った後の部屋は妙に静かだ。けれど、考え事をするにはちょうどいい空間だと言える。わたくしは、先程彼女が発した言葉を思い返す。
『よくわかってるじゃありませんか。そうですよ、婚約者でもないあなたには関係ないんですよ。……そう、──あなたと同じ様に、婚約を解消した今、彼がどこへ行っても、誰を好きになっても、とやかく言って繋ぎ止める権利なんて、私にはないんです』
……さっきの、──あの時。一瞬だったし、見間違いだったかもしれないけれど。
……イツキくんのことを話している時、彼女、泣きそうに見えた。
家の都合で婚約をしたり解消したりと振り回されている彼女に、少なからずわたくしは同情していた。しかし、聞けば自らの意思なのだという。
でも、それは──違う気がする。
……あれは、多分──虚勢だ。
自らの意思で婚約を解消したという言葉はきっと嘘だ。建前だ。本心とは裏腹な言葉に違いない。わたくしは確信していた。
「……それにしても、ものすごい嫌われようね」
先程の彼女を思い出して、思わず笑みが零れる。あんなに大人しそうだった篠原さんが、辛辣な言葉を吐くご令嬢に豹変してしまった時は、とても驚いたけれど。でも、不思議と全然腹は立たなくて。
実際わたくしってものすごく鈍いし、あれくらいハッキリ言われないとわからないから、言ってもらってよかったわ。おかげで大切なことに気づけた。それに、辛辣なのは葵ちゃんで慣れているし。あれくらい何ともない。
彼女の退室から少し遅れて、わたくしも退室する。サロンの廊下を歩きながら、ない頭を使って一応考えてみる。
どうして彼女は、彼との婚約を解消するなんて、そんな選択をしたのだろうか。きっとまだイツキくんのことが好きなのに。
……………………う、うーん、やっぱりダメだわ。それを察するには、わたくしは彼女のことを知らなさすぎるわ。圧倒的に情報が足りていないわね。
己の無能さに、はあ、と思わずため息が出る。
ああ、どうしよう。考えても全くわからない。
こういう時、いつもどうしてたっけ? ふと浮かんだ疑問。その答えはすぐにわかった。
──そうだ、こういう時はいつもシローに相談していたんだわ。…………ってダメだよ。今わたくしはシローと気まずいんだった……。これじゃあ相談なんてできないし……あーーーーならもうどうすれば!!
「あれ? 君、もしかして……──綾小路さん?」
「はい?」
考え事をしている最中に、突然背後から声をかけられる。振り返ると、そこには──。
「ああ、やっぱり。綾小路さんだ」
「……あ、あなた様は──っ!!」
***
前野家に着くと、いつものようにシローのお母様が優しく出迎えてくれた。
「桜子ちゃん、いらっしゃい! 白狼に用事?」
「はい。おば様、今シロー自分の部屋にいます?」
「ええ、あの子なら自分の部屋にいるけれど……あ、桜子ちゃん!?」
「……お邪魔します!!」
おば様の言葉を最後まで聞かず、わたくしはそそくさと靴を脱いで端に揃え、2階の奥のシローの部屋を目指す。彼の部屋の前に到着するなり、勢いよく扉を開ける。
「シロー!! ……どういうことよっ!!」
「……いきなりひとの部屋に上がり込んでくるなり、なんなんだよ……お前。俺、今は──」
「青葉様と親しくしているなんて、わたくし聞いてないわ!」
「は、はあ!? おまっ、それ、どこで……!」
「さっき青葉様ご本人から聞いたのよ!」
サロンの廊下でわたくしに声をかけてきたのは、金髪碧眼の誰もが認める学園の王子様──『一条青葉』様だった。
「どうしてそんな素敵なこと隠してたの!? ずるいわ……っ! わたくしだって青葉様と親しくなりたいのに!」
「……はあ、そうなるから隠してたんだよ」
心做しか、反応がいつもより素っ気ない。
「まだ怒っているの?」
「……別に? 怒ってないって言ったろ」
なら、……なんで目を逸らすのよ。あからさまに目を逸らしたシローは、ちっともこちらを見ようとはしてくれない。
「それで? 用事はそれだけか? 青葉のこと、黙ってたのは悪かったよ。けど、もう用が済んだなら帰ってくれないか」
「……それはついでよ! 本当はこのチョコレートを……」
スクールカバンの中から、サッと白いパッケージのあのチョコレートの箱をシローに差し出す。
「……ああ、はいはい、なるほどな。独りで渡しに行く勇気はない、だから俺についてきてほしい、と。そんなとこか。つーか、相手誰だか知らねーけど、まだ渡してなかったのかよ、バレンタインなんてもうとっくに終わってるぞ」
「…………よ」
「え?」
「……シローよ! バカ!」
「……いって!」
勝手に色々言うシローに腹が立って、わたくしは思いっきりそれをシローに投げつけた。
「何も投げることはねえだろ! 怪我したらどうすんだよ!」
「シローが変な勘違いするからでしょ! シローに渡そうと思ったのにっ!!」
「……は、はあ!? 俺に!? だって、お前っ、毎年好きなやつがいる時は、そいつに渡してただろーが!」
「だーかーらー! ……今年は渡す人いないし、一緒に買いに行った時、シローがここのチョコレート美味しいって言ってたから……だからいつもお世話になってるお礼にって買ったのに……っ!」
他意はないから勘違いされないように、わたくしはきちんと説明する。そう、これは義理以上本命未満のチョコレート。お歳暮やお中元みたいなものなのだ。決して他意はない。
「……なーんだ、本命じゃねえのか」
「あ、当たり前でしょ!?」
「残念、期待したんだけどな」
「……っ!」
な、なんか今、ものすごい事をサラリと言われたような気がするわ……っ!
返答に困っていると、シローは肩を震わせて、笑いを堪えていた。どうやら、わたくしはからかわれてしまったらしい。
最近この手のからかい多いわねシロー……。
「……と、とにかく、そういうことだから」
わたくしは努めて平静を装う。声が上ずってしまったが気にしない。
「……じゃあ、この箱が白いのは?」
「それはたまたまよ! 味重視で選んだから、パッケージなんていちいち気にしてなかったの。第一シローがここの生チョコが1番好きだって言ったんじゃない! 買ったのはわたくしだけど、選んだのはシローよ!」
「……なら、あの時笑ったのは?」
「白い箱だから真白様宛って発想するなんて、意外とシローってロマンチストねーって思って」
「どうせ俺は女々しい奴だよ!」
「ふふっ、そうは言ってないでしょ。被害妄想よ、シロー」
「……でも、なるほどな。つまり、本当の本当にこのチョコは、お前が俺だけのために用意してくれたってことな」
そうだけど、改まって復唱されると妙に照れくさい。ポーカーフェイスが崩れそうになる。けれど、ここで照れたらなんだか負けな気がするわ……! 何の勝負かはわからないけれど!
「……初めて、お前からチョコ貰ったな」
「……チョコレートはあげたことあるわよ? 忘れたの?」
「そうじゃなくて、バレンタインに」
「そりゃあ、初めてあげたからね」
だからそう何度もバレンタインのチョコレートだってことを確認しないで欲しい。でも、シローが本当に嬉しそうに笑っているから、もうこれ以上はやめてとも言えなかった。
今まで異性に渡したチョコレートは、受け取ってもらえないか、受け取ってもらっても困ったような対応をされることがほとんどだったから。こんな風に喜んでもらえたのは初めてかもしれない。ここまで喜ばれると、渡した甲斐があったと思ってしまうわたくしは案外単純だ。素直に嬉しいと思った。……別にこれは本命じゃないけれど。
「本命じゃなくても、嬉しいもんだな。ありがとな、桜子」
「……こちらこそ、受け取ってくれてありがとう、シロー」
「それから」、と一拍置いてから、ずっと伝えたかった言葉を吐き出す。
「──ごめんなさい」
頭を下げ、心から彼に謝罪する。
「わたくしね、ついさっき篠原さんと話してきたの」
「は? つい、さっき? お前あの子と一体何を話してたんだよ」
「……彼女のお家のこととか、『元』婚約者のイツキくんのこととか……──あと、シローのことも話したわ」
「……俺のこと?」
シローからの問いにわたくしはそうよと頷く。
「……それでね、彼女と話しているうちに、どうしてシローがわたくしにあそこまで怒っていたのか、わかったの。……わたくし、今までシローがわたくしのこと、どう思っているかなんて、全然気づかなくて……」
「それって、つまり……」
「だから、『ごめんなさい』って伝えたかったの」
***
端的に言って、俺はこいつに振られているのだろうか?
初めて桜子からバレンタインチョコレートをもらえた(ほぼ義理に近いが)喜びから失恋の落差がすごい。
……そうか、俺は、失恋したのか。
「……いや、お前が謝ることじゃ……俺が勝手にお前を好──」
「ううん! わたくしが悪いの……っ! 蔑ろにしているつもりはなかったけれど、シローにそんな風に思わせていたなんて……ほんとごめんなさいっ!!」
「…………は?」
「でもね、本当の本当に、そんなつもりはなかったの。……あの日、雅ちゃんの様子がおかしくて、顔も真っ青通り越して真っ白で、とても放っておくことなんて出来なかったの。もちろん、シローを少しの間独りにしてしまうことは理解していたけれど、すぐに戻るつもりだったのよ!? 嘘じゃないわ、本当よ?」
「……んん? おー……」
いまいち、会話が噛み合ってない気がして、俺は曖昧に返事をする。するとあいつはそれを、俺がまだ納得がいっていないと捉えたらしい。
「……その反応、まだ怒ってるのね……」
「いや、俺って失恋したんじゃねえのか……?」
「えっ!? いつ相手の方に告白していたの!? あ、もしかしてウィンターパーティーの日!? だから雅ちゃんの様子がおかしかったの!?」
桜子の反応からみるに、どうやら俺はまだ失恋したわけじゃないようだ。……まあ、脈がなさすぎて、首の皮一枚って感じだけどな。
「……つーか、なんでここで立花の名前が出てくるんだよ」
「だって、シローって雅ちゃんのこと──あっ、シローが自分からわたくしに言いたくなるまで待つって決めていたのに……っ!」
問いただしてみると、こいつはその鈍さをフルに発揮して、俺の好きな人は立花だと誤解していたらしい。どこをどう見たらそうなるんだ……。安定の鈍さに呆れつつ、しっかりと誤解は解いておいた。
「……つまり、お前はウィンターパーティーでのことを俺が根に持ってると思ってたのか」
「え? 違うの? わたくしがあの時雅ちゃんを優先したから、自分は蔑ろにされているって思ってしまったんじゃないの?」
「…………まあ、完全に間違いってわけでもないけどな」
あの時、俺よりも立花を優先させた桜子に対して、俺は少しムカついて、それからかなり落ち込んでいた。体調不良の人間を放っておけとは言わないけどよ、お前は俺よりも立花を選ぶんだなって、蔑ろとまではいかないが後回しなんだなとは思った。
けれど、本当はそれに怒っていたわけじゃない。
俺は単に拗ねてたんだ。あの白いパッケージのチョコを買った時、俺は誰に買ったのかと相手を尋ねた。すると、桜子は俺には秘密だと顔を真っ赤にして言った。──まるで本命チョコのようなそのチョコを、桜子から渡されるであろう相手に妬いていたんだ。……まあ、その相手は自分自身だったわけだが。
「……他にも、理由があるの?」
けど、それをこいつに伝える勇気はまだ俺にはないから、「さあな」と言って誤魔化した。
「シロー、聞いて」
「さっきからずっと聞いてるけどな」
「もう、茶化さないで! シロー……わたくしは、いっつもシローの優しさに甘えて、その上鈍感で、無神経で……。そんなだから、シローには全然伝わってないかもしれないけれど。……ちゃんとシローのこと好きよ?」
「……っ!」
「照れくさくて、今まであまり言えなかったけど、わたくしはシローの全部が大大大好きよ」
──それは多分、俺の『好き』とは違うけれど、それでも今はこいつからの初めての『好き』という言葉に、俺はただただ嬉しくて、涙を堪えるので精一杯だった。
「……ちょっと、気恥しいわね。母の日や父の日以上に照れたわ」
そこと同列にされるのは、男としては複雑だ。
「……って、さっきから俯いていて、無反応だけど、わたくしの話聞いてるの!? ……もしかして、また無視するつもり!?」
それからしばらくは、反応のない俺に「ちょっと本当に聞いてるの!?」と彼女は騒いでいたけれど。
──違うよ、桜子。聞いていたからこそ、俺は嬉しすぎて反応出来ずにいるんだ。
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