幻想霊

風間風磨

幻想霊

 私がこのアパートに越してきてからかれこれ一週間が経とうとしている。

 都内で暮らすことを幼い頃から夢見ていた私であった為、大学は都内にすると決めていた。

 私の住んでいた村は山奥のいわゆる限界集落と呼ばれる地域で、上京するどころか大学に行く同級生がいなかった。卒業したら農家を継ぐと言うのが一般的、と言うよりむしろ定められた人生だった。そんな人生は送りたくないと両親の背中を見て育った親不孝者が私である。


 おんぼろアパートといえども必要最低限の生活はできる。それに、何より家賃が格安であった。

 いわくつき物件だと思っていたが、あえてそこは聞かずにいる。諦めにも似たある種の希望だ。

 とは言っても不自由することは無いし、大家さんも優しいおばあちゃんだったので後悔はしていない。

 大学が始まるまであと数日、実家には迷惑をかけられないのでバイトをしながらの学校生活になると思う。

 家でくつろぐ時間を嚙みしめようと壁を背に腰を下ろし小説を手に取ったその時、隣の部屋からかすれた声が聞こえてきた。


「な‥‥‥や、一緒に‥‥‥うね‥‥‥」


 部屋の壁が薄いことは承知していたが、やはり他人の声が自分の部屋にまで聞こえてくるとなると些か妙な気持ちになる。

 開豁かいかつとした集落から過密な都心暮らしというのはやはり慣れないものである。


「‥‥‥はなに‥‥‥いか‥‥‥」


 手元の小説に集中したいが、先ほどから聞こえてくる途切れ途切れの声のために気が散ってどうしよもない。

 

 越してきた日に隣に挨拶に行ったが、私よりも少し背の低い白髪の老人が住んでいた。口調からして頑固そうだというのが私が感じた第一印象だ。

 その老人は確か「天涯孤独の身であるから、万が一のことがあったら迷惑をかけるかもしれない」とかなんとか言っていた気がするが———と言っても身寄りがいないから友達がいないという訳ではあるまいし、今日は誰か家に上げているのだろう。

 

 隣の部屋と接する壁から離れて、反対側に置いたベットに腰をかけるとその声は聞こえなくなった。







 数日が経ち、私が待ち望んでいた大学生活が始まった。それと同時にバイトも探し始め、某チェーン店の接客も決まった。

 大学はもちろん兼ねたから望んでいたということもありとても楽しく過ごせているが、バイトも疲れるとはいえ幼い頃から強いられていた農作業と比べれば楽なものであった。

 毎日を充実した気持ちで過ごしていた私であったが、一つだけ気になる事があった。隣の部屋からの声である。

 声、と言ってもうるさくて気になっている訳ではなく、なぜ声がするのかという点が訝しいのだ。

 初めて聞いた時には知り合いでもきているのかと思ったが、バイトで遅くなり寝る前にレポートをまとめている時———十二時を回った頃———に聞こえたものだからその考えは無くなった。まさかあの老人が逢い引きしている訳はないだろうし、かと言って友人と夜中まで過ごすような人ではないだろうし———。

 という訳で不品行ではあるが、壁に耳を当てて暇さえあれば聞き耳をたてるようになった。

 だが会話の内容ははっきりと聞こえず、途切れ途切れの声が聞こえてくるばかりである。


「‥‥‥るじ‥‥‥よは‥‥‥」


 もしかしたらあの老人がボケていて一人で話しているのだろうかと思うこともあったが、会うたびに無愛想ではあるが挨拶をくれるためそれはないだろう。 


『誰と何を話しているのだろうか』

そんな疑問が私の脳に纏わりついて離れなくなった。







 越してから三ヶ月が経とうとしている時、大家さんに隣の白髪老人について聞いてみることにした。

「大家さん、少しいいですか?」

 ちようど大家さんがこのアパートに訪れる時を見計らって準備していたのであったが、嫌な顔をせずに二つ返事で受け入れてくれた。

「私の隣の‥‥‥二〇二号室の白髪のおじいちゃんいるじゃないですか。あの人って本当に一人暮らしですか?」

「そうですよ。ここにきたのはかなり前ですけど、一度も女性はおろか知り合いと言える人が訪れてきているのを見たことがありませんよ」

「そうなんですか。———じゃあ仕事は何かされていたりは?」

「今は何もしていないみたいよ。ここにくる前は自衛官をしていたって小耳に挟んだことはあるけれど」

「自衛官———だからあの何も言えない威圧感があるんですね‥‥‥。すみません時間取らせちゃって」

「いえいえ」

 核心を解明することはできなかったけれど、新たなことが判明しただけ良かった。

 それに別れ際に大家さんが「今度干し柿持ってきてあげるね」と言ってくれた。

 最近の大学生は干し柿をくれると言われても好まない、もしくは食べたことのない人が大半だと思うが、田舎出身ということもあり私は好物であった。


 そんなやりとりを終え、家の中に入ろうとした時ちょうど隣の家から例の白髪老人が出てきた。

 こちらが挨拶をすると向こうも鮸膠にべも無い挨拶を返してきた。その手には三本の淡い、それぞれ色の違った菊の花が握られていた。

———何に使うのだろう。そう思った私はとっさにその背中を追いかけていた。


 夕方になり人気の多くなった商店街を通り、入り組んだ細い路地を抜けるとそこに見えてきたのは墓地だった。

 『高橋』と刻まれている墓石の前に立った老人は花を添えると手を合わせた。

 元自衛官とはいえ、曲がった腰でお墓参りをしている姿を見てしまうといつもの厳然たる態度は微塵も感じられなくなった。

 老人の表札も『高橋』となっていたからおそらく身内であろうが、いまは身寄りがいないことをを考えるとおそらく親なのであろうか。

 そう思って見ていると老人がポケットから白い紙のようなものを取り出し水受けの隣にそっと置き、立ち上がりゆったりとした足取りで来た道を引き返していった。

 私は少し離れた寺の本堂の影から見ていたが、老人が帰ると残していった白い紙を見にいった。

 もはやここまでくると罪悪感などはなく、事実を知る為に躍起になっていた。

 二つ折りにされたそれを開いてみると中には黒鉛で書かれたはっきりとした字体でこう書かれていた。


『なおこ、ありがとう』


 母親なのか、と一瞬思ったが自分の親のことを名前で呼ぶのは珍しいので、もしかしたら奥さんがいたのではという新たな考えがよぎった。

———だが大家さんは老人があのアパートに越してからはずっと一人だといっていたし‥‥‥。

 確たる結論が出せないまま、私も家路についた。







 ことが大きく動いたのはその次の日であった。

 土曜日になり大学とバイトも休みになったので座布団に腰掛け、壁にもたれかかりながら例のごとく読書をしていた時、これもまた例のごとく壁から途切れ途切れの声が聞こえた。


「‥‥‥のこ‥‥‥なおこ‥‥‥だ‥‥‥」


 この時確かに『なおこ』という単語が聞こえた。今までは聞かなかった———あるいは聞き取ることができていなかったその単語を聞いて、私の頬に一滴の冷汗が滴り落ちた。

———まさかあの老人は亡くなった『なおこ』さんと会話しているのか。そんな奇想が私の頭に浮かんだ。

 これは確かめる必要があると思い、いつも以上に聞き耳を立てて、読んでいた小説をすっぽかして神経を研ぎ澄ませた。


「なおこ‥‥‥、い‥‥‥のか‥‥‥」


『なおこ』という単語は意識していたためか再びはっきりと聞くことができた。だがそれ以外はいまだにはっきりと聞き取れない。

 英語のリスニングの時に知っている単語しか聞き取れないのと同じようなものなのだろうか。

 いずれにしても『なおこ』という単語ははっきりと聞こえた。やはり直接見て確かめるしかないのか。

 本当に彼は霊と話しているのかを。







『なおこ』という女性の名前を私は調べることにした。とはいっても本人から直接聞くわけにはいかなかったので、この間の神社の住職に尋ねてみることにした。

 聞いた時は怪訝そうな顔をされたが、隣に住んでいる老人に万が一の事があった時のためです、といって情報を引き出すことに成功した。

 やっている事は犯罪すれすれだが、事実を知るためと自分の心に暗示をかけた。

 そしてわかったのは、『なおこ』は老人の亡き妻という事実だった。

 予想が当たっていて嬉しいという気持ちとは裏腹に、老人が今もなおその『なおこ』という女性に向かって話し続けているという事実も確実なものとなり、ある種の恐怖心が芽生えた。

———老人にとっては、否、もしかしたら霊として『なおこ』という女性は実在し続けているのではないか。







 今までは霊という非科学的な事象は微塵も信じてこなかったが、大学生になりそれに恐怖を抱くなんて思ってもいなかった。

 そんな気持ちを抱きながらレポートの整理なんてやっていたら気が滅入ってしまう。

 外の空気を吸おうとベランダに出た。 

 すると隣の老人もベランダに出ているらしく声が聞こえた。


「なおこ、今日は新月だ。星がよく見えるね」


 いつも老人が挨拶の時に発する荘重とした声ではなく、そして部屋の壁から聞こえてくる途切れ途切れの声でもなく、優しくて滑らかな声が聞こえてきた。

 私は私の胸が早鐘を打つのを感じた。

———今見るしかない!

 意を決した私は隔板の僅かな隙間から隣の様子を除いた。

 すると———暗がりの中、老人が一人で話しているではないか。空を眺めるために向けた首をわざわざ横にそらす。そこには一体誰がいるのか。そこに『なおこ』がいるのか。

 だが、彼の隣には誰もいない———。

 やはり、彼には『なおこ』が見えている。そう確信した私は恐れおののき後ずさりした時、吊るしてあった物干し竿に頭をぶつけた。

 ガタンッ、と音がすると同時に「誰だ」といつもの荘厳な声が隣から投げかけられた。

 しまったと思ったが、まだバレてはいないと足音を立てないように抜き足で部屋の中に戻ろうとした。

———が、先ほど私が覗いていた隙間から老人の目と、その下にキラリとした老人の目ではないナニカが存在していて‥‥‥。

 するとその刹那、隙間から「見たな」とおぞましい声を掛けられると、もう私はパニックに陥り、声にならない声をあげ部屋の中に駆け込んだのだった。


———みてはいけないものを見てしまった。その日の深夜、粟立った私は恐怖心からまともな睡眠をとることができなかった。







 私はもうあの老人の『なおこ』との会話は聞こうとはしていなかった。

 これ以上踏み込んだら危ない、と私の中のナニカが警鐘を鳴らしていたためである。

———やはり、昨日あの老人には霊が見えていたのか。もしくは彼が話しかける『なおこ』は彼が作り出した幻想なのか。

———そして、最後に見えたあのキラリと光ったものは『なおこ』だったのだろうか‥‥‥。


 出るわけがない結論を求め思いを巡らせていた私であったが、突然部屋のインターホンが鳴ると暗礁に乗り上げていた私の意識は現実に戻された。

 家に来る人など限られているが、身内や知り合いから来訪の予定の連絡はもらっていない。もしかしたら実家から何か送られてきたのであろうか。

 そう訝りながらも玄関に行き扉を開けたのだが———そこにいたのは隣の老人だった。

 よもやあの老人がこの部屋に訪れてくるなど思ってもいなかったし、自発的に関わろうとしてくるなんて青天の霹靂だ。

 まさか昨日のことで何かをしにきたのか———。

 動揺を悟られてはなるまいと何かを発しようとしたが、喉の奥まで乾ききっており空気だけしか出てこないし、顔から血の気がみるみるうちに引いていくのを感じた。

 そんな私とは対照的に老人はいつもの厳しい顔で私を見つめていたが、その足元にはダンボール箱が置かれていた。そしておもむろに口を開いた。


「ちょっと上がっていいかね?」




 


 


 断る理由もなく———というよりも怖じ気づいて断ることができなくて老人を家に上げてしまったわけであるが、これから一体何が起こるというのか。

 ダンボールも一緒に家の中に持ち込んだ老人であるがそれを脇に置いて腰をかけている。

 とりあえず何か出したほうがいいのか、と思っていたが老人がお構い無くといったものだからそのまま私も腰をかけた。

 すると———、

「昨日君は『なおこ』を見たのかい?」

 そう老人に聞かれることは予想できていたが、実際に聞かれるとたじろいでしまう。

「い、いえ、見ていません‥‥‥。覗いてしまったことはお詫びします。しかしあなた以外は見ておりません。その『なおこ』さんは———」

「隠さなくてもいいんだよ、私が昨日『なおこ』と話しているところを見たんだろう?」

 もはや覗いたという事実がある限り、見たか見ていないかを陳弁したところで無駄なのだろう。

 私は鋭い視線を向ける老人に向かって頷いた。

「そうか、わかったよ。やはり見てしまったのか。絶対にバレてはいけなかったのだがな」

 そう言いながら老人は横に置いてあったダンボールに手をかけた。

「じゃあ、仕方がないね」

 そう言いながらダンボールを少しずつ開けていく。

 ここからでは中が暗くて見えないが、その中で何かがキラリと光った。

———刃物か?まさかあの老人私を殺す気なのか!

 身の危険を感じた私はとっさに立ち上がった。

 その時———、ダンボールから何か黒い、得体の知れないのようなものがものすごいスピードで向かってきた。そのカゲの中にはやはりキラリと光る部分がある。

 そばにいる老人が慌てたように「『なおこ』やめなさい!」と叫んでいた。

 

 あのカゲの中の光は、昨日の夜あの隙間から見え、あの老人と共にあった光だった。

 そして老人は確かにそのカゲに対して『なおこ』と叫んだ。

 やはり『なおこ』はレイやタタリのようなものなのか。

 私はどうなってしまうのか。

 そんな思いが走馬灯の如く駆け巡った。


 ガンッという衝撃を受け、私の視界は暗転した。

 一瞬の出来事で何が起こったのかわからなかったが、天井が見えていることから先ほどの衝撃で後ろに倒れてしまったようだ。

「君、大丈夫かね?」

 すぐ近くで、老人の———心成しか、優しげな———声がした。

 衝撃といっても痛みはなく、体に異変が起こったわけでもなかったため、すぐに起き上がり大丈夫だということを示そうと老人の方へ視線を向けた。

 するとそこには、老人と、その手に真っ黒な毛並みをした猫が抱きかかえられていた。

「うちの『』がすまなかったね、人馴れしてなくて、私以外を見ると飛びかかってしまうんだ」

 そういうと老人はその黒猫の頭を撫でた。

———うちの『なおこ』?ということはあの黒猫が『なおこ』ということか?

 私の中で何かが繋がる。

 あの夜老人が話していたのは紛れもない『なおこ』であり、それが見えなかったのは新月によりいつもより深みを増した暗闇の中で、黒猫の後ろ姿を

 あの夜隙間から見えた光は老人によって抱えられた黒猫の目だった。

 ただそれだけ、『なおこ』=老人の飼い猫であっただけなのだ。

 じゃあなぜ老人は『なおこ』を見られただけでこの部屋まで来たのだろうか。

 それがわかった私は老人に対してこう告げた。

「高橋さん、あなたが今日いらっしゃったのはその黒猫のことを黙っていて欲しいということですか?」

「そんなところだよ」

 このアパートでは動物の飼育が禁止されている。

 そのため、黒猫を飼育していることが私経由で大家さんに伝わることを恐れたのだろう。

「大丈夫ですよ、言ったりしませんから」

 私がそう言うと、老人は相好を崩し安心したような表情で黒猫を見つめる。

 だが、その黒猫は老人には見向きもせず、ただ私の方をじっと見つめていた。







 老人の黒猫を秘密にすることを伝えた後、しばらくの間たわいない会話が続いた。

 話してみると今まで思っていた近寄り難い人ではなく、実際は気さくで優しい老人であったことがわかった。

 老人の黒猫は引っ越してきてからすぐに拾った猫で、世話をしたら懐いてしまったので隠れて飼い始めたそうだ。

 だがなぜ名前を『なおこ』にしたのかは未だにわからない。

 黒猫の存在を亡き妻になぞらえたのか、様々な推測ができるが、それはもうどうでもいいことだった。

 自分の思い込みで長い間怯えていたのは滑稽なことだが、まあそれは結果的に隣人との交友のきっかけになったのなら良しとしようではないか。

 

 これは私が思い描いていた幻想霊の話、ということでエンドロールを迎えた。
























———はずだった。


 黄昏時のアパートの一室で白髪の老人と一塊りのカゲ、そして人間だったであろう一塊りの肉が相対していた。

「『なおこ』、この人は君の存在をバラさないと言ったから殺す必要はなかったのに」

「‥‥‥」

 『なおこ』と呼ばれたそのカゲは元の一匹の黒猫の姿に戻った。

「この人は君のことを完全に猫だと思い込んでいたのに。ここにきてから何人目かもうわからなくなった‥‥‥。そろそろ引っ越すしかないようだな」

「‥‥‥」

 黒猫は運ばれてきたダンボールの中に戻っていった。

「さて、この残りカスは私が食べるとするか」

 そういうと、残っていた赤黒い肉塊に手を伸ばしグチャグチャと音を立てながら咀嚼そしゃく嚥下えんげする。

「全く、『なおこ』はこんなに血を飛ばして———後始末をする私の身にもなってほしいな」

 そういうと、口の周りについた血を着ていたシャツの袖で拭い立ち上がった。

「だがこの味を堪能できたし良しとするか。これも『なおこ』のおかげだな」


 そして墓に供えた紙に書いてあったように一言呟く、


『なおこ、(おいしい肉を)ありがとう』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幻想霊 風間風磨 @spas

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る