第3話 社会不要存在



 十月二十三日 後


 大学時代のことだった。


 二年夏の大会で光村は東大の百メートル選手として走った。


 予選。上位八人が通過する。


 光村のタイムは一◯・八八。東大の中ではトップで速いが、世界基準はおろか、日本基準からしても微妙な位置。一組目の走者の中での順位は五位だった。


 熱気とどよめきの中で、自分の走ってきたコースを振り返る。


 百メートル向こうに、次の組みの走者が順番を待ちながら体を動かしている。よくやった、と労いがかけられる声は嬉しかったが、それよりも五位という順位が気になってしょうがない。


 次の八人。そのうちの四人が自分より速ければ、予選を通過できない。前半八人で五位なのだから、単純に考えると光村が予選敗退する確率の方が高い。そもそも自分の足の速さが、東大という井の中の蛙でしかないことは、光村自身が痛いほど知っている。だというのに……。


 これは長らく陸上という競技に馴染んでいた性だった。


 合図が鳴る。控えていた八人が位置につく。彼らは屈みこんで、獲物を狩るかのような独特な低姿勢を構えた。


 その姿勢は、クラウチング・スタートという。


 それを、サイドミラーの中に見えているシルエットは描いている。連想としてあながち間違っていない。確かに陸上選手とシルエットたちはとても似ている。どちらも光村を追っている。前を向く彼らと目が合った。その目は言っている——今に見てろ、お前の順位なんて越えてやる。


 記憶の中の陸上選手たちは合図を待っている。


 まだ、合図がピストルの空砲の時代だった。


 しかし現実で鳴ったのは、ピストルではなく、現代式の銃だった。




 まとわりつく記憶の海の向こうから、水面を破るような緩やかさで光村の理解が浮かび上がってくる。


「銃、銃が……!」


 軍に楯突けば命が危ないことは知識として知っていた。沢山の映画の中で、沢山のハリウッドスターたちがドンドンパチパチ銃火を交える光景を楽しんだ。それが今、自分の身に起こっている。


「軍だから発砲くらいはしてくる!」


 ダッシュボードに頭を下げながら、教授が怒鳴った。


 そもそも、研究所の中心的頭脳であるはずの教授に、銃が向けられていることからして不可解ではないか。光村は徐々に気づいていく。教授といれば死なないという仮説は正しくない。教授が軍にとって必要というのも正しくない。ただし、教授が重要人物であることは間違いなかった。教授はおそらく、始末対象として重要なのだ。


 光村は搬入口に向いていた進行方向を反射的にズラす。直後に銃撃が車の尻を捉えて、未経験の振動が車体を揺らす。もしそのまま走っていたらと考えるとゾッとしない。


「光村くん、見つけたぞ!」


「見つけたって、何を!?」


「出口だ、私たちが入ってきた入り口だよ!」


 一瞬左へ寄せてカーブの余裕をとってから、一気に右へ曲がりこんだ。切れ目のアウトラインが微妙に視認できるが、果たして無事に通り抜けられるか全くわからない。サイドミラーはともかく、本体をぶつけたらシャレにならない。それにフロントガラスは? ワイパーは? タイヤはパンクしないか?


 様々な不安要因が一瞬のうちに駆け巡った、その瞬間にもフェンスは目前に迫ってくる。


(どうにでもなれっ!)


 衝撃に備え、歯を食いしばる。


 直後、金属と金属がぶつかる強烈な不快音が弾けた。おそらく下げ蓋になっていた部分が跳ね除けられたのだ。位置に軽微なズレがあったのだろう、右サイドミラーがオサラバしたのが感覚でわかる。だがサイドミラーが一体どんなもんだ、俺たちの命が一番大事に決まっている!


 抜けた、そう思った直後に今度は左に全力でカーブ、目の前の区画に衝突するのを、車の鼻先スレスレで避けきった。ヘッドが多少傷ついたが、走行に影響はない。


 バックミラーで、門外に構えていた軍が慌てたのを確認すると、光村の顔に笑みが広がった。武者震いの笑みである。


「このまま、繁華街を突っ切る! 舌、噛まないようにしてください!」


「……ッ!」


 もはや敬語を気にする余裕もない。


 滝口二丁目交差点から右折して軍道一二四号線に乗ろうとしたら、キープアウトの黄色いテープと、道いく人と警官と、


 酔っ払い!?


「死にたくないならどいてくれバカヤロウ!!!」


 相手に聞こえるはずもないのに怒鳴り、鉄の体当たりでテープを剥がし、警官を蹴散らして本線に合流した。深夜の一二四号線は空いていて、光村は一層のスピードを上げる。毎朝新聞までの短距離走。力の出し惜しみなどしていられない。


 今は極東の経済大国として知られる日本の首都は黄金郷。夜でも煌々と明るい高層ビルと六車線の幅広い道路に囲まれたサイケデリックな空間は、どこか異次元めいていて、映画やアニメでイメージされたワープホールを思わせる。


「光村くん……!」


 引きつり掠れた声をあげた教授は、サイドミラーを凝視していた。


 左後ろからワープホールの壁際に沿って一台、猛烈に追い上げてくる。あちらとこちらの馬力差は歴然としている。ふり切るために高速で飛ばしているのに、流れ行く景色の中で相手の車だけがゆっくりと近づいてくる。向こうがリアウィンドウを下げるのがはっきりと見えた。はっきりと、銃身を見た。


 蜂の巣にされればこんな乗用車が一秒ともつはずがない、さっきのは当たらなかったから運が良かった、光村は前を向こうとした、見るだけ無駄だ、それなら知らないうちに死んだ方がマシだ、だが首が回らない、銃口から目を離せない、仕方がない、光村は目をつぶった——だが。


「……?」


 銃声の代わりに聞こえてきたのは、派手なクラッシュ音だった。


 目を開けると、教授が肩で大きく息をしていた。光線銃を構えていた。


「教授!」


 振り向いた教授は、なぜか顔を強張らせた。すぐに強烈な横揺れが光村を襲った。いつの間にかやってきた車両に、右手から体当たりをされたのだと理解するまで時間がかかった。


 ハンドルがあらぬ方向に曲がり、横方向のGがかかる。必死の思いでハンドルを戻し、車道から歩道に乗り上げそうになるのを回避した。


「ハンドルをまっすぐに保て! 顔を伏せろ!」


 反応する間も無く、教授に頭を押さえつけられた。運転中に前方が見えない恐怖の中で、とにかくハンドルだけはまっすぐに固定した。そして首筋に熱いものを感じたかと思うと、


「もういいぞ」


 ふたたび後方から派手なクラッシュ音が聞こえてきた。


 危機が去ったことを理解して顔を上げると、光村の横にあったはずの窓ガラスは、光線銃によって大穴を開けていた。


「……教授?」


 その活躍はちょっとしたハリウッドアクションのようで格好良くはあったが、研究所で指揮をとっている人にしては様になりすぎていた。


 光村の中に、ふとした疑問が湧いて出た。


「あの、聞いてもいいですか」


「なんだ」


「どうして教授は命を狙われてるんですか」


「それは私が脱出したからだ」


「それは、正確じゃないですよね。たかが脱出したくらいで、どうして命を狙われるんですか」


「そりゃ私が膨大な機密情報を握っているからだ」


「でも教授はノーベル賞を受賞した、いわば研究所の顔そのもののはずです。取材の予定は山積みですし、海外からの訪問研究者も多い。さしもの軍も、そんな教授を自然な方法で“失踪”させるのは無理があります。それなのに教授を消そうとする。教授。教授は脱走する前、研究所で一体何をしたんですか?」


 教授は脱出が組織的なものであると言った。そして、時間がないとも。


 どうして時間がないのだろう。かれこれもう十五年はつくばで研究をしていたはずなのだ。それほどの間滞在できたのに、次のチャンスを待つことができなかったのはどうしてだ。これ以上の滞在が命取りだとわかっていたから、無理をして脱出してきたのだ。だとしたら、何が状況を変化させた?


「……鏡だ」


 助手席に深々と腰を落ち着けた教授は、突然それだけを呟いた。


 意味を図りかねて、光村は眉を顰めた。


「鏡? ミラーの意味の?」


「そう、その鏡であっている。必要なのは、鏡写しの二つの世界だ」


 突然、世界、などという壮大な言葉が出てきて面食らうが、ひとまずは黙っておく。


「例えば、高校理科で習った鏡像異性体などを思い出してほしい。鏡像異性体がわからないなら、右手と左手でもいいか。右手と左手は、鏡写しの存在だ。手のひらと手のひらを向かい合わせると、非常にそっくりな形になるだろう? でも左手と右手をいくら回転させても、右手は右手、左手は左手であることには変わりがない。右手と左手を空間的に重ね合わせることはできない」


 ハンドルから手を離すわけにはいかないので、光村は頭の中で教授の説明を再現した。


 想像で描いた机の上に、まず右手をおく。その上に左手をおく。上から見ると、確かに両手はピタリとは重ならない。右の親指の上には左に小指が乗っているし、人差し指の上には薬指が載っている。空間的に重ならないとは、そういうことを意味するらしい。


「つまり、鏡の中の世界と外の世界にはズレがある。このズレのせいで私たちは鏡の国に行けないし、逆にズレがあるからこそ中と外の世界が混じり合うこともない」


「あの、それが重力波研究をしていた教授と、どのような関係が?」


 教授は質問に答えてくれなかった。その代わり、もっと突飛な質問をしてきた。


「だが、鏡の国ではなく、極めて分岐点の近い並行宇宙同士なら、どうだと思う?」


「宇宙、ですか」


 世界、ときて今度は宇宙だった。光村の困惑をよそに、教授は大真面目に頷いた。


「ああ、並行宇宙だ。私の研究は、ごく近傍の時空間を流れる、他の並行世界を覗くことだった」


「ちょっと待ってください、教授の研究は重力波の観測でしょう? 十三億光年もの離れた場所で、二つのブラックホールが合体するときの重力波を観測した、だからノーベル賞まで受賞した」


 教授はいわくありげな笑みを浮かべ、何も答えなかった。


「とにかく、並行宇宙同士で重なったら、何が起こると思う?」


「そんなのわかりませって、俺は物理学なんてまともに学んでないんですから。重なり合ってはいけないなら、重なった途端にアウトじゃないですか」


「そう。アウトだ。それこそがまさに、軍が考えたことだった。並行世界の合流という出来事は物理法則を超えていて、物理学者たちは向こうからやってきた存在によって質量保存の法則が崩れたのか、それとも二つの世界がつながっているから実は保存則は未だ有効なのか。それすらもわからなかった。だから軍は強硬策として、やってきた存在を消すことを決定した。殺したところで、質量を消せるわけはないのだがなぁ」


 この段階になって、ようやく光村にも教授の言わんとすることが見えてきた。


 だが、そんな! 


「私は小さい頃から、映画の主人公になるのが夢だったんだ。やってくる悪の軍団と戦って、ピンチにあってもここぞの時に勝利するハリウッドスター。今、人生最期でそんな体験ができるとは思わなかった」


「昔話なんてやめてくださいよ、とってつけたような死亡フラグみたいじゃないですか」


 努めて軽い調子で返したが、光村は教授が何を言っているのか理解していた。ハリウッドスター。そんな夢、聞いたこともない。


 結論はあまりに荒唐無稽だ。容認できない。常識が受け付けない。光線銃の比ではない!


 しかしそれでも、そうだと考えると辻褄が合う部分が多い。


 取材していた頃とは、別人のようになってしまった教授。


 半年以上も取材した光村をよく知らないと言った理由。


 花形研究者であるはずの教授と、亡くなった光学操作部門の男性研究者との間に、光村の知らない繋がりがあった理由。


 それはそうだ。なぜなら——


「向こうの宇宙からやってきた存在、それこそが私だ」


 目の前にいるのは、「教授」であっても、教授ではないからだ。



   * * * *


 速く動く物体ほど、時間の流れが遅くなる。


 連想ゲームだ。


 雨は本降りになっていた。フロントガラスを風圧にしたがい流れ落ちる雨の滝ごしに目を凝らし、直行する通りや対向車線から不審な車両が来ないかどうか注意を払う。光線銃に大穴を空けられた窓から、雨が盛んに吹き込んでくる。夜の一二四号線は寂しいくらいに空いていた。さっきまでの興奮の反動か、高速で流れ去るはずの視界が奇妙にゆっくりと感じられた。


 ガソリンメーターは相変わらず0を指している。このまま毎朝新聞社までもってくれるのか、何も確証はないが、信じてみるしかない。


 しかし目下のところ、問題は「教授」だった。淀みなく語る「教授」が嘘をついている印象はなかった。しかし、それにしては発言内容がぶっ飛んでいる。


「つまり、教授は宇宙人だと?」


「異世界人ともいう。もちろんだからと言って、何が起こるわけでもないし、信じるかどうかも君次第だ。いや、一つだけ問題があった。私の世界とこちらの世界が接触した際の重力異常で、重力波検出器が壊れてしまったらしい。この世界の私が困っていたな」


 何が起こるわけでもない。まさしくそうだ。しかし、知って意味がないからこそ釈然としないものが残るのもまた事実。


「俺の世界での教授はどうしているんですか」


「どうもしていないさ。命の危険を感じるから脱走すると伝えたら進んで協力してくれたが、それだけだ」


「……」


「話は終わりだ。それより光村くん、毎朝新聞まであと少しだが、よろしく頼むよ。こちらの世界の君が御用記者でなくてよかった」


 言いながら、教授はバックミラーを指差した。


 後方から二台、徐々に近づいてくる。昔観た映画で主人公が経験していた出来事。そう、あれは、インディ・ジョーンズ。両脇を挟んで押しつぶす気だ。もしかしたらその前に撃ってくるかもしれない。軍のテロリスト鎮静マニュアルなんて門外漢だから知る由もない。


 大手町を過ぎているから、あと二分も走れば着くだろう。これが最後の山場だと思った。


「やっぱり向こうの世界での俺は、軍部の手下になってたんですか」


「そうだ。私は軍のために並行宇宙から技術を盗もうとしていたから、君は実質的に味方だったが。なかなか君のことを信用しなくて申し訳なかった」


「いや、いいですって」


 予想通り、二台は光村たちの車を挟み込むようにして近寄ってくる。


「教授、急にブレーキを踏むので、しっかり掴まっててください」


 そして交差点に差し掛かる直前で、一気にブレーキペダルを踏み込んだ。


 濡れた路面にスリップしそうになるのを懸命に抑えこむ。ものすごい減速により体が浮き上がる。減速の間に合わなかった二台が交差点を爆速で直進していくのを確認する。


「よし……!」


 再度加速して左折しようとしたところで、車の尻に銃撃を受けた。リアガラスが砕ける悲痛な音がしたが、気にしてはいられない。


 毎朝新聞社はすぐそこだ。雨さえ降ってなければ、いまそこにビルが見えているはずだ。


 直進した少し先には、道路に垂直に、車のバリケードが築かれていた。光村が共同経済新聞社に逃げ込むと予想して、軍が先回りしたのだとわかった。しかしその予想は間違いだ。


 バリケード手前に並ぶ兵士たちが発砲した。今度の発砲は、明らかに車のタイヤを狙っていた。パンクによって、車の速度が落ちるのがはっきりとわかる。篠突く雨の密林を縫うような砲声がとても怖い。


 死にたくないと思った。ここにきて光村は、自分が怖がっていることをはっきりと自覚した。報道するためではない。ただ生きるために、光村は毎朝新聞社に着かなくてはならない。記者の中での不審死第一号にはなりたくない。


 光村はバリケード手前のビルの地下駐車場に逃げ込んだ。そこからなら隣の道路に抜けるもう一つの出口がある。しかし、出口の坂道を上がっているところでついに車が動かなくなった。ガス欠。ここにきてメーターゼロのガソリンは真に尽きたのだった。


 光村と教授は車から降りた。降りて徒歩で毎朝新聞社に向かおうとした。どういうわけか坂の上からサイレンの音がする。


 運転席のドアを閉めた光村の右腕に、衝撃が伝わった。


 伝わった、というのもおかしな表現だが、まさしくこの場合は伝わったという言葉が適切だった。右手の甲に、妙ちくりんな針が刺さっていた。しかし痛みもなければ、右手そのものの感覚もない。ただ右手が揺れた衝撃が右腕に伝わったことで、針が刺さったことを認識できた。


 とにかく走り出そうとした足がもつれた。コンクリートの地面が急速に近づいてきて、頬の下敷きになった。ザラザラとした感触は、なぜか伝わってこない。顔を上げると、坂の上にはたくさんの人影が並んでいた。


 教授に、銃を向けている。たくさんのじゅうだ。


 止せ、やめろ! その人は人間だ!


 叫ぼうとしたが、舌は動かなかった。


 ふっ、という呼気だけがもれた。


 ますいじゅうだ。ああ麻酔銃だ。


 おれは、ここで死ぬんだろうか。


 きょうじゅも、死ぬんだろうか。


 ころんでも、ただではおきるな。


 みつむらせいじは——。




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