第2話 潜入工作


 十月二十三日 中

 

 暗がりから這い出てきた教授の姿は見るからにやつれていた。白衣ではなく地味なあしらいの背広を着ていたが、それにしたってあちらこちらがほつれ汚れて、ただならない事態に巻き込まれているのは明らかだ。左腕は袖が一部分破けており、そこから血らしきものが見えている。


 何よりも決定的なのは、彼が銃を構えていること。それも通常の拳銃ではなく、単行本サイズの箱に近い見知らない形態のものだった。箱の隅にある銃口と教授の構えがなかったら、銃と認識するのは難しかった。それを、壁にもたれながら両手で押さえている。


「上林教授……どうしてここに? どうやって研究所から? それにその怪我は——」


「いろいろ聞きたいこともあると思うが、まずはこちらの質問に答えてほしい。光村くんこそ、どうしてここにいる?」


 声には焦燥の気配が色濃くあった。


 そのとき、表通りをまたサイレンが通り過ぎた。教授のまとう空気が、その一瞬だけ強張った気がした。それで光村は理解した。


 教授は、追われている。おそらく研究所を脱出したことで、軍によって捜索の対象となっている。教授の頭脳はつくばの機密情報そのものだから。


 教授は警戒しているのだ。光村が軍とつながっていることを。長年共同経済新聞の科学部から取材されていた教授なら、共同経済幹部が軍と癒着しているのを知っていておかしくない。


 光村はなるべく素直に、困惑を隠さずに答えた。


「どうしてもこうしても……仕事でヤケになったからなんですが」


「さっきの電話は」


「いや、それは彼女に愚痴を……教授が来る前に、電波障害で切れてしまいましたが」


 画面が教授に見えるよう、今流行りの折りたたみ携帯を光村は振った。画面左上にはしっかりと、圏外の二文字が写っている。


 何も知らない一般人だと素直に示すのが正解なのかはわからない。教授が疑心暗鬼のあまり正気を失っていたらどんな行動をとったところで無駄だ。だから光村は考えるよりも、教授に理性が残っていることを祈った。


 熱帯夜なのに、背筋を冷たい汗が伝った。


 そして光村は、賭けに勝った。


 教授が目に見えて全身から力を抜いた。相変わらず銃は光村に向けたままだが、先ほどまでの差し迫った緊張はない。


 記者の嗅覚が、今がチャンスだと囁いた。


「それならいいんだ。なんというか、すまないことをした。とにかく警戒のし通しだったからな」


「警戒って……、軍ですか?」


「ああ。光村くんの予想通りだ。まさか単に脱走しただけで、ここまで向こうが反応するとは思わなかった。つくばから脱出してから、今現在も逃走中だ。だから光村くん、悪いが君にも協力してもらう。携帯は預かろう。そのまま後ろを向いて——」


「あの、その前に俺の話も聞いてください」


「……すまないが、歩きながらでもいいか」


「今じゃなきゃ駄目なんです」


 そう言って、光村はそのまま浜島との問題や、巻き返しの計画、そしてそれに教授が必要であること等をかいつまんで説明した。


 光村は自分の記事によって研究所の実態を世に問いたかった。だが浜島の権力があり、そのままでは叶わない。だが、もしそこに浜島以上の権力があれば? 社内の勢力均衡を打ち崩す、圧倒的なネームバリューがあったなら。その答えが、ノーベル物理学賞までとった上林教授である。もちろんネタの提供先は古巣の共同経済新聞ではなく、まだ軍との癒着の見込みの少ない毎朝新聞にする。


 また、この試みは教授を軍から匿うことにもつながる。ノーベル物理学賞をとり広く顔の知られている教授。その彼が、軍による不当な扱いと生命の危険を訴えると、軍は悪評を恐れて教授に手出しをしづらくなる。


 教授が光村と協力すればウィンウィンなのだ、と。


 途中で制止されなかったから、実質的に許可は得られていたのだろう。


 全てを聴き終わっても、教授は不審げな表情を変えなかった。


「まあ、考えておこう。とにかく今は移動することが優先だ」


「わかってます。でも、考えておいてください」


 教授は頷かなかったが、その代わり、否定もしなかった。


 銃が動かされたので、光村はその指示のまま歩き出した。



   * * * 


「ちなみに、逃走の算段はどのくらい決まっているんですか」


 表通りでは雑然としながらも食欲をそそるような配慮がなされている居酒屋やラーメン屋の裏側は、ここにもはや客の目もないとあって、それこそ目の当てようがない散らかりようだった。蓋の端から生ごみのはみ出したゴミ箱を暗がりの中で慎重に避け、転がっている酒瓶箱に躓かないよう摺り足で足元を確かめた。生ぬるい焼肉臭を吹きかけてくる換気扇は、この熱帯夜には不快だったが、実害はないので諦める。


「残念ながら、ほとんど決まっていない。研究所を抜けるだけで手いっぱいだった。ここまで来れたのも私だけの力というよりは、同僚たちが協力してくれたおかげだ」


「ちょっと待ってください、脱走は組織的なものだったんですか? 教授以外にも誰か?」


「協力者がいたという点では組織的だが、外に出たのは私だけだ。外部に協力者がいない分、もっと計画を練りたかったが、時間がなかった。だから君には協力してもらう」


 教授の回答は覚悟を決めた武闘家のように淡々としていた。そこに冷徹な狂気を垣間見た気がして、光村は唾を飲んだ。


 光村の中に、先ほどからの疑問がまた浮かんだ。


 教授はこんな窮屈な人だったか?


 数ヶ月前、取材で何度も話した教授は、難しいの話の中にも冗談を交え、量子宇宙論の最新理論を噛み砕いて説明してくれた。また取材時以外でも、研究者の中心となって話に花を咲かせているのをよく見かけた。多くの大人がその途中で失ってしまう純粋さと、どんな状況でも余裕を失わない独特の雰囲気が、そうした人間的魅力の核にあるのを、光村も記者として外から眺めていて感じていた。


 その教授がここまで変わってしまう。もしかしたら、事態は光村の想定していたものとは何か異なるのかもしれない。


 質問したいことは山ほどあったが、まずは現時点で一番重要なことを訊いた。


「なら今はどこへ向かって?」


「車を取りに向かっている」


「その辺に停車してるのじゃあ駄目なんですか?」


「旧型車があるかわからない。新型車だとCPUがクラッキングされたらアウトだ」


 確かに、六年前の法改正で、新車販売は新型車への全面切り替えが義務付けられている。今の公道で旧型車を見かけるかというと、なくはないが、多くもない。


「でも、旧型車がどこにあるかも、わからないでしょう」


 さすがに質問しすぎたのか、教授は面倒臭そうに、


「さっきからサイレン以外に、ある音が聞こえていないか?」


 言われて口をつぐむと、それは地を這う重低音となって聞こえてきた。ごうん、ごうんという機械が拍動するような音だ。それはすぐ近くにある湾岸工場地帯から響いてきた。


 プレス工場の音だった。


 それから光村は、工場でプレスされるものを考えてみた。板金、自動車の骨組みや、大体の家電のボディ。あとは、空き缶を押し固めるのもそう。


 そこまで考えて、光村は頭の中で何かの回路が繋がるのを感じた。


 空き缶をプレスするのは、それが要らなくなった金属だからであり、金属は圧力をかけると伸びて曲がり、あるいはくっつく性質があるからである。そして金属から出来ているのは、何も空き缶だけでない。車。骨組みを作る際、プレス加工をしたこの製品は、要らなくなったら廃車として分解され、今度は逆にプレスされて鉄の塊に戻されるのではないか?


 そして廃車。廃棄された車。廃棄されるのは、多くが一定期間以上乗り回されて、中古にするにも古びてしまった車となる。そう。古びた車。廃棄されるものはたいていの場合、古いのだ……。


「なるほど、処分待ちの旧型車……」


 光村が答えにたどり着いたとき、ちょうど雑居ビルに挟まれたずっと向こうに、路地の切れ目が見えた。


 向こう側もやはり夜だが、路地が周りが暗いため、あたかも長方形の光の出口のように切り取られて見える。まだそれほど歩いていないはずなのに、ずいぶん近くにあるものだと思った。ただ、いま視界に入っているのは敷地の外周をめぐるフェンスだ。停車場に行くには、そこからさらに歩く必要があるだろう。


「工場で処分するために、処分待ちの車は鍵をつけたままだ。その段階だとガソリンなどもまだ抜き取られてはないから、ある程度の移動はできる」


「まあ、毎朝新聞に駆け込むぐらいはできるでしょうね」


 教授が後ろで鼻白むのがわかったが、光村は無視した。


 下手に表通りに出るわけにもいかないのだろう。路地を出る少し手前で、教授は立ち止まった。光村は促されるまま先に行き、それとなく通りを見渡せるように位置どりした。


「とりあえずこの角はカメラないですね。それで、どうやって忍び込みますか?」


「ちょっとフェンス沿いに監視カメラの死角がないかみてほしい。あればそこから忍び込む。もちろん、変な真似をしたらこれで撃つ」


 変な真似などするわけがない。教授にはどうしても協力してもらわないといけないのだ。


「死角がなければ?」


「そのときは……堂々と忍び込むさ」



   * * * 


 フェンスは工場の敷地にふさわしく、容易に人が入ってこれないよう、クロスするワイヤが交点で溶接されている頑丈なタイプだった。決して中学校や高校にある、緑のビニルで絶縁されたワイヤを絡めただけの軟弱な代物ではない。おそらくドイツ製だろう。


 フェンスが頑丈な一方で、センサーや電気柵などの侵入防止措置はなさそうだった。


 光村はフェンス沿いを歩きながら、記憶にある付近の地図を思い起こしていた。


 この辺は新橋第三埠頭と呼ばれる軍産複合セクター専用の臨海部埋立地だ。二十年前、中共の台頭により再加熱した冷戦構造の中、崩れかけた勢力図の間隙を縫うようにして発足した軍政府が、真っ先に着手したのがこの臨海開発計画だった。


 バブル崩壊からの失われた十年を取り戻すことを名目に打ち立てられた、一大復興プロジェクト。だがその目的が、沖縄から択捉までを結ぶ防衛ライン、その整備の一環にあったことは、すこしでも社会に興味がある人ならば誰だって知っている。昭和をなぞっただけに見えた土木再建は、軍という強権を背後に得て、開発独裁型の経済をこの東の国に産み落とした。


 そして免税と優遇権によって特区指定され、東洋の一大ハブ港として発展した東京港の一角が、光村のいる埠頭である。


 プレスされる車種自体は様々だが、プレス工場の持ち主自身は国内外合わせて自動車最大手の豊太ホールディングスで、工場そのものはL字に突き出した埠頭の根元に位置している。そこで運ばれてきた自動車を解体、分別し、使える資源を国内へ、使えない産廃は埠頭の先にある港に集積したのちに途上国への輸出に回すのだ。


 軍は回収された資源の一部を上納金として受け取り、代わりに豊太は埠頭の使用を許可される。繁華街が工場に隣接しているのは、工場労働者を顧客としているためだった。


 カメラの位置を頭の地図に書き込みながら、湾岸の工場地帯を見上げる。湿気の多い海風が吹いてきて、汗が一層吹き出た。ひと雨降りそうな気配だ。


 制空赤色灯を全身にまとったコンビナートの工場群が、夜空を背景に黒い怪獣のようにして並んでいる。だが、経済の繁栄を象徴するはずのこの不夜の絶景は、光村にはどうしても禍々しいものに思えてしょうがなかった。


 共同経済新聞などという、いかにも「成長」という言葉が好きそうな職場で記者をやっていながら、どうしてそのようなネガティブな感想を抱くのか、前々から自分でも不思議に思っていた。しかし、こうして上司と軍の癒着を知った今ならば、その理由がわかるような気がした。


 もし、毎朝新聞での報道に失敗したらどうなるのだろう? 徐々に酔いが覚めていく頭の片隅で思う。


 上司と軍に歯向かったらどうなるのだろう。


 減俸、では済まないと思われる。左遷か馘か。その一方で、そういう危ない案件で退職させられた同業者が失踪した話にはついぞ出会ったことがない。失踪するとしたら、軍関係よりも暴力団関係の事件の方が多いことは、社会部の中でもちょっとした笑い話になっているくらいだから、これは観測範囲の問題ではなく実際にそうなのだろう。また、軍が研究所の顔である教授をみすみすどぶに捨てるとも考えにくい。だから教授といる限りは、少なくとも死ぬことはないだろう。自分がなるとしたら、藤田さん——活躍の梯子を外され、ぼんやりとした記者生涯を送ることになるのだろう。


 だったら。


 それだけのリスクで賭けるなら。


 教授のために暴れる価値は、十分にある。




 幸いにして死角を見つけた光村は、早速、教授を呼んでカメラの死角に向かった。


 ざっと人通りのないことを確認したら、教授は例の奇態な銃を取り出して、それをフェンスに押し付けた。じゅっ、とハンダで金属を焼くような嫌な臭気が立ち上る。嬉しいことに、警報は鳴らなかった。


「それは?」


「研究所で友人が試作していた光線銃だ。出てくるときに貸してもらった」


 光村は耳を疑う心地がした。普通の銃でないにしても、光線銃? 荒唐無稽だ。取材中の研究者からも、会社の軍事部の記者からも、そんな話を聞いたことはなかった。


 光村の困惑を察したのか、教授は説明した。


「試作段階でボツになった黒歴史だよ。役に立たない研究者には金をかけないが、役に立たない研究には金をかける。君たち記者が見ていたのはその氷山の一角だ。まあそのおかげで今こうして逃げれているわけだが」


「もし貸してもらえてなかったら、どうしてたんですか?」


 光村は質問してから、それが意味のない問いであることに気づいた。取材でこんなことを聞いたらアウトだな、と思うと同時、頭からアルコールが抜けきっていないことを自覚する。


 教授はじょきじょきという効果音が聞こえそうなほどの勢いでフェンスを溶かして切断していく。


「まあ、そのときは脱出できてないし、従って今も脱走することなく研究所にいるだろうな」


 研究所。クリーンでスタイリッシュで閉鎖的な白い方舟。日本でも先端中の最先端を科学する、そこに必要なのは運にも能力にも選ばれた者だけだ。その選ばれた一人でありながら、教授はなぜか抜け出てきた。選ばれず抜けられず、方舟で生存を賭けている研究者の協力を得て。


 人選が逆転しているようにも見えるが、内部の劣情を訴えるなら、知名度のある教授を送り出すのは適切だ。しかし教授は? すでに良い待遇を得ている教授に、抜けることにどんなメリットがあるのだろう?


「いま研究所の方は」


「君が取材に来ていた時と大差ない。KAGRAが動かないから私の研究は止まっているが、それ以外は変わらない。タコ色素胞を利用した生体光学迷彩も、高機動多脚戦車も、SMAP細胞も、それぞれの研究室は相変わらずだ」


「そして役立たない研究者を見殺しにするのも相変わらず、と?」


「そういうことなる」


 光村の揶揄に、教授は動じなかった。じょきじょき。フェンスは目的の九割がた切断された。


「恩義などは感じてないんですか」


「感じるさ。……だが、それと毎朝新聞に行くことはまた別だ。私は君のことをよく知らない。君が味方である保証はないし、仮に味方でも毎朝新聞はそうでないかもしれない。かといってネットの来ない中部の山奥に逃げ込むよりは建設的かもしれない」


 正論ではあったが、半年以上も取材した相手に面と向かって知らないと言われると、堪えるものがあった。


「そこまでわかっているなら——」


「くどい」


 鋭い声が、光村の続きの声を封じた。


「そんなことはわかっている。これはギャンブルだ。どこかで私は選択する必要がある。いつか私は決断を迫らせる。ただ、それは今ではない」


「なら」


「いつかはわからない。ただ今ではない、それだけがわかっているんだ」


 その時、光村は初めて気づいた。教授が怯えていることに。背後からの街路灯が作り出した彼の体の陰の中で、フェンスに銃を押し付ける彼の手がわずかに震えていることに。


 じょきじょき。


 一瞬、手元がぶれて光線銃からまばゆい光が放たれた。敷地内の芝にぶち当たった。かと思えば、そこにあった芝は消えており、芝の生えていた場所の土が焼け石のように赤く光っていた。


 使い物にならない研究物。


「それに、私が恩義を感じる相手はもうなくなってしまった」


「……ちなみに、その人の名前を聞いてもいいですか」


「……」


 教授はサ音から始まるとある名前を言った。


 その名を光村も知っていた。光学操作部門にいたあの男性。所内での地位は底辺と頂点ほどに離れているが、接点があったとはつゆも知らなかった。覚悟を試すような眼差しで光村に頼み込んできた彼は。


 何としても、私たちを新聞で扱ってくれ——。


 社会に不要な人材。


 自分は不要じゃないと訴えたかった彼。


 ますます、引き下がることはできない。



 

 人一人が通り抜けるに十分なサイズで長方形の外周を描いて、上辺だけは残して切断が終わった。光村はぶらさがったフェンスを押して中に入った。教授も続いて入り、そのあとまたフェンスを元の位置まで押し戻した。昼間ならすぐに見つかりそうな切れ目も、この暗さではすぐには見つかるまい。


「さっさと見つけるぞ」

 


   * * * 


 光村たちは気づいていなかったが、この時点ですでに事態はほぼ収束への道筋を見出していた。


 二人が悠長にも「自分たちの車」を探している間に、光線銃に仕組まれたセンサーが使用を認識し、研究者に無断でインプラントされたGPS発信機が固有周波帯で自らの居場所を大々的に告知していた。発信機からの電波は寸時の間もおかず、月島の杉浦第一ビル屋上と六本木ミッドタウンの半三十三階で電磁工作を行う部隊の元にキャッチされ、三角測量によって自動的に位置が割り出された。


 先ほどまでいた新橋滝口二丁目には、付近にいる警官を利用して、キープアウトのテープが貼られただけの応急的な警戒線が展開されつつあった。もちろん警官は何も知らない。知らない、というのは事件の詳細についてであり、上意下達での出動案件に軍が関与していることは、言うのもばかばかしい公然の秘密だった。


 酒が人の本性を明らかにする。中高の時にはまず間違いなくいじめやカツアゲの常習犯だっただろう、いかにも素行の悪そうな酔っ払った不良会社員が、彼らに絡んで逮捕されていた。


 警官の毎回の応答は決まっていた。


「ボヤ騒ぎがあったと上からの指示で、ただいま封鎖しております」


「どこでだよ。上ってどこだよ」


「お答えしかねます」


 そして会社員のすぐ脇を、シルバーグレーの車両が通り抜けていった。彼は一瞬、鬱陶しげにその車を見たが、地味な外装だと思っただけですぐに記憶から消えていった。


 もし酔ってなければ、彼は車の内装が通常とはおかしいことに気づけただろうし、疫学知識があればそれがバイオハザード用に改造されたものだと察しがついたはずだった。


 しかし、酔ってもいて疫学知識もない不良会社員に、そんな観察を要求するのは詮無いことだった。



   * * * *


 最初は居ても立っても居られないくらいに不安な気持ちだったのは、所在無げに携帯を閉じて開いているうちに怒りにも近い感情に置き換わっていた。


 だいたい何がどう「絶対に無理」で「原稿が出せなくなった」のか何も伝わらないしあれだけで伝わると考えたミツの発想も理解に苦しむしそこで悟ったふりして神妙に頷いていた自分も自分で意味不明だ。別に「長い付き合いだからもっと正直に相談して欲しい「とか「あんな弱気なミツ、初めて見た……」とか「言ってくれなきゃわかんない」とか、そんな夢見で乙女で恋愛小説的な寝言は言わないし考えるつもりもさらさらないけれど、でももうちょっと、ほら、言葉ってものがあったりなかったりするはずなのだ。そもそも編集委員に祝杯を奢ってもらったはずなのに、どんな経緯があったら原稿が出せなくなるのか。酒飲んで情緒不安定になったか。一足先に出世街道に乗った自慢は楽しいか。


 電波障害で消息不明の光村と合流したくてもできないストレスは、途中で何をどう変換されたのか光村への責任転嫁となって現れた。


 つまるところ、それなりに深刻だった光村の電話は、受け取り手である八代にはそこまで深刻に伝わっていなかった。これは、息子娘が失踪しても「まあちょっと様子を見て……」と届け出をためらう親御と似た心理かもしれない。言葉少なの様子から、もしかして軍関連かとの考えが過ぎりはしたが、かといってその直感を信じきるほどではない。


 それが、午後十時の八代だった。


 この時、八代は口実を作って社内に残っていた。どうにも帰る気にならなかったからだ。社内にいれば、とにもかくにも一番情報が早く手に入る。もし何事もなければ光村は自宅に戻っているだろうし、それなら取り越し苦労で笑って、いや、怒って済む。でも、そうでないなら。


 十一時になると怒りで押さえつけていた不安が再び頭をもたげてくる。幸い未校了の取材原稿があったから、やることには困らなかった。それ以外にも多数の申請書類。いまだにペーパーレスの進まない社会構造に心の中でぶつくさいいながら記入フォームに書き込んでいくと、二◯二◯年代にもなって紙の書類をメインで使っているのは日本だけだ、という国際部の話を思い出す。軍政府が技術の民間転用に前向きなら、新型車みたいなのが増えて、世の中もっと便利だろうに。


 電波が落ちていても有線のネットは動いているので、PC上で定期的にミリタリーマニアが集う掲示板を更新する。神速F5アタック。これといった動きはない。むしろ動きがあったのは社内の方で、雨が降ってきたとかで居残り組が慌てて窓を閉めに回りに来た。


 ペーパーレス後進国日本に愚痴っていた、国際部の吉川記者だった。


「八代ちゃん、まだいたのか? もう遅いから帰ったほうがいいよ。と言っても、雨、降ってきちゃったけど」


「ありがとうございます、でももうちょっと調べていきたいことがあるので、粘ってきます」


「ご苦労さん。終電逃さないよう注意しなよ」


「はい」


 行きに窓を閉めてきた吉川記者は、戻りにクーラーの電源をつけて回っていった。今年最後のクーラーだろう。


(……私も終電で帰ろう)


 確かにこのまま社内にいても、事態がどうにかなる保証は特にない。浜島委員の居場所を知ってる記者もいなかった。


 ふと思った。


 ミツと一緒にいたはずの浜島委員は、いったいどうしているんだろう?

 

 

   * * * *


 起床は八時、就寝は二十三時、部屋の空調は常に二十度。朝昼晩の食事は決して欠かさず、マックスでも三千キロカロリーまでと決めている。


 世間からは意外にマメと思われようが、マメこそが浜島のライフスタイルの軸だった。床に物が散らかっていることも、卓上に書類が山積みされていることもない。シンク周りの水は拭き取られている。彼はカビが嫌いである。彼の手帳をひらけば、消毒臭すら香ってきそうな無機質な文字で、「本日、光村、磯や」と書かれている。もちろん見られて不都合な情報は記入しない。持ち前の政治力のみならず、記者の頃に染み付いたマメな習慣が、彼を編集委員という地位まで押し上げた。そうまでマメにしてもアブラギッシュに太ってしまうのは、一つにはマックス三千がアベレージそのものだから、そしてもう一つには残念ながら体質自体が太りやすいからだった。


 いま、浜島はその巨体をキングサイズのベットに横たえ、二十三時の就寝を迎えようとしていた。折しも外では雨が降り出し、窓外に見える彼の勤め先では国際部吉川が窓を閉めに腰を浮かしていた頃だ。


 浜島は安堵していた。


 光村が正義感の強い若者だということは以前から察知していた。それがどの程度まで都合が悪いのか、大勢に流されつづける見込みはどれだけあるのか。なまじ優秀であるために、目の届く位置に置いておき、推し量る必要があった。


 だが、それも今日で終わった。


 軍への洗浄依頼は無事受理された。優秀な若手が潰えることを惜しまないではないが、社会に不要なものは処分されなければならない。


 眠りに落ちる直前に、磯やでの対応が芝居がかりすぎてやしなかっただろうかと、わずかに不安を感じた。マメと臆病さは浜島の軸である。


 翌日に彼は、光村への監督責任を怠ったと軍の対応窓口から小言を言われるはずだ。光村が神林教授と行動を共にしてしまったことで、対応の難度が上がったというのである。


 しかしそれはまた別の話だ。


 そろそろ光村たちの話へ戻るとしよう。



   * * * *


「ちなみに旧型車の見分けはできるんですか。つくば歴長いんでしょう」


「なんだ、つくば歴って。長いが、そもそも新型車のCPUを開発していたのはつくばだったから見覚えはある。そうでなくとも、エンジンかければすぐにわかるさ」


 実際に足を踏み入った埋立地は、外から見るよりも数倍は広く感じられた。ずらりと並べられたすし詰めの車はさながら田舎の大型ショッピングモールの駐車場を思い起こさせるが、また走り出すために持ち主を待っている田舎の車と違い、ここから出ていくのは光村たちの乗るたった一台だけだ。


 その一台を探すため、光村たちは隣接する二列を二手になって調べていく。旧型車は少なくなかったが、その一方で廃車されるにふさわしくエンジンが動かなかったり、一体何年愛されたのか座席がボロボロになったものも多く、逃走に耐えられそうなものはなかなか見つけれらない。


「ダメなのばかりですね。これは列を変えたほうがいいですかね」


「私もそんな気がする。各列の頭だけ見ていかないか? そうしたら色々な列を比べられる」


「わかりました」


 その後、光村はさらに二列みて、どちらも外れだった。その次のは有望そうだった。今はなきスズサキのA√《エールート》。創立から廃業まで創業家一族が経営陣を世襲するという、由緒ある自動車メーカーだったが、新型車導入時の日本自動車との統合で、その歴史に幕を閉じた。逃走には馬力が必要だろうか? そうだとしたら軽のA√《エールート》だと心もとないが、そもそも動くかもわからない。


 ドアを開けてざっと内装を確認する。目立った問題なし、運転席に乗り込んでフロントガラスの状態をチェック、と同時に差さっているエンジンキーを回転させる——エンジンは着火しなかった。


 諦めて車から降りようとした時、光村はフロントガラスのはるか向こうに嫌なものを見た、いや、見えなかった。


「教授」


「なんだ、見つかったか」


「いえ。それよりも入ってきた場所、どこだかわかりますか?」


 やってきた教授は光村と同じようにずっと向こうのフェンスを見た。いや、フェンスがあるあたりを見た。


 昼間ならすぐに見つかりそうな切れ目も、この暗さではすぐには見つかるまい。それはフェンスの外でも内でも同じこと。


「困ったな……となると搬入口から無理やり出ていくしかないな」


「いつ開いているとかわかってるんですか?」


「さすがにそこまでは——」


 と、そこで教授の声は凍りついたかのように不自然に止まった。ある一点を見つめたまま、見ているこっちが怖くなるほど表情が引きつっていた。


「来た……」


 何を、とは聞かなかった。サイレンなんて聞こえない。だが、ごうん、ごうん。プレス音だけがする。いつからサイレンが聞こえなくなっている?


 躊躇うな、と直感が囁いた。足を動かす。動けばなんでも目的は達せられる。同じ列の隣の車に飛び乗ってキーを回す、動かない、次の車、動かない、その次、


「……!」


 寝起きの馬が身震いするような振動が足裏に伝わってきて、暗い室内に計器類が赤く浮かび上がった。ガソリンメーターはゼロを指しているが、そうもわがままを言っていられない。毎朝新聞まで動けばそれでいい。ロービームのヘッドライトに白く切り取られた前方の闇が、コンクリートの路面を照らした。すぐそばのプレス工場の心音が拍動と重なり、ついにアタリを引き当てた光村の興奮をかき立てる。


「教授!?」


 教授はまだ突っ立っていた。気がついたように光村の乗る車まで駆け寄ってくる。


「光村くん、どうして君が運転席にいる?」


「ずっと研究所にこもってた教授より俺の方が運転できるからです!」


「それで毎朝新聞に行くんだな」


「そうです」


 光村は威圧する気で教授の目を見た。教授の目は揺れた。


 ごうん、と心音がする。


「教授、いつまで迷っているんですか! 何のために外に出てきた!? 一人の死を踏み台にして、そうまでして脱出しながらなぜ今迷う!? 俺の知っている教授は、そんな臆病者じゃあなかったはずだ! あなたがいなければ、俺も研究所のことを報道できない、する力もない、だからお願いです! 車に、乗ってください……」


 時間がない。祈るような心地で光村は頭を下げていた。一秒、二秒——もっと長いのかもしれないし、あるいはもっと短かったのかもしれない。頭の上から、神林教授の声が神託のように降ってきた。


「……わかった。プロデュースは君に任せよう」


「……! ありがとうございます!」


 助手席に教授が乗り込んだ次の瞬間、バチン、という大きな音がフロントガラスからして、光村と教授が見てみると、上空うん百メートルもの高さから叩きつけられた雨粒がガラスの上でべしゃりと四散していた。雨が降ってきたのだ。


「まさか君が、あんなにも熱い人間だとは思わなかった」


「いえ、俺も少し言い過ぎました。搬入口が突破できる保証がないので、教授は入ってきた場所を探してください」


 考えてみれば立派な飲酒運転だったが、いまさらそんなことにこだわってはいられない。


 手放されたのも最近なのか、加減速の調子はややクセがあっても上々で、他の廃車を置いて一台走り出す。枝道から本道に合流すると脱出の第一候補が目に飛び込む。やはり搬入口には明らかに異様な雰囲気を放つ車両がいる。一台、二台。他にはバリケードも何もない、現金輸送車を思わせるグレーのワゴン。


 ……それだけ?


 胸騒ぎに押されて急加速したその瞬間、破裂音と破砕音がすぐそばで弾けた。


 光村の思考では、今起こったことを処理できない。彼はそんな音をテレビの中くらいでしか聞いたことがなかったし、いくら教授という機密に触れていても、それがすぐに生命の危険に結びつくという実感はなかった。ただ目の端のサイドミラーの中で、膝をつき、細長い何かを構えた何者かのシルエットが夜景の中に確認できた。


 “彼ら”が、発砲したのだった。



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