第四種接近遭遇
三木光
第1話 希望の出会い
十月。
JR新橋駅日比谷口を出て右に曲がり、片側三車線の都道四◯九号線、またの名を軍道一二四号線を北に少し進んだ先、日比谷公園の南東には、みずほ銀行、NTT、帝国ホテル、東京電力をはじめとし、頭に超のつく一流企業の本社が集まる界隈がある。内幸町である。
江戸時代以前は入江であったこの土地は、徳川の治世となって以後埋め立てられて大名屋敷街として名を馳せた。有名どころでは仙台藩伊達家や鹿児島藩島津家、江戸将軍様のお膝元にほど近いため名だたる外様大名の屋敷が軒を連ね、瓦が海原を造るようなそれはそれは重厚な街並みだったという。
もちろん、これらは明治維新で取り払われることになるのだが、その後も跡地に鹿鳴館や国立博物館の前身が建設され、以降関東大震災や太平洋戦争を経てもこの街は財界、政界のフィクサーが通いつめるきらびやかなオフィス街であり続けた。
そして今夜。この一角、記者会見の式場としてしばしばテレビにも登場する日本記者協会センターの九階では、日本記者協会賞授与式が開かれていた。
オリーブを意識した深緑の垂れ幕。金の縁取りがされた朱地の緞帳。まばゆいフラッシュ。誰が見ても栄冠のシーンだとわかるような晴れ舞台の上に、これまでの一年間に日本におけるジャーナリズム活動で特筆すべき業績をあげた記者、取材チーム、あるいは編集者が登っていく。
壇の上で、日本記者協会賞が進呈される。部門は大きくそれぞれ編集、技術、経営の三つに分けられ、その中でも情報発信の中核をなす編集部門はさらにニュース、写真・映像、企画の三項目に細分化される。
その編集部門。記者からすれば花形のこの部門で、「ニュース」での業績を称えられ、一人の女性と四人の男性が栄冠の壇上へと上がっていく。日本新聞社や共同経済新聞社をはじめ大勢の同業者やカメラマンや財界人の視線を受け、金の緞帳を背にし、どこか緊張気味に、しかし誇らしげなものを含ませて五人は並ぶ。
そしてその最後尾、末席には、弱冠三十三歳の若手記者、光村誠司の姿があった。
* * *
光村は入社十一年目の共同経済新聞の記者だった。身長は一の位を切り捨てても百八十、体重は七十台、肩幅はスーツが映える程度にがっしりとして、高校では陸上インターハイに出場の経験がある。甘いマスクの優男ではないが、スポーツマン特有の爽やかな顔つきに、生来の気さくな性格が合わさってそれなりに友人の数は多い。中学高校と都内の中高一貫の進学校で学び、その後は東京大学の経済学部に在籍し一年の留学期間をへて共同経済新聞に就職した。
つまりは、元が優秀なのである。
天は二物を与えず、というのは幸か不幸か彼に関してはあまり当てにならない法則だ。それは四十街道と呼ばれるこの業界において、三十をさしかかったばかりの年齢ですでに記者協会賞をもらっているという点にもよく表れる。
受賞対象となった記事は、国立宇宙局研究所の上林所長のノーベル物理学賞受賞をめぐる一連のスクープだった。この記事のもとになったのが、連載企画「産学連携 宇宙時代」という、現代の宇宙開発競争を取り扱った特集である。
特集を成立させるには当然ながら取材が必要となる。そして取材にも技術がいる。有り体に言えば、紙面に掲載するに足る価値の情報を聞き出し、整理し、あるいはそもそもの情報源が誰かを突き止める能力が求められる。しかも連載特集である。
毎週必ず一本は原稿を新聞に掲載させなければならない。そうでなければ連載ではないからだ。取材原稿をデスクが採用してくれるかは運頼み、などという生半可な実力ではやっていけず、「原稿を書けばまずまず採用される」レベルの記者でなくては特集企画には参加を許されない。
一応特集企画には新人研修用の枠もあるが、この「新人」にしても、足手まといとならないためにある程度以上のレベルが要求される。逆に言えば、この新人枠に選ばれるということは、それだけ将来が期待されているということでもある。そして光村は、通常ならば四十歳近くで初めてタッチできるこの枠に、たったの三十二歳で抜擢されたのだった。
つまりは、記者としても優秀なのだった。
かくして彼は特集チームの丁稚として一回り二回りも年齢が上の記者たちと混じり、日本宇宙局、それを支援する文科省、関連企業などの取材に半年あまり駆けずり回り——
そして、幸運が降ってくる。
取材中に上林所長が、ノーベル物理学賞を受賞した。より詳しくは、上林所長率いる研究チームが、新しく開発した検出器KAGRAでの重力波検出に成功し、海外の同様に成功した研究グループと合同で受賞した。
この椿事に光村たちは沸き返る。
なにせそれまで取材をしてきた相手の受賞だ。受賞インタビューは取材スケジュールを変更するだけで優先的に設置できる。受賞した研究内容については今までの取材記事を再度編集すればすぐに組める。棚から牡丹餅、一攫千金、他紙とのスクープ競争は難なく共同経済新聞の独り勝ちに終わった。
そしてスクープ記事はその年の日本記者協会賞を受賞した。
光村自身はこの成果を、先輩記者の企画からおこぼれをもらっただけであり、運であっても実力ではないと自戒していた。事実、企画を立てたのは編集委員であり、先輩記者たちであり、光村は彼らのアドバイスに従って取材を進めたに過ぎない。
そもそも光村は科学部の記者ではないのである。
通常の特集企画は効率的な情報収拾を実現するため、メインとなる部局以外にも、外局から二人ほど記者を取り込んだ混成チームを結成する。しかし「宇宙時代」始動時には、たまたま科学部と縁のある社会部記者の人手が空いてなかった。かといって社会部記者を欠いたまま始めるのも情報面でのリスクが高い。
そこで白羽の矢が立ったのが、若くて優秀、ただいまホットなニューホープ光村だったというわけだ。
しかし、そうした偶然の力であっても、光村のような実力ある若手が出世階段を駆け上がるための重要な足がかりであることには変わりない。彼は今、日本記者協会賞を受賞した。名誉なことだ。名誉ある記者には仕事が舞い込む。きっと彼は、この先ますます多くの記事を書き、スクープを担当し、順風満帆な人生を歩んでいくに違いない——そう誰もが思っていた。
あの日までは。
パーティーが明けた次の火曜日の十月二十三日は胸のむせかえるような熱帯夜で、夜中十一時を回る頃からは列島を横断する寒冷前線により雨が降り始めた。基地局の不具合とされる広域的な電波障害が発生した。ミリタリーマニアたちの間では、その夜は民間車両に偽装した軍用トラックが浦安基地から緊急出動したのを見た、とのもっぱらの噂である。サイレンがうるさかった。居眠りした警備員が朝起きると、IT国内大手が本社を置くヤマトビルの地下駐車場の入り口斜面が削れていた。
そして、十月二十三日は、ジャーナリスト・光村誠司がこの世からいなくなった日だった。
十月二十三日 前
最悪の気分だった。
屈辱的な気分だった。
胸の中をコールタールのような熱く真っ黒なものが通り過ぎては、耳の奥でどうどうと風の唸るような心音が喚く。叫ぼうとして、ここが人のいる道だととっさに気付いて堪えた。
むせ返るような熱帯夜の夜気は反吐が出るほど気分が悪い。
飲み終えたストロングセロの空き缶を蹴りとばせば、金属の高い音がこだまして耳に不快だ。
どこかでバカな泥棒が空き巣に失敗したのか、サイレンが遠くで鳴っている。それも不快だ。
——失敗したのは泥棒じゃなくて俺だっての。
そう、失敗したのだ。
仕事にではない。
人生に失敗したのだ。
仕事を優先して、自分は人生に失敗したのだった。
誰もいない裏路地に駆け込むと、光村は息を吸った。これでもかというほどに吸った。アルコールとアンモニアと生ゴミの臭気が肺を汚していくのが自分でわかり、それが返って外道に堕ちた自分にふさわしいようで心地よい。そしてうざったい怒りやら恥やら憎悪やら無力感やら負の感情いっさいがっさい全部全部ぜーんぶ飲み込んだとき、光村は爆発させた。
「ちっくしょおおおお!!!!」
* * *
話は小一時間前に遡る。
「いやー光村くん、快挙だよ快挙。はっはっはっは」
光村は今回の記者協会賞の件で、特集担当だった浜島編集委員のお褒めに預かり、そのままの流れで委員行きつけという銀座の料亭「磯や」に連れていかれた。
浜島とともにいるとき、光村は正直いってあまり浮かない気分になる。
そりゃあ誰だって上司と一緒の酒が美味しくはないだろうし、それが褒められるにしたって気を遣うからあまり楽でない。世代の差によるノリの差もあるだろうし、好きになる方が珍しいだろう。ましてそれが、管理職にありがちな、やや肥満体で、油のテカるような中年男性なら。
しかし光村の場合には、そうではない、明確に浜島を厭う理由があったのだ。
「いやいや、あれは浜島さんが企画したからですよ。俺はたまたま参加させてもらっていただけですって」
「はっは、謙遜するな。三十代前半で特集に参加したんだ。優秀じゃなきゃできん話だ」
浜島はひとしきり光村のことを褒めると、それから酒が回ってもまだ褒めていた。このくだりも恐らくはすでに十回近く繰り返しているはずだった。そろそろ潮時だった。多少の危険はあるにせよ、もう一度直訴するにはこの機会しかないと思った。
「君の書いた記事、第八回目だったかな、あれは良かった。さすが社会部だけあるよ。冷戦下のいまの世界情勢で、国内の軍事研究が社会のためになることをね、よくまとめてたと思うよ。うむ」
「ありがとうございます。委員に褒められると、さすがにこそばゆいですね」
「はっはっは、そうだろうそうだろう。君の記事にはこれからも期待しとるよ」
「ありがとうございます! ところで」
なるべくさりげなさを装って、切り出した。
「この前提出した記事なんですけど、あれについては……?」
まずは話の序の序だけ。仮に風向きが悪くなりかけても、すぐに戻れるように。
それは光村が浜島を嫌うようになった理由でもある。
* * * *
さらに遡ること二ヶ月前、光村は研究者の人権侵害に関する記事原稿を提出した。
内容は国立宇宙局での非人道的な研究環境をバッシングするというもの。
宇宙局では、軍事機密のため、研究所および研究都市であるつくば市一帯を閉鎖都市として、出入りに厳しい制限を設けている。研究者には研究をしてもらわなくてはならないから、彼らは研究所での住み込みを余儀なくされる。そうなると当然、研究者の生活の質も下がるわけで、その分研究者の待遇を向上させて、彼らのやる気を引き出そうとするのが普通の国の普通の対応である。
二十数年来の歳月をかけてゆっくりと軍政化が進んだ日本も、一面ではそうした普通の対応に倣っていた。ユーロ、共産圏、アメリカの北半球トライアングルは、第一冷戦構造をさらに強化する形で引き継ぎ、日本をそのパワーバランスの中に組み込んだ。大洋を挟んだ緩衝地帯という難しい立ち位置の中で、政府が選択したのが自衛的国防開発——平和主義の元での自衛隊制の拡張と、軍産連携による新技術開発。それによる中ソへの抑止力と国際社会での発言力維持だった。
国費を投じての新技術の開発が軍事転用を目的としていたことは言うまでもない。だからつくば市が閉鎖されたのは、もっぱら研究機密保全のためである。市内には市内で完結するための住居、店、娯楽施設が用意される代わりに、市外との接触は、常に軍監視下にある玄関口ただ一つ。周囲五キロは警戒のため林野を拓いて更地とし、後背地の神栖六十六町は食糧供給のための農用地に指定されている。
そのくらいの厳重さであるから、つくばの住人でつくば市外に越すことはまずない。許可されないからだ。呼ばれた研究者も同様で、一度つくばでの研究に同意したら、研究成果が出なくても市外に戻ることはもうできない。もちろん一定以上の成果が出てれば人並み以上の厚遇が待っているが、逆に成果が出ていないならば救済措置は用意されていない。
光村が取材中に目の当たりにしたのは、生きるか死ぬかの瀬戸際で働かされる研究者たちの姿だった。研究者の成果報酬のメッセージは明快で、役に立たない研究者は不要である。満足な待遇が与えられず、人間的な生活の保証はない。
それはちょうど、専門技術を持つ捕虜を特殊労働に就かせた、第二次大戦下のドイツの悪行を思い起こさせた。研究者たちはまさしく生きるために研究をしなくてはならない。研究して、成果を上げなければならない。そうしない限りは食べていくことすらままならず、結果として彼らは死に物狂いで研究に没頭させられていた。
仮にも日本の明日を支える研究者にこの待遇はどうなのか。
光村の書いた記事はそういう論調だった。
しかし、浜島はそれを「新聞は慈善事業ではない」として一蹴する。
「成果が出なければ食べていけないのは会社員だって同じだろう。そんな明日を生きるので精一杯のこの国に必要なのは、そういう国がどうとかの小難しく暗いニュースではなく、画期的な研究成果の方なのだ。我々は営利団体なのだよ。ということは客が読んでくれなければ、購読料も払ってもらえず、我々は食うもの食わず、破産してしまう。この記事は良くできているが、ウチではな……」
「しかし、現に多くの研究者は満足に給料をもらっていません。浜島さんだって見たでしょう、あの痩せ方は異常です。私たちが書かなければ、誰が書くんです。お金の問題ではないでしょう」
「いや、お金の問題だ。君は若いからまだ何もわかっておらんのだ。とにかく、これは記事にならんよ」
そういって、浜島は光村の原稿を、投げるようにして突き返したのだった。
ここに、光村の浜島に対する不信が始まった。
* * * *
今度の記事は、扱っている事実こそ同じだったが、読み手の目を引くよう論調を変えた。研究者はこれほどまでに日夜働いている、彼らの研究成果はインターネットをはじめとし、民間転用などの形を通じて社会にも恩恵を与えている、なのに軍はその研究費を負担せず、タダ働きを強要している。かねてからの物流統制に対する国民の不満を煽るような、よりセンセーショナルな方向へと。
公平を期すべきジャーナリストとしては、本来あまり褒められた行いではないかもしれない。
けれども——「頼む、記者さん」——取材していった先々で聞かれた、痩せ細った彼らの頼みが——「何としても記事を完成させてくれ」——何日、何ヶ月経った今でも耳の奥にこびりついて——「お願いだ」——離れない。これで記事にできなければ、何のためのジャーナリストか。
酔って上機嫌な浜島がようやく笑い止んで、
「ん? あれかね、研究者に関する、」
「はい、あれです。よろしければ原稿の出来具合など、ご指導いただければと思うのですが」
「うむ。原稿としては良かった。あれも良くまとまっていたよ、特に軍部に対する懐疑的姿勢を一貫して打ち出す構成力は、君の年齢を考えれば相当なものだよ」
そう語る浜島の声音は先ほどと同じ。
光村は心の中でガッツポーズした。
機嫌を損なうような出来ではない、つまり手応えは上々だ。一発で却下されることはさすがにないと見ていい。こうなればあとは対話で、上手くすれば浜島を押すことができるかもしれない。あるいは、今は駄目でも改善すれば記事にさせてもらえるかもしれない。
浜島はそこで一旦、グラスに残っている白ワインを傾けた。
急がば回れ。されど休まず。本気で提出した記事だと悟られないように。
グラスが置かれる。贅肉をまいた浜島の喉が動き、彼がワインを飲み下したことがわかる。
どうだ。浜島は次になんて言う?
そして、浜島の大きな口が開かれた。
「でもまあ、あんな人道的な記事がウチの新聞に載るわけないがな。はっはっは!」
「……っ!」
光村の目が思わず見開かれる。
頭蓋を氷のハンマーで殴られたような衝撃だった。
慌てて平常心を保とうとするが、もう遅い。
凍りついたその表情を浜島が見れば、一目で光村が記事に本気だったことがバレてしまう。
そうなれば浜島は光村に不信感を抱き、恐らくは今後の出世にも差し障ってしまうだろう。
しかし、幸いにもその瞬間、浜島はなくなった酒を頼むため女将の方を向いていた。
「おい、女将。同じの、も一杯!」
光村は動揺を察されないように軽い調子を装って返事をした、が、声は若干上ずっていたかもしれない。その些細な変化に浜島が気づいたか。それはわからない。
「そうですかね、わりとウケるようにしたつもりなんですが」
「我々も商売だが、ウケればなんでもいいわけじゃあないのだよ」
声にはどこか鼻で笑うような調子が混じっている。
「いま我が国は上林所長がノーベル賞をとったことに沸いておる。そんなタイミングで宇宙局の不祥事なんぞ書いてみろ、あちこちから顰蹙を買うのは目に見えとる。日本新聞社を見てみろ、あそこは政府御用達の記事ばっか書きよるが、それで今の発行部数だ。霞ヶ関あたりに固定ファンもたんまりついとる。営利団体たるもの、ああいうバランス感覚も必要だな」
一息に語ると、浜島はもう一度酒を口に含ませた。肥満体が呼吸に合わせて風船のように膨らんではもう一度しぼんだ。全ては決したようなものだった。光村の原稿を記事に取り上げる気など、はなから浜島にはなかったのだ。浜島は、前から思っていた通りの俗物管理職だった。
が、もし、もしまだ希望があるのなら——光村はその一心で、馬鹿なことを聞いてしまった。
「じゃ、じゃあ、新聞が書くのは事実じゃないんですか?」
瞬間、浜島は酔って赤みの差した大きな顔をずいと光村に寄せた。
「いいかね、光村くん」
ガマのような肉厚の口が大きく開かれる。
「新聞は、慈善事業じゃあないのだよ」
いつか聞いた論理だった。
アルコール混じりの呼気が吹きつけられる。
嚙んで含めるような調子に、光村は自分がしくじったのだと確信した。
「我々は、ウケるようなものを書かなければならない。我々は、事実を書く。我々は、都合のいい事実のみを書くのだ。光村、お前いま何歳だ」
光村。そう呼び捨てにした浜島の声は、およそ一般人には必要ないはずの、凄みとドスのある声だった。
「三十三です」
「三十三か。そうか三十三か。社会部だったな。たしか軍事部の、あれは八代くんといったかね、と仲が良いみたいではないか。まだ両親も千葉にご存命なんだろう? 私の年齢からすればふた回りもまだ若い。まだ若いが——優秀な君には、わかるよなあ?」
何を、とは言わなかった。ただ厚い顔の肉に埋もれた隙間から、浜島のぎょろりとした目が、光村を確かめるようにして睨んでいた。浜島が悪の大ガマだとすれば、いまの光村はその足元にいるナメクジも同然だった。蛇に睨まれたカエルより、ずっとずっと情けない存在だった。
「……え、ええ。そりゃあわかりますよ」
「そうか、わかってくれるか。いやあ流石は優秀で知られる光村くんだ。はっはっは」
影が引いたので浜島が顔を戻したことがわかった。だが光村にはもう、浜島を面と向かって見据えることができなかった。
「あはははは……」
「あっはっはっはっは。これからも原稿を期待しているよ、何せ君は優秀だからな。はーっはっはっは」
「ははは……」
その後の会話は、すべてどこか遠い世界から響いてくる色のない感覚でしかなった。
取り返しのつかないことになったのだという絶望と、吐瀉物を浴びせられたような屈辱が頭のどこかを白く熱く焦がしていた。
耳奥でやせ細った光学操作部門所属の研究者の声が蘇った。
何としても、私たちを新聞で扱ってくれ——。
* * *
それからまもなくして光村は解放された。いつどうやって解放されたのか、その記憶は定かではない。ただ怒りのあまりに、解放された直後にコンビニで安酒を買い求めて呷るうちに、海の匂いがする繁華街の路地裏にたどり着いた。無意識のうちに自宅へ向かわなかったのは、それほど怒っていたということだろう。雑居ビルの細い隙間越しに見えるはるか向こうの六本木の夜景の形から、自分が新橋付近にいることがなんとなくわかった。
一昨日の雨でこびりついた都心の煤煙に汚れる室外機に、シャツが汚くなるのもかまわず寄りかかる。
夕方のことを思い出した。
「これはこれは、今注目の科学部記者、光村くんじゃないですか。社会部に何の用ですか?」
「からかうなって。普通に俺の机に用があるんだよ」
「わかってるわよ、妬いてるの」
夕方に八代と話したことを思い出した。
「外回り? それとももう退社するの?」
「一応後者。浜島委員に呼ばれてて、少ししたらそっちに。多分どっかの料亭に連れて行かれそうだ」
「すっかり出世コース入りね」
「KAGRA故障の原因がまだわかっていないから、しばらく宇宙時代から離れられそうにないけどね」
八代の少し頬を緩ませるような笑顔が懐かしい。
冗談混じりに「藤田さん」について喋っていた六時間前が、ひどく遠い思い出になったように感じられる。
光村や八代が新人のころ、記者としての歩き方、生き方を教えてくれた恩師がいた。それが藤田さんだった。
藤田さんには多くの逸話が残っていた。通常は四十後半からようやく任される「キャップ」という役職を、四十手前から任された。その辺りで記者協会賞も受賞している。デスクを担当し、管理職コースが拓けてからも常に記者であり続けた生ける伝説。社会情勢を見通す不思議な眼力があり、いくつものスクープをすっぱ抜いてはカミソリ藤田とのあだ名を得ていた。
転んでもタダでは起きるな。それが藤田の口癖で、それゆえに、スクープが頓挫しかかると社内では必ずこのような励ましが飛び交った——「カミソリ藤田は、ここからが強い」。
まるで光村のような優秀な記者。というよりも、光村が彼のあとを追うように優秀になっていった。
だが、藤田さんはあるとき急に筆を断つ。担当していた特集も自主降板し、以来ローカル面を彷徨うような鳴かず飛ばずの生きながら死んでいる記者生活に移ってしまう。もはや汚職政治家を追いかけることも、大病院での不正手術問題をすっぱ抜くこともしない。記者精神を失って、「カミソリ藤田」は「ただの藤田」になってしまった。
なぜあの大先輩が、あんなことになってしまったのか。
そんなことは光村や八代のような若手記者が知ることではない。
ただあのとき、八代は光村に言った。
藤田さんにはならないで、と。カミソリ藤田の背中を追ううち、光村もただの光村になってしまうのではないか。
まさかと笑って済ませていた。
藤田はタダでは起きない大人物だと思っていたから。よもや再起不能など、目の当たりにしてもいまいち実感が湧いていなかったから。
だが、今となっては。
(藤田さん2号のできあがり、か……)
「バカみたいだな……」
考えるまでもなく、藤田さんもきっと同じ手口で浜島にやられたのだろう。軍や政府に都合の悪すぎることを知りすぎて、言ってしまえば、消されたのだ。
安っぽいB級映画みたいな展開だ。
だが、実際どうすれば良かったのだろう。個人情報を盾に、軍権力を背後に控えた浜島を前に、光村ができることなんてあるわけがない。藤田さんもそうに違いない。根っからの家庭人で飲みのたびに家族の話しかしない藤田さん。それが、家族を引き合いに脅されたのだとしたら。
怒りで、喉が震えた。
光村はまた、横浜のマクドナルドで中学時代に同級生とした会話を思い出した。
あの頃はまだ日本に軍政が敷かれてまもなかった。テレビやラジオで連日連夜流される国会情報に、雑音以上の価値を見出していなかった当時、それがのちに軍政と呼ばれる政治体制への転換点だったとはつゆも知らなかった。
「だからさ、マスコミってのはどうしたって恣意的なんだよ。全ての情報を共有することはできない。だから流したい情報だけを流さざるを得ないんだ」
新聞部での活動方針についての雑談だった。光村のクラスの担任河村は、気にくわないことがあればすぐに怒鳴り散らす、体罰が好きな男性教員だった。体罰の好きな教師なんて当時はざらにいたし、それだけなら一年、長くても三年耐えればと、わざわざ問題視する人も少なかった。普通ならば。
その教師は失態を犯したのだ。団結力が高かった光村のクラスには、加納という、中性的な顔立ちの細っそりした男子がいた。こういうなよなよしたタイプは、一般に、専断的で支配欲に長じた暴力教師に目をつけられやすい。実際、河村はそうした。加納は進級一週間にして、とうとう河村に殴られた。
それが抵抗運動のトリガーになった。
最初に運動部でも仲の良いのが河村に盾突き、加納の身代わりをするようになった。男子はこれ幸いと宿題をサボタージュし、女子は授業中の私語によって運動に加担した。そして新聞部が果たしたのが、宣伝活動だった。
加納は成績はそれなりに良かったが、ずば抜けた秀才というわけでも、ましてや運動ができるタイプでもない。そういう点で、おそらく光村の方が彼よりも華はあったのではないかと思う。その地味な加納が、どうしてクラスの中心人物であり続けたのか?
答えは単純で、彼には、人の悩みを親身になって聞く能力があったのだ。中一の夏、サッカー部の山野の母親が、離婚して宗教にハマる事件があった。どう考えても中学生には手に余る問題だったが、加納は被害者の会に助けを求めることを提案した。山野の相談を黙って聴き、まずは「大変だったね」とねぎらった後に、被害者の会に頼るメリットを説いたらしい。その後、実際に山野の母親が立ち直ったことで、加納の名声は高まった。
正直なところ、山野の母親が立ち直れたのは運の要素も強かったはずだが、とにかく、加納は不可能を可能にする。そんなダジャレも懐かしい。
「なら先公の言うままに都合のいい話だけ書くのかよ。だったら何のための新聞部だよ」
同じ新聞部の三枝がボヤいた。
中学三年生の光村は待ってましたとばかりにかぶりを振った。
「いいや、その逆。記事を書くのは俺たちなんだ。校内の意見を、俺たちに有利なように誘導する記事を書く。ペンは剣よりも強し、だ」
気が滅入っているときほど、記憶は、今の自分に一番堪えるエピソードを思いださせる。
ペンが剣より強くなったらどうなったか。それが今だ。
「ちっくしょう……」
どこかでまたサイレンが鳴っていた。文明の光が直接差し込まない路地裏は心地いい。
光村は足元に戻ってきたストロングセロ缶を、もう一度蹴り飛ばした。
* * * *
それから、迷って、八代に電話した。
浜島が軍と繋がっているならば、公開通信での会話内容は浜島に伝わってしまう恐れがある。だから話すにしてもいつも以上に言葉に気をつけなければならなかった。
宇宙局の原稿が出せなくなったことだけを伝える光村に、八代は詳しい追及をしようとはしなかった。
ただ、一言だけ、
「それは、絶対に出せなくなったの?」
どうして、とか、何があったのとか、もっと聞ききたいことがあるだろう。知りたいことがあるだろう。なのに、八代の質問はたった一つそれだけで、それだけの言葉が全てを質問していた。
ふと光村は、ここが境目なのだと感じた。あの世とこの世を隔てる分水嶺。自分にとって越えてはいけない何かがここにある。
重い静寂が路地裏にいる光村と、遠く竹橋の本社で携帯を頬に当てる八代の間に介在していた。付近にプレス工場でもあるのか、ごうん、ごうん、という心音を思わせる振動が伝わってくる。
そして潮の香を含んだ風が吹いた。
そこにあるのは、死んだ海洋生物の腐った臭いだった。
ついに光村はその言葉を絞り出した。
「……絶対に無理なんだ」
口に出したとたん、光村の中で何かが壊れる音がした。最初は心臓に針が刺さったような違和感だった。すぅっと、透明な冷たい手がすり抜けるような違和感。痛いかな、それだけだったはずなのに、針は気がつけばあっちこっち胸じゅうに広がっていく。胸の底の奥深くがざわめく。心臓のあたりにあって、心臓ではない何かが、つん裂くようにして苦しんでいる。
何がそんなに苦しいのかわからない。どこが苦しいのかもわからない。ただただ、ぎゅうっと、心が締め付けられるように痛い。焼けるように痛かった。辛い。苦しい。失ってしまったものへの幻痛がうねっては鎮まらない。俺は失ってしまった。何を? 資格を。事実を報道する精神を。
つまりは、俺という人間のプライドを。
そこまで思い至った瞬間、ふと、終わったのだという思いが光村のどこからともなく湧き出て、渦のようにどうどうと光村を取り巻いた。
(そうか、終わるのか。終わってしまうのか……)
「……っ」
しかしその渦の真ん中には、激流に洗われてもわだかまりのようにくすぶって居座り続ける何かがあった。
そうだ、終えてしまえ。誰かが言った。三十三歳の若さで記者協会賞をとって、優秀だ優秀だと持て囃されて。十分すぎる人生じゃないか。何もここで浜島に楯突いて、地位も職も失い、あげく八代にまで迷惑をかける必要ないではないか。流れるように出世して、そんな人生も悪くない気がする。
しかし本当にいいのか。別の誰かが言った。お前は東京大学を出て毎朝新聞にも入ったエリートだ。記者協会賞まで取った優秀な記者だ。それがなんだ、浜島に脅されたくらいで全て諦めて、泣き寝入りを決め込んで。そんな有様で悔しくないのか、お前は!?
二つの声が心の中で、荒れ狂う波濤のようにせめぎ合っていた。
……悔しいに決まっていた。だがいったいどうすればいい。編集委員の浜島に、若い光村が何をできる。
マスコミ業界における権力構造は、その絶対性に特徴がある。記者、デスクとキャリアを積んで、より強力堅固なコネクションを方々に築ける人がのし上がる。そうしてのし上がった先にあるのが編集委員や論説委員だ。役員とはまた別に、独自の権力を握る、上位階層の神官たち。それが委員という存在だった。
いくら光村がコネクションを築く能力に長けていても、その蓄積に一日の長がある浜島には敵わないだろう。正攻法ではダメだ。しかし奇道を衒うには、あまりにカードが欠けている。手元にあった最大のカード、宇宙局の実態は永遠に闇の中へと葬り去られ、光村の手だけではもう二度と届かない。
手元……そう、手元には。そこで光村は気づいた。なら、自分以外の誰かの手には?
小さな希望が生まれつつあった。携帯を再度耳に当てた。
「なあ八代」
だが、携帯から八代が応答してくれることはなく、代わりに砂嵐のようなノイズしか聞こえてこない。
電波障害だろうか? 先ほどまでは普通に使えたのに。
しかし光村がその問題を検討する機会は、ついに与えられなかった。
なぜなら彼は聞いたからだ。
蹴り飛ばしたストロングセロ缶が、もう一度誰かによって蹴られるのを。
なぜなら見たからだ。
缶の転がる暗がりの壁に、今にも倒れそうな一人の薄汚れた男性が寄りかかっているのを。
そして手に入れたから。
浜島を討てる、決定的な切り札を。
光村の中で様々な過去が去来していた。
中高大、記者時代、様々な形で出会った、様々な人々の顔が浮かんでは消えた。恋人の八代、恩師の藤田さん、両親、学友の村上、記者生活で仲良くなった毎朝新聞の高島……。過去の思い出、人脈、経験、それらが高速に入り混じり組み合わされて、光村の中ではっきりとした青写真が描かれていく。
ストロングセロのアルコールが残っていたのか。
それはあまりに勝算の低い、分の悪い賭けに違いない。いくら軍政が独裁状態には至ってないにしても、軍に楯突くのは危険すぎる。生命の危険ではなく、社会的地位云々が危険なのだ。失敗すれば退職するのは序の口で、その後の転職にも圧力がかけられるはずだ。だが光村はやらなければならない、切り札があるこのチャンスを逃してはいけない——その思いに突き動かされていた。
当然のことながら家族や八代、親しい友人全般へ及ぼす影響も心配したが、頭の冷静な部分ではこうも考えていた。ここで彼に会ってしまった時点で、俺は、既に巻き込まれている。いまさら後に引くより、打って出るしかしょうがない。
サイレンが表通りを通り過ぎた。
パトランプの赤灯が一瞬だけこの路地に差し込んで、男の顔をレリーフのように浮かび上がらせる。
光村の知り合いならば知っている。
光村は実力だけでなく、運にも恵まれた記者である。
「上林教授……!」光村は呼んだ。
「光村くんか。携帯の電源を切れ。そして両手を上げるんだ」鋭い声が応えた。
教授は、光村に銃口を向けていた。
光村は言われたとおりにし、それでもこの千載一遇をどう活かすかに考えを巡らせていた。
恩師の声が蘇る。
転んでも、ただは起きるな。
光村誠司は、ここからだ。
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