第2話 百万本桜 その六



 そのとき、衝撃が波となって森中をゆるがした。桜の森が血で穢されたのだと、龍郎は感覚的に悟った。


 歓喜にも似た甲高い叫び声を良太が放つ。血が良太に……自分の親に捨てられ、永劫の飢餓のなかで死んだ幼い悪魔に力をあたえた。


 龍郎や良作が見ている前で、良太の小さな体が、むくむくと大きくなる。際限なく、どこまでもふくらんでいく。

 やがて天井につかえるほど大きな鬼になった。牛の頭の巨大な鬼だ。牙が奇形じみて太く長い。


「腹がへったよぉ。父ちゃん。なんか食いたいよ。なんでもいいから食いたいよぉ。草も食ったよ。土も食ったよ。虫やトカゲもつかまえて食ったよ。でも腹いっぱいにならないんだ。なんでだろう? ねえ、父ちゃん。なんでだろう? 肉が食いたいよ。一回だけ父ちゃんと母ちゃんと、みんなで町で食ったよね。すき焼き。うまかったよ。楽しかったよ。あのときみたいに、腹いっぱいになって幸せになりたいよ。腹がへると、なんでかなぁ? さみしくて、悔しくて、悲しくて、涙が止まらないんだ。ねえ、父ちゃん。なんで捨てたの? ぼくがいらなくなったの? ぼくのこと、嫌いになったの? ねえ、父ちゃん。なんで腹がへると、さみしいの? 父ちゃんがいないからかな? 父ちゃん食ったら、直るかな? 腹いっぱいになるかな? 食いたいよ。腹いっぱいになりたいよ」


 筋肉質な牛頭鬼が子どもの声で、たどたどしく語るようすはグロテスクで物悲しかった。


 ひいッと悲鳴をあげ、良作は腰をぬかす。畳の上を這いずりながら逃げようとする。牛頭がサッと腕をひとふりすると、良作は壁に叩きつけられ、「ぎゃッ」と言って血を吐いた。背骨が折れたのかもしれない。異様な形でくの字になったまま動けないようだ。

 牛頭は逃げることのできなくなった良作を片手で握りしめると、大きくあけた口のなかへほうりこんだ。バリバリガリガリと骨をかみくだく音がしばらく続いた。


 龍郎だって、ただ見ていただけではない。「やめるんだ、良太くん。お父さんを食べたって、君は幸せにならないよ。そんなことをしたら、君がもっと苦しくなるだけだ」と説得しようとした。だが、幼い良太には龍郎の言葉は理解できない。


 やがて、良作を丸ごとかじってしまうと、牛頭はゆっくりと龍郎をふりかえった。口から血のりがあふれ落ちてくる。


「……兄ちゃん、どうしよう。父ちゃん喰っても、腹いっぱいにならない」


 悲しい目をして、手を伸ばしてくる。

 でも、それは龍郎の手をにぎるためではない。龍郎を捕まえ、頭から齧るためだ。良作をそうしたように。


「もっと喰わなくちゃ。もっともっと。もっともっともっと。喰わなくちゃ。たくさん、たくさん喰わないと、腹いっぱいにならないよ!」


 この子を救うことはもうできないのだと、龍郎は理解した。

 幼い魂を侵食するには充分すぎるほどに、その飢餓は大きかったのだと。


「ごめん。良太くん」


 ほんとは、こうしたくなかった。どうにかして救いたかった。

 しかし、龍郎は覚悟を決めて手をあげた。龍郎をつかもうと伸ばしてくる良太の手と、龍郎の手がふれあう。

 その瞬間に白い光が悪魔を焼いた。

 咆哮が天地に轟く。

 光が消えたとき、悪魔はいなくなっていた。

 龍郎は荒れはてた寺院のなかで、一人立ちつくしていた。




 *


 寺から出ると、桜が消えていた。

 車道のガードレールのところで、青蘭が男ともみあっているのが見えた。男が青蘭を崖下へつき落とそうとしているようだ。


 龍郎は走った。

 十分はかかる山道を五分で走破した。


「青蘭!」


 近づくと、男が落下させようとしているわけではないことがわかった。青蘭を押し倒して乱暴しようとしている。


「気どるなよ! あいつとやってるんだろ? おれにもさせろよ。一回くらい」


 身勝手なことを言って迫る瑛斗に、青蘭が全身の力で抵抗している。


「やめろッ!」

 龍郎はかけよって、瑛斗をタックルでつきとばす。

 瑛斗はアスファルトの上にぶざまに倒れた。


「青蘭。無事か?」

 助け起こすと、青蘭はしがみついてくる。抵抗してくれたことが嬉しかった。龍郎とは寝ない宣言をした青蘭だが、誰でもいいわけではないのだとわかって。


「おれがいないあいだに何があったんだ? さっき、森で血が流れただろう?」

「僕をとりあって、あいつらが殺しあったんだ。男が女をここから、つき落とした」


 瑛斗は絶望したような顔をしていたが、急に「わあッ」と叫ぶと、そのままガードレールを飛びこえていった。

 彼らもあの空間の邪気に心を蝕まれてしまったのかもしれない。


 見ると、道脇にとても小さな地蔵が安置されていた。地蔵はおだやかな顔で笑っている。




 了

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