第1話 魔女のみる夢 その十六
龍郎は走った。
エレベーターの上昇ボタンを押すと、今日はそこに昇降機が止まっていた。すぐにドアがひらく。
「早く! 橘。こっちに来るんだ!」
手を伸ばしたが、魔王のほうが早い。
少女と悪魔のあいだの距離はまたたくまに縮んでいく。魔王の吐く青い炎が笑波の首にかかる。笑波は絶叫をあげた。昨夜、龍郎たちは痛みを感じなかった炎が、笑波には苦痛のようだ。
速度が落ちたとたん、馬の顔が少女の顔の真横にならぶ。デカい。顔面だけで少女の頭頂から腰骨のあたりまである。
魔王は嬉々とした表情になって、長い舌を伸ばした。ペロンと笑波の腹から小さな胸のふくらみを舐めあげた。
こいつ、淫魔か?——と龍郎が思った瞬間、魔王は大きく口をあけた。あごの骨が外れたように見えるほど開く。
そのまま、馬の口が笑波の頭部をすっぽりと覆う。ゆっくりと。しかし、さけられない速度で。
ガチン——!
固く魔王の上下の歯があわさる。
ダラダラとそのあいだから血が大量に流れた。笑波の体が変な踊りのように、バタバタと揺れる。
それらがほんの数秒のうちに起こった。まるでスローモーションのように一つ一つの動きが微細なところまで見てとれたが、龍郎にはどうすることもできなかった。
馬が人間の声でゲラゲラ笑いながら、少女の体をちょっとずつ下まで飲みこんでいく。
龍郎は諦めて、エレベーターに飛びのった。ここにいたら、自分も喰われてしまう。
(あいつ、人間を喰った。貪食の悪魔か?)
それにしても、なぜ、龍郎たちは痛みを感じなかった炎が、笑波には痛かったのだろう?
昨夜、青蘭は異相が異なるから痛くないのだと言っていた。つまり、あの少女は魔王と同じ次元に存在していた、ということなのだろう。
(よくわからないな。同じ人間なのに、なんで笑波は魔王のいるその場所へ行けたんだろう? というか、なんで真っ裸なんだ?)
考えつつも、急いで最上階のボタンを押す。ドアの向こうでは、魔王が少女の白い足をバリバリとかじりながら飲みこんでいくところだった。飲みこみながら、龍郎を見る。山なりに歪んだ目が龍郎を認め、そろりと顔がこっちを向く。
龍郎はあわてて、閉ボタンを連打した。ドアがノロノロと閉まっていく。
命を預けるには、あまりにものろい。
魔王は楽しむように、ゆっくりとこっちへ歩みよってきた。前足をかき、床に
突進する気だ。
もうダメだ。ここで龍郎の人生は終わる。次の瞬間、あの馬の化け物が一直線にダッシュしてくる……。
龍郎は顔をそむけて目をとじた。
そのとき、体が上昇した。目をあけるとエレベーターのドアは閉まっていた。ほっとしすぎて、エレベーターの壁にもたれたまま、ズルズルとしゃがみこむ。
やがて、エレベーターは最上階に止まった。ドアがひらく。この向こうに魔王が先まわりしていれば、龍郎はもう逃げきれなかった。が、ドアのすきまから、あの禍々しい姿は見えない。ただ暗がりがあるだけだ。
這うようにして、エレベーターの外へ出た。どうやら現実の世界に戻ってきたようだ。廊下に人影がある。普通に服を着ているから、ホテルの客だろう。
(助かっ……た……)
さっきのあれは、なんだったのだろう。橘笑波は無事なんだろうか?
気にはなったが、とりあえず、青蘭が待っている部屋まで逃げ帰った。
ドアをあけると、暗い。真っ暗だ。
まだ魔王の結界のなかだったのかと、龍郎は一瞬、不安になる。
「……ただいま。青蘭。いないのか?」
また寝てるのだろうか?
昼間からずっと?
だから、電気もついていないのか?
すると、今度は声が聞こえた。
青蘭の声。
しかし、これは——
声にともなって、青白い光が浮かんでは消える。
(なんでだよ? 青蘭!)
龍郎は瞬時に頭に血がのぼる。
パチリと電気のスイッチをひねる。
思ったとおりだ。
青蘭がポーターの鏑木とソファーで抱きあっている。二人とも無我夢中で腰をふり、行為をやめようとすらしない。
龍郎はかけより、鏑木の肩をつかんで青蘭から引き離した。ゲンコツで鏑木の頰をなぐる。鏑木は床になげだされ尻もちをつく。ちょっと放心しているようだ。
「さっさと出てけッ!」
怒鳴りつけると、あわてて服をかき集めて、鏑木はとびだしていった。
あとには虚ろな表情の青蘭が、ソファーによこたわっている。
悲しかったのは、青蘭の瞳がアスモデウスのものではなかったことだ。青蘭は青蘭として、アレをしたのだとわかった。
「……ムリヤリ、だったんだよな?」
「最初はね」
力づくなら、しかたない。
そう思い、龍郎が必死で自分を抑えようとしているのに、青蘭は嘲るように笑った。
「でも、ちょうどよかった。僕も欲しかったんだ」
思わず、青蘭の頰を平手打ちしていた。感情を抑えることができない。悔しくて涙がこぼれてくる。
「おれのことは、本気で嫌がったくせに?」
「……君とは、寝ないよ」
「そんなにおれが嫌いか?」
「……うん」
「わかった。もういい」
龍郎は自分が使うゲスト用寝室にかけこんだ。これ以上いっしょにいたら、また殴ってしまう。自分のなかに、こんな暴力衝動があるなんて思ったこともなかった。
(好きになっちゃいけなかった! あんなヤツ。好きになっちゃいけなかったんだ!)
嫌いになれるならなりたい。なのに、なんでこんなに惹かれるのだろう?
うとまれているとわかってもなお、愛しくてたまらない。
全身に矢を受ける殉教者のように、ただこの恋が苦痛しかもたらさないとしても、青蘭を切りすてることができない。
暗闇から彼を救いだすことができるなら、どんなことだってするのに。
青蘭は龍郎の手をふりはらうのだ。
悲嘆に暮れているうちに、いつのまにか眠っていた。
真夜中に目が覚めると、誰かが足元に立っていた。昨夜も見た、あの錯覚だ。
(女……?)
白い裸身……。
また、裸の女の霊だ。
(霊? そうか! あれは霊魂だったから、現実とは少し違う世界に存在しているんだ)
亡霊は、坂本久遠だった。
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