第1話 魔女のみる夢 その十七
「先生……」
これは久遠の生霊だろうか?
昼間に見たときは健康そのものだったから、死霊のはずはない。
久遠の霊は泣きぬれた瞳で、龍郎を見おろしている。
「助け……て……先生……」
「坂本か? いったい、どうしたんだ?」
「わたし……だまされて……」
「神崎先生に?」
久遠はゆっくりと首をふる。
神崎のことではないのか?
「誰に? 誰にだまされたんだ?」
「わたし……」
すっと、久遠の霊はしだいに薄くなり消えていく。
いったい誰にだまされたというのか。これではわからない。でも、何かがぼんやりと形になりつつある。
(あれは霊だった。坂本も、橘も? 変だな。このホテルで亡くなるのは父兄のはずだ。なのに、出てくる霊は女の子のほうなのか)
枕元のシェードランプのスイッチを入れた。時刻は真夜中の四時だ。晩飯を食べずに寝てしまったので、空腹が耐えられない。この時間だとルームサービスは頼めないかもしれないが、リビングルームにフルーツとお菓子の盛りあわせがあったはずだ。
龍郎はベッドを起きだし、そっと寝室のドアをあける。
暗い。龍郎が点灯した照明はふたたび消されている。青蘭は主寝室に入ってしまったようだ。姿が見えない。
龍郎は安心して自分の寝室から出る。
青蘭と顔をあわせられない。
もう終わりなんだろうかと思う。
龍郎は青蘭を愛している。
だが、青蘭のほうが龍郎を嫌っているなら、もうこれ以上、そばにいることはできないだろう。すみやかに彼の前から去ったほうがいいのかもしれない。
青蘭が鏑木と抱きあっていたソファーにすわり、深夜に甘いお菓子とフルーツを頰ばる。
これは倒錯の味だ。泣きたくなる。
ムリにそばにいたとしても、これからずっと、青蘭がほかの男とあんなふうになるのを見ていなければならないのだ。
とりあえず食った。あとのことは朝になってから考えることにして眠ろう。
そう思い、龍郎は電気をリモコンで消した。いや、消そうとした。リモコンを手にしたところで硬直する。
ドアがあいているのだ。
プレミアスイートの玄関ドアだ。
おかしい。手を離せば自動で閉まるし、鍵はオートロックである。すきまが開いたままになるなんてことはないはずだ。
龍郎はリモコンを置いて立ちあがった。ドアの近くまで行くと、なぜ閉まらないのかわかった。すきまに挟まっているものがあるからだ。銀色の十字架が……。
(青蘭の親父さんの形見……)
ゾクッとした。
青蘭がこれを自分から手離すとは思えない。無意識に落としたとしても、これほど大きなロザリオなら音がする。気づかずに行ってしまうわけがない。
つまり、青蘭がこれを落としたとき、自分で拾うことができない状態だった。誰かにつれ去られたか、眠っているところを運びだされた……?
(青蘭——!)
青蘭がさらわれた。
いったい、誰に?
なんのために?
(まさか、魔女にか? 魔女が女の子たちを金持ちに斡旋する
おそらくは、そのために男子校も開校しようとしているに違いないのだ。需要が女の子だけではないということだ。
(ん? 待てよ。ということは、学園の校長や理事長は、魔女の仲間ってことか。魔女の話に乗っかって金儲けをしているんだな)
とにかく、青蘭を探さなければ。
龍郎は床に落ちたロザリオを拾いあげようとした。指さきがロザリオにふれたとたん、白熱が空間を焼いた。ロザリオが火柱を噴いている。白い炎が渦を巻き、その炎のなかから人間の腕が現れた。青ざめた死人の腕だ。
龍郎は思わす、一歩、あとずさった。
腕は龍郎を追うように、さらに伸びてくる。青ざめた肌色は、見ていて決して気持ちいいものではない。
しかし、その腕に、龍郎は何か感ずるものがあった。その腕の持ちぬしが何者かはわからない。だが、悪意はないと直感した。
まるで握手を求めるように、その手は龍郎にむかって差しのばされる。
思いきって、龍郎はその手をにぎりしめた。
炎が龍郎を巻きこみ、気づくと目の前に男が立っていた。
「わが力を君に継承する」
「……青蘭?」
いや、違う。
まるで少年のように細身で優美な体つきだが、顔立ちは青蘭よりもっと東洋的だ。涼しげな切れ長の双眸をしている。
「息子を頼む。彼を救ってやってほしい」
青蘭の父、星流だ。
ロザリオの持ちぬしが死にぎわに込めた願いだったのだろうか?
にぎりしめた手から熱い力が、龍郎のなかへ流れこんでくる。その力は龍郎のなかにあるあの石に凝っていった。玉の欠けた部分が補われていくのを感じた。
(そうか。おれの玉の一部、青蘭の親父さんが持ってたのか!)
まだ完全ではないようだが、かなりの部分が補完されたように思う。
八重咲星流はやや厳しい顔つきで、口早に告げた。
「もうあまり時間が残されていない。おそらく、君と僕の家系は過去のどこかでつながっていたのだろう。その玉は魔を祓い、悪魔に苦痛をあたえる。逆に青蘭のなかにある玉は、魔を呼びよせ、悪魔に快楽をあたえる。あれが内にあるかぎり、青蘭は魔を魅了し、罪深くあり続けるだろう。やがては非業の死をとげる。それが定めだ。どうか、その宿命から青蘭を守ってくれ」
龍郎はただ一度、力強くうなずいた。
「もちろんです」
星流の女性的なおもてに笑みがこぼれた。笑いかたは青蘭と同じ。少しはにかんだような笑顔を見ると、青蘭が微笑んだようにすら思える。
星流の姿は急速にかすんでいく。
しぼんでいく炎のなかから、わずかに声が聞こえた。
「君はまっすぐな青年だね。君だけは、ずっと変わらないでくれ。きっと、それが、君の力になる——」
やがて声も聞こえなくなった。
炎は消え、龍郎の手のなかに銀のロザリオが残された。
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